心の裏側(6)
毛布にくるまれて震える妹を何度も振り返りながら、恵は自分を落ち着かせようと必死だった。運転席の周人は無言で車を走らせている。周人の車はリアガラスと後部の窓には黒いスモークが貼られているため、外から中の様子をうかがい知るには難しい状態にある。しかも毛布でくるんでいるため、一見したところ病人のようにしか見えないので町中を走行してもそう困ることはなかった。恵はまだ震える体を押さえるように身を強ばらせていたが、これからどうなるのかが気になって思い切って周人に言葉をかけた。
「木戸クン、これから行くのは病院なの?」
ずっと前を向いたままだった周人がここでようやくチラリと恵を見て、そしてルームミラー越しに横たわる亜佐美を見やった。
「滝先生は外科、内科にも優れた医者だ。産婦人科にも精通しているオールマイティな医師なんだけど、昔、大学病院を追われて今は小さな診療所をやっている。先生は闇医者でもあって、非合法な事までやっている人だけど、こういった事件の怪我なんかを看てくれるんだ。オレも昔バカやってた時に2度ほど世話になった・・・・けど、あちこちを渡り歩く人で、昔はオレの実家があるN県にいたこともあるんだ。もっぱら東京を中心に動き回ってるらしいよ」
周人がそう言うのだから腕はいいのだろうが、その人物を信じていいかはわからない。だが、今は周人に頼るしかない恵はうなずいただけでそれ以上は何も口にしなかった。
「信じろ、オレをね」
笑みを浮かべてそう言う周人はいつもとかわらぬ雰囲気を持っていた。塾で見ている、そしてデートの時にも見せた何とも言えない不思議で優しい空気を感じた恵は、安心したせいかポロポロと涙を流し、激しく嗚咽を漏らした。それを聞いていた亜佐美の方からも嗚咽が漏れている。
「ごめんね・・・おねぇちゃん・・・」
絞り出すように弱々しくそうつぶやいた亜佐美の言葉はしっかりと恵の耳に届いていた。むせび泣く姉妹を乗せた車は住宅街を離れた古い商店街へと入っていく。裏通りのせいか人は少なく、周人はややスピードを落として車を進めると古ぼけた看板のある汚れた白い壁の建物の前に車を止めた。『滝医院』と書かれた看板を見た恵は目的地に着いたことを知り、先に出た周人に続いて外に出ていくのだった。
正面玄関を素通りし、裏の路地の方へ回った周人はインターホン越しに何かを話し始めた。車の前で待つよう言われた恵は人が来ないかドキドキしながら周人が戻ってくるのをひたすら待った。後部座席の亜佐美は毛布を巻いたまま身を起こして座っている。少しして戻ってきた周人は病院側である運転席のドアを開け、シートを倒すと、亜佐美をお姫様だっこして裏口の方に進んだ。恵は車のドアを閉めると鍵をかけないでいいのか心配になったが、裏口を行く周人が車に背を向けたまま『ロック』と言うとゴスンという低い音が鳴り、しっかりとドアがロックされていた。感心したように何度も車を振り返りつつ裏口に行くと、勝手口が開いて中から30歳前後とおぼしき無精ひげの男が姿を現した。周人は亜佐美を抱えたまま軽くその男に向かって頭を下げた。
「お久しぶりです、先生」
この人物が滝なのだと知った恵もあわてて頭を下げた。3人を一通り見渡した滝は意味ありげな笑みを見せた後、中へはいるよう促した。一番最後に中へ入った恵は勝手口のドアを閉めてすでに上がっている周人に続いてやや小汚い台所を通って診察台のある診察室へと向かう。亜佐美を診察台に横たえた周人は白衣を着ている滝のそばに歩み寄った。
「レイプか?」
低い声でそう言う滝に周人はうなずいた。
「お前の頼みなら事情がどうあれなんとかするさ・・・・それに2人とも美人だしな」
意外な軽口を叩きながら周人と恵に外の待合室で待つよう告げた滝に従い、2人は無人の薄暗い待合室に並んで座った。
