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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十二章
75/127

真夏の嵐-Yui Side-(6)

軽快に高速道路を飛ばすバスの車内では忍が西塾生の相手を、光二が東塾生たちの相手をして賑わっていた。紀子は忍の席の横で上機嫌を保ち、時折寄り添うにして周囲の女子生徒からブーイングを浴びている自分に酔っているのか心地良さげな表情を浮かべているのだった。運転席のすぐ後ろの席を陣取った由衣はどこか遠い目で流れいく田舎の景色をぼんやりと眺めているのみで誰とも接触を図ろうとはしなかった。そんな由衣を気にしているのか、後ろの方から覗き見るようにして身を乗り出している純一郎だったが、何故か由衣の傍に行くような事はしなかった。


「どうした?元気ないじゃないか」


前を向いて運転しながらそう問いかけてきた康男の方に顔を向ける由衣だったが、その表情はやはり冴えてはいない。


「えー、あ、そうですか?」


明らかに康男の言うとおり元気がない由衣だが、どういう根拠があってか否定する言葉を口にした。そんな由衣に苦笑を漏らした康男はミラーを動かして由衣と目線が合うように調節すると追い越し車線から走行車線へとバスを移動させた。


「木戸君と何かあった・・・・とは思えないが、それが原因かい?」

「・・・そうじゃないけど・・・なんか不安なんですよねぇ」


小さなため息を漏らしつつ、由衣は窓枠に肘を付いてアゴを乗せると再度窓の外へと顔を向けた。


「なんだ、また彼がモテすぎて・・・って話かい?」


不安と聞いて昨年の事件を思い出した康男だが、実際詳しい事は聞かされていない。ただアメリカの令嬢と周人を巡ってトラブルになった程度の認識でしかなかったのだが、それがきっかけとなって周人との絆がより一層深まったとは理解していた。だが、この返事を聞いては多少なりとも勘ぐってしまう。


「そんなんじゃないですよ・・・彼は信用してますよ、120%。たとえ出張とは言え女の子と2人きりで出かけるって聞いても何も心配しなかったし」


肩をすくめるようにしながらそう言うと、今度は手を太股の上に置いて合わせた指をせわしなく動かし始めた。


「へぇ~、いつ出張なんだい?」

「今日。私たちと同じ日程で横浜へ」

「それが心配じゃないって言うなら、何が不安なのさ?」


聞いてもいない周人の出張の事を口走る由衣の意図が読みとれない康男だったが、とりあえず流れに任せて話を進めることにした。ただ、周人と由衣がお互いに信用し合っていることだけがひしひしと伝わってくる言葉に口元も緩くなってしまったが。


「私が・・・佐藤君の事があるから・・・・」


その言葉を聞いた康男はさっきまでとは違う笑みを浮かべた。純一郎との賭けの話は恵を通じて聞いている。確かにデートをする事自体も不安だろうが、こういった合宿といえども一泊旅行である、彼の動き一つ一つが気になり、不安になる事もうなずけた。実際彼女は魅力的であり、美人である。性格も良く、愛想もいい彼女を好いている者が他にいても何の不思議もないからだ。それに彼女は過去2度も襲われた経験がある。その時は2度とも周人が救出しているのだが、今回の合宿に周人はいない。どんなピンチにも駆けつけてくれた勇者は、横浜で仕事となっているために絶対に駆けつけて助けてくれる事はないのだ。


「襲われるカモって不安が少々・・・何してくるかわからない不安が多数・・・あの子、何か怖い部分があるから・・・」


由衣は素直に心の中を口にした。康男はそんな由衣の不安を理解しつつ、どこか過敏になっているなと考えながらもそれは口にしなかった。


「心配ないよ。俺も、そして三宅君もうまくフォローするさ」

「三宅君?」


思いがけない言葉だったのか、由衣は一瞬光二のいる方を振り返ってそう言った。光二は楽しそうに東塾の生徒たちと何やら話し込んでいてこちらの会話には気付いていない。だが心が読める彼の事だけに、もしかしたら聞いているかもしれないとは考えられたのだが。


