隣席の修羅場 ―3―
花音はずっと無言だった。
レストランを出て、ホテルの外に出てからも無言で咲の手を繋いだまま歩く。
「あ、あの、花音さん?」
一体どこに向かっているのかもわからない状況に、咲はおずおずと呼びかけた。それにピタリと足を止め、花音が振り返った。
いつもとは違う、男らしい顔つきに、一瞬ドキリとする。
思わず俯き、「……えーっと、本当に花音さんですか?」と尋ねた。
そうだよ、と花音が答える。
「しばらく会ってないから、僕のことなんて忘れちゃった?」
優しい声で、少し嫌味っぽい言葉を投げてくる。
「いいえ、そんなことは……」
咲は俯いたまま、フルフルと頭を振った。
「でも、髪が……」と花音の髪へと目を向ける。
ショートヘアになった髪型のせいで、いつもの中性的な感じがなくなり、男の人みたいだ。
「ああ、これ?」
花音がクスリと笑い、前髪を一束、親指と人差し指で摘んだ。
これね、とそのまま摘んだ指で前髪を力任せに引っ張る。
「えっ、花音さん?」
ギョッと目を丸くした咲の前で、花音の髪がありえない量の束となって抜ける。その抜けた髪の下から、いつもの艶やかで長い黒髪が現れた。
「……ウィッグ?」
そう、と花音がニコリと笑った。
「親父が髪を切れって言うから、ウィッグ被っていたの」
「ああ、そうなんですね。よかった」
咲はホッと胸を撫で下ろした。
「よかった?」
「はい――ショートヘアの花音さんは男の人みたいで、どう接したらいいのか分からなくて」
「……咲ちゃん、僕、男だよ?」
花音が惚けた顔で言う。
「あ、もちろん、そうなんですけど」
咲はワタワタと手を振った。
「ただ、あまりに男らしいっていうか……ちょっと違う人に見えて、人見知りしてしまいました」
「咲ちゃんは、髪型で僕を認識してるのね……」
花音はガックリと肩を落とした。
「あ、決してそういうわけでは──でも、花音さんと言ったら、長い髪がトレードマークですから」
「トレードマークって」
花音は苦笑いを浮かべる。
「ま、いいや」と息をつき、クルリと方向転換をした。
スタスタと歩き出した花音に引きずられる形で、咲も歩き出す。
「あの、どちらに?」
「駐車場。僕、車で来たから」
顔だけこちらに向けて、花音が答えた。
「駐車場……」
咲はピタリと歩みを止めた。
それに引き止められた花音が「咲ちゃん?」と身体ごと向き直る。明るい茶褐色の瞳が心配そうに咲を見つめた。
「――あの、私、電車で帰ります」
花音の視線が眩しくて、咲は目を伏せた。
花音さんと二人っきりになる状況を想像すると、どうしても観覧車での出来事を思い出してしまう。恥ずかしくて、逃げ出したくなる。
咲は繋いだ手を離そうと、指の力を緩めた。
「待って、咲ちゃん……」
その手を花音が握り返す。
「花音さん……」
驚いて顔を上げると、ひどく焦った花音の顔が咲を見下ろしていた。
「――この前は、ごめんなさい」
手を繋いだまま、花音がペコリと頭を下げた。
「え?」
「その、……観覧車で、あんなことしたから、怒っているんでしょ?」
「それは……」
咲は口籠る。フルフルと首を振る。
「怒ってないです――ただ、恥ずかしくて」
「恥ずかしい? それだけ?」
それだけって、それ以外に何があるのだろう?
「その、嫌だったとか……」
咲の考えを見透かしたように花音が付け加える。
「嫌ではありません」
「嫌じゃない……」
花音の顔がパッと明るくなった。
「ただ恥ずかしかっただけです――だって、私があの状況で花音さんを見つめたりしたから、誤解させたんですよね?」
「誤解?」
花音が首を傾げる。
「その……キスをねだっているみたいに」
「え?」
花音はキョトンとし、目を瞬かせた。
「だから、恥をかかせまいと、キスしたんですよね?」
「はっ?」
「そんなふうに花音さんに誤解させてしまって、それが恥ずかしいな、と。だから、こちらこそ、ごめんなさいっ」
咲は深々と頭を下げた。
「え、いや、それはこちらこそ、本当にごめんなさい」
困ったように顔を歪め、花音も頭を下げた。
「でも、それなら、キスしたことは怒ってないってことでいいのかな?」
戸惑ったように尋ねた。
「怒るもなにも、私の落ち度ですから」
「落ち度……」
花音は呆れた顔で押し黙った。
「花音さん?」
何か気に障ることでも言ったかしら?
咲は不安になり、花音を見上げた。花音は複雑な顔で咲を見返すと、ユルユルと首を横に振った。
「――ねぇ、咲ちゃん、仲直りしようか」
いつもどおりの穏やかな笑みを浮かべて花音が言う。
「仲直り?」
でも、別に喧嘩しているわけでは。
咲は眉根を寄せた。それを花音がクスリと笑う。
「僕たち、お互いに悪いと思っているんだから、もういいでしょ。あんまり拗らせてると、悠太くんが悲しむよ?」
今ここで悠太くんの名前を出すのはズルいと思う。咲の心が微妙に揺れた。
「ねっ、咲ちゃん?」
明るい茶褐色の瞳に覗き込まれ、咲はドキリとする。
それから、急に悠太の淹れたカフェラテが恋しくなった。
「――します。仲直り……」
咲はおずおずとうなずいた。
「やったぁ」
花音は両手を挙げ、「よかった」と咲をハグしたのだった。




