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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十八章
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決別の咆哮(5)

帰ろうと車に向かう2人の足がピタリと止まる。いや、正確には止めさせられたといった方が正しいか。突然背後で撃鉄が上がる音がして殺気混じりの気配が背中に突き刺さったのだ。ざわつく周囲の様子を無視してゆっくりと振り返った周人の目は相手を見ずともそれが誰だかわかるのか、怒りに燃えていた。


「貴様・・・・・・・!」


歯軋りしながらのその声の主は福山であった。片手で銃を周人に向けながら殺意を灯した目で睨みつけている。


「貴様さえいなければ・・・・・・・計画自体は存続できたものを!」

「それはないな・・・ここまでの事件を起こした時点で『王』の存在意義はなくなったんだからな。ミイラ取りがミイラとはこういうこった」


その言葉にさらなる怒りを増幅させる福山は銃を構え直して1歩近づいた。周囲にいる特殊部隊員も、救急車に搬送されようとしているあの少女もまた乗り込みかけた態勢でそのなりゆきを見守っていた。


「最初から間違っていたんだ・・・全てが」

「間違ってなどいない!この国を守るために、社会を、我々の生活を守るためには必要だった!」

「その社会を、国を、生活を脅かしたのはあんたらの選んだ『ゼロ』だ!」


その言葉に唇を噛み締める福山だったが銃を下ろそうとはしない。周人はゆっくりした動きで落ちている小石を拾うとそれを指でもてあそぶかのように転がし始めた。


「なら、次に危険なお前を、排除すれば・・・・」


言いながら握っているグリップに力を込め、引き金をゆっくりと引いていく。周人は持っている小石を人指し指と中指で挟みこむようにしながらただその銃口だけを見つめていた。もはや狂気に彩られた福山の目が光る。そして静寂が包む月夜に1発の銃声がとどろいた。少女は目を見開き、隊員たちも動けない。哲生は無表情のまま、周人だけがさっきまでとは違う、正面を向いて立っている体勢ではなく、横斜めになりながら何かを投げた後のように右手をまっすぐに伸ばした体勢となっていた。


「そんな・・・・バカな」


しびれる右手を押さえつつ、鈍い金属音を響かせながら足下に落ちた銃を信じられないといった表情で見下ろす福山の顔は青ざめていた。確かに確実に周人を狙った銃はその胸に風穴を開けていたはずだった。だが、実際は周人はその弾道を見切って発射直前に体の向きを変えて弾を避け、さらには小石を福山の手にぶつけることによって銃を落とさせたのだ。弾はまっすぐにしか飛ばないため、銃口を見据えながら撃つタイミングさえ見切れば1発ぐらいであればどうということはない。ただ、避けると同時に小石を飛ばして銃を落とさせたその技は神業に等しいのだが。呆然とする福山に大股で迫る周人は怒りを全開にした表情のまま銃を特殊部隊のいる方へと蹴ってから福山の顔面を力いっぱい殴りつけた。頬の骨が折れたのではないかと思えるほどの衝撃が走り、脳を揺らしながら体ごと固い地面に叩きつけられる。ゾルディアックとの戦いで痛めているその右手から血を流す周人は冷たい目をしながらわなわな震えている福山を見下ろした。


「あんたの家族はそんなことを望んじゃいないよ。彼女は言ってた、お前は『良き夫であり、良き父親である』ってな。それが一番大事なんじゃないか?国をどうこうよりもまず家族を守るのが大事だ。『王』じゃなく、あんた自身が守ればいいじゃないか」


その言葉にうなだれるように頭を垂れた福山はギュッと地面についた拳を握り締め、ただ下を向いたまま何も言わなかった。


「ほら、その家族が来たぜ」


そう言う哲生の声にようやく顔を上げた福山は、今やってきた黒塗りの車から降りてくる妻と2人の子供を見て苦々しい表情をしながらヨロヨロと立ち上がった。周人はそんな福山を見てすぐにきびすを返すと、自分の車のそばに立つ千江美の方へと歩いていった。


「『約束』、果たしたぜ」


全くの無表情でそう言う周人に向かって深々と頭を下げた千江美は息子を抱き、娘の手を引いて夫である福山のそばへと歩いていくのだった。今見た感じだけでもボロボロの周人からその戦いの凄まじさは想像にたやすい。その周人はさっさと車に乗り込むと同じように助手席に乗り込む哲生を確認してシートベルトを締めずにエンジンを始動させた。右肩を裂かれているためにベルトをすることが出来ないのだ。シートは血を想定してビニールに覆っているため、周人はシートに体を預けてふぅと一息ついた。


