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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第五章
31/127

絡まりあう心(6)

周人が西校を去って約半月、ようやく今のシフトにも慣れてきた講師たちも生徒も受験に向けたあわただしい状態になりつつあった。もちろん周人が戻ったさくら校でもそれは同じであり、中学三年生にとって勝負をかける時期にさしかかっていた。由衣も美佐も勉強に集中し、今は周人の事も後回しといった風になっている。顔を見なくなったせいもあってか、由衣はいまだに周人のことが好きだと美佐にはうち明けられないでいた。その事に対して気にはなっているのだが、なかなか機会に恵まれないといった事情もある。この事についてはゆっくり、そして慎重に話をしようと考えていた由衣は意外な形でその機会を得ることとなった。十月も半ばの土曜日の午後、どうしてもわからない箇所を聞くためにわざわざ塾にいる康男に質問しに行った由衣と美佐はバイト講師である恵と打ち合わせを行っていた康男にその場で質問を投げかけたのだ。せっかくわざわざ来てくれた2人に対し、打ち合わせを終えた恵も参加して勉強を見てもらった2人は出された紅茶を飲んでいた。恵はかすみのおかげで小学生の担当を交代しており、今日はこのまま授業もなく時間は空いていた。康男も西校に関しては全面的にアルバイトに任せているため、同じようにくつろいでいた。恵が周人を好いているのを知っている由衣は会わなくなって半月で恵と周人がどうなっているかが気になり、探りを入れる事にした。


「青山先生、木戸先生とは連絡取ってるの?」


唐突な話題だが、それは美佐も気になっていることだけにジッと黙って返事を待つ。一人肘を付いて笑いを押し殺す康男はこれは面白い展開になってきたと黙ってその会話を聞くことにした。


「何も・・・別に連絡取ってないわよ。遊びに行こうとは言ったけど、お互い何かと忙しいしね」


恵は紅茶をすすると素っ気なくそう答えた。その言葉に安心した表情を浮かべた美佐はずっと思っていた事を口にしようとした。だが意外にも康男の口から出た言葉によって美佐はその言葉を口にはせずに飲み込んだ。


「青山さんは木戸君を好きなわけでしょ?だったら行動をとらないとダメだよ」


思いも寄らぬその言葉に動揺を隠せない恵だったが、全く反応を見せない生徒2人の反応からそれが筒抜けになっている事を理解した。咳払いを1つして康男を睨むようにしてみせる恵に、康男は肩をすくめてみせただけだった。


「もう!ここで言う必要ないでしょう?」

「いいよ、知ってるから」


由衣は紅茶のカップを置くときわめて冷静にそう答えた。美佐も小さいながらうなずいている。もはやそこには教師と生徒という関係はない。由衣を恋敵と認識している恵はここで由衣の気持ちを探ろうと言葉の攻撃を開始した。


「そういう吾妻さんこそ、どうなの?木戸クンとはここ最近やたら仲が良かったみたいだけど?」


その言葉に、一瞬美佐を見た由衣はこの機会にと美佐に周人への想いをうち明けることにした。


「ゴメンね、美佐。冷静に聞いてね?私、ずっと好きなのは新城先生だと思ってた・・・でもそれは憧れだったっていうのはこの前話したよね?」


美佐は何も言わずにうなずいた。恵は何を言い出すのかと不審な顔で由衣の言葉を聞き、康男はもはや空気と化しているかのように存在感を押し殺してそのやりとりを聞いていた。


「でも気付いたの、私、木戸先生が好きなんだって・・・・ゴメンね、美佐の気持ち知ってるのに・・・ゴメンね?」


はっきりそう告白をした由衣は何度も謝った。その言葉に恵は顔を険しくし、美佐はジッと由衣を見つめていた。修羅場が訪れるかとやりとりをジッと見ていた康男だったが、美佐が穏やかな雰囲気を崩していないことが妙に気になった。そして美佐はその雰囲気を崩さないまま、由衣に笑顔を見せた。


「なんとなく、わかってた。だって由衣ちゃんが先生見る目って、私と一緒なんだもん。逆にいつそれを言ってくれるのかなぁってずっと気にしてたんだ」


笑顔でそう答えた美佐に、由衣は今にも泣きそうな表情を浮かべた。やはり美佐には自分の心が筒抜けだったのだ。そんな由衣に笑顔を見せた美佐は、もういいからと言うと由衣の手にそっと自分の手を重ねた。


