コサージュと香りと ―3―
「アクア・ミラビリス?」
「そう。ラテン語で『驚異の水』って意味なの」
「驚異の水……」
ちょっと胡散臭いネーミングだ。
「今、胡散臭いと思ったでしょ」
咲の考えを見透かしたように花音は悪戯っぽい笑いを浮かべる。
「……ちょっとだけ」
「素直でよろしい」
花音は大仰にうなずく。
「……でも、当時の人からしてみれば、飲み物や外用薬、さらには香水にも使えるアクア・ミラビリスは、驚異の水と呼ぶには相応しい逸品だったと思うよ」と付け加えた。
「『アクア・ミラビリス』というのは薬用酒の総称でね。『エリクシル』なんて呼ばれたりもしていたみたい」
「エリクシル? たしか、霊薬とか万能薬って意味ですよね。なんかファンタジーっぽくなってきましたね」
「そうだね。薬用酒を作っていた人の中には、錬金術師もいたみたいだし。もしかしたら魔法が使える人もいたかもね」
花音は楽しそうにウィンクしてみせた。
「ちなみに、アクア・ミラビリスは、アルコールと蒸留する花やハーブの種類で呼び方が違ったんだ。
中でも特に人気だったのが、ローズマリーを使ったハンガリー水」
「ハンガリー水? ローズマリー水でなく?」
咲は花音の横顔に尋ねた。
「ハンガリーの王妃が愛用していたことからそう命名されたんだ」
「なるほど。国名から来てるんですね」
「そうなの。で、そのハンガリー水にはちょっとした逸話があってね」
「どんな逸話ですか?」
「まぁ、本当のところはわからないけど――」
花音は断りを入れ、続ける。
「老齢のハンガリー王妃が使用したところ、驚くほど若返ったらしくてね。その効果は年下のポーランド王を魅了して、求婚されるほどだったそうだよ。それが噂で広まり、ヨーロッパ中の宮廷で使われるようになった」
「なるほど」
つまり、ハンガリー水はアンチエイジングに有効な水という触れ込みらしい。今も昔も人の欲望はあまり進歩がないな、と思う。
咲は苦笑いを浮かべた。
「あと、メリッサ水も有名だね」
「メリッサ水?」
「メリッサ水は、レモンバームを蒸留したものでね。当時流行していた疫病のペストの予防に効果があるといわれていたの。入浴する代わりに、メリッサ水で身体を拭いて清めていたらしいね」
「そうなんですか?」
咲は首を傾げる。
「メリッサ水には本当にペストの予防効果があったんですか?」
「実際のところはデータがないからわからないけれど――ペストはノミが媒介していたみたいだからね。もしかしたらレモンバームの虫除け成分が効いたのかもしれないね」
「そうですね」
広く普及したのだから、何らかの効果はあったのかもしれない――それが例え、気持ちだけであっても。
「お花が病気や悪いものを追い払うって考えは、この辺りからきているんじゃないかな、って僕は思うんだ。お花――特に香りの部分がクローズアップされ、厄除けのような考えが広まったんだと思うよ」
花音はそう持論を述べた。
それなら、と咲はコサージュに視線を落とした。
「このコサージュはとてもいい香りがするので、厄除けの効力も強いのでは……」
膝の上で両手に収まっているコサージュは、そこからでも青葉のような爽やかな香りが漂ってくる。
そうかもね、と花音は笑った。
「でも、そのコサージュ、ヒヤシンスを使っているんだ。……咲ちゃんは平気?」
「……平気って?」
咲ははたと花音を見つめた。
花音はちょっと困ったように顔を歪め、「ヒヤシンスって、すごく香りが強いから、好みがわかれるの」と返す。
そうなんですか、と咲はコサージュを胸元に引き寄せ、再度匂いを嗅いだ。
「――私は、好きですね。この瑞々しい青葉のような香り。それに甘さもあって……なんだか心が癒される気がします」
「咲ちゃんは、嗅覚もいいんだね」
花音が感心して言う。
「ヒヤシンスの香りは、まさにそう表現されることが多いんだよ。青葉を思わせる爽やかな香りってね」
「そうなんですか? たまたまですよ」
咲は照れてうつむいた。花音はクスリと笑う。
「ヒヤシンスって、単体だと香りが強すぎて苦手な人も多いんだけど、ほかの芳香花と組み合わせると大丈夫って人も結構いるの」
「芳香花?」
「香りのあるお花のことだよ」
「香りのあるお花……」
「うん。今日は少し香りのあるバラと組み合わせて使ってるんだ」
たしかに、ヒヤシンスとバラの組み合わせは見た目も優雅だが、ヒヤシンス単体の香りより、奥行きを感じる気がする。
「ちなみに、ヒヤシンスの香り成分には、フェニルアセトアルデヒドが含まれるんだ」
「フェニル、アセト……アルデヒド?」
ちょっと長いカタカナの単語に咲はつっかえながら、復唱する。
「そうそう。フェニルアセトアルデヒドね」
花音が片目を瞑って、口ずさむ。
「香水の成分としても使用されていて、『グリーンノート』に分類される香りだね」
「お花の香りの成分が、香水の成分と一緒なんて、面白いですね」
咲は感心した。
「まあ、元々、香水はお花を蒸留して作ったものだからね」
「アクア・ミラビリスですね」
咲は得意げに告げる。そうそう、と花音はうなずいた。
「まぁ、コサージュができた頃には、香水が発展していたみたいだから、消臭よりもアクセサリー的な意味合いが強かったみたいだけど」と肩をすくめた。
「……花音さんは好きなんですか?」
「え?」
咲の問いに、花音は驚いたように目を見開く。
「……なんのこと?」
どこか上擦った声で聞き返した。
「さっき言ってましたよね。ヒヤシンスの香りは好き嫌いが分かれるって」
ああ、そのこと、と花音はホッと息をつく。それから「僕は好きだよ」と笑った。
「この時期、近くに咲いてると風に乗って薫ってきて、ほっこりした気持ちになれるから」
「わかります。どこか春を感じる匂いですよね」
そんな他愛ない会話をしながら、花音は車を目的地へと走らせる。遊歩道沿いの道路を山手へ道なりにしばらく進むと、住宅が立ち並ぶエリアから、忽然と進行方向に森が現れた。
「あれが、中山森林公園」
目の前の森を見つめ、花音が言った。
森の陰からくすんだ赤色の屋根と白い壁がのぞいていた。