「滝先生ならうまくやってくれるよ、腕は保証するからさ」
周人は恵に笑みを浮かべながらそう言った。口の周りにはまだ血の痕が残っている。
「ありがとう、木戸クン・・・・」
「赤い髪の芳樹ってヤツから連絡もらってな。亜佐美さんとはこの間偶然会ってたところを芳樹のチームの人間が見ていたんだ。それで今回の事を知った芳樹がオレに連絡をくれたんだよ」
いきさつを簡単に説明した周人は椅子にもたれかかるようにして染みだらけの天井を見上げた。そんな周人に、いくら感謝してもしきれない恵はまたも大粒の涙を流した。
「私、もうダメかと思った・・・・・」
妹の事、そして自分の事に怯えていた恵の心情を察した周人はそっと恵を引き寄せ、頭を抱くようにしてあげた。小さな嗚咽を漏らすようにして泣いていた恵は声を上げてただ泣きじゃくり、周人に身を預けてしばらくの間そのまま泣き続けたのだった。
その後、小1時間ほどして滝に呼ばれた周人は泣きやんで落ち着きを取り戻した恵の肩を抱くようにして診察室に向かった。診察台の上で毛布にくるまれた亜佐美は湯気を上げるココアをすすっていた。頬には痛々しく絆創膏が貼られている。腕にも包帯が巻かれており、おそらく足や体も同様になっているのだろう事が推測できた。だが、毛布の下にはTシャツを着ており、どこから持ってきたのか下着もつけているようであった。とりあえず診察机の脇にある椅子に座るよう言うと、滝は亜佐美の状態を説明し始めた。
「体の腫れは打撲、あと、擦り傷が多数。で、肝心の妊娠だが、一応処理は施した。が、こればっかりは神のみぞ知るといったところだな・・・・とりあえず傷自体は1週間ほどで痣も消えるだろう」
「先生、ありがとうございます」
深々と頭を下げる恵のその言葉に笑みを浮かべた滝は診察台に座る亜佐美を見やった。
「ま、1ヶ月後にまたおいで。一応は妊娠の検査をしなくちゃならんし・・・傷の状態も看るから」
亜佐美は素直に頷くと、消え入りそうな声で礼を言った。滝は微笑を浮かべてそれに応えると、今度は周人を睨むように見やった。
「次はお前さんだ・・・お姉さんはこいつの彼女ならここにいてもいいが、そうでないならすまないがもう1度待合室へ・・・」
「いいよ、このままで。亜佐美さんのそばにいてあげて」
滝の言葉を遮ってそう言うと、周人は血が付いているTシャツを脱いだ。恵はやや赤面しながらも亜佐美の横に座り、その肩を抱くようにした。亜佐美はつらそうな顔をしながらも姉に寄り添うようにしている。
「骨に異常はなし、か。何人とやりあったか知らんが相変わらずタフだな」
体を触診してそう言いながら腕の擦り傷のような箇所に消毒液を塗っていく。その時、右腕の縫い傷に気付いた滝が一瞬怪訝な顔をしてみせた。
「これ、ここ2、3ヶ月の間の怪我だな・・・・」
その言葉に恵と亜佐美も覗き込むようにしてそこを見た。腫れ上がったような赤い線がくっきりと肘と手の甲との間の部分に走っている。
「えぇ、ま、事情があって、ナイフでね・・・・」
由衣とのトラブルで傷を負ったと言っていたそれがナイフによるものだとは思わなかった恵は驚いた顔をしながらも黙って治療の様子を見ていた。その傷の近くの擦り傷に消毒液を塗り、滝はそれ以上何も聞かなかった。こういった患者に深入りしない事から、闇医者という言葉の意味を悟った恵は素早い手つきで傷の手当てをこなす滝の手さばきを見ていた。
「相手は何人だったんだい?」
「・・・30人ぐらい、かな?」
「気の毒に・・・・」
「殺してはないし、しばらく入院すれば治りますよ」
「でも、何かしら生活に支障が出てくるヤツがいるんだろうけどな・・・」