「ピストルの弾の避け方、オレにも教えて欲しいよ」

「そう言う前にさ、運転替わろうかとか言えないのかよ・・・お前は」

「ありゃ、こりゃ気が付かなくて・・・・運転いいのか?」


わざとらしいその答えに、周人は小さく微笑むと無言でギアを入れた。去り行く車のエンジン音を聞きながら救急車に乗り込んだ少女は扉が閉じられる寸前まで見えていた家族と抱き合って涙する福山の姿に、自分も早く家族に会いたいと思うのだった。


深夜の番組を見ていても内容など全く頭に入ってこない。スピーカーから流れる笑い声も耳には入ってこない状態にあるため、もはやテレビはついているがその役割を全く果たしていなかった。リビングのソファの上で膝を抱えるようにして座っている由衣は電気を全て消した状態でテレビだけをつけているのだった。もう何回時計を見たかわからない。テレビの上のデジタル時計は既に午前2時を示している。周人が帰るといった時刻になったが、いまだその気配はない。何度も不安で胸を押しつぶされそうになったが、そのたびに周人は負けないと自分に言い聞かせてきた。せっかく仲直りした矢先にこの不安である。このままケンカ別れしてしまうのではないかと眠れぬ夜を過ごした昨日とは違う不安だが、ケンカしながらも周人が自分を好きでいてくれたという想いが由衣の心を強くし、信じる心に勇気を与えてくれた。実際夕方に勝手に上がりこんで調理を始めたが、もしもここへ知らない女の人と帰ってきたらどうしようとか、料理を食べてくれなかったらどうしよう、果ては顔を見るなりどこかへ行ってしまうのではないかと不安を抱えながらの調理だったのだ。結局、周人も仲直りのきっかけを探していたということで、2人の絆はしっかりと固く結ばれた。心も体も結ばれた喜びが大きかっただけに、今の不安はその時を大きく上回っていた。


「早く帰って来てよぉ~」


ここ最近、自分でもよく泣くと思いつつも我慢できずに涙が込み上げてくる。隆弘に励まされ、康男にアドバイスを受けてここまで立ち直ったが、まだ気弱な自分を消すまでは至っていない。周人が出かけてから既に4度目の涙が零れ落ちる瞬間、突然インターホンが暗い室内に響き渡った。もはやカメラ付きインターホンのモニターに写る人影すら誰かを確認せずに玄関に向かって走る由衣は鍵を開ける動作もうっとおしく思いながら勢いよくドアを開くと、そこにいる待ち焦がれた人の胸へと飛び込んでいった。


「おかえりなさい・・・・」

「ただいま」


そっと頭の上に置かれた包帯で巻かれた左手の温もりを感じながら涙に濡れた顔を上げれば、そこには淡い微笑を浮かべた愛しい人の顔がある。それがどんなに嬉しいことかを心の底から実感した由衣は破れたTシャツからのぞく包帯を見て目を丸くした。それにお腹の辺りの感触もどこかおかしい。あちこちに小さな傷も見えるし両手にも包帯が巻かれ、顔も若干ながら腫れている。そのことからも、相手が相当強かった事が理解できる由衣は何も言わずに部屋へ入るよう促した。


「約束の時間、過ぎてごめんな」

「いいよ・・・許してあげる」


そう言ってそっと唇を重ねる由衣を抱きしめる周人は、由衣を守れたことに満足感を感じていた。もう自分の中に何の迷いも不安も無い。あるのはただ1つ、この女性を一生かけて守り抜き、愛しぬくことだけだった。


2人がお互いを思う愛情の念を感じながら、光二は周人のマンションの前に止めてあった塾所有の軽自動車を発進させた。結局十人の黒い集団を圧倒的強さで叩きのめしてからは、彼らが閃光弾を使って逃走した以外は何の異常も無く、こうして車の中からマンション周囲の様子をうかがっていたのだった。閃光にくらむ見えない目の代わりに読んだ思考から、倒した男たちは戦意を喪失してフラフラしながらも自力でどこかへ去っていき、あえてその後を追わなかった光二はやや眠くなる意識を奮い立たせてずっとここにいたのだ。妻の恵には塾の仕事で徹夜だと告げ、身重の体に何かあっては困ると実家に帰させているので心配はなかった。結局、携帯電話も鳴らなかったことから何の異常もないと思える。午前2時になってようやく戻ってきた周人から深々と頭を下げられた挙句に何度も礼を言われて困ったのはついさっきのことで、その怪我の様子からも相当の相手であったことが窺い知れた。そんな傷だらけの周人を見てやはり自分はまだまだだと思う光二は今よりもさらに強くなろうと決意すると同時に、そんな周人をあと一歩のところまで追い詰めた自分に満足しないでおこうと心に決めたのだった。今度戦う時には絶対に倒したいと、そう心から思ったからだ。軽快に車を飛ばす光二はとりあえず自宅よりも近い塾に戻り、ひとまず眠ることにした。事故らないよう慎重に運転する光二は、まさか自分が『ゼロ』よりも強いと哲生に認められたとは思いもしないで周人から支給された缶コーヒーを片手に車のない幹線道路をひた走るのだった。


