閉ざされた時間(5)
事情を聞いた康男はただ言葉を失い、呆けるように横たわる大木を見つめた。信じられない思いが心を埋め、思考すらも奪っていく。
「表だって警察沙汰にしては塾の信用にも関わります・・・吾妻さんも無事だったわけですし、ここは僕の知り合いの警部さんにお願いしたほうが・・・」
「先生、そうしよ?私、平気だったから」
一番怖い思いをしたであろう由衣にそう言われては返す言葉はない。康男は深々と由衣に頭を下げると何度もお詫びを言った。その間に周人は携帯から電話をかけ、新城は肩を落とす康男をなだめるようにしている。
「すぐ人をよこしてくれるそうです。もちろん内密に・・・・」
電話を切った周人にも深々と頭を下げる康男。
「すまない・・・・もうこれで2度目だ・・・君にはもう感謝の言葉もない・・・」
うなだれながらそう言う康男を、周人は精一杯に励ました。
「誰にも今回の事は予測できなかったんです。僕は別件でたまたま来ただけのこと。それに、こいつも遺伝子的変異種だったから・・・」
口元にはまだ血の痕が残っている。頬にも傷があり、服もドロドロのことから今回ばかりは苦戦した事を悟った康男はもう1度頭を下げて礼を言った。その後、由衣は新城が送っていき、周人はやってきた警察の人に事情を話すとそのまま大木を呼んであった救急車に乗せた。自分も覆面パトカーに乗って警察に向かい、事情聴取を受ける事となった。康男たちには後日事情を聞くことを告げた刑事はそのまま近所の人が遠巻きに見ている為にすぐ戻っていったのだった。康男は近所の人に突然バイトの教師が倒れてしまってと説明し、なんとかごまかすことに成功した。心配してやってきた妻の好恵には家に帰ってから詳しく説明すると言い残し、その後しばらく1人で塾にこもってしまった。
警察署で周人に応対した刑事はかつて『キング』の事件を担当した人物だった。そのせいで顔見知りという事もあって、今回の事に関する内密な事柄も了承してくれたのだ。一緒に部屋にいる若い刑事は周人を知らないらしく、ベテラン刑事が和やかに事情を聞いていることに不快感を表していた。そんな若い刑事に座るよううながしたベテラン刑事は一通りの調書を取り終えた後に警部もこっちに向かっていると周人に話した。
「わがまま言ってすみません、でも担当の方が小田さんで助かりました」
ベテラン刑事の小田はそう礼を言われて照れた笑いを浮かべたが、若い刑事の前だという事もあり、すぐに渋い顔になった。
「秋田警部もすぐに来られる・・・しかし、お前がこっちに来ていたなんてなぁ・・・」
「警部には家を出ることだけは言っておいたんですが・・・」
「居づらかったわけか?」
「そうですね。それに有名になりすぎたのもあって・・・」
若い刑事は周人を見ながら、警視庁の中でも切れ者である秋田警部を知っている事に少し驚いた顔をしていた。将来の警視総監と言われるエリートでキャリア中のキャリアである秋田を知っているこの若造の正体が気になって仕方がない。気になるのはその左頬の傷。3年前、警察内部でも噂のあった男の特徴は頬に傷だった。それが右頬だったか、左頬だったか、そこまではわからない。
「こっちの若いのは榊ってんだ、オレのお守りをしてくれてる」
苦笑混じりにそう言う小田に、榊と呼ばれた若い刑事は軽く頭を下げた。
「この坊やがあの『キング』を倒した伝説の『魔獣』ってやつだ」
タバコに火を点けながら軽くそう言う小田の言葉に、榊は驚きを全面に押し出した表情をしてみせた。噂に聞いた『魔獣』はもっと大柄なで凶悪そうな男だと思っていたのだ。出されていたお茶を飲んでいる目の前の優男があの『キング』すら倒した『魔獣』だとは全く想像も出来ない。ただただ驚くばかりの榊を横目に表情をゆるめる小田は今回の事について周人に質問を投げた。