「ありがと、美佐」

「うん。で、結局ここにいる3人とも先生が好きなわけなんだ。なんか、燃えてきた!」


普段の大人しい美佐からすれば奇跡に近いその前向きな言葉に誰よりも驚いたのは康男であった。恋が女性を強くするのは知っていたが、その典型的例をこうもまざまざと見せられてはもう苦笑するしかなかった。そんな2人のやりとりを聞きながら胸中穏やかでない恵だったが、唯一リードしている『恵里』の事があり、まだ少しばかり優越感があるせいか気持ちに余裕を見せていた。だが、それは由衣の一言によってそれはもろくも崩れ去る結果となった。


「大山先生・・・・・木戸先生の昔の恋人の事、知ってる?」


その言葉にドキッとしたのは康男だけではなかったが、冷静な顔を崩さずにうなずいた。そしてもう1人ドキッとした人間たる恵は明らかに驚いた顔をして由衣を見ており、何も事情を知らない美佐だけが何の事かわからないといった風に首を傾げている状態となった。


「それは恵里ちゃんの事だな?」


その時の周人と由衣の会話を隠れて聞いていた康男だったが、そこはあえて伏せてそう確認をする。隠れて聞いていた事に対する後ろめたさも多少あるが、恵や美佐がそれを知らないと思ったことがそうさせたのだ。


「・・・そう。前に聞いたの、死んだその人の事を・・・」

「そうか・・・」


そう言った康男はしばらく俯きながらジッと何かを考えていた。だが康男に注目している3人の視線に顔を上げ、決意をもって3人に切り出した。


「正直、この話はしたくない。木戸君の許可もないことだしな・・・だがこのままでは収まらんだろうし、なにより、彼を好いている君たちは知っておく方がいいのかもしれんなぁ・・・」


組んだ指をせわしなく動かしていた康男は独り言のようにそうつぶやくと3人の顔を順番に見やった。皆決意に満ちたいい顔をしている。そして最後の確認を取った。


「3人とも、真剣に木戸君が好きだな?」


3人は力強くうなずいた。その気持ちは誰にも負けたくないとばかりにうなずいた3人を見た康男は覚悟を決めた。


「いいだろう。話をしよう・・・これが木戸君の為になるかもしれないし・・・・まぁ、ここじゃなんだから、ウチにおいで」


康男はそう言って立ち上がると、女性3人はまずコップの片づけを始めた。その様子を腕組みして見ながら、この3人の内の誰かが周人の心の奥にある巨大な氷を溶かしてくれる事を祈るのだった。


今日は夕方だけの授業だった周人は塾を出て自宅マンションの方へと歩き出した。やはり夏が終わったせいか午後5時を回ると既に暗くなり、肌寒さが秋を感じさせる。近くにある商店街もこの時間ともなれば主婦で賑わい、パチンコ店のネオンなどが明るく、そしてせわしなく明滅している。いつも立ち寄るコンビニも素通りし、さっさとマンション入り口のある横道に入った周人は背後から近づいてくる気配に片眉を上げた。やがてその気配は近づいてきて、周人のすぐ真後ろまでやってきた。殺気こそ感じないが嫌な予感を覚えた瞬間、咄嗟に振り向いた周人は身をよじろうとしたが、相手の顔を見て思わず動きを止めた。その周人目がけてその人物は文字通り飛ぶようにして両手を広げて抱きついてきたのだった。


「しゅぅ~とぉ~!」


間延びした声はどこか子供っぽく、だが出るところは出ているその容姿は20歳前後の色香を発している。茶色の髪も長く、まるでエイリアンのようなピンクのネイルをして耳には大きなリング状のピアスをしていた。その女性は周人の首に腕を絡ませると、泣くような仕草を取った。


