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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十二章
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真夏の嵐-Yui Side-(5)

運命の日はその一週間後にやってきた。塾生の全ての学校において期末テストは終了し、この週は比較的のんびりした授業でテスト後の息抜きとしての時間を過ごさせた。由衣や光二、忍も談笑する様な形で形式的な授業をこなしたのだ。そして夏休みを目前に控えた金曜日、ついに純一郎の全てのテスト結果が戻ってきたのだ。その日の授業後、教室に残った純一郎は我先にと玄関へと走る同級生を無視して鞄からプリントの束を取り出した。由衣はそんな純一郎の一挙一動を見ながら徐々に緊張感を増していく自分を引き締めるようにゆっくりと息を吸い、時間をかけてそれを吐き出すようにした。無表情で全ての解答用紙を机の上で揃えてみせた純一郎は無造作にそれを差し出すと椅子に腰掛け、ジッと由衣を見つめる。そんな視線から結果を読みとろうとしたがそれも叶わず、由衣は1枚1枚ゆっくりと確かめるように答案用紙をめくっていった。テストは基本5教科に加え、技術科、保健体育科、音楽科、美術科の合わせて9教科である。やがて全ての答案用紙に目を通した由衣は何の感情も表に出さずに教壇の上にプリントを置くと、腕組みをして自分の言動に注目している純一郎の顔を見やった。理知的でありながら幼さを残すその顔つきは大人と子供の境界線、その微妙なラインを両方兼ね備えた精悍さを保っている。もともと美形の純一郎に見つめられれば多少なりともドキドキしてしまうものだったが、由衣だけはこの時であっても無表情を貫いていた。


「おめでとう、よく頑張ったわね」

「ああ、ホント、真剣に頑張ったさ」


小さく微笑む由衣に対し、純一郎は全く態度も表情も変えずに高揚のない声でそう切り返した。


「約束は約束、ちゃんと守る。で、いつがいいの?」


その言葉を聞いた途端、今まで無表情だった純一郎の表情が崩れた。だがそれは嬉しさを表すものではなく、むしろ驚きを表現している。予想と違う反応に由衣は小首を傾げ、そんな由衣を見やった純一郎はハッとした顔をしながらゆっくりと立ち上がった。


「なによ?」

「あ、いや・・・・てっきり誤魔化すもんだとばかり思ってたから」


いつもは自信たっぷりの純一郎が多少ながらうろたえる姿は新鮮である。どうやらどういう風に約束を反故にしてくるかと読んでいた純一郎であったのだが、あまりに素直に応じた由衣の言葉に戸惑いを隠せないようだった。


「約束は守るためにあるものだからね」


それは周人の受け売りなのだが、周人の信念は由衣の信念であるという恋人ならではの持論が由衣の口からこの言葉を出させていた。


「そうだなぁ・・・とりあえず合宿までにはって思っていたけど、合宿後の週末にしようか」

「夏休みだから平日も週末もないじゃないの?」

「そっか・・・でも塾はあるし・・・困ったな」

「あー、そうか・・・」

「じゃぁ合宿の次の週の日曜日でどう?彼氏とのデートの予定はまだ入ってないんでしょ?」

「・・・まぁね」

「じゃぁ決まり!」


純一郎は指をパチンと鳴らして笑顔を見せた。今の会話からしても由衣が乗り気だと思っていいだろう。とりあえず返してもらった答案用紙を鞄に詰め込むと、純一郎は玄関へ向かって駆けだした。時計を見ればみんながいなくなってから結構時間が経ってしまっている。


「場所は考えておくから!」


由衣を指さしながら天使の笑顔を見せる純一郎に由衣が声を張り上げた。


「こっちの約束も忘れないでよ!」


その言葉に片手を挙げて応えた純一郎はあっと言う間に玄関から姿を消した。由衣はそんな背中を見送りながら鼻でため息をつくと、まだ文字の残るホワイトボードを消しにかかった。


