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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第七章
39/127

ときめきの中で(3)

水曜日のアルバイトに行くのは気が重く、恵は暗い表情で職員室のドアを開いた。と、中にはかすみと新城がいた。またも水曜日だというのに塾に来ている新城を見やった恵は2人の仲がかなりのものだと推測したが、すぐ後からやってきた康男の説明を聞いて目を丸くするのだった。というのも、大木が急に辞めており、その代打として新城が水曜日も来ているというものだった。大木が辞めた理由は体調を崩したという事であったのだが、ついこの間までそう具合が悪そうに見えなかった恵は何か複雑な事情があるのだと推測してそれ以上何も聞かなかったし、詮索もしなかった。新城も康男もそれに関してはそれ以上何も言わなかったし、かすみも何も聞いていないとのことだった。シフトは若干の変更があったのみだったが、大木の分を新城と康男がカバーすることで決着はついているという話だ。その後それぞれが授業を行い、かすみは恵と入れ違いに帰っていった。そして時間は瞬く間に過ぎていき、授業も終了となって職員室に戻ってきた新城は帰り支度もしないで椅子に腰掛けている恵を見て不思議そうな顔をしてみせた。いつも送ってもらう恵が乗るべきバスはすでに生徒たちを乗せている。


「なんだ、今日はどうしたんだい?」


新城は椅子に座りながらそう問いかける。バスのエンジン音が響く窓の外に目をやった恵は大きなため息をつくと薄い笑みを浮かべた。


「今日は・・・塾長に話があって」

「そうなんだ」


新城は何やら深刻そうな雰囲気を感じ取り、それだけ答えると生徒たちを見送りに外へと出ていった。結局恵は職員室から出てこずじまいであり、ますます新城は恵の異変に戸惑いを感じてしまった。バスを見送った後、あえてさっきと変わらぬ飄々とした感じで職員室に戻った新城は恵を気にしつつさっさと片づけを始めた。恵はすでに荷物をまとめてあり、あとはバスが戻るのを待つばかりといった風だった。


「私、ここにいるから、気にしないで帰っていいよ」


恵は笑顔を見せてそう言ったが、その笑顔もどこか痛々しい。いつもならそこで帰るのだが、大木の事件があってからは必ず誰か1人、男性が留守番をするように秘密の取り決めが設けられていたため、新城はどうしたものかと思案しつつもとりあえず恵の話を聞いてみる事にした。いつも通り恵の隣の席に座ると、そのまま前を向いて教材を片づけるフリをしながら自然な感じで話を切りだした。


「で、話って?まさか青山さんまで辞める気じゃぁないよね?」


恵はそう言う新城の顔をチラッと見て、そのまま沈黙を続けた。さすがに自分には言いにくい事かと思った新城は小さなため息をつくとどうしたものかと思案に暮れた。と、恵は椅子を回転させて新城の方に向き直ると視線を下げたまま小さめの声で話を始めた。


「実は・・・日曜日、木戸クンと映画を見に行ったの・・・・」


その言葉に新城は同じように椅子ごと体を向ける。


「・・・で、どうだったんだ?」


この様子からしてその時に何かあったことはわかるのだが、良い話でもなさそうなので返答にも困ってしまう。とりあえず反応をうかがう新城は少し顔を上げた恵に軽い笑顔を見せた。


「フラれた・・・・」


あまりに率直なその答えに、新城は笑顔もどこへやら、しばらく呆然としてしまった。


「・・・え?ってことは、告白したの?」

「タイミングが悪かったんだけどね・・・・・・・・・ダメだった」


暗い声と表情が真実を物語る。何がどうなって告白に至ったかはわからないが、フラれたという事実を聞いてしまった以上、慰めなくてはならないのだがどう慰めていいかもわからない。


「ハァ~・・・・」


大きなため息をつくと、恵は前髪をかき上げるようにしてがっくりと肩を落とした。さすがに場の空気も悪いのだが、どうしていいかもわからない新城はただ落ち込む恵を見つめることしかできない。


「今日はもう飲む!飲みまくる!」


恵は顔を上げ、おもむろに立ち上がるとそう叫び、コーヒーを入れに給湯室に向かった。


「オレも付き合うよ、今日はね」


新城はそう言うと横に並んでコーヒーを入れ始めた。そんな新城を横目に見ながら恵は少し唇を尖らせてすねたような表情をして見せた。


「いいよねぇ・・・新城クンは・・・・・・かわいい彼女もできて」


つぶやくようなその言葉に動揺した新城は砂糖を入れ損なってしまい、ステンレスの流しの脇にそれをぶちまけてしまった。


「もぉ~・・・何やってんだか!」


恵はそう言うと、すぐ横に置いてある台拭きを取ってこぼれた砂糖を流しの方へと押しやった。新城は急に驚かせるような事を言った恵のせいだと言いたかったが、そこは我慢して素直に謝った。