「ミカ・・・・お前、何で?」


目をぱちくりさせるしかない周人は抱きついているミカの背中を叩くと落ち着けとばかりにそっと自分から引き剥がした。コロンの香りか、甘い匂いが鼻をくすぐる。


「ふえ~ん・・・・・しゅぅ~ちゃぁん・・・・」


泣きそうな顔はしているが実際は泣いていない須藤ミカは周人の腕に抱きつくと再びおいおいと泣くような仕草を取った。このままでは埒があかないと判断した周人は近所の人たちの視線もあってそのままの状態でマンションまで引っ張っていくと、いっこうに離れないミカを従えたまま部屋へと戻った。そこでようやく周人から離れたミカは、テーブルの前に座るとすがるような目で周人を見上げた。着ていた上着を脱ぎ、荷物の入った小さなバッグを置いた周人は飲み物を出そうとしたが、ミカはそれを拒否して自分の前に座るよう要求した。昔からミカを知っている周人はいつまでたっても変わらない子供のような彼女に苦笑し、言われるままに座った。色っぽくはなっているが、中身はまるで子供であるミカは守ってあげたくなるほどの可愛さと幼さ、そして成熟した女性の色香を持ち合わせていた。仕草や口調とはアンバランスなその身体は男たちの視線を独占できるほどナイスバディであった。恵や由衣ですらかなわないであろうその体をすりよせるミカを押さえた周人は、とりあえずここに来た訳を聞くことにした。なぜなら彼女はここから2つ隣の県、つまりは周人の実家の近所に住んでいるからなのだ。電車を乗り継いでもここまではゆうに3時間はかかるだろう。そうまでしてやって来た上にこの状態である。


「どうしたんだよ、連絡もなしでさ・・・」

「・・・・・・・浮気したの」

「はぁ?」


意味がわからない周人は疲れた風にもう一度聞き直す。ミカの頭の中はほとんど子供と同じだという事を理解していても、2年ぶりに会うともなればその独特の特徴は忘れてしまっている。


「テツが浮気したってか?」


その言葉に大きくうなずいたミカは悲しそうな顔をして顔を下げ、フローリングの床の上に敷かれた絨毯をむしろうという風にいじっている。大きなため息をついた周人はこれはかなりやっかいだと自分に言い聞かせるのが精一杯でそのミカの行動には気付いていない。


「でもさ、それって今に始まったことじゃないでしょ?」

「1ヶ月で3回・・・しかも全員とやっちゃったんだよぉ?」

「マジで?あのバカったれが・・・・」


テツと呼んだ人物も幼稚園の頃から知っている周人にとって、親友であるが故にその素行も全て承知している。浮気性というよりはもはやそれは彼のステータスなのだ。1人の女性にはとらわれない自由な恋愛を心がけている彼にとってそれはごく普通の何でもない事であり、男の本能のおもむくままに行動しているのだ。周人が故郷を出る数ヶ月前に長年の想いを遂げた2人が付き合いだした時からこれを危惧していた。まさに今、その危惧が現実となってしまったのだ。


「でもさ、それって・・・・あいつの病気みたいなもんだし。それを承知で付き合ったわけでしょ?」

「でもぉ~・・・・・てっちゃん、ヒドイんだもん!」


まるで答えになっていないその言葉に力が抜けてしまった周人はめまいがするのを覚えた。


「で、お前はそれを報告しにわざわざここに来たわけ?」


周人はガックリ脱力した態勢でそう問いかけた。おそらく今までもこういったもめ事はあっただろうに、何故今回は自分の元へ来たのかが不明である。


「決めたの、私も浮気するって」

「へ?」


またまた意味不明な言葉を発するミカに対し、もうどうしていいやらわからない周人はうなだれるしかなかった。そんな周人に飛びかかるようにして押し倒すと、そのまま馬乗りになった。


「何?・・・・・・まさか・・・」

「そう、しゅうちゃんと浮気する!」


言うなり抱きつくミカをどう処理していいかわからない周人の判断が一瞬鈍った隙をつき、なんとミカは強引ながら唇を重ねてきた。執拗にキスをしてくるミカを混乱する頭でなんとかはねのけ、一旦部屋の隅へと待避した周人は思わず唇を拭った。身を起こしたミカはそれを目にして怒ったように頬を膨らませる。


「何で逃げるのよ!」

「ったりまえだろ?アホか、お前は?」

「いいじゃん!キスも長いことしてなさそうだし、私みたいな美人となら役得でしょぉ!」


自画自賛もいいところだが、そう言いながらすでに上着を脱ぎ始めている。大きな胸を覆う窮屈そうな白いブラジャーがまぶしい。もはや壁まで逃げた周人は混乱しきってしまい、四つん這いで迫るミカに再び抱きつかれてしまった。