カーテンの隙間から覗く朝日がちょうど目に当たっているせいか、あまりのまぶしさに顔を歪めつつその朝日から逃れるようにしてからゆっくりと目を開く周人は見慣れた天井を見て朝を認識した。いつも枕もとに置いてある小さな目覚まし時計を手に取れば時刻は8時である。今から起きて出社するにはとうてい間に合わない時間であり、休むかフレックス出勤するしかない状態にあった。自然とこみあげてくるあくびを全開に、背伸びをしようとして激痛が右肩とわき腹を襲った。珍しく苦痛を顔に出しながら布団の上で悶絶する周人はゆっくり身を起こすとあちこち痛む体から昨日の戦いを思い出す。寝起きでぼんやりした頭を整理しようとした時、キッチンからコーヒーのいい香りが流れてきていることに気付いた周人は痛む全身を奮い立たせてキッチンへと向かった。よく見ればリビングを含めた寝室以外の全てのカーテンが開かれ、そこから朝日が差し込んでいるではないか。


「あ、おはよう」


ぼーっとしている周人に向かってそう声をかけたのは由衣であった。昨夜由衣が泊まったことすらすっかり忘れていた周人は夜中の死闘から帰宅してまでの記憶を思い出しながら、彼女が支度している朝食のパンと

コーヒーが並んだ食卓を見やった。


「ちょうどそろそろ起こそうと思ってたとこだったから」


そう言いながら由衣は砂糖とミルクを用意した。


「コーヒーがアイスじゃないのは、誰かさんが冷蔵庫の中身を空にしてたからだからね」


コーヒーの横に手に持っていた砂糖とミルクを置きながら横目でなんとも言えない小姑のような目をする由衣にガックリうなだれる周人は痛む体を休めるように食卓テーブルについた。その様子を見れば、昨夜の『用事』が相当な苦労を要したことが窺い知れる由衣は、戦いに行ったことを知らないふりにする事を決め込んでいるために何も言わずに周人の前に腰掛けた。


「今日、会社休むから・・・見ての通り、このザマだしさ」

「その方がいいね。私も休むことにしたし、今日は一緒にのんびりしようよ」


その由衣の言葉に周人は怪訝な顔をした。何故由衣までもが会社を休むのかがわからないのだ。しかし時間的に見てももう遅刻だと思いつつ、その疑問を口にすることにした。


「なんで休むんだ?」


一生懸命食パンにバターを塗っている由衣は顔を上げると済ました顔で小首を傾げる仕草をとる。その動きに合わせて前髪が流れるのを見ながら答えを待つ周人は逆にその仕草に疑問をもった。


「なんでって・・・そんな状態の周人を置いて行けるわけないじゃん」

「いや、別に寝たきりじゃないんだしさぁ・・・」

「そのヨボヨボのじーさんみたいな動きしてたら寝たきり同然でしょ?だいたいその怪我じゃ・・・・しかしどこでどうすればそうなるんだか」


ため息をつきつつそう言うと、バターを塗る作業を再開する。おそらく全ての事情を知っていながら知らないふりをしてくれているだろう由衣に感謝しつつ、やはりここは全てを話しておこうと思った周人は自分の分を塗り終えて周人の分にもバターを塗ってくれている由衣を真剣に見つめた。


「昨夜のことなんだけど・・・実はさ」

「『ゼロ』をやっつけに行ってたんでしょ?」

「・・・やっぱ知ってたんだな」

「昨日の夕方にミカさんから『哲生さんと一緒に夜中にでかけるみたいだけど何か知らないか』って電話もらった時からおかしいとは思ってたけど、周人の口からその名前が出たときにピンと来ただけ。どういう理由かまでは知らないけどね」


淡々とそう言う由衣からパンを受け取った周人は礼を言うと、いただきますの後に続いて詳しい話を聞かせる。みさおのこと、千江美のこと、そして『アーク』のことを。全てを黙って聞いていた由衣は話が終わったあと、大きなため息をついてから冷めかけのコーヒーを口にした。


