心の隙間(1)
薄暗くも広いその部屋の中に立っているのはわずかに男が3人だけだった。皆きちんとした身なりともいうべき制服に身を包んでおり、その胸にはいくつかのバッジが少ない明かりを反射して彼らが皆高い地位を持っているという事を無言で表現していると言えよう。立派で大きな机の上にはやや小さめの白いノートパソコンが閉じられた状態で置かれている他、分厚いファイルや束になった種類、白い電話といったオフィスにはかかせないアイテムがきちんと整理された状態で置かれている。その机に似つかわしい豪華な皮製の椅子には腰掛けず、グレーのブラインドによって閉じられた窓の横の壁に背をつく形で腕組みしている白髪の混じったオールバックの男性はやや鋭い目つきを右斜め前へと向けていた。だがその視線を向けられている男は涼しい顔をしながらタバコの煙を揺らし、自身の横で何やら分厚いファイルを必死な様子でめくっている小柄で黒ぶちメガネをかけた男をぼんやりと見ているのみだ。そんな2人の様子を見て心の中でため息をついたオールバックの男性はやや疲れた表情を見せながら机の前に置かれている横長の木で作られた高級なテーブルに添えられているこれまた高級な黒い皮製のソファにドカッと腰を下ろしてやや大げさな動きで足を組む。さすがにそうされては顔を向けざるを得ないタバコの男は冷ややかな笑みを浮かべると、今その男が座った対面にある全く同じ型のソファにゆっくりと腰掛けた。
「今でも心の中では反対、といったところですか?」
ソファに身を沈ませながらそう言うややとぼけた感じの言い方がまたしゃくに障る、そう思いながらフンといった感じで顔をそむけたオールバックの男はようやく目当てのページを見つけた様子の小柄の男に向かって横目で睨むような視線を浴びせた。若くしてキャリアの実力を発揮し、現職の大臣すら汚職で逮捕してみせたその手腕で早々と警部から本部長に上り詰めたこの男性の今の肩書きは警視庁の副総監である。
「新たなる『王』は確実にその力を発揮してますよ」
すぐ目の前にある横長テーブルの上に置かれた大きなガラス製の灰皿の下には白いレースの敷物があってテーブル全体に花を添えるような清潔感をかもしだしていた。その灰皿に丁寧な仕草で灰を落とすと、一旦灰皿にタバコを残して2、3度軽く首を回した。
「そのための『プロジェクト・ゼロ』だろうが・・・」
吐き捨てるようにそう言いながら、小柄な男がおどおどした様子で差し出したファイルを受け取る副総監はそこに写真付きで書類になっている男に怒りにも似た感情を込めた目で睨みつけた。
「彼、よくやってくれてますけどねぇ・・・現に渋谷の犯罪行為は年々収まってきてるじゃないですか」
「それに関してはそうかもしれんがね・・・私はこいつを信用していない」
小さな笑みをたたえた口元をそのままに写真に閉じ込められているその男に関する今月の活動報告を目にした副総監は次のページをめくるとさらに不機嫌そうな顔をしてみせる。
「危険極まりないとでも言いたげな顔ですね・・・・・確かにその男は要注意人物です。が、さすが元アメリカ兵、その辺の裏事情やマーケットにも詳しい」
「『ゼット』・・・・か、こいつも信用ならんな」
「あなたが信用しているのはこういったヤツらの中でもただ1人、『魔獣』こと木戸周人だけでしょう?」
そう小さく笑いながらどこか小馬鹿にしたような口調で話すと、再度タバコを手にとって口にくわえる。
「『キング』を倒した彼は確かに凄かった。僕もあなたも彼らに関する事件全ては承知している。でもね、もう十二年も前のことですよ?それに強かったのは『魔獣』自身ではない」
「『木戸流』と言いたいのだろう?もう聞き飽きたよ」