「ごめん」

「こっちこそゴメン・・・・・言い方、意地悪だったね・・・」


こちらも素直に謝る恵だったが、やはり表情は暗かった。新城はそんなことはないよ、と返したが結局その後康男が戻ってくるまで2人に会話はなかった。


生徒たちを送って戻ってきた康男は2人を連れ立っていつもの居酒屋に入った。暗い恵の表情から話があると言われた時におおよその推測はついていたが、実際周人にフラれたという話を聞いて少なからず驚いた。こんなに早く告白をするとも思っていなかった康男にとって、この間の周人の過去に関する話があだになってしまったと後悔したが、すでに遅い。とりあえず残った2人が早まったことをしないよう願いつつ、恵の話に耳を傾けた。デートの時に乗った観覧車での会話、そしてその日の様子から最後の告白までをおおよそながらに語る恵のお酒のペースは速かった。その話に康男は言葉を失い、新城はどうしていいかわからずにうつむくだけであった。


「結局・・・・焦っちゃったのよね、私が」


恵は最後にそうつぶやきを漏らすと儚い笑みを浮かべた。


「そうかもしれないけど・・・・・・木戸も問題あるよな?」


新城はそう言い、ジョッキに半分ほど残ったビールを一気に飲み干した。


「だってそうだろ?さんざん気を持たせた上に昔の彼女が忘れられないから、はい、さよならーってさ」

「そうかもしれないけど・・・・でも誘ったのも、好きになったのも私だから・・・」


そう言いあって押し黙る2人を見た康男はため息をついてからビールを口にした。そして何かを考えた後、その重たい口を開いた。


「たしかに君は焦った、そして木戸君も自分を変えようと君と遊びに行った。だが結果は『ノー』だ。恵里ちゃんを忘れられなかった彼にも問題はあり、焦った青山さんにも問題はある・・・・・そして恵里ちゃんの事を君に話した俺にもまた責任がある」


康男はやや遠くを見るようにしてテーブルの空いている席を見つめていたが、顔を上げて恵を見た。もはや何が何だかわからない新城は何より今の話の中に出てきた『恵里』というのが誰なのかがわからない。そんな新城に何の説明もないまま、康男は黙ったままうつむいている恵を見つめながら言葉を続ける。


「変に彼女の事を言わなければもっと自然な形で接していけただろうに・・・ブチ壊したのはオレだ・・・本当にすまない」


頭を上げる康男に困った顔をする恵はとりあえず康男に頭を上げるよう言うと、目を伏せがちに話を始めた。


「・・・どっちにしても、結果は同じだったと思います・・・・結局、彼の心を開けないまま終わっていたと思いますよ」

「けど・・・」

「もういいんですって!私、今日は自分を吹っ切るために飲みます!そして明日からはまた新しく前向きに頑張る!」


恵は笑顔でそう言うと、呆気に取られる2人を横目に店員を呼んでてきぱきと追加注文を頼んでいった。そんな恵を痛々しく見るしかない康男は渋い顔をし、もはや全く状況が飲み込めない新城は呆然とするしかないのだった。


結局康男の家に着いたのは午前1時半であり、すでに新城は客間で深い眠りについている。全てを忘れようとして結構飲んだにもかかわらず、お風呂から上がった恵は全く眠くならないために居間でくつろいでいた。そこには布団が敷かれているため、何度か横になったりしたのだが何故か寝付けずにそのまま縁側の方へとに向かった。さすがに10月終わりともなれば寒くなってきている。そっとカーテンを開けて窓越しに夜空を見上げると、半月が綺麗に見て取れた。


「どうした?」


ぼーっと立っている恵を通りすがりに見つけた康男がそう声をかけた。月明かりに照らされて儚くたたずむ恵は言いしれぬ美貌を輝かせて振り返った。だが、その影は表情共々暗く、今にも消えてしまいそうな幻のように感じてしまう。


「寝る前に、ちょっとだけ考え事です」


笑顔でそう言う恵の横に立った康男は同じように月を見上げた。


「君たちにも、木戸君にも、幸せになってほしかった」

「なりますよ、私は」

「・・・そうだな」


そう言いがなら恵を見やると、その頬を涙が伝っていた。そんな恵の肩を黙ったままそっと抱く康男の胸に飛び込んで泣きじゃくる恵の背中を優しく叩く。せきを切ったようにわんわん泣く恵を受け止める康男は苦々しい表情を浮かべながら何度も優しく背中を叩き続けた。まるで子供のように泣きじゃくる恵の気持ちを察する康男は泣かせた原因の一端を担っている自分を責めた。


