表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第九章
51/127

雪の中の告白(5)

分厚い生地で出来た赤いコートを羽織ってしまえば寒さは随分と和らいだ。夜とはいえ風がない分まだ寒さもましなのだ。とりあえずレストランを出た2人は山頂まで向かうこととなった。ここからだと車で5分かかる程度の道程だ。2人はダブルワンに乗り込むと展望台を目指した。この車に由衣を乗せて走る事は多かったが、今日はまるで別人を乗せているようで少し緊張してしまった。ドレスも似合っていたが、赤いコートも髪型とマッチしていて周人を赤面させる。そうしてゲートを越えて山頂の小さな駐車場に車を止めた周人はそこから展望台まで背の高いヒールを履いている由衣の手を引いてゆっくりと歩いた。傾斜にそって作られた木の階段を上がると、下にさっき走ってきた道路をまたぐ小さな歩道橋を越えて展望台へと向かうのだ。その展望台へと向かうこの砂利道ではヒールは厳しい上に、景色が見渡せる場所は木で出来た手すりがあるのみで、すぐ下は崖である。だが目の前に展開されているパノラマは想像を絶する美しさとなって感嘆の声をあげさせた。見渡す限り、街の明かりが遠くまで確認出来る。地平の彼方までが街の明かりできらめき、遠くのビルは窓から漏れる明かりでその形状を浮かび上がらせていた。一番正面の奥に見える黒い巨塔のてっぺんでゆっくり点いては消える赤い光は都心の超高層ビルであろう。やや右側にあるひときわ明るい場所はおそらく桜ノ宮であると推測できた。ところどころ見える黒い部分は公園か小さな山であり、高速道路や幹線道路を走る車のテールランプが赤と白の川となって光の大地を流れていた。大きな黒い絨毯の上に無数のオレンジ色や赤い色の光を乗せた様なその幻想的な景色は見ている者を飽きさせる事が無いように思われた。この景色の前ではもはや言葉はいらない。2人はこの景色を目に焼き付けようとしばらく無言で夜景を眺め続けた。由衣は無意識のうちに手すりに置かれている周人の手に自分の手を重ねていた。その冷え切った冷たい手を感じながら、周人もまた夜景に見入っていた。外国を転々とすればこの桜町の夜景を見ることもないだろう。ここで過ごした2年間を忘れないように、周人はその景色をしっかりと記憶に留めようと見渡した。


「・・・雪?」


そんな2人の頭上からチラチラと白い物が舞い始める。音もなく降り出したその粋な演出に加え、由衣は周りには自分たちしかいないことに気が付いた。さすがにこの寒空の中、わざわざここまで夜景を見に来るものなどそうはいない。これこそ神様が最後のチャンスをくれていると思った由衣は夜景から周人の方に向き直った。


「周人さん?」


記憶に残そうと夜景に見入っていた周人がゆっくりと由衣の方を見やる。言葉を発する度に出る白い息が寒さを物語っていた。静かに舞い降りる雪も徐々に増えてきている。その証拠に由衣の髪には少しずつ白い雪が付着し始めていた。


「私ね、先生がだいっ嫌いだったの」


ついいつもの癖で『先生』と言ってしまったのだが、由衣にとっても周人にとってもその方がしっくりきていた。


「知ってる」


周人は苦笑気味にそう答え、その言葉を聞いた由衣もクスッと小さく笑った。


「でもね・・・・・いつの間にか、ううん、違うな、多分あの助けられた日から・・・先生を好きになってた」


はにかんだ笑みを浮かべて、由衣はそう告白した。周人は身動き1つせずにただ黙ってそれを聞いている。


「何度もそれを否定したんだけど・・・・逆にそれが好きなんだって想いを加速させていったんだ」


舞い降りる雪は、薄く笑う由衣の存在を夢のように、幻のように演出していく。夜景のきらめきに溶け込むその雪が2人だけの空間を作り始めていた。


「そんな時に、恵里さんの話を聞いたの」


『恵里』という名を聞いた周人の表情が一瞬強ばった。昨日、康男から恵がフラれた事を聞いていた由衣はずっといい関係を続けたいのであれば、うまくいかせたいのならばそのことは伏せて告白した方がいいとアドバイスされていた。だが、ここに触れない限り周人の心を開くことはできないと知っていた由衣はそのアドバイスをあえて無視して笑みをかき消した。『恵里』を避けて通る事は周人の心から遠ざかる事を意味する事を知っている由衣は真っ直ぐに周人を見つめるのみであった。