「彼は木戸君に憧れているからね・・・きっとそういう時には彼に代わって助けてくれるさ」


どういう根拠かはわからない。だがそう言う康男の言葉を素直に受け取った由衣は買っておいたペットボトルのお茶を口にすると、窓の外へと視線を巡らせた。


「敏感になりすぎてるのは・・・わかってるんだけどぉ」


誰に言うでもなく、どこかふてくされるようにそう言う由衣だが実際自分でも何故ここまで過敏に反応しているのかはわかっていなかった。誰かが由衣に対して危険を知らせてくれているような、そんな感覚が頭の中で警鐘を鳴らしているように感じているのだ。由衣は小さなため息を漏らしつつ、やがて頭を窓にくっつけるようにして少しうたた寝を始めるのだった。


塾の合宿1日目は、保養所で昼食を取った後夕方5時まで自由時間と決められていた。結局全員が保養所にある小さめのプールに向かうことになったのだが、ここの施設において時間を楽しむのは申し訳程度のゲームコーナーと卓球台ぐらいしかない。天気も真夏の快晴ともなれば自動的にプールという図式が当てはまるものだ。皆各々の水着に着替えて本館からやや下った場所にあるプールに殺到する中、由衣だけは2階建ての保養所の屋上からその様子を眺めていた。2階にはテラスもあるのだが、より高い屋上からならば景色もよく見渡せる。山の中腹、丘の上にあるように建てられた保養所からは遠くにある町並みや、遙かに広がる田畑までを見渡す事が可能であった。何人かが由衣に気付いて手を振る中、純一郎とおぼしき少年がしきりに手を動かして何かを訴えているのが目に入ったが、由衣は無視をして場所を移動し、プールからは死角になる山並みが見渡せる方角へと目を向けた。


「たしか5年前もこうしていたような気がするなぁ」


不意に後ろから声をかけられた由衣は飛び上がらんばかりに驚き、身をすくませながら振り返った。そこにはグレーのTシャツと深緑の膝丈まである短パンを履いた康男が立っており、手に持っていたジュースの缶を由衣に向かって投げ渡した。上手にそれをキャッチした由衣は小さな笑みを浮かべながらここからは見えないプールのある場所へと顔を向けた。


「それは美佐、でしょ・・・・私は行きましたよ、プールサイドまでは」

「そうか・・ゴメンゴメン。でもプールには入らなかった・・・・入れなかったっけ?」

「結構意地悪ですよねぇ~・・・先生は昔から」


眉間にしわを寄せながらも口元は緩んでいる。そんな由衣の表情を見ながら小さく微笑んだ康男は壁際に置かれている白いベンチに腰掛けた。時間的にちょうど日陰になるそこに由衣も腰を下ろし、礼を言ってから缶のフタを開ける。


「今回も入らないのかい?」

「・・・どうもここのプールには縁がないみたい」


缶に口を付けながらそう言う由衣の言葉に苦笑を漏らした康男だが、そのまま何も言わずにジュースを一口飲む。


「懐かしいですよねぇ・・・・あれからもう5年ですよぉ」


昔の事を思い出しているとわかる表情を浮かべる由衣の言葉に康男の口元も少々ほころぶ。ちょうど5年前、この合宿2日前に当時十五歳の由衣は同級生に襲われて周人に助けられている。そのトラウマから結局水着になれなかった事を思い出しながら、由衣は真っ青な空を見上げて当時の事を鮮明に思い出していた。


「あの時、彼が助けてくれなかったら、私が襲われなかったら、今頃ここでこうしていなかったでしょうねぇ」


手に持ったジュースの缶を見つめながらそう言うと、由衣は小さな笑みを浮かべて康男の顔を見た。そんな由衣の表情に年甲斐もなくドキッとしてしまった康男はそれを顔に出すことはなくジュースを口に含んで冷静さを取り戻すようにしてみせた。