「さっさと終わらせて、それでおしまいよ」


別にデートに乗り気ではなく、さっさとこんなイベントを終わらせたいと思っていた由衣は前向きに考える事で憂鬱な気分を吹き飛ばそうとしていたのだ。


「周人に、ちゃんと話しなきゃ」


怒られるかもしれないが、昨年の事件以来隠し事はしない、言いたい事ははっきり言うと心に決めている由衣は今日にでも電話で話をする事を決め、気を取り直してホワイトボードに残った文字を全て消していくのだった。


「結局、そうなっちゃったわけか」


恵は机に肘を付いた手にアゴを乗せ、光二が買ってきたお菓子を頬張っていた。あれから体調も良く、相変わらず咳はしているのだがそれ以外につらい部分はない。しっかりと食事も取っており、徹夜の際には常に光二が世話を焼いてそれに付き合っていた。そんな光二に感謝しつつも何も返せない自分に少々後ろめたさを感じていたが、当の光二は手伝う事に文句を言ったり嫌な表情をする事も全くなかった。まめにお茶やコーヒーを支給し、夜食まで買いに走ってくれる。恵はそんな光二の優しさに心から感謝しながら、それを言葉に出せない自分をもどかしく思っていた。


「で、どうするんです?」


光二は椅子を回転させて由衣と恵が座る左側を向いた。そのまま後ろの席の方、プリンターが置いてある方へ椅子を移動させると、恵が壁になっていたせいで見えなかった由衣の姿が確認できる。


「デートはするよ、約束だから」

「何されるか、わからなくても?」


端から見れば純粋にデートをしたいが為にした賭けのように思えるが、光二にしてみればみんなが見えていない心の奥にある黒い物が表に出てきそうで心配なのだ。


「一応手を繋いだり、それ以上の事もしないという約束はしたけど。やっぱ・・・危ないよねぇ・・・」

「危ないですね」


珍しくはっきりそう言った光二の表情は真剣そのものであり、腕組みして由衣を見据える目には鋭い光さえ感じる程だ。


「場所はまだ決めてないわけね?」

「うん。考えておくって」

「決まったら作戦を練ろう・・・万が一に備えてね」

「でも、心配ないと思うけど・・・」


あくまで楽観的な由衣だったが、恵はともかく、光二ははっきりいって心配でならない。


「2度あることは3度ある、でしょ?」


この間の由衣の言葉を逆手に取った光二の言葉に、由衣は苦笑しながらもうなずくしかなかった。


「横浜ぁ!?」


自分で思っていた以上の大声に周囲をきょろきょろ見渡しながら、由衣は自宅の自転車置き場に原付バイクを押し込んだ。ちょうど自宅に着いた時にタイミング良く周人から電話がかかってきたので出てみれば、またも出張だと言うのだ。


「まぁ、私も合宿の日だけど・・・・うん・・・・うん・・・」


語尾が徐々に小さな声になりながらバイクのキーを抜いた。


「じゃぁ、夜遅くなるの?」


心から残念そうにそうつぶやく由衣は止めた原付にもたれかかるような態勢で電話を続ける。明後日の日曜日は会える事になっていたのだが、恵の具合と合宿の最終確認のせいで夜にならないと会えないのだった。だからこそ、その次の週である合宿の2日目、戻ってきた日の夕方からでも会えると思っていた矢先にまた出張で、しかも戻ってくるのは夜遅くなるのだと言うのだ。しかも後輩の女性と2人きりでいくと聞けば、信頼しているとはいえやはり心配にはなってしまう。


