閉ざされた時間(1)
「あれは、3年前の夏の事だ」
そう言いながら目を伏せた康男は3年前の夏を思い出すように話を始めた。
「磯崎恵里という少女は、僕も少しだけ知っている。2年前にここで新しく塾を開く前、N県に住んでいた頃に自宅の近所に住んでいてね、笑顔の似合う、優しい・・・いい子だった・・・・」
完全に目を閉じた康男は口元に小さな儚い笑みを浮かべてそう恵里を思い出していた。
「高校が木戸君と同じになってね、彼の幼なじみの子を介して知り合ったそうだ。結局付き合い始めたのは二年生の梅雨の頃、6月頃かな?そして彼女が亡くなったのが8月・・・・短いねぇ・・・」
感慨深げにそう言う康男はすっかり冷たくなってしまったお茶をすすった。黙ってその話を聞いている3人の表情もどこか暗い。
「木戸君の家はね、代々古武術を継承している家柄なんだ。幼い頃から祖父に仕込まれたそうでね、柔道2段のオレですら全くかなわないほどに強いんだ」
「こぶじゅつ?」
聞き慣れない言葉に由衣が小首を傾げた。柔術などは格闘技のテレビ番組などで知っているが、古武術など聞いたことがないのだ。
「打撃技、関節技、寝技を追求した総合格闘技ってやつだ。戦国時代に端を発し、1対多数で相手をいかにして素手で殺せるかを極めたものだと聞いている」
これを聞いた恵と由衣は周人が何故あれほどまでに強いのかをここでようやく知ることができた。そんなものを幼い頃から仕込まれれば否が応でも強くなる。
「だからあんなに強かったんだ・・・」
謎が解けたせいか嬉々としてそう言う由衣の言葉とは裏腹に、それが全くわからない美佐はきょとんとするしかなかった。
「そう。で、そのための朝夕のトレーニングは欠かさない。そして暑い夏の夜、何かしらの約束に遅れた彼は、いつもトレーニングをしている公園で恋人の変わり果てた姿を見つけてしまう事になる」
康男は眉間にシワを寄せ、苦しそうな表情でゆっくりとそう口にした。一気に重々しくなる居間の雰囲気に、ここからが核心に触れるところだと感じた3人は身動き1つせずに次の言葉を待った。
「茂みから突然飛び出した大男は2メートル近い、しかもスキンヘッドだったそうだ。あの木戸君ですら避けるのが精一杯のパンチを数回繰り出した後、物凄い速さで逃げ去ったと言っていた・・・そしてその男が出てきた茂みの中に、全裸で横たわる少女の姿があった・・・・」
「まさか!」
由衣は自分が襲われていた時の事を思い出した。その時と似た状況であったが故に、あの時の周人はあれほど強い怒りをあらわにしたのだ。そして恵もまた亜佐美の事件を思い出していた。この事があったからこそ、あれほどまで相手を完膚無きまでに叩きのめしたのだ。
「そう、土に汚れた彼女は既に冷たくなっていた。元々、生まれつき心臓が弱い子でね・・・ショックに耐えられなかったんだろう・・・」
康男は大きなため息をゆっくりつくと、顔を青ざめさせている3人を見やった。そのまま由衣で視線を止めると康男は小さく微笑んだ。
「吾妻さん・・・彼は君を助ける事が出来たことをすごく喜んでいたんだ。でもその反面、どうしてあの時、同じように最愛の人を救えなかったのかと、辛い思いもしていたんだ・・・」
由衣は顔を上げた。あの時の周人の優しさ、自分の怪我など無視をしてまで常に自分をかばってくれていたのはその為だったのかとあらためて思った。自分を気遣う笑顔の奥に秘められた悲しい想いを全く表に出さなかった周人を、今更ながらに凄いと思える。いつしか自分の目に涙が溜まっていたが、ぐっとそれを堪えた。
「彼は彼女を殺した男の特徴を警察に言った。だが、それだけの特徴を持ちながら警察は結局犯人を逮捕できなかった。なぜなら・・・」
「そいつが『キング』・・・だったから?」
その名を出すのもおぞましいといった表情をした恵のその言葉に康男は少し驚いたが、それはちょっと違うと説明をした。