まるで以前にも同じ事があったかのような2人のやりとりを聞きながら、恵は倒れていた男たちの事を思い出していた。皆関節はあり得ない方向に曲がっていたり、顔が変形していた者もいた。あれだけの人数を相手に、まさにかすり傷程度で済んでいる周人の強さをあらためて思い知らされた恵は身震いをした。
「とりあえずお前のは怪我のうちに入らないから、もう来なくていいよ」
素っ気なくそう言い放つ滝に苦笑を漏らした周人はそのまま立ち上がって台所の方に消えた滝に深く一礼をした。そして亜佐美に近づくと、笑みを浮かべてポンと頭の上に手を置いた。
「あれほど忠告してやったのに・・・・ま、あの先生がああ言うんだからもう大丈夫だろう。これに懲りたら少しは自重しろよ?」
そう言って置いていた手を握ってコツンと亜佐美の額を突いた周人は今度は恵に目をやった。
「ま、いろいろ辛かっただろうけど、もう大丈夫だ。後の処理は芳樹たちがうまくやってくれる、心配するな」
周人のその言葉に深く感謝した恵は大きくうなずいた。目に涙を溜めたまま少し笑顔を見せた恵に、周人は優しく肩を叩いてあげるのだった。
「ありがとう」
亜佐美ははっきりとそうお礼を言い、恵も深く頭を下げた。
「そういうところは相変わらずだな、お前は」
そう言いながらコーヒーを2つ運んできた滝は恵と周人にそれぞれ手渡すと、自分はポケットに入れてきた缶ビールを空けた。白衣を着た医者が昼間からビールを飲む姿にかなりの違和感を覚えるのはこの際仕方がないだろう。
「先生、ありがとうございました。それで、今日はおいくらですか?持ち合わせがないので後日持ってきたいのですが」
診察台を下りてそう礼を述べた恵を見ながら何かを思案するようにしていた滝は缶ビールをデスクの上に置くと予想もしなかった言葉を発した。
「1人1日オレとデート、しかもおしゃれなホテルで夜明けのコーヒー付き。あ、この意味わかるよね?」
にこにこしながらそう言う滝に、目を丸くする美女2人。周人はだめだこりゃとばかりに大きなため息をついて力無くうなだれると、疲れたような顔をして滝を見やった。
「懲りないなぁ、先生。それで大学病院を追われたくせに・・・・」
「馬鹿野郎!あれは看護婦に手を出したからだ・・・今回は患者だ・・・しかも治療費だよ!」
滝はふんぞり返って自慢げにそう言うと、ビールを一気に飲み干した。
「看護婦5人に手を出して妊娠させたエロ医者・・・『京都のブラックジャック』と呼ばれた名医のなれの果てがこれだ・・・」
「お前な、しょーもないことを暴露するなよ!」
滝は困ったようなような顔をし、周人は笑っていた。それを見ていた亜佐美は吹き出し、事件以来初めて笑顔を見せた。
「わかりました。じゃぁ、デートしましょう?ただし朝のコーヒーは無しで」
亜佐美のその言葉に恵も周人も笑みを浮かべた。いつも調子を取り戻した亜佐美の言葉に、滝は苦笑を漏らした。
「仕方がない・・・それで手を打とう。で、おねーさんの方は?コーヒー付き?」
「彼女は付添で治療はしてないでしょ?」
周人に睨まれた滝は頭を掻きながらとぼけた表情をしてみせた。笑いに包まれる診察室の中で、暖かい雰囲気を作ってくれた周人と滝に感謝しつつ、恵は心から笑顔を浮かべるのだった。
来たとき同様裏口から出る周人は服を借りた亜佐美と恵を先に表に出るように言った。そして滝に礼を言い、車の方に向かいはじめた時、背中越しに滝が言葉をかけてきた。
「恵里ちゃんのこと、まだ引きずってるのか?」
滝の言葉に恵は振り返ろうとしたが、事情を知っているのか亜佐美が恵を急かしたために渋々車の方に向かった。怪訝な顔をして妹を見ながらもそれに従うのが恵らしい。
「恵里は、オレの中で消えることはありません・・・・・一生」
「そうか、なら、いいさ」
滝はそうとだけ返事すると、それ以上は何も言わずに車の所まで見送りに来た。
「アンロック」
そう言うと、ロックが外れる音が鳴った。それを見た滝は驚きの表情を浮かべてまじまじと車を見る。
