ときめきの中で(5)
ウォータースプラッシュは8人乗りのボートに乗って人工的に作られた山の中を探検するといったもので、精巧に作られたロボットの動物たちが軽快な動きを見せながら物語を語っていくのを順番に見ていくというものである。山の中に迷路のように流れる緩やかな川を進むボートだが、最後には高さ15メートルの急流を一気に滑り降りるというメインが待ちかまえている。今までの和んだ雰囲気を一気に変えるその急流はもはや直角の斜面を落ちていくといった方が適切だろう。凄まじい勢いで落下し、その衝撃で滝壺の水を跳ねとばすその水を被りながらも笑いあう2人は出口付近にあるモニターに写し出されている落ちていく瞬間に撮られた写真を見てさらに笑いあった。笑顔でVサインをする由衣の横では、目と口を全開にし、恐怖におののいた表情をしている周人が写し出されている。ここでもお腹を抱えるように笑う由衣はそれを購入する事に決めた。1枚千円もするのだが、記念にと自分の小遣いをはたいたのだった。出口を出て歩きながらそれを見る由衣から笑いが消えることはない。
「先生・・・これ作った人の思うつぼって感じの顔・・・・もー最高だね!」
のけぞりながら笑い、涙を指で拭う。周人は苦い顔をしながらそっぽを向いたが、その顔は緩んでいた。一旦休憩することにした2人は由衣はソフトクリームを、周人はジュースを買って適当な柵に腰掛けた。ベンチはどこも人で埋まってしまっている。相変わらず天気は良く、雲も風もほとんどなかった。気温も高いせいか、寒さもそう感じる事はない。
「気持ちいいね」
「そうだな」
短い会話を交わしながら、陽気な日差しに心も和む。
「あと1つ地獄を見てもらって、そのあとはゲームしに行こ!」
「ゲーム?」
「100円でいろんなゲームやって、ぬいぐるみとかの景品をゲットするの」
「オレ、そういうの苦手なんだけど・・・」
ゲームというものが苦手な周人はテレビゲームではRPGやシミュレーションを好み、逆にアクションなどはまったくダメでプレイすることはなかった。その上さっき由衣に惨敗したシューティングもあって、かなり気弱になっている。
「ゲームって言っても、体使ったりするやつだから案外得意かもよ?」
その言葉にとりあえずは了承した周人だったが、やはり不安は残る。だが一番の不安は最後のコースターである。これまで2度とも足で踏ん張れたのだが、今度は座っているのだが天井にレールが走っているため足は宙ぶらりんである。少し向こうにそのツイスタースパイラルが見えている。悲鳴もあちこちから聞こえてくるのだが、その全てが次に自分が向かうそこから聞こえてくるような気がしてならない。
「あれってさ・・・・急カーブの時にそのまま勢いに負けてどっかに飛んで行ったりしないよな?」
「へ?」
訳の分からないことを言う周人を見る由衣は目をぱちくりさせたがすぐににんまりした笑顔に変わる。今日で周人の意外な一面をたくさん見られた由衣はそれだけで満足であった。『恵里の話』を聞いて少し戸惑い、周人の中から『恵里』を消す事を考えていたのだが、実際それをどうやればいいかがわからずに今まで通りで接する事に決めていたのだ。周人を嫌っていた自分が今ではこんなに好きになってしまっている。それすら不思議なのだ。そしてこの恋を実らせたいが、相手は複雑な事情で恋愛に関して心を閉ざした人物である。だが由衣にとっては本当の自分を思い出させてくれた恩人であり、頼れる大人であり、そして好きな人なのである。その人が自分に亡き恋人を重ねようがそれはその人の勝手。自分はそのままで行くしかないと心に決めているのだ。恵がそれを意識しすぎて結局フラれてしまったのだが、由衣はそんなことは知らない。だが、その決心が良い方向に進んでいる事を本人は知らないが、あながち間違いでもないのだ。そして今日、こうして一緒に遊ぶ事によってそばにいたいという願望を叶えた事と、周人の意外な部分、普段見えない部分を見ることが出来てそれだけで嬉しいのだ。ささやかなその幸せが由衣の中の何かを満たしていく。それ以上は何も望まななくても、今はそれで満足なのだ。
「乗ってみればわかるんじゃない?」
「そりゃお前・・・・そうなんだけどさ・・・・」
「もし飛んだら、そん時は私が守ってやるからさ!」
「・・・・よろしく頼んます」
そう言い合い、2人は笑いあうのだった。
「ヒィィィィッ~!」