「『キング』は遺伝子的に変異を起こした特別な人間でね、その高い戦闘能力は戦車1台に相当すると言われた。とある政治家がそんな彼に目を付け、彼を雇い、あらゆる犯罪を見逃す代わりに闇の組織や暴力団、はては他国のスパイを壊滅させる任務に就けた。4人の、『キング』と同じ超人たちと、さらにその配下となる7つの組織を作り上げてね」
「だからそれも罪にはならない?何なのそれ!」
怒りに身を震わせる恵は今まで見せたことのない怖い表情をしていた。やりきれない思いの由衣と美佐は、だからこそ自分の力だけで『キング』を倒すことにしたのだと周人の気持ちを理解していた。
「彼はその7つの組織が全て表向きは暴走族であることを知り、片っ端からケンカを挑んだ。幼なじみで気功の達人でもある佐々木哲生君も、まぁ彼に関してはなし崩し的にだが・・・それに参加し、たった2人で40近いチームは壊滅させたそうだ。そしていつの間にか仲間になった棒術、剣術の使い手に、柔術の使い手も味方に付け、彼ら5人は日本で一番と言うほど有名な総勢200人はいる暴走族チームにケンカを売ったんだ」
「ミレニアムですね?」
またもそう言う恵に、康男は苦笑した。優等生なはずの恵がいったいどうしてそこまで詳しいのか不思議だったが、とりあえず今はその質問は後ですることにした。
「そう、そしてこの戦いに勝ち、彼は『魔獣』と呼ばれるようになった。ミレニアムのリーダーが倒された噂はすぐに広まり、そこでついに『キング』が動いたんだ」
首を回して小さく骨を鳴らし、一旦お茶を飲む。ふうと一息ついた康男は続きをせがむような目で自分を見ている3人に苦笑し、咳払いをしてから話を続けた。
「崩れるミレニアムを一気に攻めにかかった『キング』配下の暴走族だったが、彼ら5人の力は圧倒的だった。これにより7つの組織のうち4つが壊滅。さらに3つは敗走した。これでようやく『キング』の前に立つことができた木戸君は、キング四天王を仲間に任せ、真っ正面から戦いを挑んだんだ」
「で?」
結果を知っているにも関わらず話を急かす由衣に待てとばかりに手をかざし、ゆっくりと話を再開した。
「その全てが死闘で、仲間も何とか勝ったんだがもう起きあがれないほどの状態だった。現に木戸君ですら左腕を折られ、肋骨も4本骨折、顔は腫れ上がっていた。だが奥義を炸裂させ、ひるんだキングに対して最後の一撃をアゴに放ち、彼はかろうじて勝利を得たんだ。そしてまだ息があるキングに詰め寄った・・・・」
誰かが唾を飲み込む音をさせた。緊張感は最高潮であり、空気はピンと張りつめている。
「だが、結局殺さずにそのままにしておいた。というのも『キング』は既に錯乱、発狂し、まともな状態じゃなかったからなんだ・・・最後の一撃で脳に損傷を負い、治る見込みもなく、今でも施設にいる」
「なんで?なんで殺さなかったの?」
ますます恐ろしい事を平気に口にする恵に困った顔を見せたが、今はあえて無視をすることにした康男はまた1つ咳払いをしてみせた。
「死は一瞬、だが彼女の苦しみは一瞬ではなかった。だからその分も苦しめばいい・・・彼はそう言っていた」
3人はもう俯くしかなかった。周人のその過去があるから、今の優しさがあるとも言える。だが、あまりに凄惨なその話に言葉すら出ない3人を見ながら康男は悲しい笑みを浮かべた。だが、これを知っておかなければ周人の心を解放する事も、彼と付き合うことも出来ないのだ。何より周人に前を向いて生きて欲しいと願う康男は最後に3人に対しての言葉を投げかけた。
「木戸君は常に恵里ちゃんの影を追っている。その気持ちはわからなくもない。だけどそれじゃ駄目だ。そしてそれを彼自身が一番よく理解していると思う。だからこそ、君たちの内、誰かが彼をそこから解き放ってくれると信じている。だからこの話をしたということを理解して欲しい」
その言葉に顔を上げた3人は、徐々に決意に満ちた表情に変わっていった。それを見た康男は自然と笑顔になると背伸びをして場の空気を入れ換えるようにしてみせた。
