心の裏側(1)
そう遊んだ覚えもないうちにとうとう長い夏休みもあと1日となってしまった。すでに全ての宿題を終えている由衣は中学生活最後の夏休み、その最終日を楽しむために朝9時過ぎに自転車で家を出た。赤いTシャツにジーンズを履き、サンダルに麦わら帽子といったスタイルだ。この麦わら帽子はお気に入りの一品で、ピンクと白のチェックが入ったリボンが巻かれており、小学生の時に買った物であった。自分の自転車は持っていない為、母親の赤い自転車で軽快に歩道を飛ばす。既に気温は高くなってきているが、今日は風もあってまだ幾分体が感じる暑さはましである。とりあえずとしての目的地を塾に決めてペダルを漕ぐ速度も順調だった。由衣の自宅から塾まではバスで最短20分ほどの距離であることから、このペースを維持できれば遅くとも昼前には到着するだろう。道沿いを流れる大きめの川を横目に飛ばす由衣はさくら谷駅を目指してひた走る。幹線道路に出て、そのまま道路沿いにまっすぐ行けば駅へとたどり着くようになっていた。ただ、この幹線道路は起伏が激しい場所でもあるため、自転車では少々きつい道程になっているのが難点である。それでも力一杯坂を駆け上がり、下り坂となっているトンネルを抜けて駅に出た由衣は一旦駅の前に自転車を止めて改札の脇にあるコンビニへと立ち寄った。クーラーのよくきいた涼しい店内に入ると生き返るように汗が引いていく。その涼しさに至福の表情を浮かべて休憩がてら立ち読みをし、ペットボトルのジュースを買って自転車置き場の柵に腰掛けた。蓋を開け、一気に半分ほど飲んで喉を潤す。喉から全身に冷たい物が駆けめぐり、生きているという実感が自然と湧いて出てきた。そのまま何気なしに駅の向かい側にある雑木林に目をやる。自分が襲われた公園でもあるその雑木林を見て思い出すのはあのバンダナの男たちと、腕から血を流しながらも笑顔で自分を支えてくれた周人の事であった。実際、あの時の恐怖はまだ完全には拭い去られていない。休み明けとなる明日の始業式になればあの3人ともイヤでも顔を合わせる事になる。だが、由衣は何故か安心できた。塾から行ったプールの時同様、周人がいてくれると思うだけで、それだけで安心できるのだ。もしかしたら周人がいるかもしれないと思いながらジュースを飲み干すと、すぐ横にある鉄製のゴミ箱にボトルを捨ててから自転車にまたがり、再びペダルを漕ぎ始めた。ここから塾まではもう目と鼻の先である。
*
貴史は息を切らすようにして肩を上下させながら太陽のせいで熱くなってきたアスファルトの上に座り込んでいた。白い無地のTシャツは首や袖、脇の辺りに汗の跡をくっきりと残している。ジャージの下を履いた貴史は流れ落ちる汗を拭いながら目の前に立っている周人を見やった。自分とは対照的に息も乱れていない周人のグレーのTシャツは汗の跡もそう見あたらない。ポタポタとアスファルトに黒い点を刻んでいく自分の汗を見ながら、貴史は周人と自分の実力差の大きさにややげんなりしていた。涼しい顔をして腰に手をやりながらまばゆい日差しを仰ぐような仕草を取る周人は普段と全く変わらない。今は10時半、日差しもだいぶきつくなってきている。
「ダメだぁ・・・・もう限界ッス」
なんとか立ち上がった貴史は両手で膝を掴むように上体を折り曲げたままゼイゼイ言うと、そう言葉を絞り出すのがやっとだった。
「まぁ、でも、随分良くなってきてるよ。あとは技術よりもまず体力だな」
周人は階段の手すりまで歩いていくとそこにかけてあったタオルを手に取り、いまだに息を切らせている貴史に差し出した。それを受け取った貴史はタオルで顔や頭を拭くと大きく深呼吸をしてみせた。
「ま、頑張れ」
周人はそう言うとタオルと一緒に取っておいたたばこを取り出す。貴史はありがとうございましたと礼を言うと頭を下げ、そのまま塾ではなく、少し離れた場所にある康男の家に向かった。夏休みに入ってから毎日自己鍛錬としてトレーニングを積んできた貴史はたまに仕事の都合で深夜まで働いた後、そのまま康男の家に泊まった周人と組み手をしていたのだ。ふらふらとした足取りで去っていく貴史を後目に、いつものように塾の入り口横にある階段に腰掛けた。日陰とはいえ、体を動かした分暑さも倍増している。塾の斜め前に止めてある車のガラスに太陽の光が反射しているためにまぶしさを感じる中、ぼんやりとたばこを吹かせていた周人の目にあるデジャブが浮かんだ。麦わら帽子をかぶった中学生か高校生とおぼしき少女が自転車に乗って自分に向かって手を振っている。実際は光が反射して顔は見えないのだが、頭に浮かぶその顔はまだまだ幼さを残すショートカットの少女であった。笑顔がまぶしいその少女は、愛らしい視線を周人に向けていた。