「わかった・・・・うん、うん・・・・・・・うん」


どこか返す返事も適当な印象を受ける。とりあえず、ささやかな抵抗とばかりに純一郎との事は明後日に話そうと決めた由衣はとりあえずそれを了承して電話を切った。


「はぁ~・・・」


全身でため息をつく由衣は表情を曇らせ、不機嫌そうに唇を尖らせたまま玄関をくぐって帰宅をしたのだった。


由衣のお気に入りのパスタのお店はいつも混雑しており、すんなり入れることなど滅多にない。だが今日は運がいいのか、すぐに席に案内された2人は向かい合わせに座った。店自体はどこにでもある感じなのだが、味は雑誌やテレビで紹介されるほど素晴らしく、口コミで人気が広がる前からここをチェックしていた由衣にとってはそれはありがた迷惑でしかなかった。いつもここで注文する明太子と青じそのパスタをオーダーする由衣に対し、シンプルなミートソースのパスタとミニグラタンのセットをオーダーした周人は久々に一緒に外で食事する楽しさをあらためて実感していた。ここ最近は周人の出張や由衣のアルバイトでの多忙さもあって、デートと言えば周人の家でご飯を食べたり軽くゲームしたりする程度だったのだ。今日はこの後ゲームセンターで久々にプリクラを撮ったり体感ゲームをしようという事になっていた。


「青山さん、大丈夫なのか?」


電話やメールで恵の体調が優れていない事、倒れた事を聞いていた周人は水の入ったコップを置くとやや真剣な面もちで由衣を見つめるようにしてそう言った。1ヶ月前に行った散髪で軽くパーマをあてた周人の髪型は今までで一番そのかっこよさを表現しており、少々長めの髪が後ろに流れ、斜めに流れる前髪は目にかからない程度でまとめられていた。色も茶色がかっていて、元から若く見える周人は5年前に初めて出会った頃と遜色がないほどになっていた。服装も濃いブルーの文字が入った白いTシャツに黒ジーンズといった格好であり、4月の誕生日に由衣から送られた鳥を形取ったような形状をしたネックレスをしていた。


「とりあえず大丈夫そうだけど、心配は心配ね・・・」


両手をアゴに乗せて周人の胸元で揺れるネックレスを見ながら言葉通りそう心配そうに言う。


「お前も気を付けてくれよ・・・」

「わかってます。でもそれを言うならこっちだよ・・・いっつも遅いし、休みもあるのか無いのかわかんないしさ」


すねたように唇を尖らす顔も可愛い。耳の後ろ辺りの茶色い髪を触る由衣はここ最近で大人の美しさと子供のような可愛さを合わせ持つようになり、モデルのアルバイト先でも評判が良く、ますます芸能プロダクションからの勧誘が多くなっていた。だが、やはりアルバイトはアルバイトとしてしか考えられず、芸能界にも興味がない由衣にとってみればありがた迷惑な話でしかない。


「もうすぐ落ち着くよ、今の仕事が佳境なんでな。まぁ暇をみつけて体も鍛え直しているし、そんなにヤワでもないから」

「三宅君も頑張ってるみたいよ、哲生さんとこで」

「らしいな・・・楽しみだよ」


何故か本当に嬉しそうにそう言う周人に首を傾げる由衣。何故光二が頑張っている事が楽しみになるのが理解不能なのだ。そんな由衣の表情を見た周人は苦笑をしてから簡単に説明を始めた。


「テツが言うには、才能はズバ抜けている。けど、本人がそれに気付いていなくて人より多く地道に努力をしてるからかなり期待できるってさ。あのテツがそう言うんだからこりゃ強くなるなぁってさ。そしたら手合わせ願えるし」

「そうなんだ・・・でも手合わせって・・・」


強い相手と戦ってみたいと思う気持ちもわからないではない。だが、果たしてそれがいいことなのかそうでないのかがわからない由衣にしてみれば疑問の解決にはなっていない。それに由衣にしてみれば、同じ雑誌の専属モデルとして同業者の女性にやたらと声をかけたりしている軽い哲生が、はっきり言って合気柔術の師範をしている事自体が不思議なのだった。自分の親友の彼女である由衣にすら口説いてくるような人である。忍とはまた違った感じのナンパだが、少なくとも忍ほど見ていて痛々しいことはない。だが、その彼がかつて周人と共に『キング』たちに戦いを挑んだ、しかもキング四天王最強にしてナンバー2の実力を持っていた人物を倒したとは到底思えない。確かに周人もそうなのだから見た目では判断出来ないと言えば出来ないのだが。佐々木哲生、かつての異名『戦慄の魔術師マジシャン』も今では『馬鹿のコメディアン』といった方がいいぐらいのキャラクターである。