「すんげぇ車だなぁ・・・・治療費これにしとくんだった・・・」
そうつぶやく滝に笑みを見せ、2人が乗り込んだのを見た周人はもう1度深々と滝に頭を下げた。滝は片手を挙げてそれに応えると、にんまり笑いながら青山姉妹に手を振ってすぐに裏口の方へと戻っていった。周人はすぐに車を走らせると、心の中で再度礼を言い、スピードを上げながら恵の家に向かうのだった。
今は午後2時過ぎであり、夕方に帰ると言っていた両親は幸いまだ帰っていなかった。周人に送ってもらった後、恵と亜佐美は居間でテレビを見ながら言葉もなくソファに腰掛けていた。周人は2人を送った後でまだやることが残っているからとすぐに去っていったのだ。満足なお礼も出来なかったが、今度また何かをごちそうしようと亜佐美と話し合いはした。それから沈黙が流れてすでに1時間ほどが経過している。だが、亜佐美はその沈黙に耐えきれなくなったのか、今回の事についてポツリポツリと語り始めた。
「実は、前に木戸周人に忠告うけてたんだ・・・2ヶ月だけ遊びで付き合っていた浅田に1度襲われていて、助けて貰った時に・・・また襲われるぞ、って・・・」
絞り出すようにそう言う亜佐美を見やる恵は痛々しい表情を浮かべた。
「で、今回、友達と遊びに行った帰り、昨日の晩に拉致されて、あそこへ・・・気が付いたら朝になってた。だんだん人数も増えてきて・・・もうどうなってもいいって思っていたら、あの人が現れたの」
忌まわしい出来事を振り返っているせいか震える妹の手を握る恵も少し震えていた。だが、亜佐美はまっすぐに恵を見て、薄く儚い笑みを浮かべた。
「檻の中にいる私の前に来るまでに5人をあっという間に倒したまではぼんやり見ていた。んで、私にしばらくそこにいろって、そこが一番安全だからって。あとはもう無茶苦茶・・・どんどん男たちが倒されていくの。倒れている男にさらに蹴りを入れたりして・・・・そして逃げようとする浅田に蹴りを入れて、叩きのめしたあと私の前に、檻に顔を叩きつけたの・・・鼻が曲がった時、もうそれ以上見ていられなくて・・・・・そしたら浅田が呻くようにして倒れるのを見た」
助けられた時の光景を思い浮かべながらそう語る亜佐美の言葉から、あの時の現場の状況と重なってイメージが浮かんだ。
「強かった、というよりは怖かった・・・木戸周人が怖かった。でも、檻に入ってきて鎖を外してくれた彼は少し怒った顔をしながら『だから言わんこっちゃない』って優しい口調で・・・笑顔を見せて・・・」
いつの間にか亜佐美は泣いていた。恐怖と、そして助かった安堵感が語っているうちに一気に襲ってきたのだ。恵は亜佐美の手をギュッと握りしめ、大丈夫と何度も声をかけた。しばらく泣いていた亜佐美の髪を撫でながら、恵も目に涙を溜めていた。そうして10分ほどが過ぎた時、亜佐美はごめんと言いながら顔を上げ、涙を頬に伝わせながら笑みを見せてくれた。恵も自然と笑みをこぼし、2人はそのまま涙ぐんで笑い合った。そうして落ち着きを取り戻した亜佐美はやや俯き加減でさっきの話の続きを始めた。
「本当はチケット渡したレストランで、おねぇたちを見ていたんだ・・・・・正確には、おねぇの本命を見るために手に入れたチケットを渡したの。で、やってきた木戸周人って人に興味をもったんだ。だってあそこのオーナーってすっごい有名な暴走族の元リーダーでしょ?」
そう言われて頷いた恵はあの時の会話を思い出した。『キング』と呼ばれる最強の男を倒した周人。どうしてもそんなに強くは見えなかった周人だったが、きょうの出来事でそれが本当の事であることはよくわかった。あのオーナーも相当強そうだったが、今日見た周人の強さを見てしまえば、たとえどんなに体が大きくとも、それがイコール強いとは思えなくなってしまっていた。