「そうなってたら、今頃私はどんな大人になっていたのかなぁ?」


康男に投げられたその質問の答えを聞くまでもなく、由衣にはそれがわかっていた。


「きっと男に貢がせて喜んで、流行のバラエティ番組みたいにお仕置きされていた、でしょうねぇ」

「でも君は本当にいい女性になったよ・・・時々木戸君が羨ましくなる時があるぐらいだ」


自嘲気味に話す由衣とは対照的に、康男は真剣な面もちで由衣を見ながら笑顔を浮かべた。


「君は木戸君の心に触れて素直な自分を取り戻した。そして木戸君はそんな君の心に触れて過去の傷を癒すことができた。きっと、これが運命だったんじゃないかな?」

「でもそれじゃぁ、恵里さんは私と周人の為に亡くなったみたいじゃないですか・・・それはなんか、イヤだなぁ・・・」


まっすぐ前にそびえる山の頂に目をやりながらそう言う由衣の表情からは今の感情を読みとることは不可能である。だが、康男にはその言葉にある深い部分をくみ取ることができていた。


「そうだな・・・それは失言だった。でもきっと恵里ちゃんは君たち2人を祝福してくれてるよ」


そう言うものの根拠など無い。死んだ人間が何を想うのか、ましてや生きていたとしても愛する人を愛すことが出来なくなり、後から現れた女性にその人を奪われるのを何も出来ずに見ていたとしてちゃんと祝福できるかは謎である。だが『磯崎恵里』という少女を少なからず知っている康男にとって、純粋に優しい彼女が自分の愛した人が死んだ自分を想って苦しんでいる所を見て喜んでいるとは思えないのだ。そしてそんな彼女の存在を否定するのではなく、真正面から受け止めた由衣を恨むことなどをしないということもよくわかっているつもりだ。


「きっと君と木戸君を温かく見守っていてくれているさ」

「そう信じたいです」


康男の言葉に笑顔を見せた由衣は一気にジュースを飲み干すと勢いよくベンチから立ち上がった。


「先生、勝負しませんか?卓球で!」


いたずらな笑顔を見せる由衣は年よりかなり若く、まるで少女のように見えた。康男もまた一気に缶をあおるとすぐ近くの鉄製のゴミ箱にそれを投げ入れた。


「よぉし!やるかぁ!」


康男は力強く拳を握りしめながら立ち上がると、先に前を行く由衣の背中を見やる。


『心配ないよ。君たちは絶対に恵里ちゃんに祝福されてる』


心の中でそうつぶやく康男はもう1度夏の青空を見上げた後、屋上へと出る扉を閉じるのだった。


「肝試しぃ?」


生徒たちから一斉に声が上がる。時刻は午後8時を少し回った所である。普段であれば7時から9時までは授業となっているのだが、今年は少しスケジュールが変更されていた。というのも、毎年授業に使用している大部屋に明日から宿泊する予定の一団の荷物が運び込まれていたのだ。それも急遽決まった為に別の部屋を空ける余裕がなく、康男はいつもお世話になっている事から今夜の補習授業を取りやめて、どうせならばと肝試しに切り替えたのだった。


「そう、今からコースと概要を説明するから」


そういうと近くのコンビニでコピーしてきた手書きのプリントを配り始めた。その内容はこうだ。まずこの保養所から約四百メートル先にお地蔵様をまつった小さなほこらがある。そのほこらの前の三叉路を手前方面に折れれば保養所の裏手へと出てくる道順になっていた。安全を期する為くじ引きでペアを組み、時間差でペア毎にその道順を行くというものだ。ただし携帯できる懐中電灯が3つしかないため、行ってくるペアは2組であり、1組が帰ってきたところで次が出ていくといった風な仕組みとなっていた。かかる時間を計算して何かあれば待機しているメンバーで捜索に行くようにしている。だが、康男が昼間由衣と卓球をした後に散歩したかぎりでは近くに墓地や池もなく、危険な物などないのも確認済みである。