本当に聞き飽きたのか、副総監は疲れたようにそう言うとさっさとファイルを小柄な男に返してしまった。分厚い中から数分かかってようやく見つけた書類をわずか1分たらずで返却された彼の落ち込みようは言わずとも知れよう。だが副総監にしてみればこの毎月の定時報告は苦痛でしかないのだ。
「そうです、強かったのは『木戸無明流』であり、『木戸無双流』でもある。そして宗家を恨む分家、木戸無双流の百零こそ、我らに従う『かりそめの王』にふさわしい。それに、このプロジェクトには賛同していただけましたよね?4年前に」
嫌味っぽく確認する男に小さな笑みを見せた副総監は懐からタバコを取り出すと、ライターを手にした小柄な男を無視してそのまま笑みを消すことなく自分で火を点けた。
「そうだ・・・だが、私の耳にも聞こえてきているよ・・・その『ゼロ』に不審な動きがある、とね」
そう言って嫌味を返したはずの副総監の顔から笑みが消える。なぜならば目の前に座る男はタバコをもみ消しながらも喉を低く鳴らして笑っているからだ。
「それぐらい承知してますよ。秋田さん、僕が人選し、立ち上げたプロジェクトですよ?」
「なら、対策もできているのかね?」
そう問われても笑みを消さない男はスッと音もなく立ち上がると少したたずまいを直す感じで制服の乱れを直した。
「『よく鈴のなる首輪』を用意しています。それに、もしもの時のための計画もね」
電気の消えた白い天井を見やりながらそう口にする男の口調からは自信が満ち溢れていた。秋田はやや曇った表情を見せながらもゆるやかに煙を揺らせるとそのまま何も言わずに男の背中を見つめ続けた。
「ま、期待していてください、秋田副総監殿」
そう大げさに言い残し、男は木で出来た立派なドアに近づくと小さめに頭を下げて出て行った。そんな男の消えたドアを睨みつけながら自身の隣で直立不動の状態で立っている小柄の男に対し、やや低いドスのきいた感じの声で退室を命じた秋田は二度ほど指でトントンとタバコをたたいて灰皿の上に灰を落とした。
「今度は何を企んでいる、福山耀司」
その低い、憎しみすら感じられる声におびえつつ部屋を後にした小柄の男がいなくなり、薄暗い部屋に1人残された秋田は手の中にある小さな赤いタバコの火を見つめていた。
「本当に強いのは流派でもなければ『ゼロ』でもない・・・本当に強いのは、心に強い信念を持つ者だよ」
頭の中にとある5人の少年たちを思い浮かべながらそうつぶやくと、秋田は立ち上がって自分の机の上にある白電話を手にとってコーヒーを依頼した。そしてそのままの足で窓の前に立ってブラインドを勢いよく開けるとまばゆいばかりの日差しと目もくらむような高さから見えるコンクリートジャングルが目の中に飛び込んでくるのだった。
夏を前にした鋭い日差しがさっきまで薄暗かった板張りの道場の中を明るく照らし出している。道場の中に明かりはなく、天井にある電気は夕方にならない限り点ける事はなかった。つい5分ほど前に太陽を覆った横長の白い雲がようやく通り過ぎたおかげで道場の中も明るくなったのだ。その道場の中では3メートルほどの距離をおいてたたずむ白い道着の男2人が動かなくなってすでに3分ぐらいが経過していた。男たちの身なりは道場にふさわしいが、1人は柔道着、1人は少し変わった形をした柔道着といった感じだ。袖の部分はボロボロで無いに等しく、足の部分は裾部分を足首に縛ってあるのだ。だが2人がたしなむのは柔道でない。その証拠に道場に畳はなく、全面板張りなのである。梅雨が終わりを迎えた七月半ばの午後、道場の中は蒸し暑いというよりサウナに近い状態にあった。その暑い中にありながら2人の額に浮かぶ汗は少ない。