「で、いろいろ調べたの・・・キングとの事、『魔獣』って呼ばれていたこと、そして・・・・」
そこまで言った亜佐美が急に口ごもった為、恵は小首を傾げてみせた。言いにくいことなのか、亜佐美は俯いたまま黙っている。だが、真剣な眼差しで恵を見つめた亜佐美はある覚悟を恵に問いかけた。
「おねぇ・・・木戸の事、真剣に好き?」
唐突にそう聞かれたが、もはや隠すこともない。恵は力強く頷いた。
「でも難しいと思うよ・・・・」
「どうして?」
また黙る亜佐美にやや苛立ったが、それでも冷静さを保って言葉の続きを待った。
「彼ね、3年前に彼女を亡くしてるの・・・『キング』にレイプされたその彼女は生まれつき心臓が悪くて、そのまま死んだんだって・・・その仇を討つ為に、『キング』に戦いを挑むためにその仲間を倒していったの、彼ら5人で」
衝撃の告白に、恵は言葉を失った。雲のような掴めない周人の気持ち、全く見えない恋愛感情の裏にはそんなつらい過去があったのだ。思いも寄らない亜佐美の言葉にただ絶句するしかない恵は見上げる亜佐美とは反対に俯いてしまった。そんな姉を見ながら、亜佐美は言葉を続けた。
「『魔獣』木戸周人とその仲間は5人でチームを作った。キングのチーム、キング配下の7つのチーム、そしてミレニアム、みんなで戦って、そして木戸周人がキングを倒してようやく警察も動いたんだって・・・・」
『キング』と言われた人物を倒した事は知っている、だが戦ったその理由が亡き恋人の仇討ちだったとは全く想像もできなかった恵はショックを隠しきれないでいた。
「やがてミレニアムを除いて『キング』の息のかかったチームは全て解散、木戸周人のチームの4人はN県に、そして県外の専門学校に来た周人はひっそりと今、この桜町で暮らしてる・・・でもそれが元で親に迷惑をかけたせいもあるんだと、誰かが言ってた」
いつも気楽な感じでいる周人からは想像も出来ない過去を思いがけず妹の口から聞いてしまった恵はさらにショックを受けた。やはり、親元を離れて1人暮らしをしている周人には大きな事情があったのだ。
「そうだったんだ・・・・・」
そうとしか言葉を出せない恵は、俯いたまま大きな衝撃を受けた顔でギュッと膝の上で握りしめた手を見ていた。そんな姉を見た亜佐美はやりきれない思いでいっぱいだったが、周人を好いている姉が何も知らずに失恋することはいけない事だと判断しての告白であり、うまくいってほしいとの願いもそこに込められていた。
「おねぇが彼とうまくいくには、その彼女の事を知っておかないと無理だと思ったの、だから・・・・」
その言葉に恵は顔を上げた。まだ明らかに動揺していたが、目には光が宿っている。
「なんか、好きな人がいるような気がしてたんだけど・・・・まさか亡くなっていただなんて・・・」
「彼の心を開かせるか、その人が消えてしまうくらい積極的にいかないとダメだよ。頑張れ、おねぇ!あの人がお義兄さんになるんなら、私いいかもよ?」
普段と変わらぬ軽口を叩く亜佐美に困ったような笑みを見せた恵は、今日あんな目に遭った妹に励まされていることに苦笑した。いつも前向きな性格もあるのだろうが、強く前を向いている妹共々、自分も前を向いて行こうと心に決めた。お互いに手を握りあった姉妹は今日のことを忘れずに、前向きに生きていくことを誓い、亜佐美は今までとは違う生き方をする事を姉に約束した。しばらくは妹を気遣い、気を配ることにした恵は明日周人に電話してあらためてお礼を言うことに決め、両親には友達のケンカのとばっちりを受けて怪我をしたとごまかす事にした。結局、その説明に不審な顔をする両親を2人で強引に納得させた2人は今までとは違って心で結ばれた姉妹へと生まれ変わったのだった。