「概要は以上。では次にペアを決めるくじを引いてくれ。順番は誰でもいい。同じ数字が出た者同士がペアだ。一応横山先生、吾妻先生、三宅先生もペアに含まれるからな」


それを聞いて憂鬱な気分でいた約2名の顔つきが俄然変わったのは言うまでもない。純一郎は昼間プールで由衣を見掛けなかった事に憤慨し、正直ここへ来たことを後悔し始めていたところだった。せっかくの由衣の水着姿を見られなかったが、ここでうまくペアになれれば密着どころかいい雰囲気に持ち込んであわよくばとまで妄想は膨らむ。一方の紀子も、忍との甘いひとときを過ごすチャンスをこの集団生活の中で見いだせなかったうっぷんを今こそここで晴らせるチャンスなのだ。やがて順番にくじ引きが始まる。男同士女同士、また東塾生と西塾生がそれぞれペアになっていく中、やがてくじの箱が由衣へと巡ってくる。ジッと睨むようにその一挙一動を見据えていた純一郎の目に飛び込んできた数字はいまだ相手数字が出ていない『1』だ。順番からすれば純一郎がくじを引くのは由衣の後から3番目、それまでに誰も1を引かなければチャンスはやってくる。高鳴る胸を押さえながら次の女子が引いた数字を見る。『2』が出た瞬間、ポーカーフェイスのまま心の中でガッツポーズを取る。そしてすぐ隣へと箱が移動してくる。由衣は相手に興味がないのか、少し離れた場所で西塾の女子生徒と談話していた。そして運命のくじが引き抜かれる。出た数字は『11』。一瞬『1』というのが見えた時は心臓が止まるかと思ったが、とりあえずこれで純一郎の運に全てがかかってくる事になった。


『頼むぜ・・・・神様よぉ』


ガラにもなく少々震える手を箱の中へと差し込む。何枚かの紙をより分けながら心に願うのはただ一つ。


『来いっ!』


もはや運だけが頼りの中、ただ願う数字を頭に紙を引き上げた。心を落ち着かせる余裕などなく折り畳まれた紙を開いたその中にあった数字は・・・


「ユイっ!」


不意に自分を呼ぶ純一郎の方を見た由衣は、指に挟み込まれるようにして揺れている紙の中に書かれた数字を見て目を見開いた。神か悪魔の力か、そこに書かれた数字はなんと『1』なのであった。だが由衣はそれを見ても顔色一つ変えずにただうなずいただけで、何事もなかったように再び談笑を始めたのだった。


「余裕こいてられるのも今のうちだからな」


小さくそう言う純一郎の視線はまっすぐに由衣を射抜いていたが、そんな純一郎を横目で見つめる光二の鋭い視線には気付いていなかった。


もはや悪魔のいたずらとしか思えないペアに康男はため息をつきながら、今度は出発の順番を決めるくじを引かせていた。紀子と忍はペアにはならなかったものの、由衣と純一郎のペアはどう考えても不安が残る。朝のバスの中での会話がよぎる康男は由衣の純一郎に対する過敏さがこの結果を予知していたのではと思った程だ。そうこう思案しているうちに順番は決まり、まず一番手の忍と西塾の女子生徒の水谷亜矢が出発した。その五分後に二番目のペアが出発をする。由衣と純一郎のペアは十番目であり、光二と東塾の女子生徒のペアがそのすぐ後となっていた。


「運命って考えていいかもね」


もはや嬉しさを前面に押し出した表情の純一郎の言葉に、由衣は素っ気なく、さあね、とだけ答えたのみで怖々出発していく女子生徒同士のペアを見ているだけであった。そんな由衣を見ながらも笑いを隠せない純一郎は順番が回ってくるのを今か今かと待ちわびるのであった。


外灯すらない暗闇を照らすのは雲1つない夜空に浮かぶ半分だけの姿となっている月と、都会では見られないほどの数できらめく星だけであった。場所的に保養所の明かりはあまり期待できず、頼りになるのは手にした懐中電灯ぐらいなものである。砂利道に響く自分たちの靴音の他には、時折吹く緩い風に揺れる背の高い草の音ぐらいしかない。どこかで虫の鳴く声や蛙の鳴き声もかすかに聞こえてくるのだが、それがどこで鳴いているのかもわからないほど小さなものだった。あとは時々響く女子生徒の悲鳴がその位置を知らせる変わりに恐怖心をあおるぐらいなものか。薄暗い砂利道を照らす懐中電灯の光を見ながら進むのは純一郎と由衣である。由衣は前を行く純一郎のやや後ろをつかず離れずついていく程度であり、会話もない。怖さは確かに感じているものの、だからといって純一郎に触れようともせずにただひたすら前へと向かって歩き続けた。