力の抜けた絶叫を響かせながら2回宙返りをするコースター。由衣は笑い声を上げ、周人は悲鳴をあげた。普通なら全く逆の反応を見せるこの男女は、それを下りてからもやはり正反対であった。周人はもはや力が抜けきり地面に座り込んでいる。逆にそんな周人を見てケラケラ笑う由衣は元気そのものであった。
「せ、先生・・・・もー、ダメだ!お腹痛い・・・・笑わせすぎ!」
お腹を抱え、身をよじらせ、息も絶え絶えに笑う由衣に対し、周人はガックリうなだれたまま肩で息をしていた。
「もぉ、絶対オレは2度と乗らん!」
高々にそう宣言した周人に対し、由衣はしゃがみ込んで笑い続け、そんな由衣を見る周人は疲れ切った表情でうなだれるのだった。とりあえず一息ついてゲームコーナーに向かった2人は普通のゲームセンターの横にある小さな建物内へと入っていく。建物の中央を走るまっすぐの通りの両脇にいろいろなゲームが並んでいた。時間内に決められたゴール数を入れれば景品が貰えるバスケットボール、8人でモグラたたきをして一番最初に一定の高得点を出した者が景品を貰えるものなど、そのゲーム内容は様々であった。しかもどれも100円であり、周人と由衣はいろいろなゲームにチャレンジしていった。結局由衣が活躍して、小さめのぬいぐるみを3つと抱き枕を1つゲットしたのみで、周人は何1ついいところがなかった。それを詫びる周人だったが、由衣は笑顔を見せて難しいからねとフォローを入れた。中学生に慰められる事に情けなさを感じながらそこを出ようとした時、由衣はトイレに行きたいと言いだした。建物を出たすぐ横にトイレがあり、とりあえず2人はそこへと向かった。荷物を周人に預けてトイレに入った由衣を見やる周人の脇を通り過ぎる男女のグループの言葉に、何気なしにそっちを見やった。
「あんなのインチキじゃん!」
「絶対アレは取れないようになってんだよ」
「プロボクサーでも無理だっつーの!」
そうぼやく彼らが来た方向を見やると、パンチングマシーンが屋外に置いてあり、その脇にはかなり大きな白と黒の色合いをしたぬいぐるみが置いてあるのが見て取れた。とりあえず何も考えずにフラっとそこに向かった周人は今、それをやっている様子を覗き見た。どうやら100円で2回赤いクッションの的を叩き、合計が200点以上で景品が貰えるといったものだった。
「にーちゃん、どうだい?2回で200点以上ならこの人気キャラ、クルーピーのぬいぐるみ、だが、もし1回で200点を出せばこのばかでっかいクルーピーのぬいぐるみを差し上げるよ!」
そう言うおじさんの横に置いてあるのはビニールをかけられたぬいぐるみであり、かなり巨大だ。小学生ほどの大きさにキャラクター特有の太さも相まって相当のボリュームを持っていた。クルーピーはアメリカで有名な太った犬のキャラクターであり、もうかれこれ30年前のアニメ作品だ。それでも世界中で愛され続け、日本でも有名なキャラクターだった。
「この赤い的は倒さなくていいわけ?」
「ああ、クッションを叩いた衝撃で上に数字が出る」
周人はポケットからさっき両替してゲームをした残りの100円玉をニヤニヤ笑うおじさんに手渡すと一回間合いを計るようにしてみせた。このマシンはプロボクサー、しかも外国人並みの選手でもなければ一撃で200点以上は出ないようになっているのだ。つまり巨大なぬいぐるみは客寄せの物でしかない。そうほくそ笑むおじさんの横で、次に周人は足場を決めて構えを取る。次の順番を待っているカップルは少し脇にどいてそれを見物していた。周人は左足を軸に右足を下げると、それを一気に踏み込んだ。地面を蹴りつけるほどの勢いでマシンのすぐ前に右足を踏み出し、その動きをバネにして右腕をまるでボールを投げるかのように大きく後ろから回しながら一気に前に突き出す。独特のフォームで赤い的の部分に拳が触れるその瞬間、肘から腕を内側に回転させた。ひねりを加えられた拳がズドンという凄まじい低い音を伴って赤い的に直撃した瞬間、クッションはおろかその台自体が大きく揺れ動く。どんなに強い衝撃を受けてもそうそう動かないように固定してあるにも関わらず、台は少しながら動いたのだ。
「スッゲ~!」
「マジでぇ?」
横で見ていたカップルから感嘆の声があがる。店のおじさんもその表示された数字にただ口をパクパクさせて驚くしかなった。