芳樹のオープンカーが周人のダブルワンに横付けされる。さらに改造されたバイクが数台、2台の車の周りを取り囲むようにしてライトを点けて爆音を響かせている。河川敷にあるスペースに降り立った周人はバイクの男たちに睨まれるようにしながらそのまま芳樹がいる車の助手席側に向かった。バイクに乗った男たちは事情をよく知らされていないのか、皆殺気だって睨み付けるような目つきで周人を見ている。それを全く気にしない周人はその助手席の横に立つと大きな態度で座っている芳樹を見下ろした。冷たい目をした周人に苦笑を漏らしながら、用意してあった大きめの袋を周人に手渡した。
「回収した全部の写真とビデオ、DVD、あとデジカメが入っています。まだシメ上げてる最中なんでまだまだ出てくるかもしれませんが、一応現状ではこれだけッスね」
ガサガサと紙袋を開き、とりあえずといった風に中を確認する。ビデオテープが大小併せて数本、DVDも数枚あり、デジカメが3台、さらには多くの使い捨てカメラや写真がぎっしりと詰め込まれていた。
「追加があれば中を見ないでオレに渡してくれ、オレが処理する」
「わかりました」
芳樹はそう言うと、さっさと背中を向ける周人を見送った。昼間助手席にいた男は今は運転席におり、昼間と同じ鬼気迫る気を発している周人に唾を飲み込んだ。そして周人が車に乗り込もうとした矢先、一番近くにいた若い長髪の男がガムを噛みながらバカにした口調で周人に言葉を投げた。
「その写真、あんたどうするの?好きだねぇ・・・・」
その言葉に周囲からも笑いが起こる。その刹那、睨み付けるようにして男を振り仰いだ周人の表情は悪鬼のようであり、大股でその若い男に近づいた。周りにいたバイクの男たちも一斉に周人を取り囲む。だが次の瞬間、飛び込むように現れた芳樹が周人をバカにした若い男を物凄い勢いで殴り倒し、男はバイクから転げ落ちるようにして倒れ込んだ。さすがにその光景を見やった他のメンバーは言葉もなくただ驚いた表情で立ちつくすしかなかった。周人は顔だけを芳樹に向けて睨むようにする。殺気は全く衰える気配すら見せない。
「すんません、ちゃんと説明してなかったもんで」
深々と頭を下げた芳樹を見た周人から張りつめた気は消えた。だが、その目つきの鋭さは微塵も和らいでいない。まさか芳樹が頭を下げるとはといった感じで驚くメンバーをよそに、頭を下げたまま芳樹は動かない。
「もしこいつらの誰かが写真の1枚でも懐に入れたと知った時は、詫びを入れてもそいつは殺す!」
普段の周人ではありえないその言葉に、芳樹は背中にいやな汗をかくのを感じた。周人の底なしの強さを、怖さを身をもって体験している芳樹はその時の事を思い出したのだ。特にこういった事柄に関して周人が敏感に反応する理由も知っているだけに、ここでケンカになればおそらくは人数的に見ても勝てる要素は少ないだろう。15人程度の人数がいるとはいえ、全員がケンカが強いという程度にしかすぎず、まともに戦えるのは自分だけなのだ。そして、今の周人を前に勝つ自信もない。
「わかっています、すんませんでした」
再度謝った芳樹を見た周人はそれ以上は何も言わずに車に乗り込んだ。周人を睨み付けるメンバーたちに道を空けるよう怒鳴りつけた芳樹は運転席の横に立って最後の挨拶を交わした。
「やっぱりあなたを怒らせる事はできないですね・・・3年前と変わらない怖さと強さ・・・・いや、それ以上ですね」
その言葉にようやく笑みを浮かべた周人はハンドルを握ったまま前を向いた。
「いや、弱くなったさ・・・・かなりね」
そう言い残して手を挙げた周人は暗闇の中を去っていった。芳樹は橋を渡って見えなくなった周人の車を見送った後、鼻血を流して座り込んだままのさっきの若い男の胸ぐらを掴み上げた。
「ウチのチームを潰す気か、このアホがぁ!」