「恵里さんって・・・・どんな人だったんですか?」
美佐は真剣な目でそう康男に問いかけた。残った2人もそれには興味があり、黙って康男の返事を待っている。
「見た目の可愛さでは君たちの方が上かもしれないけど、笑顔がすごく可愛らしかった。木戸君とはお似合いでね、持ちつ持たれつのいい関係だったよ・・・夏が似合っていて、麦わら帽子に自転車でそこいらを走り回っていた・・・・」
思い出すようにしてそう言う康男の言葉を聞いた由衣はあの日、自分と『恵里』とを錯覚したような周人の言葉を思い出していた。もしかすれば、この間のデートも自分を『恵里』として接していたのかもしれないという疑念が巻き起こったが、今の話の後ではそれすら仕方がないと思えてしまった。胸がチクチク痛むのだが、それを必死で押さえ込むように、あれは違う、自分とのデートだと自分に言い聞かせた。
「先生、木戸先生ってぇ、私たちを恵里さんの代わりにしか思ってくれてないのかな?」
由衣のその曇った表情から今の自分の話を聞いてあの夏の日の事を指していると悟った康男は、優しい笑顔で首を横に振った。
「重ねてしまう事はあるかもしれない。でも、実際代わりを求めていても無駄なことは承知しているさ。彼はバカではないからね。恵里ちゃんはこの世に1人しかいない・・・君たちもそうだ」
康男のその言葉に納得できないような感じだったが、これに関しては直接周人に聞こうと心に決めた由衣はそれ以上何も言わなかった。だが、少なくともあの日のデートではそれを感じなかった事だけは確かである。由衣という人物と接してくれていたと信じている。『恵里』の代わりではなかったと信じたい。
「・・・話はこれで終わりだ、そろそろいい時間だし、君たちもこのままバスに乗って帰るといいよ」
康男はそう言うと立ち上がった。確かに時間は8時半であり、程良い時間になっている。3人はお茶が入っていたコップを運ぶと片づけをし、9時になるまで居間にいることにした。だが3人に会話はなく、それぞれがそれぞれの心の中で周人のことを想うのだった。
シャワーの音がしているのを確認した周人はそっと家の電話を取り、携帯を見ながら親友でありミカの彼氏でもある哲生に電話をかけた。いったい何がどうなってミカがここまでやって来たのかを知るためだ。事情はミカから聞いているものの、本人の口から事の真相を聞かない限り判断できないと考えたのだ。だが、結局携帯は留守電に変わり、ミカが風呂から上がってきたせいもあって連絡はおろか留守電にメッセージを残すことも出来ずに終わってしまった。舌打ちして子機を置いた周人は背後に立つ人の気配を感じて何気なしに振り返った。そこには濡れた髪もそのままにバスタオル1枚で突っ立っているミカの姿があった。さすがに驚くしかない周人は思わず崩れ落ちそうになったが、知らず知らずのうちにその薄布1枚で隠されている大きな胸に視線をやっている事に気付き、あわてて視線を逸らした。
「な、なんだよ・・・・どうした?」
ややうわずった声でそう問いかける周人に、ミカは至って冷静にその様子を観察していた。
「下着とか着替え持ってこなかったのぉ・・・無い?」
「・・・もしかして、それって女性用の事?」
「うん」
「あるわきゃねーだろ!」
もはや笑うしかない周人はうなだれるようにすると洗濯を終えて干していた物から自分のトランクスと、タンスからジャージを取り出した。それをミカに投げ渡すとそれで我慢しろと決してミカの方を見ずに告げた。
「ありがと・・・・・しゅうちゃん?」
お礼の後、すがるような言葉に一瞬だけミカを見やる。
「すけべ!」
それだけ言うと脱衣所に戻っていくミカ。誰のせいだと思いながらも、周人は力をなくしてその場にガックリ崩れ落ちていくのだった。