汗だくになっているのはそんな2人の様子を見ている第3の男で、柔道着を来た長髪の男だった。ピンと張り詰めた緊張感は2人の男が試合を開始してからこれまで揺らぐことは無く、全く動かずに互いの動きを探り始めてからもそれは同じだった。第3の男、審判をしている長髪の男が暑さと緊張に耐え切れず滴る汗をぬぐう仕草を見せた時、変わった形の柔道着を着た男の口元が緩み、3メートルの距離を一気に詰めた。わずか瞬きするほどの一瞬で間合いを無くし、そのまま目にもとまらぬ速さの蹴りを見舞う。道着の裾を縛っている足首が対峙している男のこめかみを確実に蹴り上げるその瞬間、相手の男もこれまた異常な速さでその足首を掴むと蹴りを放ったその反動ともいえる相手の力を利用して掴んだ足首をひねるような形を取りながら板張りの床にたたきつけようとした。だが、足首を捕まれる事は予測済みだったのか自分を投げようとする相手の力を利用して上半身を回転させると蹴り上げるための軸足に使った左足で再度頭部を蹴りつける動作に入った相手に対し、床にたたきつけることを早々とあきらめた男は掴んでいた足首を放すとそのまますぐに後方へと飛びのいた。蹴りが空振りしてまるで這うような体勢で床に着地した男は飛びのいた相手を深追いせずにゆっくりと立ち上がると、嬉しそうながら相手の背筋を凍らせる笑みを浮かべてみせる。ゾクゾクする何かを背中に感じつつ、間合いをあけた男も小さな笑みを返した。
「いさぎいいと言うか・・・やっかいだな、その能力は」
笑いながらそう言うと相手を見ながらも小さな笑みは消さない。
「木戸さんに3年と言われていたところを4年待たせましたからね、期待を裏切れません」
そう言われた木戸周人はさっきまでの笑みを苦笑に変えた。確かに4年前、この相手である三宅光二にそう言った事を思い出したのだ。
「あぁ、こんなことなら余分に1年待たずに去年にやっとくべきだった」
そう言うと表情を引き締める。さっきから出っ放しの鬼気を感じながら、自分がこの気を受けながら恐怖と共に歓喜を感じている事を嬉しく思う光二は意識を集中して目の前の相手、最強の敵たる『魔獣』を見据えた。周人から『魔獣』が姿を現したのは試合開始5分後の事だ。いかなる攻撃すら受け流す光二に対して笑みを浮かべた瞬間、この背筋が冷たくなる鬼気が発せられたのだ。光二が知る限りこの気を発して3分以内にどんな相手ですら倒してきた周人を知っているだけに、すでに10分以上戦い続けてなおも無傷で立っている自分を誉めたい気分でいた。光二は集中した意識とともに五感を鋭くし、なおかつ自分が持つ最大の能力たる相手の心を読める力を発動させる。そのまま鋭くした五感と読心術とをシンクロさせれば目の前に立つ周人の姿が二重となって形を作った。そして重なった2つの周人のうち、まず1つが動き始め、一瞬の間を置いてもう1つの周人も全く同じ動きを見せた。最初に動いた周人が鋭い動きで拳を突き出せば、遅れた周人もまた全く同じ動きで拳を突き出す。最初に動いた周人は予知映像であり、後から動いた周人が本物だとわかっている光二は事前にその攻撃を見ているだけに避けるのはたやすいと思っていた。予知の映像の時点で回避行動に移れば本物の攻撃は事前に回避できているからだ。だが、その考えが甘かった事を痛感したのは周人から寒気を感じるほどの鬼気が放出されてから、つまりは彼の中の『魔獣』が姿を現してからだ。それまでは余裕を持って攻撃を受け止めるか避けるかが出来ていたはずなのに、今やそれもギリギリなのである。現に今見えたパンチも予知が拳を振りぬくのと、本物の拳が鼻先をかすめるのはほぼ同時なのだ。