素直さの価値(6)
康男は職員室に戻ると、そのまま授業の準備を進めている周人の元に歩み寄った。そしておもむろに周人の右手をそっと持ち上げ、長袖のシャツを二の腕付近までゆっくりとめくり上げた。驚く周人は身動きもできずにただされるがままの状態であったが、恵と新城は康男が何を思ってそうしたのかわからずに2人の方を覗き込んだ。そして恵はおろか新城までもが小さい悲鳴を上げる。服がめくられた腕には包帯が巻かれているのだが、その包帯はうっすらと赤らんでいた。さっき由衣に握られたせいで傷口が開いてしまったのだろう。口を押さえてその腕を見やる恵はどうしていいか分からずにただ凝視する事しかできなかった。
「あらら、痛いと思った」
相変わらず軽口を叩く周人を睨むようにした康男は呆気に取られている新城の方を見やった。普段余り見せない康男のその怒りを含んだ雰囲気に押されてしまった新城はその視線を受けて戸惑ってしまった。
「今から彼を病院に連れて行く。すまないがここの鍵を閉めて授業に行ってくれ。青山さん、悪いが適当に授業を進めておいてくれ。後で代わるから」
そう言われて2人は素直に頷いた。理由はわからないが、周人が怪我をしている事は事実であり、その傷がかなりひどいことは一目瞭然である。だが当の本人たる周人が異議を唱えた。
「いや、授業は出来ますよ・・・」
そこまで言った時、不意に康男が掴んでいた腕を持ち上げた。その衝撃で走る激痛から思わず顔を歪める周人。そんな周人を見る恵もまた痛々しい表情を浮かべる。
「この状態でどうやってボードに字を書く?満足に授業など出来るはずがないだろう?」
明らかに怒った声でそう言われた周人は素直にそうですねと答えた。恵は簡単に周人から今日の範囲を教わり、用意してあった教材を手に部屋を出ていった。新城は康男に連れられて部屋を出た周人の後から出て鍵をかけ、2人を気にしながら2階へと上がっていく。バスの脇に停車しているワンボックスカーに向かった康男は助手席に周人を乗せ、病院を目指して出発するのだった。
車の中は会話もなく、ラジオもステレオもかかってはいない為かやけに響くエンジン音以外は静かであった。周人は右腕をかばうようにして前を向いたまま押し黙っている。康男もまた前を向いたまま運転しているだけであった。やがて病院に着いた2人はすぐに受付を済ませた。幸いそう待たなくても診察は早そうで、すでに来ている2人ほどが待っているだけであった。病院独特の緑色した椅子に腰掛けた2人は看護師に呼ばれて入っていく老人を見ながら近くにあった雑誌を手に取った。
「大丈夫か?」
「動かさなければそう痛いもんじゃないですから」
軽くそう言うと、周人は手にした週刊誌を開いた。もちろん右腕は下げられたまま使ってはいない。
「君は優しすぎる・・・あそこは怒るべき、怒鳴るべきだったと思う・・・」
康男は手にした雑誌を開かず、前を向いたままそう静かに言った。周人は広げた週刊誌を閉じると、自分の横に置いた。
「そうですね・・・」
「もうあの子は駄目だ。結局、もう元通りだ・・・合宿の時はこれで少しはましになるだろうと思っていたんだが・・・やはり今日、君たちに送迎を頼んだ事は失敗だったよ」
周人にあの車で、しかも由衣を迎えに行かせた事を悔やみながらそう言う康男は大きく息を吸い込むと大きな大きなため息をついた。
「合宿の朝は・・・はっきり希望が見えていたんだがね。いや、合宿でもそうだった。けど、結局、それは事件直後だったからなんだな。今じゃ君を恩人とも思っていない・・・最低だよ」
康男は苦々しい顔をしながら思いつめたようにそう言った。怪我した腕を掴んだのは咄嗟だったかもしれない。だが、それに気付いて謝ることも、反省することもしなかったのだ。
「助けたのが新城君だったなら、あの子もこうはならなかったと思うよ・・・きっといろいろ気遣っただろうさ・・・だけど、新城君では助けられなかったはずだ」
目を閉じた康男は大怪我をしながらも由衣を危機から救ってくれた周人に対して申し訳ないという気持ちで一杯だった。
「僕は別に彼女を変えようと思ったり、いいかっこしようと思って怪我を無視していたわけではないんです・・・あの時の彼女の怯えよう・・・あれを見ているから、もし『彼女』が生きていたなら同じだったんじゃないかって思えたから・・・」