家に着いた恵は薄暗い部屋でテレビをつけていた。部屋を照らすそのテレビの明かりは明滅し、置いてあるものの影を何度も形作った。だがバラエティー番組から聞こえてくる笑い声が響くテレビを見ることはなく、頭の中にあるのは今日の康男の話ばかりである。周人が何を思って自分に接していたのかがわからなくなってしまった恵は、支部が変わって会えなくなってしまった事を悔やんだ。もはや周人の口から真実を知るためには電話か、直接会いに行くしかない。だがこれほど聞き難い話題はない上に、おそらく周人自身があまり語りたがらない過去であることからして難行するのは目に見えている。恵はもう何度目かわからないため息をつくとテレビもそのままにベッドへと転がった。そして目を閉じて周人の顔を思い浮かべる。普段の顔、嬉しそうな顔、とぼけた顔、そして怒った顔。亜佐美の時に見せた恐ろしいほどの周人の顔を思い浮かべ、その状況と、『恵里』を発見した時の周人の顔を想像した。計り知れないショックを感じただろうことぐらいしか想像も出来ない。もし自分が同じ立場なら、やはり恋愛をする気にはなれないとも思った。
「私はどうしたいの?どうすればいいの?」
自分に問いかけてみたが、自分でその答えを出すにはまだまだ時間がかかりそうであった。天井に向かって大きくため息をついた恵は視線の定まらない目をしながらも、ぼんやりと周人の事だけを考えてしまうのだった。
由衣もまた同じように枕を抱えてベッドの上に座り込んでいた。お気に入りのアーティストの曲を奏でるCDすら耳には入って来ない。死んだとは聞かされていたが、殺されていたとは夢にも思わなかったせいもある。それ以上に由衣が気になっているのはやはりこの間のデートの事だった。周人が何を思って自分と手を繋いでくれたのか、そこが問題なのである。あの時、由衣を恋人と見立てていたのなら、あの日デートをしたのは自分ではなく『恵里』という元彼女の存在ではなかったのかという疑念が渦巻く。だが、別れ際に発したあの言葉と笑顔は間違いなく自分に向けられていたものであった。由衣は周人の気持ちがわからずに、意味もなく泣きそうになってしまった。
「そんな気持ちで1日付き合われても、嬉しくないよぉ」
枕に顔を埋めてそう言う由衣は少しだけ顔を上げて机の上に置いてある写真立てに目をやった。嬉しそうな自分と戸惑う周人の写真。そこには笑みはなかったが、下に貼っているプリクラには笑顔が見てとれる。そして由衣は、あの占い師の言葉を小さくつぶやいてみせた。
「解放する・・・・私が解放するの?・・・本当に?」
その質問に答えるべき人物は誰もいない。再び枕に顔を埋めた由衣はどうしていいかわからずにしばらくそうしているのだった。
美佐は机に向かっていた。毎日きちんと日記をつけている美佐だったが、さすがに今日は何と書いていいかわからずにペンを持った手をブラブラさせていた。周人の授業がある日はいつもその日の周人のことを書いていた。だが、今日はショックが大きすぎて何をどう書いていいやら言葉にできない。一旦日記から離れた美佐は天井を見上げながらベッドに倒れ込んだ。大きなため息をつき、今日聞いた話を頭の中で整理した。そしてもし自分がそうなった場合、果たしてどうしただろうかと考える。復讐はできないまでも、前向きに進んでいく事ができただろうか。恋愛をすることは不可能でも他の女性に好きだと言われてどう思うだろうかを考える。
「困るよねぇ、やっぱ・・・・」
自分が告白をしたことで周人を困らせているという事は理解できる。その上で自分が『恵里』という存在を超えていけるか、忘れさせることが出来るかを考えた。今は無理かもしれない、だが、いつかはそうしたいと願う。
「もっと強くならなきゃ・・・・」
美佐はそう決心し、一度正面から周人と話をしてみようと思うのだった。
