私の周人さま(1)
昼間であるにもかかわらず妙に薄暗いのは、この大きな部屋に合わせた大きな窓全てに分厚いカーテンが敷かれているせいである。部屋を暗闇から開放すべき電気も点いておらず、この大きな部屋には不釣り合いな程小さなテーブルの上に置かれているこれまた小さなスタンドが少しの明かりを申し訳程度に提供しているのみであった。しかも、ゆうに二十人は寝られるであろう大きなこの部屋にいるのはたった1人のみである。ドアに対して正面奥にあるひときわ大きな窓は床から天井までもあり、本来ならばそこからテラスへと出て広大な庭が見渡せるほどであった。だがその窓にも濃いワインレッドのカーテンが敷かれており、光と景色を完全に閉ざしてしまっていた。その窓のすぐ前に置かれているいかにも重そうな木で出来た机の前に肘をついているのは肩まで伸びた白髪に豊かなアゴひげを伸ばした老人であった。だがその眼光は鋭く、とてももうすぐ八十歳になるようには見えない風格を持っていた。
「最近、くだらん脅迫状もよく届くのでな・・・・念には念を、だ」
まるで独り言のようにそうつぶやいた老人の目の前に置かれている白い電話のスピーカーから何やら苦笑のようなものが漏れる。どうやらスピーカー越しにその電話で誰かと会話をしているようであった。その苦笑を聞きながら老人は目を閉じて大きなため息をついてみせる。
『まぁわからんでもないがな・・・・で、ボディガードが必要なわけだな?』
電話の向こうの相手もそれなりに年をとっているのがわかる口調と声色でそう切り返してきた。その言葉に老人は目を開くとさっき同様大きなため息をつく。
「本人はお忍びのつもりじゃが、ワシには通用せん。可愛い孫をあえて危険にはさらしたくはない。かといってあの子は言い出したらきかんからな」
『お前さんに似て、頑固な娘だからな』
2人は苦笑しあうとしばらく沈黙を保った。
『ゾルディアックをやろう』
沈黙を破った電話の相手が口にしたその誰かの名前とおぼしき言葉を聞いた老人の顔がみるみる驚きに変わっていく。
「たかだか小娘のボディガードに、あの男をか?」
『不服ではあるまい?あやつなら何があろうと安心だろう?』
「いやいや、これほど頼もしい人物はおらん・・・ぜひ、頼むよ」
白いアゴひげを撫でるようにしながら老人は口を吊り上げて、刻まれた口元のシワをさらに深くして笑みをのぞかせた。その指定された人物は老人もよく知っており、信頼がおける人物でもあったせいだろう、満足そうに何度もうなずく仕草を見せた。
『では旅行に関する詳細をいつものようにして送ってくれ。空港で捕まえるように手配しておく』
「うむ、そうしよう。では、な」
相手の返事も聞かずに赤く灯っていたボタンを押して一方的に電話を切った老人は背もたれの大きな椅子ごと窓の方へと体を向けると、机の上にある黒いリモコンを手にとって骨の上から皮だけを巻いたような細い指で器用にボタンを操作した。するときっちり閉じられていたカーテンがゆっくりと左右へと開いていく。小さなモーターの音を響かせながら開くカーテンの向こうからまばゆいばかりの太陽の光が暗かった部屋を見る間に明るく変貌させていった。老人はしばらく目を閉じてそのまぶしさに耐えきると、徐々にまぶたを開き、そこから見える噴水のある綺麗な芝生の庭を見やった。サッカーですら余裕でできそうなその広い庭はそれでもまだ中庭のほんの一部にすぎない。門から玄関まで車で十五分はかかるほどの広大な私有地を所有している老人は木製の杖を片手に立ち上がると遠くに見える山の稜線を目にした。
「日本に何があるのだか知らんが・・・心配をかけよる」
弱々しくそうつぶやくと、老人は晴れた空を見上げた。憂いに満ちたその表情からして何か悩み事があるのはすぐにわかる。老人はもう1度ひげを撫でると、その悩みに耐えかねたのかまたもや大きなため息をつくのだった。