そう言うと黙り込む周人を見やる康男は胸が締め付けられる思いで一杯だった。左頬の傷跡が康男の知る周人の中でひときわ異常な状態だった頃を思い出させた。だからこそ心が痛む。周人の言う『彼女』という言葉が誰を指しているかを知っている康男にとって、今の言葉は重く心にのしかかってきた。胸が痛みながらも、何と言っていいかわからずにいた。
「守りたかったんです・・・・何が何でも。怯えをぬぐい去ってやりたかったんです」
薄い笑みを浮かべてそうはっきり言う周人を見やる康男は痛々しい顔をしていた。『守りたかった』と言うその言葉の重みを知る康男は、ただ、すまないとしか言葉を発する事が出来ない自分を呪った。
「あの子は、根は素直な子なんだと思いますよ。あの朝、泣いていましたからね・・・そうでなければわざわざオレの所になんか来ませんよ」
「木戸さぁん、どうぞ」
若い看護師さんにそう呼ばれ、周人は康男に笑顔を残して診察室に消えていった。残された康男はあらためて由衣が襲われた事件の事を振り返っていた。結局自分は事件を利用して由衣を変えようとしていたのではないかという自問自答を何度も繰り返す。そんな自分とは逆に周人は事件をただ一過性のものと考え、あの事件から来る由衣の心の傷のケアだけを心がけているのだ。やはり現場にいて由衣の怯えを直に見ている周人の言葉は何よりも重かった。康男は周人にそれを教えられた気がして恥ずかしくなってしまった。
「教育者失格だ・・・」
自嘲気味にそうつぶやくと、今さっき周人が入っていった診察室の方を見やるのだった。
結局再度の縫合は避けることができたのだが、医者から厳重注意を受けた周人は3日間は腕を動かすなと念を押されてしまった。そうは言っても今日は車である。運転して帰らねばならないため、どうしても動かすことになってしまう。康男も今日だけはそれは認めるかわりに3日間の完全休養を強要したが公傷であるためにバイト料は出すということになった。その後、塾に戻った時間は20時過ぎ。まだ授業が終わるまであと1時間ある。そのまま帰るように勧めた康男だったが、周人が新城や恵に一言言いたいということでとりあえず残ることを希望したためにこれには渋々了解した。元々人員不足を補うためにやってきた周人は怪我のせいとはいえ、一時的にそれを果たせなくなってしまうことを詫びたいというものだった。いつも持ち歩いているSF小説を読んでいると、すぐに21時になってしまった。降りてきた新城と恵は周人を見るとあわてて駆け寄ってきた。怪我の理由も知らされていない2人にとって周人の怪我の状態はやはり気になるのだ。周人は怪我の原因がバイクによる転倒だと告げた。真実を告げてもいいのだが、やはり由衣の事を思うとそれは伏せておくべきなのだろう。2人はその理由を納得し、康男同様休養を勧めた。さっきの状態からしても、かなりの傷であることは明白だったからだ。土曜日と月曜日のさくら校の授業を休むことになれば当然残る2人が掛け持ちをしなくては回転しない。周人はとにかく謝ると、康男にうながされて外へと出るのだった。ドアを開けた周人は目の前に立っている由衣にぶつかりそうになり驚いてしまった。謝る周人を睨むように上目遣いで見ていた由衣はおもむろに左腕を掴むとみんながいるのとは反対方向へと引っ張っていった。薄暗い塾の裏手に連れてこられた周人はじっと自分を見たまま何も言わない由衣を見やる。
「な、何かな?」
なぜか怯えたようにそう切り出されてようやく由衣は口を開いた。ただし、やはりどこか怒ったような上目遣いのままである。
「一応謝っておこうと思って・・・ごめんなさい」
ちゃんと頭を下げてそう謝る由衣だが、いまいち感情はこもっていない。
「あー、いいよ別に。痛かっただけで大したことなかったし・・・」
周人は相変わらず素っ気なくそう言うと、左手で右腕を軽く押さえた。熱を持ったように疼く右腕だが、痛み止めを打ったせいか痛み自体は幾分軽くなっていた。
「でも、まぁ、私のせいで怪我したわけだしぃ・・・私は気にしてないけど・・・助けるのが義務だったとはいえこのままじゃいい気分しないし・・・それにアレコレ言いふらされても、なんかイヤだしぃ~」
元々その話し方からしていい気がしなかったが、その最後に発した言葉だけが周人の中で何かを弾けさせた。