「正直、ショックだったし、私でも次に誰かを好きになれないなぁって・・・思ったんだ」


周人は困ったような顔をしてやや顔を伏せてうつむき加減になった。以前恵から告白を受けた時はこの話題からこじれていったことを思い出したのだ。だが、由衣は違っていた。


「でもね、好きになられるのは、誰かに好かれるのは、自由なんだよね・・・」


その言葉に周人はゆっくりと顔を上げた。その顔を見た由衣は再び儚い笑みを浮かべた。雪は、まだ降り続いている。


「だから私は先生を好きになった。でも先生の心の中には常に恵里さんがいて、比較される。『恵里とはこうだったなぁ』とかってね」


実際それを嫌って美佐はリタイヤをした。死んだ女性に勝てるわけもないと、自分自身の気持ちもどこへやら、何もしないうちから周人の中の『恵里』に負けてしまったのだ。会ったこともないその人への想いをかき消す事ができないと自分自身で決めつけ、負けてしまったのだ。


「だからって代わりを求めている先生に、『代わりになりたい』って言っても無駄なんだよね」


実際それを言った恵は周人にフラれてしまったのだ。代わりになったところで、所詮代わりは代わりでしかないのだから。周人が欲して止まないの何より『恵里』本人なのだ。周人はまっすぐに由衣の目を見ていた。ここまで由衣はただの1度も目を逸らせたりはしていない。雪が由衣の頭を白く染めるのを見ながら、周人は由衣の次の言葉を待った。


「先生にとって恵里さんは1人なんだから・・・代わりになっても仕方がない。それは恵里さんじゃないんだもん、偽物だね」


悲しい笑みを浮かべてそう言った由衣は、同じくつらそうな顔をする周人からこの時始めて目を逸らせて雪が舞い降りる空を見上げた。光一つない黒い空から舞い降りる雪はまるで白い花吹雪のようである。不思議と落ち着いた心は由衣の中で静かに息づいている。緊張もなければ不安もない。ただ、自分のありのままの気持ちを伝えるのみだ。


「でもね、私は先生が、木戸周人が好き。優しくて、強くて、かっこよくて、不器用で、ジェットコースターが苦手で・・・・そんないろんなトコが全部好きなの。それは私が先生を大嫌いでいたから、あー、こんな良いところがあったんだぁって気付いた事が積み重なってそうなったの。一番嫌いな部分しか知らなかったから、先生の良いところ探すのはもう、得意!」


由衣はとびきりの笑顔でそう言うと、再び周人の目を見つめた。そして今までの想い出を振り返る。同級生に襲われていたところを助けて貰った事、無理矢理抱きかかえてもらってプリクラを撮った事、強引に絶叫マシンに乗せた事、大きなぬいぐるみをくれた事など、一緒に過ごした時間が、絶対に忘れられない想い出が瞬時にして頭の中を駆けめぐった。そして、周人の笑顔が頭をよぎる。時折見せるその淡い微笑が何よりも好きだった。そんな自分の周人への想いが、いくつも心を駆け抜けた。