「よくその程度の怪我で済んだってことかな」


一言そう言った由衣は周人の体を見た。今聞いた話の度合いから五体満足で帰ってきたことが奇蹟と思えるぐらいだ。いまだかつてここまでボロボロになった周人など見たことがなく、それゆえに相手の強大さがわかるのだ。


「・・・って、それだけ?」

「何が?」

「あ・・・いや・・・」


どこか気まずそうにコーヒーを飲むが視線は由衣を捕らえたままだ。そんな周人に対して小さく微笑んだ由衣は持っていたコップを置くと両手の肘をついた手にあごを乗せ、まじまじと周人の顔を見詰めた。


「怖い『魔獣』さんじゃない周人って・・・・なんか見た目頼りないし、かといって本当に頼りないかといえばそうでもないし・・・」

「どういう意味だよ」

「言ってる自分もよくわかんないや・・・」


なんだそりゃとばかりにがっくりする周人にクスクス笑う由衣につられて周人もまた笑う。優しい雰囲気が流れる朝のひと時を過ごす2人は一緒にいられること、会話ができることという当たり前のことを幸せに感じていた。


「けど、もう『魔獣』とはさよならしたよ・・・・もう2度と、目を覚まさないと思う」

「そうなんだ・・・」

「ま、とりあえずだけどさ」

「なんだそりゃ」


今度は由衣ががっくりくる。再度2人は顔を見合わせて笑いあった。周人は由衣の笑顔を見ながらもう2度と『魔獣』にならないと心に誓った。決して由衣には見せられないまさに獣と化した自分を、本能のおもむくままに力を振るう自分を封印した。今度からは『魔獣』ではなく、木戸周人として守ろうと自分自身に誓いを立てたのだ。


「でもよかった・・・『リジェネなんたら計画』っていうのが周人がらみじゃなくって」

「どういうこった?」


由衣の言っている意味がわからない周人は素直にその疑問を口に出した。確かに直接絡んではいなかったが、関係しているといえば関係していたからだ。


「だってさ、その『キング』の代わりに周人が選ばれていたら、その子供が周人の子供だったら・・・隠し子じゃん」


その言葉に思わず口に入れていたコーヒーを垂れ流しそうになりながら、周人はまたもがっくりしたようにうなだれた。


「隠し子って・・・・そういう問題かよ」


どうも論点がずれているとしか思えない発言に周人はただあきれ返るしかなかった。そんな由衣が何気なしにテレビを見てふくれたようにした顔を一変させる。


「ヤバッ!会社に電話しないと!」

「だぁっ!ホントだ!」


何気なしに時計を見た由衣の一言で我に返った周人もまたすっとんきょうな声を上げた。大慌てでスマホを手に隆弘へと電話する由衣はついでに周人と仲直りした事を伝えた。隆弘は一言『よかったね』と言っただけだったが、それでもその一言に込められた気持ちは痛いほど由衣に伝わっていた。そして素早く動くどころか体中が痛くて動きが鈍い周人は家の子機をなんとか掴むとメモリーを駆使して理紗へと電話をかけた。結局2日連続で会社を休むことになったが業務的に問題はなさそうで、理紗はわかりましたと手短に返事をした。


「ほんじゃ、すまんがよろしく頼むよ」

『何かあれば連絡しますね?』

「あぁ・・・宮崎さん、ありがとう。おかげで彼女と仲直りできたよ、本当にありがとう。君がああ言ってくれたから・・・・感謝してる」

『そうですか・・・・よかったですね。なら、今度美味しいものをおごってください』

「あぁ、期待しといてくれ」


そう言って電話を切った周人は晴れやかな気持ちで窓の外に見える青空へと顔を向けた。白い入道雲が早くも青い空に張り出し、その勢力を拡大しようとしている様が見てとれる。周人はその晴れ渡った空を見つつ、自分の心もようやく晴れたことを感じ、隣に立って同じ景色を眺めている由衣を感じながら、近いうちにプロポーズをしてこういった朝のひと時を毎日味わいたいと思うのだった。


そして会社のオフィスにいる理紗も晴れ晴れとした気持ちで仕事を開始するのだった。


「よかったですね、主任」


自分の気持ちに整理をつけている理紗にとって、周人への想いは一生の宝物になると信じられる。つぶやく理紗はいつものピリピリした雰囲気を出すことなく軽快にパソコンのキーボードを叩いていった。