「木戸先生!」
その少女から発せられた声に、ハッと我に返る。自転車に乗った麦わら帽子の少女はセミロングの髪を茶色く輝かせた由衣へと変貌していた。さっきまで見えていた白いワンピース姿の少女は、もういない。
「・・・恵里?」
自転車を降りて周人に近づく由衣に向かって思わずそうつぶやいた周人の顔を由衣は怪訝な顔をして覗き込むようにした。
「私、由衣なんだけど?『恵里』って誰よ?」
ちょっとふてくされたような口調でそう言う由衣を見やる周人の顔はばつが悪そうであった。
「いや、知っている子によく似た感じだったから、ついね」
ぼりぼりと頭を掻きながら、苦笑混じりにそう弁明する周人に、由衣は小首を傾げて見せた。
「それっていないはずの彼女?それとも好きな人?」
「好きだった人、ってとこか・・・・・」
どこか遠くを見るようにしながら煙を揺らす周人。その言葉に何か重い物を感じながらも、由衣はさらに質問を投げた。
「それって元彼女?フラれた片想いの人?」
「元カノだな」
そうやや顔を伏せてつぶやくように言う周人の表情はどこか悲しげに見えた。これはその人にフラれたなと感じた由衣はますます興味が湧いてしまい、さらにそのことに突っ込んだ質問を投げかけた。
「フラれたんだ?」
「いや・・・・そうじゃないよ」
「じゃぁ、フったの?」
「いや・・・そうでもない」
「もう!じゃぁ、何なのよ!」
はぐらかそうというのがありありとわかる答えにしびれを切らせた由衣は声を大きくしながら周人に迫った。そんな由衣に対してさすがに苦笑を漏らした周人はゆっくりと立ち上がると口にたばこをくわえたまま空を見上げた。澄んだ濃い青がそこにある。
「死んだんだよ」
そうあっさり言うと、表情を全く変えずに煙を揺らせた。そして逆に驚きの表情を浮かべて自分を見上げている由衣を見て口の端を吊り上げた。たばこを指で受け取り、ゆっくりと煙を吐き出す。
「17の時だった。初恋ってわけじゃなかったんだけど、初めて付き合った子でさ、でも結局、付き合って2ヶ月でさようなら、だ」
灰を携帯の灰皿に落とし込み、再びくわえる。由衣に視線を合わせることなく、どこか遠くを見たまま。
「そうなんだ・・・・・それからは、彼女は作らなかったの?」
「ああ、ま、そうなるな」
たばこをもみ消し、遙か向こうを流れる大きな白い雲を見やる。その目は悲しみか憂いからかわからないが、その彼女を思い出しているように見えた。
「その子が恵里、今の君のように麦わら帽子をかぶって、白いワンピースを着て自転車に乗っているのを思い出してしまったとさ」
まるで他人事のように明るい口調でそう笑みをこぼした。少し心が痛む思いがしながらもあえて無表情で周人を見上げる由衣の頭にある麦わら帽子に、周人は手の平をポンと乗せた。
「で、人の古傷をえぐりにわざわざここへ来たのかい?」
そのまま帽子を取って自分にかぶせながらそう言う周人に、由衣は思わず口を膨らませて膨れっ面を見せた。
「最後の日だから、ちょっとドライブ!」
腕組みしてそう言う由衣の怒った様な口調に苦笑を漏らした周人は帽子を由衣に返した。自転車でドライブとは中学生らしいと思いつつ。
「そうか。ま、最終日を堪能してくれ」
周人はそう言うと再び階段に腰掛けて由衣と同じ目線になった。穏やかな顔をする周人に、由衣はちょっとドキッとしてしまった。
「そうしますぅ~」
わざと背中を見せるようにした由衣は後ろ手に組んだ手をせわしなく動かしている。それを見た周人は微笑を浮かべて彼女の次の言葉を待った。
「先生、あと1ヶ月でさよならだね?」
その意外なまでに暗い声に少々驚いた周人だったが、そうだなと冷静に答える。相変わらず指はせわしなく動いており、周人はその動きをジッと見つめた。
「明日、新人2人の面接をして採用になれば一年生と二年生を受け持つだろうな。君たち三年生は新城と青山さんが担当してくれる。これで元通りで万々歳、ってとこだろ?」
「そうね、やっとって感じ」