「私とじゃ・・・イヤ?」

「あのなぁ、いいとか、悪いとかじゃないでしょう?」


引きつった顔をしながらもミカを見ないようにする周人に無理矢理覆い被さると、再び濃厚なキスをしてきた。


「いいじゃん、もう、ね?」


その言葉に、言われるままもういいといった考えが頭をかすめた。こういった経験が乏しい周人はもはやどうしていいかわからないのだ。キスをされながら感情に流されていく周人は、こんなにキスをしたのはいつ以来だろうとぼんやりと考えていた。だが、その考えが周人を正気に引き戻した。自分がキスをした相手は生まれてからこの方ただ1人だけ、今は亡き最愛の人だけなのだ。その存在が周人を現実へと引き戻してくれた。力任せにミカを引き剥がすと、そのまま睨むようにしてみせる。


「これでテツに仕返しにはならないだろう?お前が真っ白なままで反論しないと、意味ないだろ?」

「・・・・しゅうちゃん」

「しっかりしろよ!」


さすがに怒鳴られて冷静さを取り戻したのか、ミカは上半身下着のまま、座り込んでワンワン泣きだした。彼氏に対する不信感や寂しさも一気に溢れて来たせいか、止めどなく流れる涙すら拭わずに泣くミカにそっとハンカチを渡す。そしてしばらく泣き続けたミカが落ち着いた頃に熱い紅茶を差し出した。完全に落ち着きを取り戻したとは言い難いが、しゃくり上げながらも出された紅茶をすするミカはゆっくりした動作ながらもぞもぞと上着を着ると周人に謝った。


「ゴメンね、しゅうちゃん。でも変な、知らない人と浮気するならしゅうちゃんかなぁって思って、ゴメンね・・・」

「まぁいいけどさ・・・はやまった真似するよりはましだけど・・・だからってオレでもダメだろ?」


周人は疲れた風にそう言うと深くため息をついた。


「・・・恵里ちゃんの事、まだ好きなんだ?」

「何だよ、唐突に・・・」


いきなり『恵里』の話を振られた周人は困った顔をして見せた。それを見たミカはすまなさそうに紅茶をすする。


「みんなこうやって浮気するのかなぁって思った時に、しゅうちゃんの事、思い出したの」


ミカは上目がちにそう言うと何かを思い出すように薄く儚い笑みを浮かべた。


「だって・・・すごく仲良かったし、恵里ちゃん亡くなってからもしゅうちゃんはずっと恵里ちゃんが好きで・・・・・自分を捨ててまで復讐までして仇とって・・・・」


こういう時こそ幼い口調になってくれればいいのにと思いながらも、はっきりそう言うミカに周人は苦笑した。『恵里』との事に関して全ての事情を知るミカにだけは、その本心が素直に言える。幼なじみであるが故に、同じ思いを持った仲間だからこそ、周人はその想いを口にした。


「今でも恵里を好きなんだって気持ちはあるよ・・・でもそれじゃダメだって気持ちもある。でもオレの時間は『あの時』で止まってしまってるからな・・・」

「そうだね・・・そうだよね」


2人はうつむき『恵里』を偲ぶかのように思い出していた。いっぺんに暗くなった雰囲気に周人が顔を上げてみせた。そして大きく背伸びをするとわざと明るく声を出した。


「腹減ったろ?何か作るから、待ってて」

「ありがとう。で、今日は泊めてね?」

「あー、この時間じゃなぁ・・・まぁいいけどさ、その前にテツに電話するわ。ミカのお母さんも心配してるだろうに」

「言ってからここに来たよ、母さんにはしゅうちゃん家に泊まるって。んじゃぁ気を付けて行ってらっしゃいって言ってたよぉ」

「はぁ?」


もはや言葉を失うのはこれで何回目だろうか、力無く崩れ落ちる周人はもはや笑うしかなかった。


「そりゃ用意周到なこって・・・・・」


なんとか力を振り絞り、夕飯の用意をすべく立ち上がる。そして焼きそばでもと準備を始めている周人をよそに、ミカは退屈になってしまいあちこちを物色し始めたあげくにパソコンデスクの引き出しを開け始めた。勝手に引き出しを開けている事に気付いていない周人はキャベツを切り、炊飯器のスイッチを入れ、手慣れた手つきでてきぱきとこなしていった。