「・・・すまなかった」


康男は絞り出すようにそう言うと、恵が泣きやむまでずっと抱きしめたまま、優しくその背中を叩いてあげるのだった。


秋が深まったせいか、はたまた曇りがちの天気のせいか、午後6時ともなればもう暗かった。今周人は自宅マンションの前で菅生の車を待っていた。昨日の確認の電話では一応スーツ姿でお願いするとのことだったので、一張羅たる紺色のスーツにスカイブルーのストライプ柄のネクタイを締めていた。余裕を見た時間前に立っていた周人だったが、右側から白く輝く1台の車がやってくるのを目に留め、無意識的に1歩下がった。その車は周人が乗っているダブルワンとはまた違った形状をしており、エスペランサES―01に似た形状ながらよりシャープなスタイルを持っていた。やがてそれは周人の横でピタリと止まるとドアを横にではなく縦、つまりは上方向に開いていった。中にいたのはグレーのスーツを着た菅生であり、片手を挙げて周人に挨拶すると手前の空いている後部座席のシートに座るようにうながした。一礼してそれに乗り込むと、ルームミラー越しに運転席の大神が笑顔を振りまいていた。


「大神さん!大神さんも一緒だとは思いませんでしたよ」


身を乗り出すようにして運転席に座る自分に寄った周人に笑みを返すと、そのまま車を走らせた。中はダブルワンとは違い、かなりゆったりした造りになっている。ややこしい機器類は無いに等しく、ドアなどに木目を入れたいかにも高級車といった感じを持っていた。


「エスペランサES―21、通称『オルタナティブ』だ。ダブルワンと並ぶ次世代型エスペランサの試作機だよ」


車内を見回す周人にそう説明した菅生は自慢げな笑みを浮かべながら周人を見やった。見たところダブルワンのような複雑な機器は装備されていない。若干カーナビを埋め込んだステレオとおぼしき部分にいくつかのボタンが見えているぐらいである。スピードメーターも全てデジタル化されている部分等はダブルワンと同じ次世代タイプを思わせるのだが、あとは全くと言っていいほど違うのだ。


「これが来年には販売される予定だ」

「じゃぁ、ダブルワンは?」

「あれは特殊中の特殊、それに関しても食事の際に説明するさ・・・・そのために今日は大神君にも来て貰ったんだから」

「おかげで着慣れないスーツを着るはめになったのさ」


大神は息苦しそうにネクタイをいじりながら苦笑しつつ運転を続けた。車は国道をひた走り、桜ノ宮を超えてさらに20分ほど走っていた。そして約1時間後、車は桜町の隣にある八幡市へと入っていった。桜町のある並木市との境にある大きな街、東雲しののめ町にある洋館風の建物の駐車場に車を止めた一行はこの洒落たレストランへと足を踏み入れる。いかにも高そうな雰囲気を持つそこの入り口にはあの工場で菅生に付いていた秘書の女性が待ちかまえていた。


「お待ちしておりました、どうぞ」


秘書は美しい容姿とピッタリ合う澄んだ声でそう言うと、入り口脇にある受付兼レジカウンターにいるボーイに声をかけ、席に案内するように告げた。ポケットに手を突っ込みながら悠然と歩く菅生とは裏腹に、洋館を改装した上に、中ほどに噴水すらあるこの建物に見とれながら歩く周人と大神。まるで田舎からやってきた者のようにキョロキョロする2人に後ろから付いていく秘書は笑いを噛み殺した。やがて個室のような部屋に案内されたそこには丸テーブルに青いクロス、そしてろうそくの明かりが緩やかに照らす豪華な椅子が用意されていた。4人は円卓を囲むように座ると、秘書がテキパキと飲み物をオーダーしていく。そして高そうなワインやシャンペンが置かれていくと菅生が秘書の方を向いて簡単な紹介を始めた。


「彼女は私の秘書、美島優子みしまゆうこ君だ。こちらは木戸周人君、来春から我が社で働く有望株だ」


その説明を受けてお互いに礼をして挨拶をかわす。


「そして今日は木戸君が配属になる新たな部門についての簡単な説明を行いたくて集まってもらった。だが、まずは乾杯だ」


4人はそれぞれグラスを持つと菅生の号令の下、乾杯をした。周人と菅生はワイン、大神はビール、そして美島はウーロン茶を口にする。そしてグラスを置いた菅生はあらためて全員を見渡すと話を始めた。


