私の周人さま(2)
まるで刑務所を思わせるほどの高い壁が途切れた場所には黒い大きな門が設置されていた。その門の内側すぐ右横には小さな事務所があって、警備員が座って何やらモニターらしき物を眺めていた。この壁の向こうはカムイモータースの池谷工場の敷地となっている。桜町の西の外れである西桜花中央からバスで約三十分走ればこの池谷工場のすぐそばまでやって来られるため、従業員は皆そのバスや自家用車でこの工場まで通っており、周りには何もない小高い丘の上にあるこの工場の中にはコンビニなども建てられているというほどの大きな施設が広がっているのだ。東京の丸の内にあるカムイ本社とは違い、ここはレーシングマシンの開発をメインとした工場となっていた。もちろんそれだけではなく市販車の開発も行っているが、2年前から参入しているF1やル・マン24時間耐久レースに出すマシンの開発がメインで行われているのだ。今、この『池谷工場前』という名のバス停に降り立った由衣はその施設の大きさに驚きを隠せないでいた。彼氏である木戸周人は3年間のアメリカ勤務を終え、3ヶ月前からこの池谷工場でレーシングマシンのソフト開発設計を行っていた。今日も日曜日であるにもかかわらず出勤しており、本来は朝からのデートの予定が夕方からとなり、時間も今や昼前となっていた。周人は仕事で遅れる旨をすでに由衣には伝えており、仕方なく時間を大幅にずらして夕方に会うことにしていたのだが、やはり2週間も顔を見ていないせいもあって早く会いたい気持ちを抑えきれなくなっていたのだ。もちろん先日恵に言われたことも大きかった。仕事をしている周人の元へと乗り込む意気込みでやってきた由衣だったがその門の前まで来たところでやって来た事を後悔し始めていた。自分を拒絶するかのようにそびえるその門は黒く、人気はないのだがやはり入りづらい。何度か守衛の警備員と目を合わせていたが、周人の事を聞けずに逃げ出すようにそこから立ち去ってしまった始末であった。昨日の周人との電話では免許を取得した事は伏せておいた由衣は今日発表しようと思い、しかもここへ来て驚かせようと考えていたのだがもはやそれすらどうでもよくなってしまった。
「やっぱ・・・帰ろう」
小さなため息をついてバス停へと戻ろうとした由衣は不意に後ろから声をかけられて驚いたように振り返った。
「ここに何かご用ですか?」
にこやかで、丁寧で、それでいて優しい口調でそう問いかけてきた紳士的な男性はスーツ姿で髪はオールバックの四十歳前後とおぼしき容姿をしていた。その笑顔に幾分緊張もほぐされた由衣はこの男性がこの工場の人だと思い、これはチャンスだと思い切って周人の事を聞いてみる事にした。
「えっと、あのぉ~・・・ここに木戸周人って人がいると思うんですが・・・確かソフト開発グループだったっけかな・・・・その木戸に会いに来たのですけれども」
「あぁ、木戸君に面会ですか?そうですか、どうぞ、ご案内しますよ」
その男性は周人をよく知っているのか、にこやかな笑顔を絶やさずそう言うと由衣をエスコートして門の方へと向かった。落ち着いた言動からしてこの工場の偉いさんかなと思いつつ、由衣はさっき目があった警備員がいる門の前に立った。警備員は一緒にいる男性を見て帽子を取ると、何も言わずに人が入れるほどに門を開いてくれた。金属のレールを動く音を響かせて横へとスライドしていく門を見ている男性を見上げた由衣は会釈をしている警備員に笑顔で頭を下げた。
「どうぞ、ついてきて下さい」
男性は警備員に軽く片手を挙げてみせると、そのまま中へと足を踏み入れた。警備員は一礼してこの男性の仕草に応えてみせる。警備員のその様子からやはりこの男性がこの工場の重役だと悟った由衣はお礼を言って中へと入っていった。まるで滑走路のごとき幅広の道の脇に広い間隔をおいて建物がいくつか並んでいた。1階だけの物や4階まである物、倉庫のような建物もいくつか見受けられた。規則的に桜の木が並び、綺麗な芝生も見て取れる。そんな光景を見ながらひときわ大きな4階建ての建物の入り口に向かう由衣は正面玄関の自動ドアをくぐって思わず声を上げてしまった。そこはまるでショールームのようになっており、台座の上に十五台ほどの車が置かれているのだ。その内の2台は由衣がよく知っているマシンである。かつて周人が乗っていたエスペランサES―11(ダブルワン)、そして今現在周人が乗っている白いマシンである。それ以外に赤い車やシルバーメタリックの車が並べられているのだが、その中でも今周人が所有している白い車とよく似た形状をしている赤い車に目を留めた。細かい部分で変化は見られるが、はっきり言ってよく似ている。