「言いふらすつもりならとっくにやってるさ・・・勘違いするなよ?お前を助けたのは確かに教師としての義務だ・・・だがな、怪我したのはオレの不注意だ。あんな小物に傷付けられた時点でオレの中では汚点なんだよ」
今まで見せたことのない周人のその怒りに、由衣は心臓の音が早くなるのをいやにはっきり感じていた。わざと強がって言った言葉が逆効果になってしまった事を感じながらも、だからといってそれを詫びようとはしない。周人はそういう由衣をわかっていたが、こみ上げてくる怒りをどうしても抑えることができなかったのだ。由衣は周人があの3人を倒す時ですらここまで明らかに怒気を含んではいなかった事を思い出し、背筋が凍るのをいやにはっきり感じていた。
「別にお姫様を助けに行ったわけでもない。恩を着せるためでもない。あれがどんなにイヤで嫌いなヤツでも助けたさ。はっきり言うと気にしてないのはオレの方だ。襲われていたのを助けられたお姫様の気分にでも浸ってるつもりか?」
由衣は何故かこみ上げてくる涙を必死でこらえるように周人を睨んだ。だが周人の目は相変わらず冷たく自分を見下ろしている。
「悲劇のヒロインを気取りたいのなら自分で勝手にやってろ・・・オレにとっちゃ、お前が無事だったという時点でもう義務は果たしてる。怪我を気にしてないのも、お前に気を遣ってるわけでもねぇしな」
そう強く言ってその場を立ち去る周人は自分の背中を睨んでいるであろう由衣に、背中を向けたままやや顔のみを傾けるようにしながら最後に一言だけ言い放った。
「お前、あれだけの目に遭ってまだわからないのか?」
立ち去るその背中を見る由衣の中で周人に対する恐怖が消え、怒りが弾けていく。だが、同時に涙もこぼれてきた。何故かはわからないのだが、すごく悲しい気分にもなっているのだ。心のどこかで大きな穴が空いてしまったかのように感じられた。怒りと悲しみが同時に襲ってきたのは、生まれてから初めてのことだった。
結局、周人は翌週の水曜日のバイトも休んだ。康男は怪我の具合を気にする新城や恵に怪我とは関係ない休みだからとだけ告げ、周人の代わりに教壇に立ったのみで詳しいことは何も語らなかった。そうは言われても怪我のせいかもしれないと恵たちは心配しながらも康男が何も言わないため、それ以上勘ぐることを止めた。そもそもどういう経緯であの怪我を負ったのかすら康男も周人も語らなかったのだ。本当はバイク事故ではなく、何か事情があるのは察しが付く。そして恵はその怪我が由衣に関係していることを知っていた。あの日、由衣が遅れて来ると言っていたにも関わらず結局由衣は来なかった。そしてその日は周人も休んでいる。康男はといえば米澤に授業を任し、結局最後にちょろっとしか姿を見せなかった。その上、合宿の日の朝の周人と由衣の事。何を話していたかはわからないが、由衣は泣いているようにも見えた。さらにとどめがこの間の周人と由衣の会話、それを聞いてしまったのだ。彼らが話をしていたのは塾の裏手に位置し、そこは職員室のトイレのすぐ横だったのだ。周人が由衣に連れられて行った後、彼女はトイレに行ったのだ。そして少しだけ開いていた窓から聞こえてきたのは周人と由衣の会話だった。本当に偶然だったのだが、あの怪我が由衣を助けようとして負った怪我だということ、そして由衣が何らかのトラブルに巻き込まれていた事を知ってしまったのだ。あの時、周人の怒りの口調を初めて聞いた恵はショックを受けたが、周人に対する由衣の態度はそう言われても仕方がないほどだったのだ。そして今日の休み。何かがありそうな気がしたが、とりあえずは授業に集中する事にした。そして送りのバスが出てくる頃、由衣もまた教室から姿を現した。どことなく元気がないように見えた恵はこの間のことが彼女の中で影を落としているのではないかと勘ぐったが、どうせそれも一時的なものだろうと気にしないようにした。バスに乗り込んだ由衣は後ろの方に、恵は康男の座る運転席のすぐ後ろに腰掛けた。まずは一番近い場所であるさくら谷駅に向かうため、恵が一番始めに下ろされる事となっていた。
「木戸クン、大丈夫なんですか?」
恵はそれとなしに康男に聞いてみた。勘ぐらないようにしてはみたものの、やはり気になってしまう。
「さっきも言ったけど、今日の休みは怪我のせいじゃないよ。今日は・・・彼にとって特別な日なんだ」