「食事の前にまず話をしておこう。でないとせっかくの料理の味もわからないからね」


そう前置きし、ますは周人の方を見やった。


「先日、パスポートの有無を確認したのは、実は君には世界中を飛び回ってもらうためなんだ」

そう言い、まずそのことについての説明を始めた。まずスゴウという企業が再来年のF1に参戦をするにあたり、ハード部門とソフト部門に新しいチームを組むというものだった。そしてそのソフト部門に周人と大神が抜擢されているのだ。ダブルワンのソフトを見た限り、周人の才能は大神が保証するほどであり、これには問題は無いと菅生は言う。そして周人のダブルワンはル・マン24時間耐久レース用の試作マシンであること、さらにはそれに合わせた新型車種の開発などの話も織り交ぜながら今後の展望をざっとながら説明していった。


「今後3年間はF1マシンのソフト開発の担当、そこで実績と経験を積んでもらった後は国内にて新型マシンのソフト開発を行ってもらうつもりだ」


前菜を口にしながら菅生はそう説明をした。大神はビールを飲みながらもその話に真剣に耳を傾けている。


「でも、いきなり新人の僕が?」

「新人なもんか・・・・この2年近くでお前さんの実力はオレや、開発整備担当グループが保証する。あいつらも春からはみんな同じ部署だしな、やりやすいだろ?」


大神がそう横やりを入れたのだが、菅生はそれに賛同してうなずいた。


「私ももちろん君ならできると思っている。今回新入社員は全国で総勢45名、そのうち即戦力は君を入れてわずかに4人・・・・有効な人材は有効に活用するのが私のやり方だ」


テーブルの上にはスープが置かれていく。あっさりしたその味わいは口の中で濃厚に広がり、かぐわしい匂いと相まって美味しさを際だたせる。


「もし、君に彼女がいるのなら私もためらったのだが、いないということだったからこういう人事にしたんだ。別に構わないかね?」

「はい、まぁ確かに彼女はいませんし・・・・・それで構いません」


周人はきっぱりとそう言った。この間の恵の件もあり、やはり春までの間に誰かを好きになることは無いだろうという判断から出た言葉だった。なにより自分をここまで評価してくれた上に世界中を飛び回ることができるのだ。これほどやりがいのある仕事は他にはない。


「ビシビシ鍛えてやるから覚悟しとけよ?」


大神は胸を張りながらそう言い放つ。


「あら、そのうちビシビシ鍛えられていたりして」


優子が笑みを浮かべてそう言うと、大神は困った顔をして周人を見やった。そんな大神に皆笑いを巻き起こす。言われた大神も頭を掻きながら笑いを浮かべるのだった。


メインディッシュの子羊の肉を食べ終わる頃には皆それなりに酔いも回り、仕事の話も終わって他愛のない話題で盛り上がっていた。こういう場でありながら仕事の話などしない菅生は持っている知識を面白おかしく話してくれていて、一流企業の社長というカリスマ性を存分に発揮していた。そして話は周人と菅生が初めて出会った時の事に変わっていった。