最後のコースターで乱れた髪を直し、リップを塗り直した由衣は思いもよらず時間がかかってしまったために大慌てでトイレを後にした。待ちくたびれているのではないかと周人を見やったが、なんとその腕には大きな大きなぬいぐるみが抱えられているではないか。それを見た由衣は呆気に取られた顔をしていたのだが、驚きの中に笑顔を見せながら走り寄ってきた。
「ど、どうしたの?これ・・・・どうやったの?」
「まぁ、あれだな・・・オレにもこのぐらいは出来るってことさ」
得意げにそう言うと、その大きなぬいぐるみを差し出した。抱きかかえるようにそれを受け取った由衣は目をぱちくりさせるのが精一杯であった。やがて時間も午後5時過ぎとなり、2人は駐車場へと向かう。混雑するバスの中でもひときわ目を引くそのぬいぐるみは由衣にとっては自慢以外の何物でもない。何をどうやってこれを取ったのかは結局教えてもらえなかったのだが、それでも由衣は満足していた。バスを降りた2人は居並ぶ車の中でもひときわ目立つ形状をした車に近寄っていった。
「ドアロック、開けてくれ」
思いも寄らぬその言葉に小首を傾げた由衣だが、周人はポケットに手を突っ込んだままである。そう言われても音声が周人以外であれば反応しないはずである。
「アンロック!」
言われるまま物は試しとそう叫ぶ由衣の声に反応してゴスンという音が鳴り響く。周人は運転席側のドアを開けるとニヤッとした笑顔を見せた。そのまま助手席側に回ってドアを開け、前へとシートをずらす。後部座席に収穫したぬいぐるみを入れるとすぐにシートを元に戻し、そこへ由衣に座るようにうながした。
「何で?何で私の声で?」
運転席に座りキーを差し込んで赤いボタンを押す周人はその質問に対してカーナビの下にあるキーボードを軽快に叩き始めた。
「音声入力システムを無制限にしたんだ。今、元に戻す」
画面上に『System Change』と表され、システムが変わったことを告げた。
「いつ?」
「ここに着いて下りる時にちょっとね。みんなはこんなシステムなんて知らないだろうし、こないだやりたそうだったからさ」
周人はそう言うとミラーで後ろを確認しながらゆっくりと車を進めていく。帰る人たちが多いためにひかないように気をつけて運転しているのだ。ファンタジーキングダムの出口からすぐ目の前にある国道へと続く道も混雑しており、敷地内から出るだけでまだあと10分近くはかかりそうなほどだ。
「・・・不用心だなぁ」
そう言いながらも顔をほころばせる由衣。
「でも、ありがと」
照れたようにそう礼を言う由衣にどういたしましてと大げさに頭を下げる。和んだ空気に包まれた車は5分ほどで幹線道路を経て国道へと出ていった。
「晩飯どうする?桜町に帰るのが・・・・この調子じゃぁ早くても6時半ごろだろうし」
「私、ファミレスでいいよ」
そう言う由衣のリクエストに応え、とりあえず桜町に戻ってから桜ノ宮手前の国道沿いにあるファミリーレストランに向かうことにした周人は国道から分岐している高速道路へと入った。ここから約1時間半ほどで桜町へと到着する。
「先生が就職するのってどんな会社?」
不意にそうたずねる由衣だが、別に深い意味はなさそうだ。
「この車を作ったカムイだよ。そこのソフト開発部門で働くことになる」
あえて海外を飛び回ることは言わなかった。言っても仕方がないことな上、実際由衣には関係がない。
「凄いね・・・大きな会社じゃん」
感心したようにそう言う由衣は笑っていた。何故かその笑顔が痛く感じる周人はうなずくだけで前を見て運転を続ける。
「新城先生は教師になりたいって言ってた」
「ほぉ・・・そうなんだ?」
「うん」
由衣の口から新城の名前が出るのを久しぶりに聞いた気がする周人は変われば変わるものだと苦笑した。あれほど新城新城と言っていた由衣が一番嫌っていた自分と1日デートを楽しみ、さらに当たり前のように車の助手席に座っているのだ。その後しばらく会話もなく車は進み、周人が何気なく横を見ると、由衣は静かな眠りに落ちていた。今日1日随分はしゃいでいたせいだろう。周人は口元に微笑を浮かべると、カーステレオの音を若干落とした。エアコンの温度は快適であり、いじる必要はなさそうだ。道は混んできているが、渋滞とまではいかない。
「ありがとな」