予知した動きと実際の動きが重なるほど速い相手はいまだかつて自分の師匠であり、今審判を務めている佐々木哲生しかいなかった。周人の強さは知っていたはずなのに強くなった自分を過信していたと痛感した光二は自分が持つありったけの力と集中力でここまで無傷で戦ってこれたが、相手に与えたダメージもまた皆無であった。一進一退の攻防とはいえ、光二は相手の攻撃を予知できる能力たる『マネージメントビジョン』を駆使してようやく互角なのだ。これが無ければ果たしてこうまで戦えたかどうかは疑問である。今や門下生を七十人近く持ち、3つの支部を持つまでに大きくなった佐々木流合気柔術道場の中でもたった3人しかいない師範のトップに立つのが道場の主である佐々木律也の甥であり、かつて『戦慄の魔術師』と呼ばれた哲生最高師範なのだ。その哲生に次ぐ実力の持ち主であるナンバー2の師範たる自分がこうまで攻撃を当てられない相手といえば哲生を除けばこの周人以外にいない。自分の目標である周人と戦う事を決意してから3ヶ月、哲生とともに十分な対策を練ったにも関わらずこのザマだ。そう思えば少し情けなく感じながらも相手は自他共に認める最強の存在なのだ、こうまで戦える自分を誇りに思わなければいけない。そう気を引き締め、かわした拳を掴むと手首を極めにかかるが光二の目の中の周人の右足が跳ね上がる予知映像が見えた。あわてて掴んだ手を放そうとした矢先、逆に手首を掴まれてしまった。予知した映像に気を取られすぎていたのか、自分の手首をつかまれたことに動揺したその瞬間、頭にすさまじい衝撃を受けた光二はそのまま目の前が真っ暗になるが感覚を尖らせて一瞬失った視覚を補おうと他の感覚を研ぎすます。だがやはり一瞬とはいえ視覚を失った事と受けたダメージのせいか『マネージメントビジョン』の能力がかき消えた光二は周人の攻撃を受けつづけた。それでも無意識的な感覚で致命傷は避けているが、受けたダメ-ジは蓄積されていく。ようやく意識を集中させて再度『マネージメントビジョン』を発動させた瞬間、周人の右足が跳ね上がると同時に左足も床から浮き上がる。光二がこの4年間、夢にまで見ながら会得できなかった左右同時の蹴り技が今まさに光二の頭部をめがけて牙をむいたのだ。だが、この技に対しても対策は万全だった。電光石火のその蹴りを受けるでもなく避けるでもない、光二は自身が持つありったけの反射神経を使って前へと踏み込んだのだ。さすがにこの行動に驚いた顔を見せた周人は舌打ちしながらも蹴りの軌道を変えようとするが、足を遠くに伸ばせこそすれ、縮めることはできない。とっさに膝を曲げて応戦するもバランスを崩してしまった。その瞬間、光二の右ひじが周人のみぞおち付近を直撃し、さらにあごに左拳がめり込む。だが光二はそれだけでは満足せず、周人の道着の襟元を掴むと両手を交差させて襟で首を絞めながら背負い投げを放った。さらにそこから周人の背中が固い床に着く寸前に道着を掴んだ手ごと周人の体を床に押し付ける。これこそ落とすタイミングをずらして受身を取らせない佐々木流合気柔術奥義『砕落』であり、光二が最も得意とする技であった。そのタイミング、キレは最高師範たる哲生すら舌を巻くほどであり、いかな周人であってもこれを喰らえばひとたまりも無いはずだった。実際哲生ですら完璧に決まったと思ったほどだ。そして技自体は確かに決まった、それも完璧なまでに。だがどうだ、技を放った光二もまた倒れこんだではないか。
「化け物だな・・・」