「あの哲生さんが師範っていうのが信じられないけど・・・まぁ周人という例があるしなぁ」

「俺はあいつだけには勝っていないからなぁ。中学の時にケンカして本気でヤリ合ったけど・・・引き分けだったからさ。そりゃ相当強いさ」


その言葉に目を丸くする由衣は信じられないといった表情で周人を見た。そんな由衣に小さな苦笑じみた笑みを浮かべた周人は水を一口含むと、ゆっくりと話を始めた。


「本気でケンカして、本気で戦った。強かったよ・・・結局2人とも動けなくなって引き分け。俺はそれが悔しくてじいちゃんに鍛え直してもらったぐらいだからなぁ」

「・・・ホント、人はみかけによらないね」


もはや返す言葉すら失った由衣はそうとだけ言うのが精一杯であった。あっけらかんと目の前でそう言う自分の彼氏はかつて裏社会でも有名な『キング』を倒した『魔獣』と呼ばれた伝説にして最強の男。今見る限りではどこにでも居そうなちょっとかっこいい普通の男性にすぎない。現に由衣は初めて出会った時には頼りなさげで弱っちい感じにしか見えなかったからだ。ナンパな哲生がそれに匹敵するぐらい強くても不思議ではない。


「ホント・・・サギみたい」


見かけで判断してケンカを売ったらドエライ目に合うのは明白である。その言葉に首をひねる周人を見て小さな笑みをこぼす由衣を見やる周人は今こうして向かいあっている美女が自分の彼女であることを嬉しく思うのだった。


「デート?中学生とぉ?」


パスタを食べ終えた周人は半分残ったグラタンにスプーンを差し込みながらそう切り返した。結局口元に運んだグラタンはスプーンごと一旦器に戻された。まずデートする事になった旨だけを伝えて反応を見た由衣は続けてその経緯を説明していった。周人はその説明に横やりを入れることなくうなずき、時折表情を曇らせるものの黙ってその説明を聞いていた。そして一通りの説明を聞いた後、先程食べかけた分を口に入れるとそれを噛みしめながら何かを考え込むようにやや顔を伏せがちにジッとグラタンを見つめるようにしていた。由衣はチェック柄のミニスカートの上から太股の間に両手を挟み込みながら上目遣いに周人の反応を見るような仕草を取った。周人は何かを悟ったようなため息を漏らすと由衣を見ずにもう一口グラタンを頬張った。その表情からは怒りのようなものは見受けられないとはいえ、どこか不気味さが感じられる。


「・・・・怒った、よね?」


沈黙に耐えきれなくなったのか、由衣は上目遣いのまま恐る恐るそうたずねてみた。周人はもぐもぐ口を動かしながら由衣を見やったが、その表情は普段通り穏やかものであった。


「怒っちゃいないよ。まぁ、デートしたからといって諦めるタイプじゃないだろうなぁって思っただけさ。昔の誰かさん並みに強引だけど、相手を落とすにはデートをして自分を知ってもらうことが1番だ」


さほど気にしたように見えない周人にホッとしたような、寂しいような気持ちになりながら、由衣はクルクルとフォークにパスタを巻き付けて口に入れた。


「まぁその賭けが成立しなくても別の手を使ってきただろうさ」


残ったグラタンも全て平らげた周人はスプーンを置くとそう言った。その言葉にうなずく由衣は水を口にする周人を見ながら次の言葉を待った。


「再来週か・・・そう言うのは趣味じゃないんだけど、何かあったら・・・遅いしなぁ」

「多分、大丈夫とは思うんだけど・・・」

「お前、少しは自分の可愛さを認識した方がいい・・・まぁ昔程じゃないにしろ、な」


後頭部を掻きながらそう言う周人は意を決した顔で由衣を見やった。彼氏とはいえ、普段そういうことを口にしない周人が『可愛い』と言った事に関しては恥ずかしいやら嬉しいやらだが、実際問題的に苦い表情をするしかない由衣にしてみればどういう言葉が出てくるかを待つ以外、今は仕方がない。