「しかし、あの時君に助けられてから・・・君に出会わなかったらこのプロジェクトはこうも早く進まなかっただろうな」

「それはオーバーですよ・・・・」


感慨深げにそう言う菅生に、周人は照れながらそう返した。


「いやぁ・・・実際、あの時の君はスーパーマンだったからねぇ」


そう言うと、菅生はワイングラスを手にその時を思い出すかのような仕草を取るのだった。


今から約1年半前、周人は1人で桜ノ宮の街を歩いていた。その日は平日ということもあって人出も少なく、南にある国道を行かずに北側の幹線道路沿いにバイクを止めていた周人は目当ての買い物であるコンピュータの専門雑誌を購入し、帰路につこうとバイクを止めたその場所に向かっていたのだ。もう後数歩で到着というその時、周人が止めてあるバイクのちょうど真後ろに大きな車が止まり、運転席に座っていた男性が後部座席のドアを開きに行く。そのことから、その車の持ち主がどこかの金持ちか何かだと思っていた周人はどんな人が出てくるのかと興味を抱き、バイクにまたがりながらそれをミラー越しに見ていた。そしてそこから姿を現したのは紺色のスーツを着こなす30代後半とおぼしき年齢で髪をオールバックにした男性だった。見るからにどこかの会社社長といった風貌のその男性ならばこの高級車から出てきても不思議ではない。そう思ってバイクにキーを差し込もうとした瞬間、さらにその後ろから蛇行気味に黒い車がまっすぐ突っ込んで来るではないか。このままでは後ろの車、特に男性のいる場所に突っ込むと判断した周人は自分のバイクが倒れるのもおかまいなしに猛ダッシュをし、運転席から出てきた男性をバイクの方へ突き飛ばし、さらに飛び込むようにしてスーツ姿の男性を抱えて同じく車とバイクの間に隠れるようにして倒れ込んだ。その瞬間、車同士がぶつかる音と衝撃が周囲に響き渡る。周人はすぐに立ち上がると車を見やった。止まっていた車の後部座席に黒い車が斜めにぶつかっており、ぶつけられた車の後半分は損傷がかなり激しかった。またぶつかった黒い車も左前の部分がグシャグシャで、ボンネットがひん曲がり、エンジンがむき出しとなっていた。そこから白い煙が立ちこめ、フロントガラスに蜘蛛の巣状にヒビが入った黒い車の中はエアバックが作動していて運転手がどうなっているのかは確認できない。とりあえず携帯で警察と救急車を手配しながら、周人はぶつかってきた車の運転席を覗き込むようにした。エアバックに突っ伏すようにした運転手には見たところ怪我は見あたらない。とりあえず救急車が到着するまでそっとしておくことにした周人は助けた2人のそばに戻ると怪我が無いかを確認した。運転手もスーツの男性もかすり傷程度であり、自分の車が潰れているのを見て顔を引きつらせていた。もしそこに立っていたならば命の保証は無かっただろう。周人の手を握り何度も礼を言うスーツの男性に戸惑う周人の耳に救急車が駆けつける音が聞こえてくる。周囲には野次馬もゾロゾロと集まってきており、事件現場周辺はざわつき始めていた。やがて警察も駆けつけて、周人たちは事情の説明にそのまま警察署に行くこととなった。スーツ姿の男はカムイモータースの社長である菅生要であり、お忍びで自社の車の試乗キャンペーンを見学しようとした矢先の事故ということもあって事情聴取に時間をさくことができた。周人はそこで命の恩人とされ、別れ際に名刺を渡されたのだ。後日お礼にと工場へと招待された周人を待っていたのが大神と、そしてダブルワンだったのだ。


「あの時木戸君がいなかったらと思うとゾッとしてね、名刺を渡すタイミングも遅れた上に謝礼を何にするかも頭から飛んでいた・・・いや、本当に失礼したと思ってる」


そう苦笑しながら言う菅生はソムリエにワインを注がれ、その香りを楽しんでから口の中にそれを入れる。


「でもそれがなかったらオレたちも木戸ちゃんに出会わなかったわけだし、まさに運命の出会いってヤツでしょうねぇ~」


感慨深げにそう言う大神の言葉に優子もうなずいた。テーブルの上に置かれた全ての空き皿が撤収され、メニューとしてはあとはデザートと食後のコーヒーを残すのみとなっていた。超高級フランス料理とはいえ、結構なボリュームを持っているためにお腹のふくれ具合もちょうど良かった。


「でも、あのあと社長に木戸さんの事を調べるように命じられて・・・大変だったんですよ」


優子は慣れた手つきで上品にナプキンを使って口元を拭ってからそう言うと苦笑気味に菅生を見やった。その意味ありげな視線を受けた菅生はワインを飲みながら目を閉じ、優子の言葉をあえて無視するような仕草を取った。


「私は探偵じゃないんですって言っても無駄で・・・・でも調べてビックリすることばかりだったわ」

「でも正直にそれを話してくださいましたからね・・・・安心できたんです」

「だから君にダブルワンを託すことができた」


優子は周人を調べていくうちに、彼が『魔獣』と呼ばれた存在であることを知ったのだ。そして菅生が周人を呼び出した際に自分が周人を調べさせたことを詫び、助けてくれた謝礼としてダブルワンを譲与したのだった。


「みなさんにはお世話になってばっかりで・・・今日もこうやってごちそうになって」

「今日は就職祝いも兼ねている。といっても社長の私が勝手にやっていることなんだけどね・・・私は君を気に入ってる、そして将来を有望視しているからね」


そう言い、まっすぐに周人を見つめた。周人はありがとうございますと礼を言い、出されたシャーベットを美味しそうに頬張った。そしてこの晩餐も終わりを迎え、最後に菅生の言葉で締めることとなった。


「木戸周人君の前途と、我が社のますますの発展をここに願う。木戸君、よろしく頼む」

「ありがとうございます、精一杯頑張ります」


がっちりと握手を交わす2人を微笑ましく見守る優子。


「しかしあれだな、まだ入社もしてないのに昇進したみたいだな」


大神のその言葉に一同が笑いに包まれるまでそう時間はかからなかった。



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