夜の11時半を回ってもミカはテレビを見続け、寝転がりながら周人もそれをぼんやりと見ていた。深夜のバラエティー番組を見ながらケタケタ笑うミカに対してあくびを噛み殺す周人の目はどこか眠たそうであった。結局周人は眠気に耐えきれず、そそくさとベッドの用意をし、さらには一式用意してあった予備の布団をその隣に敷く。それでもテレビを見続けるミカにため息をつき、仕方なく先に歯を磨きに行った。全てを終わらせ、玄関の戸締まりを確認した後に振り返ると、そこにはまるで幽霊のようなぼーっとしたミカが立っていた。これで今日何度目かと思うほど驚かされた周人は疲れた顔でミカの歯ブラシを用意した。前に買っておいた自分用の替えを開け、それを手渡す。ミカはそれを受け取るとさっさと歯磨きをし、その間に周人は全ての戸締まりとガスの元栓を確認するとテレビの音量を落とした。トイレも済ませたミカが布団に入ろうとした周人を見下ろす。そんなミカを見上げてベッドを使うよううながした周人はリモコンを使って部屋の明かりを落とすと交代にテレビのリモコンを手に取った。
「しゅうちゃん、いいよ、私下で」
そう言うミカを見上げていた周人だったが、いいからとばかりにベッドで寝るよう言い聞かせた。結局ミカはベッドに横になると、周人はテレビの電源を切った。一気にしんと静まりかえった真っ暗な部屋に、周人は誰かと2人で寝るのはここへ来てから初めの事だとぼんやり考えていた。
「しゅうちゃん・・・・ごめんね・・・」
周人は首を動かして隣にあるベッドの方を見やると、そこから顔だけをはみ出すようにしてミカが自分を見下ろしていることに気付いた。その何とも言えない意味ありげな視線に耐えきれなくなったのか、枕の下で手を組むと天井を向いた。
「もういいって」
周人はそう言うと目を閉じた。さっきまであった眠気はどこへやら、今はそう眠くはない。
「しゅうちゃん・・・・もう・・・あっちには帰らないのぉ?」
どこか暗い声色でそう問うミカを見た周人は、何かを考えているような神妙な顔つきになった。
「勘当同然だしな・・・・でも、春には一度帰ろうかと思ってる。就職先はこっちだから、またとんぼ返りだけどね」
「しゅうちゃんのお母さん、心配してたよ?仕送りもほとんど手をつけてないからって・・・」
その言葉に黙ってしまった周人は小さなため息をついた。だが静まりかえった部屋にはそのため息は大きく響いた。
「親父を無意味に窓際に追いやったのはオレだからな・・・いろいろ迷惑もかけたし・・・」
「でもなんとかって政治家はもう逮捕されたじゃん?」
「それは関係ないよ・・・・・オレが、悪いんだ。復讐にトチ狂ってあちこちに迷惑かけてさ。両親に肩身の狭い思いもさせた・・・」
「そっか・・・」
それ以上は何も言わなかったミカだが、突然何かを思い出したように勢いよく身を起こした。
「ねぇ、プリクラの子のこと好きなの?」
唐突に話題が変わるのはある程度予想はしていたのだが、ここでその話題が出るとは思ってもみなかった周人は寝たふりをしてごまかそうとした。だがそんなことにはおかまいなしにミカは言葉を続ける。
「まぁ、あのしゅうちゃんの顔からしてまんざらでもないんだろうけど・・・その方が恵里ちゃんも喜ぶと思うしぃ」
「そうかねぇ・・・」
とぼける周人を見て、再び寝ころびながら顔を伏せたミカは儚げな微笑を浮かべて恵里の言葉を思い出していた。親友だった恵里とは本当に仲が良く、彼女を周人に紹介したのもまたミカなのだ。そんなミカの様子に眉をひそめた周人はさっきのミカと同じように身を起こすと怪訝な顔をしてみせた。
「なんだよ?」
「しゅうちゃんに言わなきゃならないことがあったんだ・・・・でも、あの後、いろいろあったから、機会がなくて・・・・それに・・・・どのタイミングで言えばいいのかもわからなくて」
泣いているのか、時折鼻をすすりり上げるような音とその涙声が周人の動悸を早くしていった。
「・・・何を?」
そう絞り出すのが精一杯な周人は、起きあがりながらも困った顔をして下を向くミカを見つめ続けた。すぐに顔を上げたミカは涙で頬を濡らしながら周人を見つめた。