「あれかなぁ?」


珍しく押し黙って進んでいた純一郎は少し先を照らしながらほこらとおぼしき物体を確認してそう言葉を発した。さすがに離れていた由衣も横に並ぶと純一郎が照らす黒い物体に目をこらした。そしてほこらの前にやってきた2人は地図を確認して2つある道のうち、正しい方を選択すべく紙と景色を交互に見やった。


「ユイ、これってこっちだよねぇ?」


紙を手渡しながらそう言う純一郎の言葉に、由衣は正しいと思う道と紙を見比べながら純一郎を背にして帰るべき道の方へと体を向けた。そしてそれが純一郎が仕組んだ巧みな戦術だと気付いたのは背後から体を抱くようにして胸元へと手を回し、体を密着させた純一郎の息づかいを耳元に感じた瞬間だった。


「ユイ・・・・ずっとこうしたかったんだ・・・・」

「デートする約束したんだから離してよぉっ!」


身をよじるものの、純一郎はびくともしない。朝から感じていた不安が的中したのだが、あれほど警戒をするよう気をつけていたのにこのざまだと思うと情けなさで胸が苦しくなってくる。


「あれはあれ、こうやって抱きしめたかっただけさ」


そう言うと体を離す純一郎は2、3歩下がると天使の笑みを浮かべて見せた。今までどんないたずらもこの無邪気な笑顔ですり抜けてきた純一郎だったが、由衣には通用しない。その天使の笑顔も由衣に取ってみれば悪魔の笑みにしか見えないのだ。


「悪かったよ・・・なんか開放的になって嬉しかったんだ」


そう言うと正しい道を先に行く純一郎。このままその後ろに着いていくことに抵抗を感じながらも、元来た道を戻ってみんなから不審がられるのも嫌な由衣は仕方なくその後をついていった。


「ゴメン・・・」


由衣が近づいてくる気配を感じた純一郎が急に振り返ると深々と頭を下げる。さすがにその行動に驚きつつも、警戒を解かない由衣を見た純一郎は頭を上げるとにこやかな笑顔を見せた。だが、さすがに今度は小さなため息をついた由衣はこれ以上のいたずらを封じようと一歩詰め寄って口を開きかけた瞬間、一気に間合いを詰めた純一郎が自らの口を由衣の口に合わせ、唇を奪った。とっさの事に何が何だかわからずパニックに陥った由衣だったが、唇から感じる温かい感触に我に返ると目一杯の力で純一郎を押しのけた。唇は離れたもののさらに息苦しくなり、呼吸がうまくできない。思考も働かない状態ながら今自分がされていた事がどういう行為かだけはイヤにはっきりと理解できた。呆然と立ちつくしていた由衣は急に何かに取り憑かれたように両手で自分の唇を何度も何度も拭い去る。涙こそ出なかったのだが、由衣の心は激しく痛んで苦しさを増していった。今までこういった危機は何度もあった。これまで生きてきて唇を許した相手は心から愛する周人ただ1人である。不意を突かれたとはいえ自分の不注意から他人に唇を奪われた罪悪感が心を埋めていく。


「いいじゃん、キスぐらいさ」


まるで悪びれる事無くそう言う純一郎を怒りの目で睨む由衣だが、体が震えるばかりでうまく動けなくなってしゃがみこんでしまった。今、頭に浮かぶのは過去2度に渡って襲われた時の光景。自分に覆い被さり、胸をまさぐるバンダナの男、同級生の松浦。涙を流す頬を舐めた盗撮教師で『変異種』の大木。周人と出会った事で封印されていたそれらの恐怖心がここへ来て一気に膨れあがる。身動きが取れずにただ震える由衣を見下ろす純一郎は介抱しようともせずにまだはっきり残っている柔らかい唇を舌なめずりすると、今度は体をまさぐろうと由衣の横にしゃがみこもうとした。