思わずそうつぶやきをもらした哲生は冷たい汗を背中に感じながら、もうすっかり衰えたと思っていた周人の強さを再確認せざるをえなかった。今の砕落を喰らうまさにその瞬間、もはや受身を取ることすら放棄した周人はただ光二にダメージを与えることを選んだのだ。自分の背中に言い知れない衝撃を受けながら下半身を折り曲げ、自由な足で光二の後頭部を蹴りつけたのだ。あまりの衝撃から口から血を吹きながらも体を回転させて片膝で立つ周人は口から流れる血すらそのままにその口元を吊り上げて笑みを浮かべた。2度にわたって頭部にダメージを受けたせいか、『マネージメントビジョン』が発動しない光二はグラグラ揺れる意識を集中させ、ゆっくりと立ち上がる周人を睨みつけた。
「あなたに『魔獣』と名づけた人を尊敬しますよ」
そう言われて少し表情を緩めた周人だったが、気に衰えは無い。対する光二は気もゆらぎ、足も小刻みに震えていた。哲生は内心勝負あったと思いつつ、ここまで良く戦った光二の成長を嬉しく思っていた。この4年間、自分よりも鍛錬をつんできた光二に底知れない才能を感じ、もしかすれば周人を倒せるのではないかと思っていた。だが、実際は周人を追い込みながらも致命的なダメージを与えられない。4年間で数多くの試合をこなしてきた光二だが、やはり乗り越えてきた修羅場の数が周人とは違ったのだ。
「これで終わりだなんて言わないでしょう?」
光二は両手をダラリと下げて不敵にもそう言った。
「言わねぇよ・・・まだお前から恐怖を感じているからな。戦う気も衰えていない」
合気柔術を始めてたった4年の自分から最強の『魔獣』が恐怖を感じてくれている、それは光二にとって最高の誉め言葉であった。周人を目標として今日まで頑張ってきた努力は無駄ではない、そう思わせる今の言葉に光二は心からその最高の相手に勝ちたいと願った。
「今の『砕落』が僕の最高にて最大の技、と思ってないでしょうね?」
「ほぉ・・・鳥肌がたってきたよ」
そう言い合ってからお互いの気が膨れ上がるのをビリビリ感じながら、哲生は今の光二の言葉がハッタリであると見抜いていた。光二がもっとも得意とし、哲生すらうならせる『砕落』以外に彼の最高の技は無い。もちろん奥義は他にもあるが光二が昇華した技は『砕落』であり、最大の必殺技なのだ。おそらく心理戦にもちこむ気だと悟った哲生だが、それが周人に通用しないこともわかっている。並みの相手ならば無い技をあると言われて警戒し、隙を見せるケースがある。だがこの周人に限ってはそれを期待すること自体が隙に繋がるのだ。勝負あったなと思いつつ静かに2人の動きを見る哲生は周人の底知れない強さに少しながら動揺するのだった。
ダラリと下げた手はそのままに、その手に気が満ちてくる。そんな気配を感じる周人は小さく微笑むようにしてみせると一気に間合いを詰めるように飛んだ。もはや『マネージメントビジョン』が発動しない光二にはそこからどういった攻撃が来るかは全く分からない。だが、それは周人も同じなのだ。空中高く舞い上がった周人はそこから目にもとまらぬスピードで3回蹴りを放つ。2つしのいで1つ顔面を蹴られながら、光二は気を溜めた手の平を着地する寸前の周人の左胸、心臓の真上に添えるように置いた。
「まさか!」
無意識的に叫ぶ哲生の声など聞こえない2人の間で気が爆発する。相手の胸に手を置いたままふんばるように縦に開いた足、徒競走で言う『よーいどん』の『よーい』の際に取る姿勢から、らせん状に力が上半身へと上がってくる。恐るべき伝達速度でやってきたバネと気が手の平の気と重なった瞬間、上半身の力のみを利用して添えた手の平を軽く押しながら込めた気を全てたたきつけた。
「絶っ!」