「恵里ちゃんとぉ、昔、話したの。死んじゃう半月ほど前に・・・・私は心臓が弱いから、みんなより早く死んじゃうかもしれない・・・でも、周人にはそれを乗り越えて、新しい恋をして欲しいし、幸せになって欲しい・・・・って・・・」
その言葉を耳にしてただただ言葉を失う周人は『恵里』の笑顔を思い浮かべた。呆然とミカを見つめるしかできない周人に、ミカは鼻をすすると続きを話し始めた。
「私のせいで不幸になってほしくないし、私が周人を縛るような真似はしたくないって・・・その時は私ぃ、笑ってそんなことにはならいよって言ってたんだよぉ~」
すでに涙でぐちゃぐちゃになったミカはそれを拭おうともせずに声を出してわんわん泣きだした。周人は、『恵里』の遺したその言葉に何も考えられなくなっていた。今の自分は『恵里』が望んだ自分ではない、恵里が望むものは自分が前向きに生きることだと教えられたような気がした。いつも『恵里』は自分を正しく導いてくれていた。判断に困ったときは的確にアドバイスをくれ、常にそれは正しかった。そしてそれはいなくなった今も同じであった。死ぬ3日前に言ったある言葉も思い出し、周人は恵里の気持ちを痛いほど受け止めていた。
「・・・・オレに・・・ちゃんと答えを用意してくれてたのか・・・・」
『恵里』との思い出が頭の中を駆けめぐった。笑い合った事、泣かせた事。そして自分がどんなに彼女を好きだったかを思い出した。一緒に勉強した事、映画を見た事、ゲームをした事、キスをした事、手に触れた感触、その全てが鮮明に思い出されていく。もう1度それを望んで止まなかった自分だったが、『恵里』はそれを望んではいなかったのだ。周人の頬を大粒の涙が伝った。知らず知らずのうちに伝う涙を指で拾い上げ、不思議な物を見るような目でそれを見やる。
「恵里・・・」
その涙を乗せた拳を握り、ギュッと目を閉じる。流れ落ちる涙もそのままに肩を震わせる周人を、ベッドから降りたミカがそっと抱きしめた。泣いているわが子を優しく抱き寄せるように。
「お葬式でも泣かなかったしゅうちゃんが泣いたのは、その次の日の夜だったね・・・・」
その言葉を耳にした瞬間、周人はミカの胸に顔を埋めて崩れるように泣いた。溢れる『恵里』への想いを全て表現するかのように流れる涙を、ミカはその胸で受け止めた。まるで泣きじゃくる子供を抱きしめる母親の様な優しい顔をしてそっとその頭を抱いた。お通夜、お葬式共に全く涙を見せなかった周人は周囲から冷たい男というレッテルを貼られたが、ミカや哲生はそれは今の現実を受け止められないせいだとわかっていた。そして翌日の夜、たまたま路上で出会ったミカは言葉もなくただ並んで歩いていた周人の頬を涙が伝っているのを見つけたのだ。その時も黙って優しく包容し、周人が泣きやむまでそうしていたのだった。周人の頭を撫でながらそれを思い出したミカは、どれだけ周人が『恵里』を好きかをあらためて知った。そして『恵里』の望む事を全て叶えてきた周人だけに、『恵里』の遺したその言葉を守って前向きに歩いてくれると信じていた。その為の涙なのだとミカは強く思った。しばらく泣き続けた周人はゆっくりと顔を上げると、手で涙を拭った。そしてミカに背を向けると、か細い声を震わせながら礼を言った。
「ありがとう、すまなかったな・・・」
「いいよ・・・2度目だし」
照れて笑いながらそう言うミカにつられてしまったのか、周人からも照れくさそうな笑みが漏れた。
「恵里ちゃんの事が好きなら、その言葉は守ってあげてね?」
「ああ・・・・そうする」
「プリクラの子、喜ぶね?」
「いや・・・・あれはホント、違うんだけど・・・・・」
ここでもそれを言うかと思いつつ苦笑混じりにそう言いかけた周人の頭に由衣、美佐、恵の顔が浮かんだ。今度はそれに思わず苦笑してしまった周人を不思議そうな顔をして見ているミカ。
「でも正直怖いよ・・・・もし、また同じ思いをしたらって思うとね・・・・」