「病院に運んだあいつ、アレもそうなのか?」
意味がさっぱりわからない榊を残し、周人はうなずいた。
「自分でもそう言ってましたし、何より、強かった」
「だが中途半端な強さのせいで病院送りだ、まぁ、自業自得だな・・・で、決め技は?」
「雷閃光」
「かわいそうに・・・・・あの『麻薬王』神崎をヤった技か」
小田が口にした『麻薬王』という言葉に榊はさらに驚いた。自らオリジナルドラッグを生成し、それを高値で海外にすら売りさばいていた1匹狼の男、麻薬の達人でブローカーの神崎京。かつてキング支配の七武装の1人として暴走族『マッドドラッグ』を束ねていたが、『魔獣』たる周人との戦いで再起不能となっており、今ではどこにいるのかすらわからない。彼こそが周人の左頬に傷をつけた張本人であることを知るものは周人の仲間以外ではほとんどいない状態だった。
「あの事件でお前さんの事を知ったんだったなぁ、オレぁ」
懐かしそうにそう言う小田に、周人も顔を伏せがちにそうですねとつぶやくように言った。榊はそんな周人と小田を交互に見やりながらただ驚く顔をするしかなかった。
「まぁ、いいさ・・・・とにかく今回のは内密に調査して、うまくやっておくよ。他でもないお前さんの頼みだしな」
小田はそう言うと笑顔を周人に向けた。周人は再度頭を下げて礼を言い、榊にもお願いしますと頭を下げた。ちょうどその時、ドアが開いて1人のスーツ姿の男が飛び込んできた。髪をオールバックにし、紺色の上下スーツに薄い黄色いネクタイを締めている。口ひげを持ったその口元は周人に目を留めると自然に表情をほころばせた。周人はおろか、小田と榊も立ち上がると軽く頭を下げた。
「秋田警部、お久しぶりです」
周人は笑顔を見せてそう挨拶をする。その強面には似合わない人なつっこい笑みを浮かべた秋田は目の前に立つ周人の肩に力強く手を置いた。
「木戸君、元気そうだな?今回の事はこっちでうまく処理する。アレ以来、変異種は政府でも捜索されているからな」
低い声でそう言う秋田にうなずき、真剣な目をしてみせる周人を見やる秋田は口元の笑みを絶やすことなく周人を見つめた。
「だが、お前がこっちにいたとはなぁ・・・・」
「まぁ、いろいろありましたし」
「そうだな・・・」
2人はそこで言葉を途切れさせたが、互いの視線を外すことはなかった。小田はそんな2人に座るよう勧めると、榊にお茶を入れるように命じた。警視庁でも切れ者で有名な秋田を前に榊は緊張した様子でお茶を入れに行きながらも、3人の会話に耳をそばだてた。あの『魔獣』と呼ばれた男と、警視庁きっての切れ者である秋田警部が目の前にいるのだ。伝説のキング事件を解決させた2人の存在は榊にとって緊張以外の何者でもない。しばらく近況や雑談を交わす3人の会話を注意深く聞く榊は、警視庁でも厳しい人柄で知られる秋田が意外と気さくな人物だと初めて知った。
「そういえば、大将の店にお寿司を食べに行ったんですよ」
「おぉ!そうなのか?いやー、忙しくてほとんど行けてないんだ・・・」
そんな日常的な会話をする2人を不思議そうに見やる榊は、同じく嬉しそうに会話を聞いている小田を見てますます不思議な感覚に襲われた。
「実際今回の事件は変異種がらみだからな・・・こちらとしても隠密に動くしかない。『あれ』以来確認できているだけでも8人増えているからな」
『あれ』という言葉が『キング』と周人との死闘であり、最終決戦を指すことを知らない榊は首をひねった。
「まぁ変異種を倒すお前さんたちこそ、特別なんだろうけどな」