「だから、私は先生の中にいる恵里さんごと、先生を好きになってるの」


その言葉に周人は驚いた顔をした。心に何かが突き刺さるような、そんな衝撃を受けた。


「比較されようが、なんだろうが、そんな先生を好きになっちゃったの。また同じ想いをさせちゃうかも、つらい想いをさせちゃうかもしれないけど、だけど・・・・・」


由衣は儚い、それでいてどこか淡い微笑を浮かべてしっかりと周人を見つめた。


「周人が大好き!」


にこやかに笑う由衣のその表情からは言葉通りの気持ちが溢れていた。そして、その言葉が周人の心の中にある何かを粉々に破壊した。『恵里の代わり』にこだわり、恋人の死を目の前で経験した周人は恋愛をするということから逃げてきた。どこか斜めに構えた自分を変えたいと思ったが、変えようという努力はしなかったのだ。だが目の前に立つこの少女だけはそんな周人の心の中にある傷を含めて全てを優しく包み込んでくれたのだ。周人の中にある『恵里』を否定せず、かといって追い出そうとしたわけでもない。もはや周人の心の一部となっている『恵里』という存在ごと好きになってくれたのだ。そして周人は思い出していた。この少女と出かけた時にだけ、自分は『恵里』を意識しなかった事を。全くそれを感じさせないほど振り回されていたのも事実だが、それすら楽しいと思っていたのもまた事実なのだ。閉じこもっていた自分の殻を壊そうともせず、だからといってそこから無理矢理引きずり出そうとしたわけでもなかった。気が付けば、自分から外に飛び出していたのだ。楽しんでいたのだ。そしてまたこうやって遊びたい、一緒に過ごしたいと思っていたのだ。すなわち、由衣を好きになっていたのだ。


「ありがとう・・・・・」


周人は照れたようにそうつぶやいた。自分の胸の中にあった気持ちを全てぶつけた由衣の心は穏やかであった。あとは周人の気持ち1つなのだ。白い息を吐く由衣は小さな笑みを絶やすことなくジッと自分を見つめている。もうそこに、『恵里』の幻影を重ねる事はなかった。周人は自分が由衣を好きだという気持ちを抑えきれなくなり、そっと由衣を引き寄せて、ギュッと抱きしめた。由衣は突然の抱擁に驚きながらもそんな周人の背中に手を回し、目を閉じて同じように強く抱きしめる。服に積もった雪の冷たさは感じられず、心を温かいものだけが埋めていく。あれほど望んで止まなかった抱擁を今うけているのだ。そんな幸せを噛みしめる由衣の耳に、信じられない言葉が響いてくるのだった。


「でも、君とは付き合えないよ・・・」


そう絞り出した周人は占い師の言った『運命の選択』の意味を、今、ここで始めて理解したのだった。誰かと誰かを選択するのではなく、それは違った意味での選択だったのだ。


「・・・どうして?」


消え入りそうな声は寒さゆえか震えている。


「やっぱり、生徒としか見れない?」

「そうじゃないよ・・・オレにとっても、君は特別だと言えるよ」

「だったら・・・・」


異議を唱えようとする由衣をさっきより少し強めに抱く周人は一旦間を置いてから言葉を続けた。


「君はこれから、人生においてもっとも大切な高校生活を送るんだ。いろんな新しい人と知り合って、友達になり、そして恋をするだろう・・・オレと付き合うことで、そのかけがえのない時間を無駄にしてしまうかもしれないんだぜ?」

「私はそれでもかまわない!一緒に、周人が一緒にいてくれたらそれだけでいい!」

「オレはかまうんだよ・・・オレが恵里に出会ったように、そして多くの仲間たちと出会ったように、これから君もそういう財産を手にするんだ」


舞い降りる雪の中、抱き合う2人が別れを告げているなどとは誰も思わないだろう。由衣の頬を涙が静かに伝っていった。周人もまたこのまま離れたくはなかった。このまま由衣と同じ時間を過ごしていきたいと思っていた。だが、両想いになった周人が下した選択は、別れであったのだ。


「それにオレはすぐに世界を転々とした生活を送ることになる。付き合えば、君はいきなり遠距離恋愛だ・・・しかもいつ会えるかすらわからない。初めて出来た彼氏とろくに会えない、そんな寂しい想いをさせたくはない。それは君を幸せにすることじゃぁないんだから」