密着した状態で放たれた気は心臓を直撃し、その動きを一瞬とはいえ止めさせて相手の動きと思考を完全に奪い去って次の攻撃を回避あるいは防御することを不可能にさせる究極奥義『絶』。幼い頃からずっと合気柔術をやってきた哲生ですら習得するのに何年もかかったこの『絶』を、合気柔術を始めてわずか4年の男が使えるなどと誰が想像できたであろうか。その恐るべき才能を目にしながらも、このタイミング、キレ、気の張り具合と放出をもってしても倒せない相手などいるはずもないと思えた。ただ目の前のこの男を除いては。気が放出されるその一瞬で密着している手の平をかわせるなんという反射神経、なんという反応速度か。気を放出しきって動きを完全に止めてしまった光二の右側に信じられない速度で回りこみながら自身の反動を左足でふんばって止め、その動きを利用して右腕を大きく振りかぶる。光二は顔だけを周人の方に向けてその動きを見た瞬間、自分の死をイメージしてしまった。その自分の足元に周人の右足がたたきつけられるようにしてやって来たそのすぐ後に野球でいう投球モーションから描かれた右拳がその腹部を直撃した。とっさに全身の気を腹部に集中させ、気によって硬度を増して打撃から防御する『気硬化』すら無効とする信じられない衝撃に悶絶しながら、光二は固い床にゆっくりと倒れこんだ。息もままならない状態でパクパク開いた口からは意思を無視してよだれが落ちてくる。だがなんとか意識だけは保った光二は自分を見下ろす感じで立っている周人に目で参ったと告げた。
「勝負ありっ!」
すかさず哲生がそう叫ぶと、光二はゆっくりと目を閉じた。息苦しいが心は晴れている。悔しさは無く、むしろ満足感でいっぱいだった。たった4年でこうまで周人と五分に戦えた事を生涯誇りに思えるだろう。そんな光二をそっと起こしてやると、周人もまたその横に座り込んだ。肩で大きく息をしながらも光二を見て微笑んでいる。
「強かった・・・最後の技、ありゃぁ何だ?」
「究極奥義『絶』。ウチの親父が木戸無明流を倒すためだけに編み出した技だ。早い話がオタクとこの天龍昇の佐々木版だよ」
ダメージから満足に話せない光二に代わって哲生がそう説明してみせる。
「まったく、アレをあの状態からかわしたお前も凄いが、アレを使ったウチの師範も凄いぜ」
「去年、道場で練習してたら、突然哲也さんが来られて教えてくれたんです・・・哲生さんには内緒だぞって」
息が切れているせいか、ゆっくりと途切れ途切れでそう説明した光二の言葉に哲生は目を丸くしてヘタリ込む形で2人の前に座り込んだ。
「哲也って・・・・親父?」
その言葉に素直にうなずく光二。
「気の練り方から動作まで事細かく・・・ひとしきり教えてくださった後、あとは努力次第だって去っていってしまいましたが」
自分の時には概要をごく簡単に告げ、あとは勝手にやれと言っただけの父の姿を思い浮かべながら、哲生はこうまで差をつけた父哲也に対して憎悪にも似た負の感情がふつふつと湧き上がるのを感じていた。
「でも・・・あの状態からかわせるなんて・・・僕に油断があったんですね」
「いや、お前に油断はなかった。最後の最後までな。手を密着された状態で避けたこいつが化け物なんだよ・・・きっと俺でも同じ結果になったさ」
師匠と弟子、2人に睨まれた周人はとぼけた顔をしながら天井を見上げ、それからふっと表情を和らげて光二の方を見やった。
「しかし、強かったよ・・・正直、君の強さが俺の全てを十二年前に戻してくれなかったら今ごろそこで意識を失ってぶっ倒れていたとこだ」
「ありがとうございました・・・またいつかお願いします」
そう言って手を差し出す光二に苦笑しながらがっちりと握手を交わす周人。
「もうしんどいからいいよ・・・」
そう言った周人に笑顔を見せた光二に続いて哲生もまた優しい笑みを浮かべた。