「主任、休み?」


缶コーヒーを口にしながらそうたずねる龍馬にうなずく理紗はさっき周人からかかってきた自分の私的なスマホを机の引き出しにしまいこんだ。


「そうみたいです。いいなぁ・・・・いい天気だし、私も休みたいわ」

「・・・なら、今からデートしようか?」


その龍馬の言葉にそこにいた全員が目を丸くした。あのクールな龍馬がまさかこんな冗談を言うとは、快晴の空だが雨が降るかもしれない。特にはやねなどは開いた口がふさがらない状態にある。やはりこの2人はできていたと、そう確信する今の言葉にこっちは気分が悪くなって帰りたいと思うのだった。


「そうね、そうしよっか」


ノートパソコンをじっと見ていた理紗もあっさりうなずくとそそくさと出かける用意を始める。同じくカバンを取り出す龍馬を見るメンバーは思考すら麻痺した状態で息をするのがやっとだった。


「じゃ、ちょっと出かけてくる。3時過ぎには戻るよ」


そう言いながら行き先を記入する掲示板の前へと歩く龍馬に続いて理紗もその横に立った。デートであればこんなところに記入などせずタイムカードを押してさっさと帰るのだが、思考が麻痺している面々にしてみればそれすら理解できていない。


「じゃぁ、あとよろしくね」


そう言い残し、理紗と龍馬は足早にフロアを後にした。その2人の背中を見送ったメンバーたちは2人の姿が消えてから行き先掲示板を見る。


『PM3時帰社、桜ノ宮(桜坂銀行)』


とされている2人の行き先を見てハッとなったはやねはあわてた様子でさっき見たメールを再び開いてその内容を確認する。


「意味深なこと言ってぇ~!」


ヒステリックにそう叫ぶはやねの声に全員がハッとなった。つい先程来たメールに書かれていた内容はグループの事業拡大に伴う融資のことが書かれており、ついこの間、融資申し入れの電話があった桜坂銀行へと工場長共々同行してほしいとのことだったのだ。つまり2人はデートではなく、ちゃんと仕事をしにでかけたのだ。ホッと胸をなでおろす女性メンバーだったが、大事なことを見落としていた。本来出かける時間は十一時であり、今はまだ九時前だということに。実際襲撃事件からこっち、急速に仲良くなった2人は恋心自体はまだ無いものの、お互いにどこか波長が合う存在とは気付いていた。十一時まで桜ノ宮をぶらぶらした2人はお互いの心の距離をさらに縮めつつ、のんびりした午前中を過ごすのだった。


リビングのソファに倒れこむようにして眠っている周人のその寝顔を見つめる由衣の姿が不意に映像として頭の中に浮かび上がる。洗濯物を干そうと2階のベランダに出て夫と義父のシャツを手にしていた際に突然浮かび上がったその映像に、静佳は小さく微笑むと物干し竿にシャツをかけてから透き通るような青空へと顔を向けた。暑い日ざしが降り注ぐ中、今日もよく洗濯物が乾きそうだと思いながら大きく背伸びをする。青空まで届けといわんばかりに伸ばした手だが、掴めそうで掴めない白い雲を握るようにぎゅっと拳を作った。


「最後の壁は越えたわね、周人・・・・・・・さぁて・・・すぐに忙しくなりそうだわ」


天気同様晴れ晴れとした笑顔を見せる静佳は来るべき日のために着物を新調しようかと思いつつ、夫源斗のスーツも新調しなくてはならないことに気付いてため息をついた。最近めっきり中年太りが進んだ源斗はフォーマルのズボンが合わないのだ。


「銀行の口座を細工して1億円ほど増やせば楽なんでしょうけど・・・・」


静佳の能力であればそれは実にたやすいことだが、もちろん今だかつてそんなことに力を使ったことはない。だからこその台詞なのだが、一度はそんな金額が記載された通帳を見てみたいとも思う。


「よかったわね。周人、由衣ちゃん」


優しい口調でそう言う静佳の頬を優しい風が撫でていく。


「そう、あなたも嬉しいのね、恵里ちゃん・・・・・みさおちゃんもよかったね」


青空を見たままそうつぶやく静佳の顔に優しい笑みが浮かんだ。静佳にしか聞こえない女性の声が2つ、確かに聞こえたのだ。2人を祝福する声、そして、礼を言う声が、確かに。静佳は笑みを消すことなく次の洗濯物をカゴから拾い上げると、太陽に透かすようにしてそれを広げてみせる。つらく悲しい出来事を乗り越えた息子とその愛しい人の晴れ姿を見る日は確実に近づいている。そう思う静佳はにこやかに微笑んだままてきぱきとした手つきで洗濯物を竿にかけ、太陽の恩恵ともいえる日差しを注ぐ真夏の空を見上げながら風に揺れる前髪にそっと触れるのだった。

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