しゃくりあげるようにして泣く由衣の体をさらに強く抱きしめる。目を閉じてその抱擁をうけながら、由衣はぽろぽろと流れ落ちる涙もそのままにただ黙って泣いた。


「オレなんかを好きになってくれてありがとう・・・・・」

「やだよぉ・・・こんなに好きなのに?・・・なんでよぉ~・・・・・・・・こんな理由で納得できないよぉ~・・・・・」

「・・・ごめん」

「・・・・やだよぉ~・・・・・・」


由衣は何度もそう言いながら周人の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。決して嫌いだからとフラれるのではない。だが、付き合えない理由にも納得できない由衣だったが、そういった遠距離恋愛でいつ戻るかわからない周人をずっと待ち続ける自信もなかった。そして、自分が何の力も持たないまだ十五歳の子供である事を呪った。外国に行く周人を追うことも、ただ待つこともできないのだ。由衣は化粧が落ちるのも関係なく泣いた。周人はギュッと目を閉じてそんな由衣を抱きしめることしかできなかった。そして自分の中にある好きだという感情を決して言葉にしないと誓いを立てていた。だが、泣きじゃくる由衣を抱きしめる周人の心が、その素直な気持ちを抑えきれなくなってしまった。痛む心が、素直な心が周人の中の募る想いを溢れさせた。


「・・・オレも君が好きだ」


その言葉に、周人の胸に顔を埋めてさらに激しく泣きじゃくる由衣。苦しい想いで別れを告げる周人。どちらもお互いを好きでいる。だが、一緒にはいられないのだ。ただ舞い降りる雪だけが、そんな2人をつらい現実から包み隠すかのように静かに降り注いでいくのだった。儚く降っては消える雪の中、白く染まる景色に溶け込む2人はただお互いの気持ちを確かめるように抱きしめ合う。繋がった気持ちは雪が止む頃には離ればなれになってしまうのだ。やがてしばらく抱き合っていた2人がゆっくりと離れる。由衣の顔は化粧こそそう落ちてはいなかったのだが、涙でグシャグシャだった。周人は悲しい笑みを浮かべて由衣の髪にかかった雪をそっと払いのけ、そして冷たくなっている頬に触れながらまだ頬を伝う涙を指でそっと拭った。潤んだ瞳で自分を見つめる由衣に、小さな笑みを返す。涙を拭った指の上を、新たな涙が伝っていく。


「キスして・・・初めてのキスだけは、ファーストキスだけは・・・周人がいい。この先、たとえ誰かを好きになっても・・・この想いだけは一生忘れたくないから・・・・」


この先、高校に行けばまた誰かを好きになるかもしれない。それでも両想いの相手だからこそ、こうまで好きになれた相手だからこそ最後の想い出が欲しかったのだ。このキスでお互いの心をつなぎ止めておくことができない事は知っている。そんな由衣だからこそ、お互いが好きだったという証が欲しかったのだ。周人を好きでいた、好かれていたという証が欲しかったのだ。そっと目を閉じて顔を上げる由衣の頬をまた涙が伝う。それをまたそっと拭いながら、周人はそっと由衣の唇に自分の唇を重ねた。冷え切った唇が、互いに暖め合う。触れあっている時間はわずかであったが、2人にとっては魂を共有できるただ1つの時間であった。由衣の頬をぽろぽろと涙が伝った。名残惜しそうに唇を離した周人はもう1度だけそっと愛しさを込めて由衣を抱きしめた。そして由衣も強く強く周人を抱きしめるのだった。雪は降り止む事無く、抱き合う2人をそっと包み込むように舞い落ちる。互いの温もりを決して忘れまいと、この想いを永遠に忘れまいと抱きしめ合う2人の気持ちを覆い隠すように。


真新しい制服はブレザーで、色は紺色であった。白いシャツにグレーのスカート、そして赤いリボンが桜ヶ丘高校の制服であった。全身を映し出す部屋の隅にある大きな鏡の前でその制服を着てくるりと回って見せた由衣はその自分の姿を見てにんまりと笑った。胸元まであった髪は短く切ってある。今日から高校生であり心機一転を計って先日カットしてきたのだ。つい最近会った美佐はこの髪型を見て驚いていたが、短い髪の方が活発的な由衣にはピッタリであると言ってくれた。学校はピアスが禁止とされており、もちろん着けてはいない。時計を見ればそろそろ家を出る時間であり、美佐とさくら谷駅で待ち合わせをしている由衣はこれまた新しい鞄を手に軽快な音をさせて階段を駆け下りていく。残された無人となった部屋の机の上には3つの写真立てが置かれていた。そのすべてが周人とのツーショットである。あの夏の日に塾から行ったプールでの写真と、残りの2枚は最後の晩餐を行ったあのレストランのオーナーが撮ってくれた写真である。さらにその前にはイルカのピアスが添えられていた。学校指定の新しい靴を履いた由衣は左手の手首に巻かれた赤い腕時計で時間を確認する。今からなら約束の時間にも十分間に合うだろう。元気に行ってきますと言うと、勢いよく玄関を飛び出した。今日は入学式、そしてクラス分けと連絡事項をメインにしたホームルームとなっていた。入学式に行くために母親も後から学校へ向かう事になっており、今日は何かと忙しい。駅に向かうバス停の横では大きな桜の木が八分咲きの花を咲かせていた。そのピンクに染まった木を見上げ、由衣はかすかな笑みを浮かべるのだった。