「エスペランサES―41シリーズです。木戸君の乗るES―41B『ジェネシック』とその兄弟機のES―41C『フェニックス』」
男性は由衣の視線に気付いたのかそう説明をしてくれた。由衣はうなずくと奥にあるダブルワンへも目をやった。それはかつて周人が乗っていたダブルワンであり、6月に行われたル・マン24時間耐久レースに使用された物とは違う事はすぐにわかった。何度かダブルワンに乗った事がある由衣はどこか懐かしい気持ちを胸に、男性にうながされてエレベーターホールへと向かうのだった。
最上階である4階でエレベーターを降りた2人はそのままソフト開発グループと書かれているプレートがぶら下がった左側へと向かった。降りて右側はハード開発グループと書かれており、どうやらこのフロアでレーシングマシンの設計を行っていることがうかがい知れた。由衣は幾分緊張を増しながら男性の後ろに続いている。さすがに日曜日とあってここまでで出会った人間はいなかった。透明ガラスのドアを開いて中に入った由衣はきちんと規則的に並べられた白い机を見て驚いてしまった。テレビドラマでよく見る会社のオフィスとは多少異なっているのだが、あきらかに設計をするといった白い机や、数台のパソコンを所狭しと並べている机などが多数見える。見渡す限り、このフロアにも人はわずかに3人しかしない。しかも皆バラバラの位置に座っている。その中の一番奥に見慣れた後ろ姿を目に留めた由衣は自然と笑顔を浮かべていた。そんな由衣を見て微笑みを浮かべた男性はそっと由衣の背中を押し、先に進むよう無言で、しかも丁寧な動きでうながす。由衣は小さいながらも頭を下げてやや早足でその人物に近づいた。無心でパソコンを叩いているその人物の真後ろまで来た時、その気配を感じたのか不意に由衣の方を振り仰いだ。
「ゆ、由衣?あれ?なんで?」
明らかに驚いた、目を見開いたままの周人は何故ここに由衣がいるのかを理解できなかったが、すぐ後からやって来たスーツ姿の男に目を留めて思わず立ち上がった。
「この人に連れてきてもらったの」
由衣は横に立った人物を見やりながらそうにこやかに説明した。対照的に周人はやや引きつった表情を浮かべてその人物を見上げて見せる。
「この人って・・・・・そちらの方はウチの社長なんだよ」
疲れたような表情をしながらそう説明した周人の言葉に、由衣はこれ以上ないぐらい驚きを見せ、謝りながら何度も頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!私、その・・知らなくて・・・・てっきりここの重役の方だとばっかり・・・・まさか社長さんだったなんてぇ~・・・・・・・」
泣きそうな声でそう謝る由衣に対して頭を掻きながら困った顔をしたカムイの社長、菅生要はなだめるように由衣の肩に手をやった。
「別にあなたは何もしていないじゃないですか。そんなに謝られるとこっちが困ってしまう・・・実は門の辺りで何か困っていた様子だったから、話を聞いてここまで連れてきただけなんだよ」
菅生はそう周人に説明し、由衣に微笑みかけた。そんな菅生に由衣はやや引きつりながらも笑顔を返した。
「今日デートなのかい?」
「え?ええ。まぁそうなんですけど、このデバッグが終わらないと・・・・」
そう言う周人は机の上に置かれたパソコンの画面に目をやった。由衣は物珍しそうにパソコンの画面を覗き込むようにしている。その画面には下から上へと何やら難解な英文とおぼしきものが凄まじい速さで移動しているのが見えた。何がどうなっているのかさっぱりわからない由衣だったが、周人がしている仕事の一部をかいま見ることができた事に満足していた。