同じ頃、康男の妻である好恵の料理を手伝う3人は康男の家で夕食をよばれることになった。話はそれが終わってからということになり、塾にはたまたま顔を出した米澤を残してきたのだ。ハンバーグを余分に用意しながら料理の話にあれこれ花を咲かせる女性陣を見ながら、娘も欲しいと思う康男だった。


急に大きな悲鳴のような声を上げたミカに驚いた周人は切っていた豚肉もそのままにキッチンを飛び出した。パソコンデスクの方を向いたままジッと動かないミカに怪訝な顔をして近づいた周人はミカが手にしている1枚のプリクラを見て血相を変えた。サッと素早い動作でそれを取り上げるとミカを睨むようにする。だがそれは何の効果も現さず、ミカはやや目を伏せがちに周人を見つめていた。


「へぇ~・・・・しゅうちゃんもやるじゃん!」


その言葉に引きつった笑いを浮かべるしかない周人だったが、勝手に人の引き出しを開けたミカを注意した。だがミカは全くそれを無視してプリクラの事を執拗に追求し始めた。こうなってはどんなにはぐらかそうが無駄な事は周人自身が一番よく知っている。ミカのしつこさは常識を超えているからだ。仕方なく真実を話した周人に、ミカは意外にも笑顔を見せた。


「しゅうちゃん・・・これっていいことだよ」

「まぁ駄目な事はないんだろうけど・・・」


しどろもどろになる周人に笑顔を見せたミカは納得したのか、もはやプリクラには興味を失ってテレビをつけて見始めた。全くマイペースを崩さないこの姿勢は治っていないと苦笑する周人は焼きそばの続きに取りかかるのだった。そしてソースの焼けるいい匂いが部屋に立ちこめて来た頃、我慢が出来なくなってきたのか、ミカはキッチンにまでやって来た。出来た物をお皿に乗せた周人はそれをミカに渡していく。受け取ったミカはテーブルにそれを並べ、周人がご飯を運んでお箸が並べられた。最後にお茶とみそ汁が準備され、全ての用意がここにととのったのだった。


「ねぇねぇ、なんでぇ、お箸とか1セット余分にあるのぉ?本当は彼女とかいるんじゃない?」


怪しげな視線を向けながらそうたずねるミカにため息をつく周人。


「一応客用に用意してあるだけだよ・・・食器も何もかも全部百円だしさ」

「あー、そうなんだ・・・じゃ、いただきま~す!」


以前ならこのペースについて行けていた周人だったが、2年のブランクはやはり大きい。もはや笑うしかない周人は疲れた様子で焼きそばを口に運ぶのだった。


女性がこんなに多い食卓はありえない大山家では大人数による夕食が始まっていた。3歳になる息子には恵が付き、下の子である1歳の息子には母親の好恵が付いてご飯を食べていた。時折由衣や美佐もあやすようにしながら終始和やかな雰囲気で食事は進んでいったが、やはり3人が気になるのは周人の過去である。その話が夕食後から始まったとしても塾での授業が全て終わって送りのバスが出るまでの2時間は話ができる。3人ははやる気持ちを押さえながら夕食を取っていたが、やはり小さな子供がいるとそんなことを考えている余裕はなくなってくる。せわしない夕食は終わり、4人の女性が後片づけをしたせいか早々と洗い物は終わった。好恵は子供部屋に息子たちを運ぶと4人のためにお茶を用意した。だが康男は下の子をお風呂に入れるために抜けてしまい、残された3人は居間でテーブルを囲みながら康男が戻って来るのを待つことになった。


「青山先生って、いつから木戸先生の事が好きだったんです?」


由衣の唐突な質問に驚きながらも、ここは女性の駆け引き、恵は先制攻撃を行うことにした。


「塾に入る前よ。電車の中でね。向こうは覚えてなかったけど・・・すごく優しかったわ」


肘をついてそう答える恵はそのことを思い出しているように見えた。


「小川さんは?」


すかさず美佐に振った恵は照れくさそうに下を向く美佐を見ながら黙って返事を待った。


「先生が来た時はそうでもなかったんだけどぉ・・・私、目立たない性格なのに、先生よく見てくれてて、授業終わった後から『あそこの意味わからないみたいだったけど、わかりにくかった?』とか言われて・・・」