バスに揺られて10分程度でさくら谷駅に到着する。ここから東の桜ノ宮方面に4駅行った所で電車を降り、歩いて10分ほどのところに桜ヶ丘高校があった。出来てまだ7年しか経っていない桜ヶ丘高校は比較的自由な校風とされていた。もちろん校舎もまだ綺麗であり、悪い噂も聞こえてこない。由衣の家からそこまでの通学時間はざっと30分といったところである。改札の横では同じ制服に身を包んだ美佐の姿が見える。手を振って駆け寄る由衣に手を振り返す美佐はトレードマークのポニーテールを揺らしながら嬉しそうな顔をしていた。今日から始まる新しい高校生活に期待と不安を感じつつ、同じクラスになれたらいいねと話し合いながらすぐにやってきた電車に乗り込んだ。凄まじく混んだ朝の車内にうんざりしながらも初めて経験するこの通勤ラッシュに3年間絶えなくてはならないのだ。それでも2人楽しくしゃべりながら行くこの通学時間は楽しいものには違いなかった。


髪を切ったせいか、美佐には由衣が妙に大人びて見えていた。2日前に久しぶりに会った2人は近くのドーナツ店の中にある喫茶店に入っていろいろおしゃべりをしたのだ。その時に気付いたのだが、言葉遣いなどは全く変わらないのだが持っている雰囲気が妙に落ち着いており、自分よりもずっと大人びて見えていたのだ。もちろん元々可愛らしく、年よりも大人びて見えていたせいもあったのだが、雰囲気まで大人っぽくなっている由衣に何かあったのかを聞いてみたが、由衣は別に何もないよとだけ答えたのみだった。その様子から周人のことをそっとさりげなく聞いた時、由衣はちょっと困った顔をしてみせた。その表情からそこに原因があると悟った美佐が問いつめたところ、周人に告白をしたと言ったのだ。結果は『両想いになれたけど、別れたって感じ?とにかく付き合えなかった』と意味不明な言葉を返してきたのみだった。両想いになれて別れたという意味がよくわからなかったが、今でもまだ周人を好いているという気持ちをその言葉から感じ取った美佐はそれ以上何も言わなかった。駅から学校までの道は桜が咲き乱れる公園のすぐそばを通る。住宅地の真ん中にありながら、すぐ脇には大きめの綺麗な公園があるのも2人がこの学校を気に入った要因ともなっていた。やがて見えてくる白い校舎に2人の胸は高鳴った。これから3年間、どんなドラマが待ち受けているかはわからない。だが、そのドラマを作り上げるのは自分たちなのだ。