ようやく暑い季節が終わりを告げ、涼しげな風が秋の気配を運んでくるようになっていた。今年の暑さは例年を大きく上回り、日本各地で最高気温の更新を行うほどであったせいか少し涼しくなっただけで体調を崩す者も多く出ていた。今は十月始め、短い秋が本格的になるその季節は人々にとって感慨深い季節でもあった。そのせいか、青山恵はここ最近ぼんやりすることが多くなっていた。家でも職場でも、気を抜けばぼーっとしているのだ。もちろん塾の授業はきちんと緊張感をもってこなしているのだが、その他の雑用にはいまいち身が入っていない。今も肘を机について虚ろな目で窓の外の景色をぼんやりと眺めているのである。そうして見つめている窓の向こうからやってくる1台の原付きバイクに目を留めて小さな微笑みを浮かべた恵は顔を動かさずにチラッと壁に掛かっている時計に目をやった。時刻は午後3時、その人物が本来来るべき時間ではないのだが、もうこれはいつものことであった。やがて少し離れた場所にそのバイクが止まる音がして、それに乗っていた人物がドアへと近づいてくるのが足音でわかった。
「こんちはー!」
ドアを開くと同時に元気良くそう挨拶した吾妻由衣は靴を脱いで自分専用のスリッパへと履き替える。このさくら西塾は土足禁止であり、白いスリッパが玄関脇の下駄箱に並べられているのだ。それはこの3階建ての建物全てに共通し、各階ごとに専用のスリッパが収められた下駄箱が設置されていた。そのスリッパではなく持参している自分専用の物を履いた由衣は自分の席へと向かう。そこへ向かう途中にいる恵は小さく『こんにちは』と言うと椅子に座る由衣を相変わらずぼんやりした顔で見ていた。赤いシャツに黒のパンツを履き、頭には白い筒状のつば無し帽をかぶっている由衣はほとんど化粧らしい化粧をしていなかったが、かなりの美人である。最近マイブームとなっている帽子をかぶったその格好も似合っていて、可愛さと綺麗さを合わせ持った容姿をさらに美しく演出していた。その特徴的な白い帽子を取って鞄を置くと、ジッと自分を見ている恵に不思議そうな顔をしてみせる。
「何ですか?」
「最近、木戸クンとはどうなのかなぁって思っただけ」
だるそうな口調だが、由衣は全く気にしない。小さな笑みを浮かべる由衣は椅子ごと体をそっちへと向けた。
「どうって・・・・普通かなぁ」
「ラブラブなんでしょ?付き合って3ヶ月っていったら普通は一番いい時期だと思うもの」
その言葉に少し顔を伏せた由衣だったが、小さな笑みを絶やすことはなかった。
「でも、ここ2週間ほどは会ってないし、電話も3日に1回ぐらいだし・・・どうなんだろ・・・」
恵は首を傾げながらそう言う由衣に明らかに驚いた表情をしてみせた。3年の歳月を経てようやく付き合い始めた2人がろくに会えていないという事、さらにそれを何とも思っていないかのような由衣の発言に驚いたのだ。確かに会えなかった、会いたくて仕方がなかった3年間に比べれば2週間などどうということはないのだろう。だが、ようやく付き合い始めた2人がそれでいいのかが疑問に思えてならない。
「なんで?なんで会えないわけ?」
「彼、仕事が忙しいから・・・土日もないしね」
「あんたはそれでいいわけ?」
「うん。だってメールは毎日してるし、会えるときは絶対どんなに疲れていても会ってくれるから」
笑顔でそう言う由衣の心境が全く理解できない恵は大きなため息をついて頭を振った。逆に由衣がそんな恵を不思議そうな顔で見ている始末である。普通であればいつでも、どんなときでも会いたいと思うはずだし、会うはずだ。
「この3ヶ月でまともなデートは何回?」