その美佐の言葉に恵は驚きを隠せなかった。自分も注意深く生徒を見ているつもりだったが、そこまで的確に見ているかと言われれば自信はない。


「でもさ、それって美佐を特別視してるってことなのかなぁ?」


教師として落ち度があったかと少々落ち込んだところに由衣のその言葉が突き刺さる。もしそうならば教師としては周人と五分、だが恋愛に関しては美佐が1歩リードという事になってしまう。だが美佐はその言葉に首を横に振った。ホッとしたのは由衣も一緒だったが、まだ油断はできない。


「他の子、みーちゃんとか、えみりちゃんとかも同じこと言ってたよ・・・先生、私たちのことすごくよく見てくれてるの」


やはり生徒の様子を詳しく見ている周人を凄いと思いつつ、自分はそれが出来ていないと思う恵。方やそんな周人の気遣いすら見えていなかった自分に落ち込む由衣。


「そういうのを感じて、いいなぁって思ったの。優しいし、かっこいいしね」


モデル級の容姿を持つ新城がいるにもかかわらず周人をかっこいいと言った美佐は恥ずかしそうに俯いた。そんな美佐を同じ女性ながら可愛いと思いつつ、負けられないとも思う由衣はまだ好きになって時間が浅い分、自分は塾での周人をよく知らなかったと実感した。だが、ここ最近のプライベートな周人を知っている由衣はそれを補って余りあるとも思っていた。


「まぁね。強いし、優しいし、かっこいいよね」


噛みしめるようにそう言う由衣に2人もうなずいた。だが、かっこいいという言葉に関して2人が鋭い目つきを向けたのは言うまでもない。ついこの間までは見向きもしなかった由衣のその言葉だけはどうしても引っかかってしまうのだ。


「でも・・・怖いぐらいに、強い」


そうつぶやくように言う恵はあの廃工場での出来事を思い出していた。圧倒的人数差であるにも関わらず、たった1人で全てを半殺しの目に遭わせた周人の強さは計り知れない。由衣にとってもそれは同じで、ナイフで切り付けられても全くひるまずに、その怪我をした腕すら使って相手を倒した周人の強さに驚いたものだった。唯1人、それを知らない美佐は周人がどこまで強いのか想像も出来ずにいた。


「でも、問題は『恵里』って人よね・・・」


由衣のその言葉に、さっきから思っていた疑問をぶつけることにしたのは恵だった。妹の亜佐美が調べて判明したその名を、どうして由衣が知っているのかが知りたかったのだ。


「吾妻さん、それ、誰に聞いたの?」

「本人だよ。夏休み最後の日に自転車で塾に行った時に。私とその人を間違えたのか知らないんだけどね、その名前が出たの。で、聞いたら『死んだ昔の恋人』だって言ってた」


その言葉に、恵はただ言葉を失うしかなかった。由衣にはそれを自分から話したという事もあるが、やはり周人の心が読みとれない原因はそこにあると感じたのだ。黙り込む3人が沈黙に耐えきれなくなって来た頃、ようやく康男が部屋に入ってきた。


「なんだぁ?おいおい・・・えらく暗いなぁ・・・・」


その場の雰囲気を感じ取って笑いながらそう言うが、3人は顔を上げるだけで何も言葉を発しなかった。ただならぬ空気を感じたが、とりあえず座布団の上に座った康男は3人の顔をぐるっと一通り見回した。3人ともジッと黙ったまま康男に集中している。


「この話は君たちにとって吉と出るか凶と出るかはわからない・・・だが、これを知らない限り木戸君を彼氏にできないし、彼の心を解放することもできないと思っている」


指を組むと目を伏せがちにそう前置きをした。由衣は康男の言った『解放』という言葉をどこかで聞いた気がしたが、今はそんなことはどうでもいいと忘れることにした。3人はその言葉に強くうなずくと、真剣な目で康男を見た。