さらに殴られ、地面を転がる男は鼻と口から血を流しながらうずくまった。自分が何故殴られたのかもわからないままの男に対し、芳樹はまだ足りないとばかりに蹴りを数発腹部に入れた。もはや男は血と嘔吐でドロドロになってしまっていた。周りにいた男たちもただ立ちつくすのみで恐怖から動けなかった。
「あの人の顔をよく覚えとけ!あれが伝説の『魔獣』だ!それから回収させているビデオや写真は中身を見ずに、懐に入れずに必ずオレに全部手渡せ!しなかったやつはブチ殺すからな!」
ドスの利いた大声を張り上げる芳樹に、ただ冷や汗をかいてうなずくしかないメンバーたちは『魔獣』という言葉に驚き、そして芳樹の怒気に震えた。芳樹は威嚇するように周囲を見渡し、ドカッと助手席に座った。そしてアゴで車を出すように指示すると、バイク軍団を引き連れて夜の町を疾走するのだった。
翌日、さくら校でのバイトを終えた周人は送迎を終えて戻ってきた八塚と残っていた米澤と3人で飲みに出かけた。あと今週の金曜日と来週の金曜日に西校での授業を終えれば元通りさくら校に専念となる。久しぶりに塾の近くにある魚料理で有名な居酒屋に入った3人は早速ねぎらいの乾杯をした。塾に就職している八塚は雑用が主だが、周人が戻れば若干とはいえ仕事は楽になる。だがそれも年末までであり、周人がバイトを辞めれば大きな支障が出るのは間違いなかった。米澤もその辺は康男と相談していると話し、話題は周人の就職へと移っていった。すでに康男には9月の始めにカムイに就職することは告げている。だが、八塚や貴史がそれを聞いたのはつい最近の事だった。
「先輩がいない塾なんて考えられないですよ・・・」
あまり酒に強くない八塚は生ビールのジョッキ2杯ですでにフラフラである。苦笑混じりにそれを見やる周人は心を決めた経緯を説明した。
「自分の新しい可能性を見たくなったんですよ。このまま塾で教えていくことも考えたんですけどね・・・楽しい職場だからそれもいいかなって。でも違う世界でもやってみたい」
力強くそう言う周人に米澤は嬉しそうにうなずき、八塚は俯いてしまった。
「ところで先輩、吾妻さんとはどういう関係なんです?」
いきなり話題を変え、酔いからか虚ろな目でそう問う八塚にやや驚きの表情を見せた周人とは対照的に興味津々といった顔をする米澤。かなり困った顔をした周人は一旦ビールを飲んで間をおくと、咳払いをした。
「みんな最近、やったらとそれを聞くけど、彼女とオレは先生と生徒、ただそれだけだよ・・・」
「ほんとにぃ?」
「ほんと、それだけだって」
執拗に食い下がる八塚に困った顔をする周人。さすがに見かねた米澤は八塚の心を突き刺す一言を放った。
「お前、吾妻さんが好きなんだろ?貴史は青山さん・・・・まったくこいつらは・・・面食いなんだよ!」
ややあきれた口調でそう言う米澤に、八塚は酔いではない赤さで顔を真っ赤にしてしまった。さすがにこう露骨に表現してしまう八塚に思わず笑ってしまった周人を睨むように八塚が見やる。
「そうか、そうだったのか・・・でもあの子はいい子だと思うよ?ちょっと手こずるだろうけどな」
周人はそう言うと、ビールを飲んだ。
「でも、先輩を見る彼女の目は・・・・どっちかっていうと・・・好きっぽい」
「うん、たしかにな」
ここで思わぬ相づちを打つ米澤に困った顔をしてみせた周人だが、米澤はそのまま言葉を続けた。
「だが、憧れと好きはちょっと違う。似てるんだけどな・・・」
その言葉に恋愛経験の少ないはずの八塚がうなずいた。周人はやや目を伏せて考え込んだが、自分の心の整理をつけるために告白をしたという事を聞いてから新城に対する感情は憧れだったのではないかと思案した。
「じゃぁ、新城には憧れていたって事か?」
1人そうつぶやく周人に注目する2人。その2人の視線に気付いた周人は苦笑いをしてごまかそうとしたが、八塚はそれを逃さなかった。