「まともなのって・・・・3回かなぁ・・・・あと1回は晩ご飯作りに行ったぐらいって感じ?」
「それって月1回じゃない!」
思わず声を上げた恵に由衣は目を丸くした。これでは何のためにお互い近くに住んでいるのかわからなくなってしまった恵はおもむろに立ち上がり、由衣の横にドカッと腰掛けた。だが、やはり由衣はいつもと変わらぬ顔をしており、何故恵が怒ったような表情をしているのかがわからないといった風で座っている。
「で、今度はいつ会うの?」
「この日曜日。でも忙しいからどうなるかはわかんないけど・・・前みたいにドタキャンもあるかもしれないから」
「たしか・・・土曜日だったよね、免許取りに行くのって」
由衣はその言葉にうなずいた。7月に周人と再会した頃から自動車教習所に通っていた由衣はついこの間卒業試験に合格し、あとは運転免許センターで筆記試験を受けて免許の交付を受けるのみとなっていた。この土曜日にその試験を受けて合格すれば運転免許を取得できるのだ。無論オートマチック車限定だったが、それでも由衣は運転に関して意外と不器用なのか、ここまで来るのに結構な時間と労力を費やしていたのだった。自宅にある父親の車は十年落ちのカムイモータース製の古いセダンであったが、由衣の父親は娘の免許取得と同時に車を買い換えるプランを密かに立てている事を由衣自身はまだ知らない。だが由衣にしてみれば車種などどうでもいいのだ。1人で出かける際の足代わりがあれば良し、デートの際は周人の最新型試作モデルのマシンがあるので不自由はしていない。その上、周人のマシンは他の市販車にはない機能を持ったオリジナルマシンであるせいか、由衣は他の車にほとんど興味がなかった。周人と再会する以前に行ったコンパでも自分の車をやたら自慢する者がいたのだが、必死のアピールにもかかわらず由衣は全く無反応だったほどだ。
「もし、会えないなら取った免許持って会社に押し掛けてやればいいのよ・・・・いくら忙しいからって可愛い彼女をほったらかしにして、バカ周人!」
実際の彼女である由衣が苦笑し、他人である恵が怒り心頭なのはどこか滑稽である。確かに由衣にしてみれば寂しい気持ちは持っている。だが離れていた3年間に比べれば、すぐ近くにいると思えるだけで気が安らいでいたのだった。ろくに会えなくても、電話をすればそれが仕事中でも周人は短い時間ながらしっかりと相手をしてくれる。会えた時は十分すぎるほど甘えさせてくれていた。何よりそばにいるだけで幸せな気持ちになれるのだ。
「免許の事は内緒にして、日曜日、そうする・・・・」
由衣はそう言うと笑って見せた。恵は小さなため息をついたが、その笑顔につられてか少し微笑みを浮かべた。
「しっかし、3ヶ月でわずか4回とは・・・・・ってことはエッチもまだでしょ?」
唐突にそう言われた由衣は思わずそっぽを向いたが、その顔は赤らんでいた。その表情からまだだと判断した恵は今までで一番大きなため息をつくと、そのまま何も言わずにダメだこりゃとばかりに肩をすくめる仕草をやや大げさに取りながら自分の席へと戻っていった。由衣はそんな恵の背中をチラッと見て、前を向いたまま目線を合わさずに話を始めた。
「今は一緒にいられるだけでいいから、それ以上は望んでないし。ずっと仕事も忙しいわけじゃないだろうから、平気」
どんな表情でそう言っているのかは全く見えない恵だったが、当の本人である由衣がそう言っている以上、もう何も言わなかった。もちろん納得はしていない。もし自分だったらケンカになっているだろうと思いながらも、誰かと付き合うという事自体が始めての由衣にとってみればこんなものだろうと思っているのかもしれない。
「もっとわがままでいいのに・・・」
恵はそうつぶやくと、少々ふてくされた顔をしながら再び窓の外へと目を向けるのだった。