「デバッグ終えたらデートってわけか?おいおい、木戸君、確かに仕事は大事だけれど、だからって彼女をほったらかしにしていいわけはないだろう?」
菅生は腰に手をやりながら少し怒ったような口調でそう言った。一生懸命休みを返上して仕事をしている社員に社長が言うべき台詞ではないのだが、家族や恋人をないがしろにしてまで仕事をさせたくはないのだ。周人は困ったような顔をして菅生から視線を外した。
「ここ最近も会えていないのでしょう?」
相変わらずパソコンに見入っている由衣はそう聞かれて菅生を見上げ、困った顔をしながら意味ありげに首を傾げた。その仕草を見て事情を悟り、深々とため息をついた菅生は首を横に振りながら、周人の肩に手をやった。
「で、この仕事が完全に片づくのはいつ?」
「これさえ無事に終わればハードグループにデータを転送して、完了です。あとの仕事は市販車のデータ整備ぐらいなものですから残業もそうしなくていいかと・・・」
「デバッグ時間は?」
「あと・・・・3、40分ってところです」
その回答を聞いた菅生はアゴに手をやって何かを考えるような仕草を取ると、物珍しそうにフロアを見渡している由衣に声をかけた。
「ちょっとお時間よろしいですか?」
その質問を受けた由衣は一旦周人に目をやったが、さっきの会話からまだ時間がかかるとのことだったので菅生に向かってうなずいた。笑顔でうなずき返した菅生は周人に下のリフレッシュルームにいると言い残し、由衣をともなってフロアを後にした。その2人の背中を見送った周人は気まずそうな顔をして頭を掻くと、相変わらずの動きを見せているパソコン画面へと向き直るのだった。
玄関にあるショールームのその奥にはリフレッシュルームと呼ばれる場所が設けられていた。白い丸テーブルがいくつか置かれ、ジュースやタバコの自動販売機も数台設置されていて休憩を兼ねてここでくつろげるようになっていたのだ。ショールームを訪れた訪問客に対する接客ルームとしても活用されているこの場所は日曜日という休日のせいで誰もいなかった。由衣を適当な席につかせると自分はコーヒーを、由衣には紅茶を買ってテーブルの上に置いた。腰掛ける菅生に丁寧な口調で礼を言った由衣に笑顔を向けた菅生はそこから見える数台のマシンの後ろ姿に目をやった。
「木戸君は若手のホープでね、アメリカでもよく頑張ってくれた・・・こっちに戻ってからすぐに彼女ができたとは聞いていたんだが、こんなに美人の彼女だとは思わなかったよ」
車から由衣に目を戻した菅生は人懐っこい笑みを絶やすことなくそう言った。とても大会社の社長だとは思えない雰囲気を持っている菅生に、由衣は緊張感を持つことなく照れた笑みを返した。
「その可愛い彼女をほったらかしにさせたのは会社の責任でもあるから申し訳ない・・・来期のF1マシンの開発が今佳境でね・・・それでこうなっているんだ。もう少し木戸君には気をつけるように言っておくから、勘弁してやってほしい」
すまなさそうにそう言う菅生に困った顔をするしかない由衣だったが、確かに寂しい思いをしていた。コミュニケーションといえばほとんどが携帯のメールであり、深夜にまで及ぶ仕事のせいでそれすら邪魔になると考え、声を聞くことすらままならない。それに会う機会も滅多にない今のこの状況に満足しているはずもない。だが、そばに周人がいると思えば幾分か気分はましになっていた。手の届く範囲に彼がいて、どんなに忙しくても毎日必ずメールはしてくれて、隙を見て電話もしてくれる。会える時はわがままを聞いてくれて、甘えさせてくれていた。中学時代にデートした時からなんら変わらない周人と過ごす由衣はまるで3年という年月を感じさせないその雰囲気が好きだった。だからこそ、寂しいという思いを決して顔には出さず、他人に話したり感じさせたりもしなかったのだ。
「ところで、失礼ですがおいくつなんですか?」
「十九です」
「というと女子大生?木戸君とは5つの差か・・・・で、唐突で恐縮なんですが、運転免許はお持ちですか?」
女子大生という言葉にも運転免許という質問にもうなずいた由衣はちょっと不思議そうな顔をしてみせたが、菅生は笑顔を絶やすことなくうなずいた。