「デートの待ち合わせ場所と時間が決まったら教えること!いいな?」

「もちろんそれはするけど・・・どうするの?」


一瞬周人は由衣から視線を外した。その仕草に、由衣の心は痛みを訴えるかのように重くなっていくのを感じる。


「尾行する・・・うまく出来るかどうかはわからないけどな」


肘をついた手にアゴを乗せながら氷しか入っていないコップを見つめてそう言う周人の言葉に、由衣は見る間に笑顔になった。本当はそれを頼みたかったのだが、どうも言い出しにくかった由衣にしてみればこれは嬉しい誤算である。性格上そういうのを嫌う周人を知っているだけに、今の言葉から愛情を感じずにはいられない由衣は飛び上がらんばかりに喜んだ。


「ありがと!さっすが周人だね!」

「ったく・・・・ちったぁ反省しろ!」


冷たい言葉を投げかけるが、その表情は穏やかであった。由衣は言葉で言いきれない気持ちで感謝しつつ、ご機嫌顔で残ったパスタをハイペースで平らげていくのだった。


去っていく周人の車の赤いテールランプが角を曲がったのを確認してから由衣は自宅の玄関に向かって歩き出した。夕食後はプリクラを撮り、そのままエアーホッケーやレースゲームなどをして楽しんだ2人は午後九時をメドに帰路に着いたのだった。次に会えるのは由衣が純一郎とデートをする日となったのだが、これは周人がバレないように尾行するという事になっているので会えるという意味ではそれは正しくはない。小さなため息はしばらく会えない寂しさからか、はたまた純一郎とのデートを重く感じての事かはわからない。だが、そのデートの前に合宿という名の障害があることを、由衣は忘れていたのかもしれない。


夏休みに突入しても塾としてはほとんど関係なく授業は進行していく。受験生には受験対策を、その他の学年は1学期の復習と夏休みの宿題に時間を割いているのだ。特に受験生は夏休みが勝負と言われ、このさくら塾では毎年七月最後の三十日、三十一日の2日間の日程で塾から車でおよそ3時間かかる保養所で合宿を行っていた。その最終打ち合わせと教材の作成、お金の管理など、毎年であれば塾長である康男が指示を出して行うこの作業も、東塾の経営建て直しで向こうに行きっぱなしの康男は実質マネージャーとして働いている恵に任せっきりとなっていた。先日その恵が倒れてからは光二と由衣がバックアップしてその作業を進めているのだが、はっきりいって授業に加えて合宿の手配の両立は難しい。なるべく恵の負担を軽くしようとした2人だがそれもうまくいかずに恵は見た目にも少々やつれていた。だがそれも合宿が終わるまでだと自分と2人を奮い立たせてなんとか合宿前日までに全ての準備を終えることが出来たのだった。そして出発の朝、東塾の生徒は康男が、西塾の生徒は貴史がそれぞれ西塾の前まで運んでくる事となっており、引率する教師はすでに西塾の職員室に集結していた。時刻は午前八時半、出発まであと30分である。赤と白のチェック柄のシャツにGパンを履いた由衣は短いおさげを揺らしながら机の上に置いてあるラブラドールレトリバー犬のシルエットマークの入った赤い鞄を見つめていた。由衣がこの塾でバイトを始めて2年目に突入するが、かつて生徒としてこの合宿に参加したことはあっても教師としてはこれが初めてであった。去年は元々受験生の担当外となっていたのもあるのだが、周人と再会して間もない由衣の気持ちをくみ取った康男がそこから外したのが真相だ。だが今年は春から中学三年生を担当してきたのでそのまま合宿に行くことは自動的に決定していた。だが、はっきり言ってあまり気乗りしない。特に由衣にとっての二大問題児、純一郎と紀子がいるのがその最たる理由だった。そしてもう1つが自分の斜め後ろの席に座り、無心で髪型のチェックを行っている忍だ。紀子が心酔する忍が同行するということは何かしらの問題が発生する確率は非常に高い。現に昔、新城に恋していた由衣は合宿で一気に2人の距離を縮めようと考えていた事があったが、その時は合宿3日前に同級生3人に襲われて周人に助けられた事からあまり積極的になれなかったという事もあって心配は尽きない。あの時襲われずに合宿に参加していたならかなり強引に迫っていた事は自分ながら容易に想像ができる。ならば純一郎が自分に迫ってくるのは予測もたやすかった。由衣は大きなため息をつくと鞄の上に突っ伏して遠い目をした。