寝ている由衣にそっと礼を言う。今日は彼女の気分転換のはずが自分の気分転換にもなっていた。恵の事があって少なからず落ち込んでいた自分、そして変に周りを意識していた自分だったが、今日はそんな事を考える余裕もろくになかった事と自分が変に『恵里の話』を聞いた由衣を意識していた事を見つめ直させてくれたことに感謝したのだ。この子に振り回されている間は『恵里』の事を重ねる余裕もない。それが良いのか悪いのかはわからないが、ごく自然に女性と向き合える事には感謝すべきである。
「たしかに君はオレを解放してくれるかもしれないなぁ・・・」
その独り言は由衣の耳には届かずに、ただ桜町を目指してひた走るエンジン音にかき消されてしまうのだった。
高速の出口を下りる際の料金所で目が覚めた由衣は斜めになっていた体を起こした。どうやら知らない間に寝てしまっていたらしい事に気付き、パワーウィンドウを上げる周人を見やった。
「お!お目覚めかい、お姫様?」
「ゴメン、寝ちゃってた?」
「エンジン音すらかすむ程の大いびき・・・」
「嘘!?」
周人の言葉に驚きの悲鳴を上げる由衣に、嘘だと答える。膨れっ面をしてみせる由衣だったが、それはすぐに笑顔に変わった。国道に出てすぐ、目当てのファミレスはあった。そこの駐車場に車を止めると車から降りる。さすがにこの時間ともなればめっきり冷え込み、昼間の暖かさが嘘のように感じられた。待っている人もいないようで2人はすぐに席に案内された。周人は何故か喫煙席ではなく禁煙席を指定し、席についた。
「タバコ、いいの?」
「君にたばこ臭い匂いをつけて帰らせたくないだけだよ」
周人はそう言うとウェイトレスが用意したメニューを開いた。
「オレ、肉にする」
「私はぁ・・・・このセットがいいなぁ」
結局周人はビーフステーキのセット、由衣はグラタンのセットを頼んだ。
「あと、サラダバー1つとドリンクバー2つね」
それらの注文を聞いたウェイトレスがメニューを下げて去っていく。
「別にドリンクバーとかはよかったのに・・・」
「いいじゃん、受験に向けての景気づけってことで」
「今日は受験って言葉は聞きたくなかったな・・・」
少し不機嫌そうな顔をして見せたが、それはすぐに元に戻る。
「ま、いいけどね・・・・」
そんな由衣に周人は苦笑し、一口水を口に含む。
「そういえばさ、新城先生と奥田先生って付き合ってるの?」
突然の話題に困った周人だったが、実際その辺はわからない。ただ、お互いが良い感情を持っていることだけは知っているのだが、あえて何も知らないとだけ答えた。
「部署が変わってからわかんねぇんだよ。君らのことすら何も伝わってこないしさ。あっちはあっちで大変なんだけどな」
そう言うと由衣を見つめた。
「まぁそれはそうなんだろうけどね・・・・あっちには女の先生はいないわけ?」
「いるよ・・・なんで?」
唐突な質問ばかり浴びせられるのだが、その意図は全くわからない。
「気になったりしないのかなぁって、新城先生みたいにさ」
「元々、オレはそういうのアレだしな」
「そうだったね・・・こりゃ失礼」
またもや『恵里の話』をちらつかせた事に少々後悔した周人だったが、やはり由衣の反応は無い。表情すら変えずにあっけらかんとそう答えて自分の頭をペシッと叩く仕草が見えるのみだ。周人は少々拍子抜けしたような感じになったが、昼間感じたように気にしない事にした。その後、運ばれてきた料理を食べながら学校での事や塾での事を話して聞かせる由衣。年相応の話題でありながら妙に大人びた容姿のせいか変な違和感を覚えたが、周人は丁寧にうなずきながら話を聞いた。そして料理が終わる頃には周人の高校時代の生活についての話になっていた。だが、そこでも一切『恵里』に関する話には触れない。どういった事をしてどういった友達ができたかということぐらいしか聞いてこないのだ。たまたま『恵里』に近い話題が出ても、別に何を変わる風でもなく話を聞いている。周人はいつになく自分の事について話をし、由衣もそれを聞いて簡単な質問を返す程度であった。
幹線道路は少し混んでおり、予定通りの時間に由衣を送っていくことは難しくなってきていた。それでも安全運転を心がけ、なるべく急いで車を走らせた結果、21時前には由衣の家に到着したのだった。車を降りた由衣は抱えきれないほどの荷物を持って運転席側に回り込む。周人は窓を開け、ドアに手を置いて顔を出すような格好で由衣の方を向いた。
「今日はありがと。またまたわがままいっぱい聞いてくれて。いい気分転換になったよ。だから明日からまた頑張るね」
「こっちこそ、すごく怖かったけどすごく楽しかった。オレも気分転換できたしさ」