「何やってんだ!」


そう後ろから声をかけられた純一郎はしゃがむのをやめて立ち上がると、自分の顔を照らす懐中電灯の光に目を細めた。


「三宅?・・・・・・クソッ!いくらなんでも早いじゃないか・・・」


後続の光二たちが追いつくのはまだまだ先だと時間を確認しての行為だったのだが、予想を遙かに上回る追いつきに舌打ちをする。逆に由衣はその声を聞いて金縛りが解けたようにすっくと立ち上がると、ぎこちない笑みを浮かべて光二を見やった。


「どうしたんだ?」

「た、立ちくらみ、しちゃったもんで・・・・」


心を読める光二に嘘や言い訳など通用しないことは承知していても、とっさに出た言葉はそれであった。しかもそのぎこちない口調から由衣の動揺がありありと見て取れる光二にしてみれば能力を使うまでもない。


「・・・そうですか、なら一緒に行きましょう」


震える体を揺り動かしてうなずくと、由衣は鬼の形相をしている純一郎を横目で見やった。それを見た瞬間、こうして光二が現れなかったと思うと背筋が凍る思いがした。


「コアラ連れたヤツに邪魔されるなんてな・・・」


小さくそうつぶやくと先頭を切って歩き出す純一郎の言葉が意味したものは光二の腕にしがみつくようにしているペアになった女子生徒の怯えた姿であった。まさに木に掴まるコアラのように、しっかりと光二の腕を抱くようにしている女子生徒は少しばかり震えていた。


「ありがと・・・・正直、助かった」


やや青ざめた顔の由衣だったが、この暗闇ではそれも気付かれないと思っていた。だが、五感を研ぎ澄ます事で常人の数倍の感覚を発揮できる光二にとってみれば今の由衣の顔を見ることは昼間に見る事と同じ状態にあった。何があったかはすぐに把握できた光二はしがみつく女子生徒を由衣に預けるようにした。由衣は女子生徒と抱き合うようにして怖いねぇと話しながら純一郎の後についていく。しんがりを務める光二は何度か後ろを振り返りながら、由衣を救う前に聞いたある言葉を何度も頭の中で繰り返していた。別に由衣の恐怖に駆られた思念を感じて急ぎ足でやって来たのではない。だが、確かに由衣の危機を知らせる声を聞き、しがみつく女子生徒の恐怖心を取り除くためとその子をせかしながら早足で来た結果がこれだったのだ。


「誰だったんだろ・・・・あの声は・・・」


光二は何度も首をひねりながら前を行く由衣の後ろ姿に目をやった。


「守護霊・・・・・・かな?」


つぶやく光二はため息を残すと、考え込んでいた為に開けられてしまった距離を詰めようとやや小走りになるのだった。確かに光二が聞いたのは由衣の危機を知らせる声、それも若い女性の声だったのは間違いない。高校時代に1度幽霊と会話することは出来た光二だが、それははっきり言って例外と同じだった。普段はそういった霊の言葉などは全く聞こえない。しかもさっきはかなり鮮明に聞こえたのだ。由衣の危機を知らせる女性の声が。


『あの子が危ないの・・・・早く、急いで!』


と。


「まさか、ね」


頭の中で反復させた言葉を否定するかのようにつぶやいた光二は自分を振り返って小さな笑みを浮かべる由衣に笑顔を返すのだった。


ゴールに着いた由衣は康男や生徒たちに動揺を悟られまいと、すでに終えて戻ってきていた女子生徒たちと談笑を始めた。そんな由衣を横目で見ながら腕組みをする純一郎は目の前を通る光二に気付いて刺すような視線を投げかける。それに気付いた光二は同じように睨むような目つきをするとそこで一旦立ち止まった。


