隣席の修羅場 ―2―
「──でも、それは建前ですよね」
武雄が言った。それに、えっ、と井上が目を見開く。
「それなら、わざわざこのホテルのレストランを選ぶ必要がないですからね」
「選ぶ必要がない?」
怪訝そうに鬼柳が聞き返した。
「というか、できれば避けるところですよね──智美さんの恋人と鉢合わせをしたら困りますから」
武雄の答えに、井上は、ハハッと声を上げて笑った。
「何もかもお見通しってわけですか」
感心したように頷く。
「……どういうことだ?」
話の呑み込めない鬼柳が小声で武雄に尋ねた。
「智美さんの恋人は、このレストランのシェフなんです」
武雄は視線を智美に向ける。智美はコクリと頷いた。
「だから、井上さんは、智美さんの恋人を見定めようとこのレストランを選んだ──一人では照れ臭かったので、わざわざ『見合い』という口実を作ったのではありませんか?」
その問いに「武雄くんには敵わないな」と井上が小さく笑った。
「そうです。武雄くんの言うとおりです。ただ、智美が武雄くんを気に入ってくれるのなら、それでも良かった」
井上はそう言って武雄を見つめた。
「でも、あなたは智美さんの恋人を気に入ってしまった」
「……そうです。彼の心遣いに絆されてしまいました」
井上は照れ笑いを浮かべた。
「ええ。本当にこちらの料理は素晴らしかったですね」
武雄は同意する。
「じゅんさいのジュレ寄せ、ふきのマリネ、比内地鶏のポワレ。全て秋田の特産品を使用しています──それは井上さんの故郷が秋田だから」
武雄の言葉に、井上は息を呑んだ。
「そんなお話しましたか?」と目を見張る。
「先程、少し訛りが出ましたので。『このジュレは《《かまして》》食べるのか』と──《《かます》》は東北地方で広く使われる方言の一つで『かき混ぜる』の意味。そして、料理には秋田の特産品を使っている。となれば、大体の想像はつきます」
「いや、参ったな」
井上は感嘆の声を上げた。
「そうです。私は秋田の出身です。しかし、この数年は仕事が忙しく、故郷に帰れていませんでした──それを智美は恋人に話したのでしょう」
そう言って、井上は智美を見た。智美は笑みで応じる。
「だから、彼は今回のメニューを考えてくれた。素晴らしい心遣いです──結婚は同じ国の者同士でも、なかなか上手くいかないものです。ましてや文化や習慣の違う異国の方ともなれば、やはり難しいのではないかと考えてしまう……が、それは単なる杞憂だったようです」
井上は晴れやかに笑う。
「彼は私をもてなそうと努力してくれた。そういう方であれば、智美とのこともしっかりと向き合ってくれるはずです」
「そうかもしれませんね」
武雄は頷いた。
「それじゃあ、お父さんっ……」
智美が嬉しそうに声を上げる。
ああ、と井上は頷き、「今度、彼を紹介してくれ」と笑った。
「それから、鬼柳さんたちには本当に申し訳ないことをしました」
頭を下げた。
鬼柳は、いや、と困ったように頭を掻き、武雄を見た。
「納得したか、親父」
武雄が問う。それに鬼柳はうんうんと頭を振る。
「それじゃあ、今度こそ俺は帰る──さっきから彼女を待たせているんでね」と咲を見た。
途端に隣席の視線が咲へと集まる。咲は萎縮して身を縮ませ、ペコリとお辞儀を返した。
「か、彼女って……」
身を乗り出すように咲を見た鬼柳が、驚いた顔で武雄を見た。
「そう、彼女。だから、余計な心配は無用だ、親父」
武雄は鬼柳の肩を叩く。
「そうか」と鬼柳は嬉しそうに目を細めた。
格子状の壁を回り込み、目の前に立った武雄は、咲の想像どおりの人物だった。
明るい茶褐色の瞳とそれに影を落とす長い睫毛。スーッと通った鼻梁は高く、緩い弧を描く形のよい唇は淡いピンク色をしている。
──ただ一つ違うのは、その髪の長さだ。
「……花音、さん?」
だから、咲には確信が持てなくて尋ねる。
うん、と穏やかな笑みを浮かべ、花音が頷いた。
「帰ろうか、咲ちゃん」
優しい声で、花音が言う。それから、咲の傍らに立ち、大きな手を差し出した。
咲は恐る恐るその手に自分の手を重ねる。途端に花音の手にギュッと力が込められた。
「花音さん?」
咲は驚いて花音の顔を見上げた。一瞬、花音の瞳の奥に静かな火が灯ったように見えた。
「行こう」
しかし、すぐにそれは消え、いつもの柔らかな笑みのまま、咲の手を引く。
「あ、ちょっと待ってください」
咲は慌てて椅子の上のバックを拾い上げ、花音の後ろへと従った。