全ての手続きを終え、あとは目当ての飛行機に乗り込むだけとなったその人物は人気のない場所にあるソファを選んでそこに腰掛けた。手荷物は小さな黒いリュック、しかもどこかの高級ブランド品である。スーツケースは既に預けており、もはやのんびりとくつろぐその金髪の美少女は先ほど買っておいた缶ジュースを飲みながら窓の外に並ぶ飛行機に目をやった。今到着したものや、今まさに飛び立とうとしているものなど様々な飛行機をただぼんやりと興味なさげに見ているその少女は大きなあくびをしていた。そんな少女の目の前に、金色の髪を角刈りしたごつい体つきの男が立ちはだかる。四十代とおぼしき顔つきだが、黒いジャケットの下から覗くTシャツの上からでもはっきりと盛り上がる筋肉が見て取れるその男は小さな笑みを浮かべるとドカッと少女の横に腰掛けてやや大きめの動作で足を組んだ。その男を見ながら青い大きな瞳をパチクリさせたその少女はあからさまに大きなため息をつくと缶ジュースを飲み干してその男に手渡した。
「おじいさまがキース将軍に頼んであなたをよこした・・・・そんなとこでしょ?」
いやに冷静なその少女の言葉にさっきよりもやや大きめに口の端を吊り上げた男はすぐ横にあるゴミ箱に受け取った空き缶を無造作に捨てた。
「お嬢さんほどの家柄だと何かとトラブルが多いんでね・・・1人で日本に行かせたはいいが、誘拐でもされたら問題になる。で、私がつかず離れずガードすることになったわけですよ」
「みんなが私の日本行きを知ってるのはわかってた・・・でも、ゾルディアック大佐が来るとは予想外だったわ」
「私以外の誰かであれば必ずお嬢さんは逃げ通せますからね・・・・」
無表情のゾルディアックは座ったままズボンのポケットに両手をつっこむと深くソファに身を埋めた。切れ長の鋭い目は入り組んだ白いパイプが形成する独特な形状をした空港の高い天井を見つめている。
「アリス・クロスフォード嬢が何を思って日本に行くかは知りませんし、興味もない。あなたの身の安全を守ることしか、私はしない」
横目で自分を見やるグリーンの瞳に吸い込まれそうな感じがしたアリスは再び窓へと顔を向けて唇を尖らせた。家族に黙って日本へ向かう準備をしていたが、アメリカでも有数の大企業たるクロスフォードインダストリーの会長ジェイムズ・クロスフォードともなればその孫娘であるアリスの動向など全てお見通しなのである。実際アリスも家の者が護衛にと誰かをよこしてくるだろうとは予測していた。それでもその人物をまいて逃亡する事を計画していたアリスにとって、このゾルディアック・アーロンがやって来たのは全く予想の範囲外であった。アメリカ海軍の将軍であるキース・モートンと祖父ジェイムズ・クロスフォードが親友であることはよく知っており、そしてそのキース将軍の部下の中で最も信頼が厚いゾルディアック大佐とも面識があったアリスだが、まさかその大佐をジェイムズがよこす事など想像もできなかったのだ。マーシャルアーツの達人であり、軍人として国からも多くの勲章を貰っているほどの実力を持つゾルディアックからアリスが逃げ通せるなど、はっきりいって不可能なのである。小さくため息をついたアリスは計画の大幅変更を余儀なくされてしまい、さっきまでの高揚感はどこへやら気分はブルーになっていた。
「ガードはしますよ。が、アリス嬢の邪魔をするつもりはないですから存分に日本を楽しんでください。知っての通り隠密行動は得意でしてね、あなたの前に姿を現す事はないと考えてもらって結構だ。それに私も日本を見て歩きたいしね」
立ち上がりながらそう言うゾルディアックはアリスが見ている窓の方へと歩いていった。アリスはそのたくましい後ろ姿を見つめながら、今の言葉の意味を理解して小さく微笑んだのだった。