「最高の誉め言葉と取っておきます」
心からそう思う光二は腹部に受けた天龍昇のダメージからか、天井を見る形で寝そべった。おそらくしばらくは立てないだろう。それどころか今日は何も食べることができないかもしれない。
「しっかし、やっぱ結婚したら強さが違うなぁ・・・意思の強さがハンパじゃない」
そう哲生に言われた光二は目をパチクリさせた後、やや照れたような顔をしてみせる。
「そうですかね?」
「それは言えるな」
周人の相槌に、光二は小さく笑った。
「なら木戸さんも早く結婚しないと」
「そうだぜ、このままじゃ俺たちにおいてけぼりだぞ・・・純や誠も結婚、残った十牙もやっとこさ婚約と来たら、残ったのはお前だけ。しかも相手は最高の女性じゃないか」
「まぁ、な・・・」
どこか歯切れの悪い返事を返す周人に首をかしげる2人だが、これは周人とその恋人である吾妻由衣との問題だ、これ以上は突っ込んだ話はできない。
「付き合って5年・・・そろそろだとは思ってるよ。由衣ももう二十四だからな」
そうとだけ言ったきり神妙な顔をして黙り込んだ周人に対し、何か結婚の障害になるものでもあるかと思案した哲生だが、お互いの両親も公認で結婚には賛成で何の問題もないはずだ。しかもこの5年間でケンカらしいケンカは哲生が把握しているだけで2、3度だけ。去年に1度だけ大喧嘩したが、結局別れ話になるでもなくすぐに仲直りをしている。
「まぁ、前向きに考えているってことで・・・」
そう言って立ち上がった周人は袖がボロボロで無くなってしまっている奇妙な道着を直すと道場の隅にあるシャワールームへと続くドアをくぐった。寝そべったまま顔だけをそちらへと向けて周人の後ろ姿を見ながら、昔の自分だったならばためらいつつもここで周人の思考を読んだだろうなと思う光二は小さな微笑を浮かべると静かに目を閉じた。
「ま、いろいろあるだろうさ・・・あいつの場合はな。で、どうだった?試合の感想は」
いきなりそう振られた光二は大きく目を見開いたが、また静かに目を閉じると満足そうな笑みを浮かべてみせた。
「恐かったけど、楽しくもありました・・・何より、ここまでやれた自分が嬉しい」
すがすがしいその表情は雲一つない今の青い空と変わりがない澄んだものだった。その光二の言葉に満足したのか、哲生もまた嬉しそうな顔を見せるとその空が見える開け放たれた窓の外へと視線を向けた。
「いつか、前にさ、俺は周人に勝てるって言ったの、覚えてるか?」
不意にそう言う哲生を見た光二は重い体を奮い立たせて身を起こし、座る態勢を取った。ズキンと腹部が痛み、頭が揺れるがさっきよりはずいぶんましになっているのがわかる。
「あれ・・・撤回だ。勝てるかどうかわからん・・・あの『絶』をかわせる人間なんて想像もできないからな・・・」
「あれは僕だから・・・哲生さんなら・・・」
「いや、あの『絶』は完璧だった・・・おそらく、あいつ以外の木戸の継承者なら勝っていたはずだ。あいつの強さには底が無いというか、サラリーマンしててああも衰えないなんてな・・・君やオレが家族を想う心より、あいつが由衣ちゃんを想う心のほうが強いって事かもな」
そう肩をすくめて苦笑交じりに言う哲生の背中から視線を外した光二は床を見つめたままポツリとつぶやいた。
「僕や哲生さんが背負っているものとは種類が違うんですよ、きっと」
その言葉に振り返った哲生はやや苦々しい顔をしながらも今の光二の言葉にどこか納得していた。
「そうかもしれないな」
そう言って再度窓の外の景色へと顔を向けた哲生はもうすぐそこまで来ている真夏の気配を感じながら、また夏が来るのかと、十二年前の『あの日』へと思いを馳せるのだった。