「君たちがこの話を聞いてどう行動を取るか、何を思うかはわからない。だが、この話は彼の中では爆弾みたいな物になっているから、真剣によく聞いて欲しい」

再びうなずいた3人は康男に迫るような勢いで身を乗り出すと、食い入るように耳を傾けるのだった。


食べ終わった食器もそのままにテレビを見ているミカを置いて、周人は電話の子機を持ってそっと玄関を出た。ケラケラ笑う声を聞きながら音を立てないようにそっとドアを開け、肌寒い外に出た周人はまずミカの家へと電話をかけた。小さいときから変わっていないせいか、電話番号は頭の中に入っている。何回かのコールの後、女性の声が電話に出た。


「あ、おばさん?オレです、木戸です、木戸周人です」

『あら、周人君?久しぶりねぇ、元気にしてるの?』


家も近所でミカとは幼なじみなため、当然ミカの両親、そして弟とも面識はある。その声にどこか懐かしいものを感じながらも、周人はまず用件を伝えた。


「ミカ、無事にこっちに来てます。今は晩飯食べてテレビを見てますから、心配ないです。明日には帰らせますんで」

『そう、ありがとうね・・・つい昨日、哲生くんと何かあったらしくって・・・・突然そっちに行っちゃうもんだから・・・』


そう言うミカの母親はホッとしたような声色だった。


「まぁなんとかなだめておきます」

『ゴメンねぇ、迷惑かけて・・・・で、そっちはどう?ちゃんと生活できてる?』


まるで自分の母親のようなその言葉に周人は薄い笑みを浮かべたが、しっかりやっている事を伝えた。そして気になっている事を口にしようとしたが、結局それを口にしなかった。


「まぁとにかく、今日はこっちに泊まらせますんで」

『相手が周人君なら心配してないから、よろしくね。避妊はちゃんとするのよ?』


最後の言葉に思いっきりこけた周人は乾いた笑いを返すのが精一杯だった。1人暮らしの男の家に娘が行っているのだ、実際は心配かもしれない。だが周人という人物をよく知っているミカの母親は心底周人を信頼していた。そして、周人が『恵里』をどれだけ好きでいたかも知っている。その彼女を亡くしてどれだけつらい想いをしたかを知っているのだ。だからこそ、そういう事も冗談で言えるのだ。


「じゃぁおばさん、明日送った後にまた電話するから」


そう簡単に用件だけを伝えて電話を終わろうとした周人だったが、その気持ちを察したミカの母親は周人が一番聞きたい事を口に出した。


『ご両親も、元気にしてる。もちろん仲間たちもね。何かと大変かもしれないけど、たまにはこっちに帰ってらっしゃい・・・』


まるで自分の母親のようなその優しい言葉に感謝してもしきれない周人は少し悲しい笑みを浮かべてうなずいた。胸の奥から何かがこみ上げてきそうになるのを抑えるのが必死な周人はミカの母親の心遣いにうっすらと涙を浮かべた。


「うん、まぁ、たまにはね・・・」

『恵里ちゃんのお墓にはちゃんと行ってる人だから・・・・そのままついでに帰ればいいのよ、近いんだから。口ではああ言ってるけど、2人とも実際は寂しいんだからね?』


どうやらこの夏、由衣を助けるために怪我をした時期に墓参りをしに戻った事を知っているその言葉に、一瞬言葉を失ってしまった。


「わかってはいるんだけど・・・」

『親は子供が心配なものよ?たとえどんなに憎まれ口を叩いても、勘当同然にしてもね』


両親、そしてかけがいのない仲間たちの顔が次々浮かび、最後に『恵里』の顔が浮かんだ。


「春に、一度帰るよ」

『おばさんは周人君の味方だから・・・・それまでにうまく話してみるから』

「・・・・ありがとう」


そのお礼の言葉に込められた感謝の気持ちは、十分ミカの母親に伝わった。


『じゃぁ、ウチのやんちゃ娘をよろしくお願いします』


ミカの母親はその言葉を最後に電話を切った。切れた電話を見ながら心の中で何度も礼を言う周人は淡い微笑を浮かべるのだった。


「けじめをつける時期に来たってことか?」


誰に問うでもなくそうつぶやく周人の頭に恵、美佐、そして由衣の顔が浮かんだ。


「それでもオレには・・・恵里の代わりにしかならないんだぜ?」


かぶりを振る周人の表情はさっきまでとはうって変わって苦しげなものへと変わっていた。だが、目を閉じてしばらく瞑想するようにすると、表情を元に戻してミカに気づかれないように家の中へと入っていくのだった。


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