「乗り気じゃないのはわかるけど、しっかり頼んだわよ」


隣に座る恵がチラリと由衣を見てそう言うものの、由衣は虚ろな目で小さくうなずくだけだった。


「恵さんも、無理しちゃダメだよ」

「わかってるって」


本当にわかっているかどうかはわからないが、倒れる直前ほどでは無いにしろまた顔色が悪くなってきている事は明白だ。そのままろくな会話もなく時間だけが過ぎていき、いよいよ出発10分前となったところで西塾の三年生を乗せたバスが到着した。今回合宿に参加するのは西塾11名、東塾6名の17名。そして引率の康男、光二、忍、由衣を含めた総勢21名となっていた。今日は平日とはいえ金曜日であり、中学二年生の授業は恵が行う事になっている。塾長の康男が留守をする間は西塾は今まで通り恵がとりまとめ、東塾は康男の高校大学時代の友人で経営を手伝ってもらっている米澤信が面倒をみる事になっていた。


「オッス!ユイ、晴れて最高だね!暑いけど・・・」


例年通り西塾が所有しているバスで保養所まで行くことになっていた。3年前に西と東の生徒がもめ事を起こしてからは後ろ半分が西、前半分が東という風に区切りを入れており、その中での席は自由とされているために西塾の生徒たちは迎えに来たバスに乗った時点で自分たちの席をいち早く決めていたのだった。トイレに行く者なども含めて表に出てきた生徒たちは皆既に手ぶらなのはそういう理由だった。同伴の先生たちも外に出てきたのを確認した純一郎は真っ先にバスから飛び降りると由衣の前に立つ。


「暑いね・・・だからバスに戻ったら?」


鞄を足下に置いて腕組みする由衣の額には既に汗が浮かんでいる。透き通るような白い肌をジリジリ照りつける太陽に焼かれるのを感じながら、由衣は純一郎から目を離して塾から駅方面に伸びる細い道路の方へと視線を巡らせた。そんな由衣に肩をすくめた純一郎はここは大人しく引き下がった方がいいと判断したのか、そそくさとバスの中へと戻っていった。やがて由衣が見ている方向から砂煙を上げて1台のグレー色したワゴン車が迫って来るのが見えてくる。その車はそのままバスに隣接するように停車すると、運転席から康男が顔を出して出迎えてくれた由衣たちに手を振った。