「さらに突然で恐縮なんですが、当社の新型車のモニター、してみませんか?」
唐突にそう言われた由衣は驚きを隠せない様子を見せた。その明らかに驚いている由衣を優しい目で見つめる菅生の口元からはこれまた優しい笑みは絶えていない。
「で、でも私、昨日免許とったばかりだし・・・・それに・・・・」
「ご自宅に自家用車は?」
「持ってます。父が十年前に買ったハミングバードが・・・・」
ハミングバードという名前を聞いた菅生はますます嬉しそうな顔をしてみせた。それはカムイが誇る代表的な市販車であり、今や自家用車の代名詞とされている車でもある。今でも順調に売れ行きを伸ばす機体でもあるそのハミングバードは来年フルモデルチェンジする予定になっていて現在その試作マシンが数台出来上がっていた。
「わかりました。では後日、社の営業の者を遣わせますので、ご両親とも相談なさって下さい」
由衣はどうしたものかと思ったが、その後菅生から一切の費用が会社から出ると聞き、それならば父親がそれを承諾するだろうと思っていた。モニターと聞いてかつてのダブルワンや今のジェネシックのような見るからにゴツイ物を想像していた由衣にとって、そういったよく見掛ける市販車であると聞いてホッと胸を撫で下ろしていたのだ。そんな時である、2人の姿に目を留めたスーツ姿の若い男性がショールームの方から近づいてきたのは。菅生もその若者に気付いて軽く手を挙げてみせた。
「休日出勤ご苦労さん」
「社長こそ」
やや低めの声でそう答えた男性はチラリと同席している由衣に目をやった。短い髪を逆立て、メガネの上からでもわかるくっきりした二重まぶたも鮮やかなその若い男性は新城とはまた違ったかっこよさを持っていた。濃紺のスーツもしっかりと決まっており、落ち着いたその雰囲気とその声は妙にマッチしていて周人にはあまり感じられない大人の男性の空気を持ち合わせているのがわかった。
「こちらは木戸君の彼女だ、吾妻由衣さん」
そう言われた由衣は軽く頭を下げて挨拶をした。そんな由衣に見とれていたのか、しばらくの間呆然と由衣に魅入っていたその男性は上着の内ポケットから名刺入れを取り出すと丁寧な動作でそこから名刺を差し出した。
「ハード開発部門の遠藤です。遠藤修治、よろしく」
「こちらこそ」
名刺を受け取りながらにこやかにそう答える由衣に、遠藤は少し顔を赤らめていた。
「もうあがりかい?」
「はい、あとは工場へ行って進行状況を見て帰るつもりです」
手にしていた黒い鞄を見ていた菅生にそう答えた遠藤は薄い笑みを浮かべて見せた。
「社長は、今日は?」
コーヒーをすすっていた菅生は紙コップをおくと足を組み、膝の上で手を組むような優雅なポーズを取った。
「ニューマシンを見にね。こういった日でもないとゆっくり見られないからね・・・・ごちゃごちゃ周りに気を遣われて見てもよくわからないから」
「そうでしたか・・・出来は上々ですからね、心配いりません。では、私はこれで、失礼します」
遠藤はチラッと時計に目をやると、用があるのか早々と会話を終わらせた。菅生は片手を挙げてそれに応え、由衣は会釈をした。そんな由衣にどこか意味ありげな笑みを浮かべると一礼をして正面玄関へと向かっていった。
「相変わらずお堅いやつだよ・・・」
苦笑気味にその背中を見送った菅生は残ったコーヒーを飲み干す。由衣はすでに紅茶を飲み終えており、遠藤から貰った名刺をまじまじと見つめていた。
「彼は木戸君の同期でね、『ソフトの木戸』、『ハードの遠藤』と呼ばれるほどの有望株なんですよ。彼は同期でもある木戸君をライバル視しているようだが、木戸君は気にもしていない」
苦笑気味に遠藤の事を簡単に説明した菅生はテーブルに肘を付いてアゴを乗せた。由衣は遠藤が去っていった方を見やりながら、言動全てにどこか冷たい印象を受けていた。
「君を巡ってさらにライバル関係が悪化しないよう、木戸君には十分なデートをするように言っておくよ」
小さな笑みを交えてそう言う菅生に対して由衣は一瞬驚いたような表情を見せたが、その後すぐに笑顔を見せながらお願いしますと大げさに頭を下げるのだった。