康男は小さめの声でそう答える。塾から比較的近い位置にあるせいか、もう駅は目の前である。ロータリーを回り、Uターンをするとその出口の所でバスを止めた。ここから駅は目と鼻の先である。結局その特別な日が何であるかを聞けないままバスを降りようとする恵を康男が呼び止めた。
「君の気持ちが本物なら・・・受け止められるかもしれない・・・一度、電話してみるといい」
康男のその言葉に、恵は少し動揺した。今の言葉から、物凄く大事な事を告げられたような気がしたのだ。『受け止められる』と言ったが、何を受け止めねばならないのかもわからぬまま恵は生徒たちに挨拶をしてからバスを降り、康男に頭を下げた。それに片手を挙げて応えた康男はハンドル脇のスイッチでドアを閉めると、そのまま元来た道を戻っていくのだった。薄暗いロータリーだが、すぐ横の駅の方はかなり明るい。恵はバスを見送ると駅の方に歩き出した。頭の中を巡るのはさっきの康男の言葉ばかり。ぼんやり考えながらも改札を抜け、ホームに上がる。どうやら電車は今さっき出たばかりであり、電車の接近を知らせる表示も行き先を示しているのみである。時計と時刻表を確認すると次の電車が到着するまであと12分ほど待たねばならなかった。ベンチに腰掛けた恵はバッグから携帯電話を取り出し、メモリーを調べ始めた。シュート』と表示されたそこで動きを止め、そこに表示されている文字を眺めた。そこに現れている番号は周人の携帯番号である。何かの時にとバイト仲間同士で教えあっているものの、電話はおろかメールのやりとりすらない。新城とはたまにあるのだが、それも本当にごくまれに簡単なメールのやりとりをするのみである。結局、電車が来るまでの間、その番号を表示させていた恵はスマホをバッグにしまい込んでしまった。目の前に止まる薄緑色した車両のドアが開く。この時間はガラガラなため短い時間とはいえゆっくりと座ることができた。康男の言葉がいやに頭に残ったが、何も出来そうもない自分に苛つきながら帰路へと着くのだった。
めずらしく誰とも会話をせずに2人掛けの椅子に1人で座る由衣はぼんやりと暗闇が支配する外を見ていた。遠くを走る車のライトが川のようになって流れている他は所々にマンションらしき明かりが見えるのみで全体的には暗い。景色など無いようなものだったが、別に景色を見ているわけではい由衣は周人と言い争った先週の事を思い出していた。あの後、周人は別の3人を送っていったのだった。かなり近くの生徒たちばかりだったところから帰るついでにと周人がそれを申し出て、怪我の具合を重くみていた康男だったが結局それを認めたのだ。本来ならば運転すらさせたくないところだが、バスが故障しているのでは仕方がない。やむなく最終的に康男が周人にお願いをする格好になったのだ。それに周人の車は特別で、片腕でも容易に操作が可能となっていた。結果的に憧れの新城の車に乗せてもらった由衣だが、はしゃぐ由美や美佐を横目に沈んだ顔を見せていた。周人との間に何があったのは明白だと悟った新城だが、そのことにはあえて触れず、美佐や由美と楽しく話を弾ませた。せっかく乗った待望の車なのに素直に喜べないのは周人のせいだと、今更ながらに腹が立ったが、周人に言われた言葉が胸に刺さっているのもまた事実である。そしてそのムカツク相手は月曜だけでなく今日も休みなのだ。休みの理由は『個人的な用事』と説明されていたが、由衣はあの怪我の具合が悪いのか、自分に会いたくないからだと勝手ながら決めつけた。どこかすっきりしない気持ちの由衣は沸き上がる苛立ちをどうしていいかわからずにさっきまで恵が座っていた運転席のすぐ真後ろの席に向かった。それをミラー越しに見ていた康男は別に話しかける事もせずに運転を続ける。そうしてしばらく黙ったままだった由衣は外へと向けていた顔を前に向けるとおもむろに口を開いた。
「先生、今日、私を一番最後に送っていってほしいんだけど・・・・」
そう言うと浅くシートに座って背もたれに寝そべるようにし、下唇を突き出す感じですねたように窓の外を見やった。変わり映えのしなかった景色が徐々に変化していく。住宅地が近いのか、大きなマンションの明かりが多数見られるようになっていた。
「・・・わかった、少し遅くなるけどいいかな?」
「いーよ・・・それは別に」
素っ気なくそう言うと相変わらず不機嫌そうな顔をしてうつむいた由衣をミラーで見た康男は小さなため息をついて運転に集中するのだった。