「悲鳴、最高だったしね?」
「まぁな・・・」
笑いあう2人。今日一日終始和やかだった雰囲気は別れ際になってやや名残惜しさを感じさせる。
「じゃぁな、頑張れよ、受験勉強」
「うん。合格祝い、期待してるからね!」
「あぁ、そうだな・・・・じゃぁな、ゆっくり休めよ?おやすみ」
周人はそう言うとシートベルトを着ける。その手でギアを入れるとハンドルを握り直した。
「先生?」
「ん?」
今まさにアクセルを踏もうとした矢先、由衣に呼び止められて顔をそっちに向けた。ジッと自分を見つめる由衣にあの日の恵が重なる。まさかという思いが周人の頭を駆けめぐった。だが、その不安はすぐに消えた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
笑顔でそう言い、2人は別れた。すぐに角を曲がったダブルワンの後ろ姿を見送りながら、由衣の頬を一筋の涙が伝っていった。次に会うのはいつになるかはわからない。春になれば合格祝いもあるだろうが、その頃の周人は就職の準備で忙しいだろう。おそらく年内に会うこともまずない。もしかしたら今日が最後かもしれないと思った由衣は楽しかったその反動か、寂しさをずっと我慢して今日を過ごしていたその感情が一気に爆発したのだ。周人が取ってくれたぬいぐるみをギュッと抱きしめながら、今、別れ際に言おうとして飲み込んだ告白の言葉を、好きだという言葉をもう一度心の中でつぶやくのだった。
自宅マンションの駐車場に車を止め、ロックした周人の前に1人の男が立ちはだかった。殺気に満ちた気配を殺そうともせず、ニット帽を深くかぶった目つきの鋭い男はキーをポケットにしまう周人に向かって凄まじいスピードで一気に間合いを詰めた。それはあの大木すら上回る速度であり、そこから繰り出される拳を何とかブロックした周人は間合いを取るべく一旦大きく飛び退いた。だがニット帽の男はその周人の動きに合わせ、目に見えないほどのパンチを連続で繰り出してくる。だが、その全てをブロックした矢先、右の脇に鈍い痛みを感じて体が沈んだ。パンチに気を取られていたせいか、浅いながらもヒットした相手の右足を振り払う周人の顔面めがけて今度は左足での回し蹴りが舞う。男はそのタイミングから蹴りの手応えを感じるはずだったが、逆に腹部に強烈な打撃を受けて後方に飛び退いた。周人はその蹴りを信じられない動きで回避しながらも左拳を相手の腹部にめり込ませたのだ。態勢が崩れたせいで完璧にヒットしなかったとはいえ相手はダメージを受けたのか、様子をうかがうようにして立っているのみだ。すぐに態勢を整えて立ち上がった周人は目の前に立つ男の気配、殺気が衰えていない事を知り、自分の脇腹の骨に異常がないことを確かめる。軽い打撲程度で骨に異常はなく、まだ十分戦えるだろう。
「こっからが本番でいいかな?」
「いや、ここで終わりだよ」
男はそう言うと殺気を消し、目深に被ったニット帽を脱ぎ捨てた。
「久しぶりの挨拶にしちゃあ、ちょいといたずらが過ぎますなぁ・・・・純君?」
「ちっとは弱くなったかと思ってたんだけど・・・・いやはや、強いわ」
そう言って笑いあう2人は肩をたたき合って再会を祝した。
「しかしライトニングイーグル健在!だな?こないだお前並みのヤツとヤリあったけど、比べるまでもなかった」
「オレの方が速いだろ?」
「あぁ、しかも強いしな・・・・で、こんな時間にこんな所でどうした?」
その質問に、純は少々困った顔をして見せた。さっきまでとはまるで別人の様に気弱な顔をしてちょっと話があるとだけ言う純に怪訝な顔をして見せた周人だったが、とにかくここでは何だからと家に上がるように勧め、2人は周人の家へと向かった。元々無口な純であったが、今日はいつになく暗い。何かあったなと悟った周人は同じように何も言わずにエレベーターに乗り込んだ。そして部屋の前に着くまで一言も会話を交わさなかった2人だったが、部屋の前に立つ意外な人物を見て同時に驚きの表情を浮かべた。身長も大きく、短く刈り込んだ金髪にピアス、そして浅黒い肌をした大男が腕組みをしてドアの前に立っているのだ。まるでヤクザの用心棒のように。
「今日は・・・・一体どうなってるんだ?」
一人そうため息をつく周人は由衣に振り回され、純に襲われ、そして今、突然の茂樹の訪問に閉口しながらその場に立ちつくすのだった。




