プロローグ
四月の中旬。
お風呂上がりの火照った身体を冷まそうと、田邊咲はリビングの掃き出し窓を開けた。すっかり温かさを増した風がサーッと吹き込み、咲の濡れた髪を揺らす。
窓の隙間を数センチに狭め、咲はリビングのテーブルに陣取った。それからドライヤーで髪を乾かしていく。
そのドライヤーの騒音に紛れて、かすかにインターホンの音が聞こえた。
――こんな時間に誰だろう?
ドライヤーを止め、壁の時計を確認する。時刻は午後九時を回ったところだ。
戸惑っていると、再びインターホンが鳴った。
咲は椅子から立ち上がり、モニターを覗き込む。
「花音さん……」
モニターには薄暗い灯りに照らされた目鼻立ちのはっきりとした端正な顔立ちの男が映っていた。このビルのオーナー・華村花音だ。
はい、と応答ボタンを押すと、「こんばんは、華村です」といつもの柔らかさの中に焦りの入り混じった声が返ってきた。
「こんばんは」
不審に思いながら咲は挨拶を返す。
「今、大丈夫?」
「え?」
「ちょっと会って話せないかな?」
続く花音の言葉に、咲は戸惑った。
お風呂上がりでメイクはしてないし、ルームウェアなのでちょっと人に見せられた状態ではない。でも、花音さんがこんな時間に会いたいというのには訳があるのかもしれない。
頭の中でグルグル考えていると、「……本当に、ちょっとでいいから」と縋るような花音の声がインターホンから聞こえる。
咲は少し思案し、はい、と応じた。
薄暗い玄関先なら服装はともかく、顔はよく見えないだろう、と判断したのだ。
大きめのガウンを羽織り、玄関へと向かう。
ドアを開けると、切羽詰まった表情の花音が佇んでいた。
「大丈夫ですか?」
だから、つい、そう尋ねる。
「それはこっちのセリフだよ」
花音は前髪を掻き上げ、安堵したようにため息を吐いた。その瞳が心配げに咲を見つめる。
「え?」
咲は花音の意図するところが分からず、彼を見つめ返す。
「何度か電話をしたんだ」
ボソリと花音が呟く。
「でも、全然繋がらないから……部屋には帰ってきているはずだし、もしかして倒れているんじゃないかって」
それで心配して様子を見に来たわけだ。
「すみません、ご心配おかけしました」
咲はペコリと頭を下げた。
「明日はお休みなので、少し長風呂をしていたんです」
バツが悪くなり、言い訳じみたことを言ってみる。――別に悪いことはしていないのだけど。
「長風呂って、一時間も?」
花音が目を丸くする。
「女の子なら、わりと普通なんですよ。三時間入るって子もいますから」
「三時間……」
唖然とした表情を浮かべ、花音はパチパチと目を瞬かせた。その顔が妙に可愛らしくて、咲はクスリと笑った。
「ところで、何か用事があったんですよね?」
「あ、そうそう」
咲の言葉に、花音は表情を戻し、思い出したように頷く。それから「咲ちゃんって、明日、お暇かな?」と問うた。
「そうですね……」
咲は頭の中にスケジュールを思い浮かべた。特段、大した予定は入っていない。自分の非リア充ぶりを身に染みて思い知り、気が重くなった。
「……空いてますね」
しょんぼりと肩を落とした咲と比例して、花音は「よかった」と顔を綻ばせる。
「よかった?」
首を傾げた咲に、「それなら、明日、付き合ってくれない?」と花音は満面の笑顔を返した。
「付き合う?」
咲はますます困惑した。
「実は、明日、市で開催している子供向けのアレンジメント教室があるんだ」
「アレンジメント教室?」
「そう。公共の施設で行っている出張教室。それの講師を務めているの」
へぇ、そうなんですか、と咲はうなずく。
『アトリエ花音』というフラワーアレンジメント教室を主宰している花音さんの仕事は結構幅広い。
教室でフラワーアレンジメントを教えるのはもちろん、お花屋さんとして注文を受けたり、配達をしたり、お店やオフィスなんかで生け込みをしたり。あと、ウェディングフラワーのプランニングに、今回は出張で講師をするのだという。
そのほかにも咲のまだ知らない仕事があるのだろう。
「でも、一人だと手が足りなくてね……」と花音は眉根を寄せた。
「いつもは悠太くんにお願いしているんだけど、風邪をひいたみたいで」
悠太とは華村ビルの一階で喫茶店を営む、咲より少し年下の男の子だ。
「風邪? 悠太くん、大丈夫なんですか?」
一人暮らしでの病気は身体的にも精神的にも堪える。花音さんが無駄に自分のことを心配したのも、そういう経緯があったからか、と今更ながら納得する。
「大丈夫だと思うよ。さっきお粥を食べさせて、薬を飲ませてきたから。一晩寝たらきっと元気になってるよ」
それならいいんですけど、と咲は胸を撫で下ろした。
「……花音さんって面倒見がいいですね」
「だって僕は、ここの住人の保護者だから」
「保護者?」
「そうだよ。だから、咲ちゃんもいつでも頼ってね」と花音は笑う。
――そんなこと言われたら、本当に頼ってしまいそうだ。
今でさえ甘え過ぎなのに、と咲は苦笑いを浮かべた。
「そういえば、お粥は花音さんが作ったんですか?」
「そうだけど?」
咲の問いに、花音は不思議そうな表情を浮かべる。
「あ、いえ、花音さんって、お料理できたんですね」
まあね、と花音は肩を竦めた。
「僕、一人暮らし歴は長いから。結構なんでも作れるよ」
そうなんですね、と咲はうなずいた。花音さんの作った料理を食べてみたい、とは思ったけど、そんな図々しいこと、とても言えない……
「だから、突然で悪いんだけど、明日、悠太くんの代わりに、お手伝いを頼みたいんだ」
「私で大丈夫ですか? 凛太郎さんのほうがいいのでは?」
もう一人のビルの住人である凛太郎の名を挙げてみる。途端に、花音は渋面を作った。
「凛太郎は、子供に嫌われるから」
「ああ、そうですよね」
凛太郎の目つきの悪い顔を思い出して、納得する。
「だから、お願いっ」
花音は顔の前で両手を合わせた。
「何かあったら、僕がサポートするから」
お手伝いなのにサポートされるって……。もはや、足手まといなのでは。
一抹の不安はあったが、他ならない花音さんの頼みだ。わかりました、と咲は不承不承了承したのだった。