振り向いてそう言い放つ由衣の顔は嬉しそうであった。だが周人はその目が本気で笑ってない事に気付いたがあえて無視をしてみせた。そしておもむろに立ち上がるとポケットから小銭を取り出し、由衣に差し出す。
「これでジュースでも買え。あと、変なのに襲われないようにな?」
わざと嫌味のある表情と口調でそう言うと、由衣の手に小銭を握らせた。勝手に手に触れられた由衣だったが、それを振りほどこうともせずに手渡された小銭をギュッと握りしめた。
「そうする・・・・」
やや俯き気味にそうつぶやく由衣に、ちょっと嫌味過ぎたかと反省した周人は由衣の額に指を当ててむりやり上を向くように顔を押し上げた。由衣はされるがままに顔を上げ、間近に迫った周人の顔を見た。その優しい表情と微笑に何故か胸が高鳴るのを感じた。
「今度は新城が守ってくれるさ。恋に受験に、頑張れよ」
肩を2度ほどぽんぽんと叩くと、周人は階段を下りて職員室のドアの前に立った。
「恋には、もうすぐ決着を付けるよ」
由衣はそう言うと自転車の方へと駆けていった。今の言葉に少なからず驚いた周人は自転車にまたがる由衣を不思議そうな表情で見ることしかできなかった。
「じゃあね、先生!恵里さんとの事は内緒にしといてあげるからね!」
そう叫ぶと、由衣は周人に手を振って颯爽と去っていった。残された周人は呆気に取られた顔をみるみるほころばせ、笑いを噛みしめるようにしてドアにもたれかかった。そして由衣の姿が見えなくなった頃、大声を上げて笑った。その笑いが収まった頃に職員室に入ろうとした周人は人の気配を感じて階段の裏の方へと顔を向けた。そしてそこに立っている康男に目を留め、飛び上がるほど驚くのだった。
*
いつからそこにいたのか、全く気配を感じなかった周人は気まずい顔を紅潮させて口をパクパクさせるのがやっとであった。やらしい目をしている康男のその表情から、さっきまでの会話はいくらか聞かれている事は明白である。康男はにんまりした顔をしながら周人に近づくと、何も言わずに肩を叩いて先に部屋へと入っていった。あわてて後に続いた周人は自分の席に座ると、あえて恵の席に座っている康男をチラリと見やった。椅子の背もたれに手を付き、自分を見ている康男の顔はニヤニヤしている。
「君が恵里ちゃんの事を話しするなんて、正直驚いたよ」
その言葉から会話のほとんどを聞かれていた事を悟った周人は康男の気配を感じなかった自分を責め、康男を直視できずに椅子ごと背中を向けた。
「いつから聞いていたんです?」
「最初から」
憮然とした口調の周人とは対照的に嬉しそうにそう返す康男を少し振り返った周人は大きな大きなため息をついて見せた。
「参ったな・・・・」
そう言葉を絞り出すのがやっとの周人は恥ずかしさからか机に顔を突っ伏した。
「どうやら吾妻さんは君にとって大きな存在になっていきそうだな・・・ま、それも今月いっぱいだろうけど」
周人は顔を上げ、何も置かれてない自分の机の上を見た。確かに最愛の人であった『恵里』という名の少女と由衣を重ねて見ていた事は何度もある。何もかも全く似ていない2人を重ねている自分に困惑した事もあった。だが、それがイコール恋愛感情でない。
「別に吾妻さんを好きになってはいませんけどね」
「だが、気にはなってるんじゃないのかい?無意識のうちにだろうが・・・」
「恵里の代わりに助ける事が出来たとは思って満足はしています。でも・・・恵里自身の代わりじゃない」
周人はそう言うとまっすぐに康男を見た。今の言葉に嘘はないと言わんばかりのその目に、康男はうなずいた。
「・・・そうだな、そりゃそうだ」
康男はそうとだけ言うと自分の席に戻っていった。周人は手を組んでその上にアゴを乗せると、何かを考えるような仕草を取った。それを横目に明日面接を行う2人の履歴書に目を通す康男の表情はどこか嬉しそうであった。
*
今日は授業がない周人はタダ働きといった感じで1日資料の整理を行ったあと、午後3時過ぎに帰路へとついた。このあと5時ぐらいには恵がやってくる。周人は日差しで熱くなったバイクのシートにまたがるとエンジンをかけた。そして朝、由衣が手を振っていた場所を振り返るとしばらくそのまま幻を見つめるかのようにジッとしていた。だがかぶりを振ってバイクのアクセルをふかすと、猛スピードで大通りへと出ていくのだった。