秋田と小田はしみじみそう言うと、俯き加減の周人を見やった。周人は顔を上げると微笑を浮かべ、今回の大木に関しての事件について再度よろしくとお願いをしたのだった。
置きっぱなしのバイクの事もあって覆面パトカーで一旦塾まで送ってもらった周人は、午前1時前にもなろうとしているにもかかわらず職員室の明かりがまだ点いている事を見やり片眉を上げた。この時間にここにいるとすれば康男以外にはいないだろう。周人は職員室のドアノブに手をかけると、ゆっくりと回してドアを開いた。鍵もかけずにいる事自体が周人に何かを予感させる。奥にある空いた机に肘をついて考え事をしていた康男はその音にハッとして顔を上げ、そこに立っている周人を目にしてホッとしたような顔をしてみせた。
「お疲れさん、すまなかったね」
「いえ、塾長こそこんな時間まで?」
電気が点いているのは康男の真上にある1つだけで部屋は全体的に薄暗い。その上、空き机には何も置かれておらず、康男はただそこに座っているだけなのである。周人はその康男の前に座り、うつむく康男を見やった。おそらくは今回の事件にショックを受けているのだろう。雇ったバイトが盗撮を仕掛け、生徒に暴行を働こうとしたのだ。公になれば塾の信用に関わり、最悪は廃業になりかねない。幸い周人の計らいと、大木が遺伝的変異種であることから事の真相が公になることはなくなったが、康男にとってこの事は計り知れないダメージとなっているのだった。
「君が来てくれなかったら、取り返しのつかない事になっていた。新城君にも謝られたが、彼も大木を信用していたし、責めることなんてできやしない」
ポツリポツリとつぶやくように、だが噛みしめるようにそう言う康男は苦悩に満ちた表情を浮かべていた。周人はジッと康男を見つめたまま、唐突に話を始めた。
「僕は『恵里』を守ると約束しながら、結局守れなかった・・・・」
全く違う話に少々戸惑いを感じつつ、康男はそのまま周人を見やった。
「でも、別の人は守れるんですよね・・・皮肉な事に。今回、そして夏と、吾妻さんを救えた事は偶然です。でもどっちもすんでの所で間に合っているんですよ。つい最近、青山さんの身にも危険が及んだんですが、それも運良く助ける事ができたんです」
恵のことは知らなかった康男は驚いた顔をしてみせた。恵に変わった様子もなかった上に、周人も全くそれを気付かせなかった為だ。
「それって、『恵里』がオレの背中を押してくれてるのかなぁって思ったりして、結構複雑なんですよ。でも誰かを守れた事は誇りに思っています。一番救いたい人を救えなかったけど、今、身近な人は救う事が出来ている、それはそれで満足なんですよ」
周人は笑みを浮かべながらそう言った。何故周人がその話を今したのかはわからない。だが、言いたいことは十分に伝わった。
「大木は盗撮マニアで、それをネタに青山さんや吾妻さんをレイプしようとしたのは事実です。でもヤツは変異種でもあり、今回は公にされることなく処罰されるはずです。これをラッキーと取れない塾長の気持ちはお察しします。でも・・・・今は悩むよりもすべきことがあるはずですよね?」
そう言われた康男は鋭い目つきで周人を見た。周人は真剣な面もちで康男を見つめている。教育者としてではなく、経営者としての自信を喪失していた康男にとってその言葉は痛いほど心に響いた。
「僕は、2人を守れた事を嬉しく思います。そして、その反面、『恵里』を救えなかった事が心に大きく痛みを与えます。でも、その痛みがあるから、僕は前に進む事ができるって思っています」
周人のその言葉は康男の心にさらに大きく響いた。自分の人を見る目に絶対的な自信を持っていた康男にとって、大木の事はその自信を根本的に揺るがせた。そして、経営者としての自信すら失っていた自分に精一杯の励ましをくれた周人に感謝をした。