大きな色とりどりのスーツケースを4つ見ながら、周人は再度パスポートを確認した。入社して10日でF1用エンジン開発部門があるアメリカ支部への出向を命じられたのだ。F1に使用するボディは日本の工場を使うのだが、エンジンはアメリカ支部で製作しているのだ。アメリカの広大な土地でマシンを走らせ、エンジンのスペックを調べるためである。とりあえず大神を主任とした新たに発足したソフト開発部門4名をそこへ出向させ、エンジンを制御するソフトを開発しなくてはならないのだ。ここでの若手は周人のみだったが、みんなダブルワンを見てくれていたメンバーなために気が知れている。周人がアメリカへと発つために、ダブルワンはあのメンテナンスを行っていた工場へと戻されていた。もちろんアメリカでも使用できたのだが、F1が始まれば各地を飛行機で移動しなくてはならないためにアメリカでは会社が用意してくれている車に乗ると置いてきたのだった。正確にはカムイに返却したというべきか。あのマシンはル・マン用の試験マシンとしてこれからも使われていくのだ。出国手続きを行うべくカウンターに向かった大神たちの荷物を見ている周人はこれから始まる新天地での仕事に意欲を燃やしていた。今度日本に帰ってくるのは夏頃だという話だが、はっきりした時期はまだ決まっていない。やがて戻ってきた大神たちは搭乗手続きまでは時間があるからと空港内にある喫茶店へと向かった。席についた周人がタバコを取り出し、火を点ける。無造作に置かれた可愛らしい、とても周人に似合わないハートのマークが入ったそのジッポライターに目をやった大神はそれを手に取った。


「なんだ?彼女からのプレゼントか?」


横目で嫌な笑みを浮かべてそう言う大神だったが、周人は済ました顔でそれを取り上げた。


「まぁ・・・そんな感じです」

「お前、彼女いなかったよなぁ、確か」

「いませんよ。でも・・・・・好きな人なら、いますよ」


意味ありげにそういうとニヤッと笑う周人に目をパチパチさせる大神は意味がわからないといった顔をして見せた。その大神の顔を見た周人は苦笑を漏らすと少し苦めのコーヒーを口にするのだった。


飛行機が勢いをつけて走り出し、やがて空中に舞い上がる。ガタガタ揺れる機体から重力を感じつつ、周人は小さな窓の外へと顔を向けていた。体を機体に合わせて斜めにしている客席は上昇していく飛行機に身をゆだね、約9時間の長いフライトの始まりをそれぞれに楽しむのだった。周人もまた持ってきていた雑誌を膝の上に置き、横に座った大神は裸の外人がピンナップされたポスターが付いているやらしい雑誌をサングラス越しに眺めていた。上昇を続ける機内では周人は開きかけた雑誌を一旦閉じて再度小さな窓から見える外の景色を眺めた。町並みが眼下に広がる景色を見ながら、ついこの間見たあの素晴らしい夜景を思い浮かべる。そして、そこでのかけがえのない想い出も頭の中に描き出すのだった。この飛行機は眼下に見える桜町上空を通過してアメリカに向かうのだ。もはや懐かしい故郷がどこかはわからないが、周人は町並みが雲で消えるその瞬間まで、地上に広がる景色を眺めていたのだった。


「行ってきます!」


声には出さずにそう心で言うと、周人は小さな微笑を浮かべるのだった。


入学式を終えた由衣は上空を行く飛行機の音を聞いてそれを見上げた。雲は少なく、澄み切った青空を行く白い機体はすぐに確認できた。この日、周人がアメリカに発つというのを康男から聞かされていた由衣はその飛行機がそうなのかどうかはわからなかったのだが、とりあえずその飛行機を見上げて、そして笑顔を浮かべながら万感の想いを込めてつぶやきを漏らした。


「いってらっしゃい」


そんな由衣を不思議そうに見ながら、美佐もまた空を行く飛行機を見上げた。


「何?」

「いつかはアレに乗って・・・・押し掛けてやるんだ」


由衣の言っている言葉の意味がわからない美佐は首を傾げることしかできなかった。そんな美佐を横目に由衣は思っていた。この高校生活を目一杯楽しむ、そしてそこで誰かを好きになるかもしれない。それでも、いつか必ず周人のいる場所を探しだして押し掛けてやるんだと自分に誓っていた。周人を超えるほど好きになる人がこの3年の間で、いや、それから先も現れるかどうかはわからない。でも、今はまだ自分は周人が好きなのだ。周人がずっと『恵里』を好きだったように、自分も周人を好きでいようと思ったのだ。やがて周人にとっての自分のような存在が目の前に現れるかもしれない、それでもその瞬間までは周人を好きでいたいのだ。力一杯背伸びした由衣の心は晴れ渡っていた。この見上げた雲1つない澄み切った青空のように。由衣は見えなくなった飛行機から目線を戻すと、美佐にとびきりの笑顔を見せるのだった


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