「よし、みんなバスに乗り込んでくれ。俺もトイレに行ったらすぐ乗るから。三宅君、すまないがこの車を駐輪場の脇に止めてくれ」


康男はそう言い残すと職員室に向かっていった。西塾になど来たことがない東塾の生徒たちはやや緊張した面もちでキョロキョロしたり、運転席に乗り込もうとしている光二の顔をじっと見たりしていた。東塾の生徒が西塾に来ることはまずない。距離的に考えても12キロ離れているだけに校区が全く違うのだ。西塾の主な生徒たちは桜谷中学校と西桜台中学校、対して東塾の主な生徒たちは戎中学校と池岡中学校となっている。そして今では西と東には各専属の講師を雇ってあり、かつて周人がしていたような掛け持ち講師は存在しないのだった。行き来しているのは塾長の康男を筆頭に米沢、雑用の八塚と貴史、そしてトータルマネージャーの恵ぐらいなものである。西には由衣たちを含めて5人の講師が、東には3人の講師が存在している。ただ、東はすぐ目の前にとある有名塾の支部が出来てしまったせいで生徒を引き抜かれ、さらにはバイト講師の1人がバイト料の事で康男と対立しているせいもあって赤字が重なり、もはやテナント料しか払えていない状態にあった。そういった経緯もあって、東塾の生徒たちにしてみれば今回引率する先生の顔は全く知らない顔ばかりなのだ。


「みんな、2日間よろしくね。私は吾妻、吾妻由衣よ」


荷物を手に呆然と立ちつくす東塾の生徒たちに近づいた由衣はにこやかにそう言い、笑顔を見せた。ハート形したシルバーのネックレスが夏の太陽を反射してまばゆく輝いているが、由衣の笑顔はその輝きに勝るとも劣らない。東塾には女性講師がいない上に、学校でもこんなに綺麗な先生はいないせいか総勢6名中3名の男子生徒たちは皆顔を赤くしながら表情を緩めて愛想良く挨拶を返した。服の上からでも目立つ胸も思春期の少年たちには刺激的すぎる。しかもこんな美人と2日間一緒にいると思うだけで目眩がしそうなほどだ。既に恋をしてしまったかのような目つきをしている男子生徒をよそに、女子生徒3名は光二と忍に目をハートの形に変化させていた。さわやかな笑顔を振りまき、西塾の女子生徒に人気が高い忍はちゃんと東塾の女子生徒にも流し目をする事も忘れない。自分を見る女性の視線がたまらない忍にとって、この合宿で何人の生徒たちを惚れさせるかということが目的なようなものだ。そしてこの忍も中学高校と空手をしていたので筋肉の付き具合もいい感じの体をしており、白いシャツの下に着込んだグレーのTシャツからも厚い胸板が確認できるほどだ。そしてそれは光二も同じである。半年間基礎体力作りをメインにやってきたので忍程ではないにしろいい体つきをしていた。それに気取った所もない光二はにこやかな笑みを浮かべて皆に接しているせいか、東塾の女子にしても好印象を得られた。そんな西塾の講師たちにうながされてみんながバスへと乗り込んでいく。前から右側に男子、左側に女子が詰めて座り、あとは真ん中より後ろに西塾の生徒たちがまばらに座っていた。忍は真ん中近くにいる西塾の女子生徒たちの場所、紀子の隣の席に座って談笑し、光二は東塾生の後ろ付近に、そして由衣は運転席のすぐ真後ろの席へと着いて出発の時を待った。やがて職員室から康男が現れる。そしてバスへと近づく康男に恵がさっき買っておいた冷たい缶コーヒーを差し出し、康男は足を止めて驚きの表情を浮かべた。


「気を付けて行ってきて下さい」

「あぁ、君には負担をかけるが、無理しないようにな」


康男は缶コーヒーを受け取りながらそう言うと、笑顔を見せた。うなずく恵の気遣いを嬉しく思いながら手を挙げてバスへと乗り込むと素早く運転席へと体を滑り込ませた。


「よぉし、じゃぁ行くぞ!」


後ろを振り返ってそう言うとエンジンを始動させてから2度クラクションを鳴らした。その音を合図にゆっくりとバスは進み出し、校舎側に座っている生徒たちは見送る恵と貴史の2人に手を振って応えた。


「何事もなければ、いいんだけどね」


手を振る恵のそのつぶやきが意味するところがわからない貴史は恵に視線をやるがその表情からは何も読みとれなかった。やがて角を曲がって大通りへと出ていくバスを見送る恵はきつい日差しのせいかや少し立ちくらみのような現象に襲われつつも、平静を保って冷房のよく利いた職員室の中へと入っていくのだった。

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