「新城先生が憧れなら、先輩を好きってことじゃないですか?」
「いや、オレにも憧れで、本当に好きなのは、他の誰かだよ。多分・・・・きっと・・・」
ややどもりながらもそう答えた自分を疑う八塚の目つきに苦笑するしかない周人の胸ポケットで携帯が震え始めた。これはいい助け船とばかりに買い換えたばかりの携帯を取り出し、折り畳んでいる電話を開いた。そこに浮かんでいる文字は『青山さん』というものであった。とりあえず電話に出た周人は隣に座る八塚とは反対の方を向き、やや小声で電話に出た。
『もしもし、木戸クン?ごめんね・・・・どうしても昨日のお礼を言っておきたくて』
普段と変わりがない恵の声に、周人は少しホッとしていた。昨日の今日からして、まだショックを受けているのではないかと思っていたからだ。
「いや、いいよ。・・・・妹さん、どう?」
『うん、一応元気。私もまだショックが残っているけど、平気よ』
周人は優しい笑みを浮かべてそうかと答えた。その表情から電話の相手が気になる2人はジッと黙って会話に聞き耳を立てている。
「例の物、全部回収できて、処分したから。今、残りもないか捜索中だってさ。だから心配ないから、そう伝えて」
『・・・ありがとう、木戸クン、本当にありがとう』
涙が混じった声でそう何度も礼を言う恵に、周人の口から淡い微笑が消えることはなかった。その優しい笑みから相手が女性だと悟った2人はさらに顔を近づけて会話を探る態勢を取った。
『今度、妹と2人でお礼するから。嫌だって言っても、断っても絶対するからね!』
鼻をすすりながらそう言う恵に優しい口調であいよ、とだけ答えた周人は妙に近くに寄ってきている2人に気付き、引きつった顔を見せた後、逃げるようにして席を立ってトイレの方へと向かった。
「喜んでお受けいたします。だからさ、元気出せよ!」
『うん、ありがとう。妹もありがとうって、ちゃんと伝えたからね?』
「ああ、仲良くやりなよ?」
『うん!』
トイレへ向かう通路にもたれて電話する周人を見る残された2人だが、大きな観葉植物がちょうど通路の脇にあって邪魔をしているために様子をうかがうことが出来なかった。2人は電話の相手が気になりながらも位置的に見えないのでは仕方なく料理を食べながら周人が戻ってくるのを待った。
「じゃぁ、金曜日にな。元気な顔、見せてくれよ」
周人のその言葉の向こうで、恵の頬を一筋の涙が伝った。それを悟られないよう、元気よく、うん、と返事した恵は別れの言葉を言った。
『じゃぁね、金曜日に』
「ああ、じゃぁな、おやすみ」
『おやすみなさい』
そう言って電話を耳から離しかけた時、周人は恵に呼び止められた気がして再び電話を耳に近づけた。
『木戸クン・・・・・・・・・・・ありがと』
小さな声でそう言うと、そこで電話は切れてしまった。その声をしっかり聞いた周人は口元に笑みを浮かべて電話を切った。そのままトイレに向かい、用を足してから2人が待つテーブルに戻った。予想通り2人からさっきの電話に関しての攻撃を受けた周人は、表情を変えずに飄々とした態度を取った。
「誰?ねぇ誰なんですか、相手は?まさかぁ!吾妻さんじゃ?」
「彼女じゃないよ・・・・・でも、彼女に負けないぐらい超美人で、魅力的な女性だよ」
その言葉に2人からさらなる突っ込みを受けた周人だったが、のらりくらりと会話をかわしていくのだった。
自分のスマホを切った恵は、そのスマホを胸の前で抱くようにして目を閉じるとベッドに腰掛けた。最後にお礼の言葉を言う前に恵が残した沈黙、そこには今はまだ言えない言葉を心でつぶやいていたのだった。目を閉じて、もう一度その言葉を心で繰り返す。脳裏に浮かぶ周人に向けて発したその言葉を、いつか本人の前で、はっきりと言おうと誓うのだった。
『好きだよ』と。