「そうだな・・・・・今すべきことは、山ほどある。今回の事を教訓に、オレはもっと真剣に経営を考えなくてはイカン」
その言葉を聞いた周人は笑顔でうなずいた。康男は眉間にシワを寄せていたのだが、徐々にそれもなくなっていく。周人はおもむろに給湯室に向かうとコーヒーを入れ始めた。その間、康男は再び遠くを見るように何かを考えていたのだが、コーヒーを持ってきた周人に笑顔を見せた。
「ありがとう、木戸君」
「いえ」
コーヒーを入れてくれたことだけでなく、由衣を救ってくれた事、そして落ち込んでいた自分を励ましてくれたことに対しての礼でもあった。それを知ってか知らずか、周人はそう簡単に返事をするとさっきの席に座ってコーヒーをすすった。
「だが、これで吾妻さんの好感度がまた上がったな?」
「ですね・・・」
意外に素直なその返事に康男は驚いた顔をしてみせた。その返事からは何の感情も出ていなかったのだが、明らかに今までの周人には無い返事であることはうかがい知れる。何が彼の中で変わったのかはわからないが、少なくとも以前よりは前向きになっていることが手に取るようにわかった。
「もしかして・・・吾妻さんの事を?」
「違いますよ・・・ただ、好感度が上がったのは確かですって話」
康男のつっこみにやんわりとそう答えた周人はコーヒーを飲んで間を置いた。その口調からも周人の変化を感じ取った康男は肝心な事を周人に告げてない事を思い出し、明らかに苦い顔をして見せた。
「木戸君・・・すまない。言おうと思ってずっとそのままにした事があってね・・・」
その顔と、言いにくそうにそうつぶやく言葉から怪訝な顔をしてみせる周人はふと由衣の言葉を思い出し、それを察したような顔をしてみせた。
「あぁ、僕が使っているのが古武術だって事を吾妻さんに話した事でしょ?」
「いや、まぁ・・・それもあるんだけど・・・・恵里ちゃんの事も・・・・」
「・・・・・しゃべっちゃった?」
目を細めてそう言う周人に、康男は頭を下げたその上で手の平をあわせて許しを乞うようにした。これにはさすがにため息をついて腕を組む周人はしかめっ面をしている。恐る恐る顔を上げる康男は申し訳なさを全面に押し出した苦々しい表情を浮かべていた。
「はぁ~・・・・・そうですか。まぁしゃあないっスね・・・・」
「それが・・・・吾妻さんにだけではなくって・・・・その、青山さんと小川さんにも・・・」
その言葉に対し、さすがにうなだれるようにした周人はもはや疲れも限界に来たという表情を浮かべて机の上に突っ伏した。これまで2度助け、1度は親密にデートをした由衣ならばまだいいとは思っていたのだが、他にも話しているともなればこれはますますややこしい。
「いや、対等にね、好きになった人の事は知っておくべきだと、そして・・・恵里ちゃんの事は知っておいた方が彼女たちのためだと思ってね」
康男のその声に、机の上にアゴを置いてそっちを見た周人はしばらく何かを考え込むような仕草を取った。そして椅子に座り直すと、大きなため息をゆっくり吐き出した。
「そうかもしれないですね・・・・・」
意外にあっさりそう言った周人は残っていたコーヒーを飲み干すと、康男を見やった。
「きっと・・・誰も選ばないとは思います。でも、じっくり考えたい」
決意に満ちた周人のその言葉に康男は黙ってうなずいた。何があったかは知らないが、周人が今、大きな決意をもって3人に接しようとしていることはよくわかった。康男はコーヒーを飲み干すと改めてお礼とお詫びを言った。周人は何も言わずにただうなずき、手際よくコップを片づけて遅くなっている今日は康男の家に泊めてもらう事にしたのだった。