正直に心の内を吐き出した周人は、あの茂みの奥で横たわる『恵里』の亡骸を見つけた時の事を思い出していた。心が引き裂かれる想いをした事が鮮明に今でも思い出される。
「今度は守ってあげればいいんだよ・・・プリクラの子をしっかりとね」
「いや、だから、違うんだって・・・・」
「どう違うの?」
「別に好きでもなんでもないんだって、ホント」
少々ながら気になり始めている事を伏せながらそう言う周人をジッと見つめるミカに気付いた。
「・・・・・しゅうちゃん」
切ない声を出すミカに、周人はドキッとさせられる。困ったような目をしているミカは少々もじもじしていたが、それが何を意味するのかわからい周人は内心ドギマギしていた。妙に色っぽいその仕草に、周人の中で緊張が高まった。
「・・・・ジャージが涙で濡れちゃって冷たいから着替え出して」
座ったまま硬直し、そのまま倒れ込む周人は目の前が真っ暗になっていくのを他人事のように感じていた。
下はさっき同様グレーのジャージ、上は着替えた赤いTシャツといった服に着替えたミカはベッドに潜り込むと、天井をぼんやりと見上げている周人を横になったまま見つめていた。小学生の頃からずっと一緒だったが、周人に対して恋愛感情を抱いた事はない。それは周人も同じであったが、いつもバカにされて泣かされていたミカをかばってくれていたのは周人だった。そして自分は幼なじみの哲生に恋をし、周人は高校に入って『恵里』を好きになった。その時、客観的に見て周人を男と意識し、かっこいいと思ったことはあった。だがそれで終わりである。『恵里』の死後、周人と哲生はキングたちを倒し、彼を雇っていた政治家の圧力に屈しかけたが、かねてよりその政治家の汚職を追っていた警視庁の警部によって逮捕された結果、その政治家はその権力の全てを失ったのだ。その決め手が『キング』という無敵の存在の崩壊だというのは皮肉だが、おかげで周人の父親は会社の窓際止まりでクビにならずには済んだ。だが元々エリート社員であった父親は肩身の狭い思いをしたとして周人を追い出し、彼は高校卒業後に家を出たのだった。『恵里』の死後、復讐を終えた後にすぐにこっちに引っ越した康男とこの桜町で偶然の再会をした周人はそのまま塾にアルバイト講師として雇って貰い、生活費を稼いだ。実家からの仕送りは専門学校の学費にのみ使い、あとは全く手をつけてはいない。周人が街を出る少し前にミカはどうにかこうにか哲生と付き合い始める事が出来、今回喧嘩をしてここに来たわけだが、実際はさっきの『恵里』の言葉を伝えに来たのもあった。そんな昔の事も思い浮かべながら周人を見つめていたミカに気付いたのか、2人はバッチリ目線が合ってしまった。
「何だよ?もう寝ろよ・・・・」
「・・・うん」
そう言うと周人はミカに背を向け、ミカはそんな周人の背中を見ながら顔をほころばせた。小さい頃はよくこうやって並んで寝たものだった。
「しゅうちゃ~ん?」
「ん~?」
眠そうなその声に、背中を向けたまま周人が返事をした。
「我慢できなくなったらぁ、襲ってもいいよぉ」
返事の代わりに大きなため息を返した周人は疲れたような表情を浮かべた後、小さな寝息を立てるミカに来てくれた事の感謝の気持ちを込めた淡い微笑を浮かべた。そして思い出す、あの日、『恵里』が言った言葉を。
『私はきっと周人より先に死ぬと思うよ。そうならないように生きたいし、一緒にいたい。でも、もしも、それが叶わなかった時は、周人には見えなくてもいつも周人を見てる。昼は太陽になって、夜は月になって。だから、笑っていてね。私を忘れてもいい、前を向いて笑っている姿を見たら、私ははそれだけで嬉しいから』
『バカ言うな!ずっと一緒だって!死なないって!』
『そうだね、うん、そう!』
いつしか周人は眠りについていた。月明かりが厚いカーテンの隙間から部屋を照らしている。月の光は癒しの光だという。だからか、周人の寝顔は少し微笑んでいるように見えるのだった。