「君が何をしたかはあえて問わない。だが、このままで済むと思うな」


珍しく強気な光二に対し、さっきの件で頭にきていた純一郎は殺気に満ちた目で光二を睨み付けると1歩踏み出し、今にも胸ぐらに掴みかからんばかりの距離まで詰め寄った。


「図に乗るなよな。ただで済まないのはオメーだよ」

「僕がお前をどうこうする訳じゃないさ・・・・」


その言葉を聞いた純一郎は今の言葉の意味を光二の逃げだととったのか、殺気をかき消すとあざけ笑うような表情を浮かべてみせるのだった。


「はっ!結局弱いヤツは威勢だけじゃねーかよぉ!」


そう言われても光二は眉一つ動かさずに純一郎を睨むのを止めなかった。もはやそれをただの強がりだとしか取っていない純一郎は鼻をフンと鳴らすと余裕の笑みを浮かべて人混みから離れて石畳の上に腰を下ろした。


「調子に乗ってればいいよ。そのまま行けば、必ず最強の獣に噛みつかれるだろうから」


光二はいまだに自分を睨んでいる純一郎に向かってそう言うが、当の本人には聞こえはしない。負け犬の遠吠えととった純一郎は唾を吐くと、睨みながらも口の端を吊り上げるのだった。


約1時間ほどの肝試しも無事に終え、一同は保養所の中で就寝時間と決められている十時まで各々で楽しむ事になっていた。小さいながらもゲームコーナーで楽しむ男子生徒や、意外に卓球で熱くなる女子生徒など、それぞれが1時間ほどの自由時間を満喫した。午後十時になって各部屋へと帰っていく生徒たちの中で、純一郎だけが自由時間にも姿を現さなかった由衣を捜すようにキョロキョロしていたのだが、やがてそれも康男にとがめられてすごすごと割り当てられた部屋へと戻っていった。生徒たちの部屋は4つに分けられ、それぞれ東塾の男子と女子、そして西塾の男子と女子とに別れているのだ。そして教師たちの部屋が1つ。由衣は東塾の女子生徒の部屋で寝ることになっており、教師の部屋は康男と忍、そして光二のみが使用することになっていた。だが、与えられた部屋の中に由衣の姿はなかった。結局自由時間は変更を余儀なくされたスケジュールの調整に追われて参加できず、生徒たちが戻ってきた頃には肝試しの時のショックもあってか、かなりの疲労が溜まっている状態にあったのだ。そこで気分転換にと部屋を生徒たちに明け渡し、自分は康男たちのいる部屋に行くと言って内緒で大浴場へと向かったのだった。ここの大浴場はさほど広くはないとはいえ温泉となっており、いろいろな効能があるとされていた。時間も朝7時から午前0時までとなっており、その間であれば好きな時に好きなだけ入ることが出来た。ガラス張りの向こうには暗闇しかないのだが、昼間であれば山あいから見える田舎の風景が目の前に広がっており、温泉の温かさとどこかマッチして心を落ち着かせてくれるものとなっていた。だが、今は暗闇の他、位置的に月さえ見えない状態となっていた。どのみち今の由衣の精神状態からして景色を楽しむことなどできはしないのだが。熱めのお湯に浸かる由衣は大きなため息をついて水滴がしたたり落ちる天井を見上げる。湯船に浸かる前に何度も唇を洗うようにしたものの、やはりあの感触は拭う事ができずに今でも鮮明に残ってしまっていた。いつも周人がしてくれるものとは違い強引で力任せだったそれは由衣にとっては初めての経験であり、周人以外の人に奪われたという怒りと脱力感が交互に襲ってきているほどショックなものであった。


「デートなんて・・・・するもんか」


湯船を睨み付けながらそうつぶやく由衣はもう何度目かわからぬ仕草で唇を手で拭った。このまま約束通りデートなどした日にはそれこそ身体を奪われかねない。危機感と怒りが約束の反故を決意させる中、由衣は今すぐにでも周人に会いたいという気持ちからか、天井から落ちてくる物とは違う滴を湯船に落とすのだった。

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