バレンタインの贈り物 ―1―
喫茶店の外に出ると、すぐ傍に白いミニバンが横付けされていた。
花音はその助手席のドアを開け、どうぞ、と恭しくお辞儀をする。
「ありがとうございます」
咲はぎこちなくお辞儀を返して、助手席へと乗り込んだ。
花音の紳士然とした振る舞いにはなかなか慣れない。咲はこっそりとため息をつき、シートベルトを締めた。
それを確認して、花音は静かに助手席のドアを閉める。それから、ゆったりとした大きな動作で運転席側へと回る。歩く姿まで美しくて、つい目で追いかけてしまう。だから運転席のドアを開けた花音と必然的に目が合い、慌てて視線を逸らす。
「あっ、あの、……配達って、どちらにいかれるんですか?」
気まずさを誤魔化すため、咲は無理やり言葉を絞り出した。
花音はクスリと笑って「川田町まで」と答えた。
「えっ、川田町?」
咲はパチパチと目を瞬かせた。
川田町は咲の家の方面ではあるが、通り道というわけではないし、わざわざ回り道をしなければならない。
「うん」とこともなげに答えて、花音は車に乗り込んだ。それから、シートベルトを締め、スターターキーを押す。
「あの、私、やっぱり降ります」
慌てて咲はシートベルトに手をかけた。その手の上に、花音は自分の左手を重ねる。
「え?」
見上げると花音の顔が間近にあった。咲の心臓がドクンと跳ね上がる。
「どうして?」
花音は小首を傾げた。
「あ、いえ、だって、遠回りになりますから」
ドクドクとうるさい心臓の音が聞こえてしまわないよう、咲は早口で答えた。
「だから?」
「だから、ご迷惑ですよね」
ああ、と花音は咲の意図を理解して声を漏らす。左手をハンドルに戻し、咲を見つめた。その顔には悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「迷惑じゃないよ。今日は咲ちゃんとドライブを楽しみたい気分なんだ」
そう言ってゆっくりと車を発進させる。動き出した車にすっかり降りるタイミングを失い、咲は流れる景色を恨めしく見つめる。それからチラリと花音の様子を窺った。
フロントガラスを見据える横顔は相も変わらず整っている。シャープな顎とそこへかかる長い黒髪は中性的な印象なのに、ハンドルへ乗せられた手はゴツゴツと骨張っていて、やはり男の人であることを再認識させる。
――どうしよう。男の人と二人っきりの空間だ。
沈黙の時間が流れる。とても気まずい。でも、これと言った話題も浮かばない。頭の中で右往左往していると、
「今日ってバレンタインデーでしょ?」
信号で止まったのを機に、花音が口を開いた。
「そういえばそうですね」
出された助け舟に安堵し、頷く。
引越しの件でバタバタしていたから、すっかり頭から抜け落ちていた。気が付いていたらチョコレートを用意したのに。気が利かない女だと思われただろうか。
チラリと花音を窺う。
それともたくさん貰うから気にも止めていないのかな。それはそれでモヤっとするけれど。
……って、なんでモヤっとするの?
自分自身にツッコミを入れたところで、
「大丈夫?」
花音が不思議そうに声をかけてきた。一人で百面相をしているのを訝しんだのだろう。
あ、はい、と咲は曖昧な笑みを浮かべる。
「その、もしかして、お花の配達はバレンタインデーと関係があるのでしょうか?」
頭の中を説明するわけにもいかず、咲は代わりに尋ねる。
「あるよ」
花音は苦笑し、答えた。
「今日は新規のお客さんへ花束の配達」
「花束の配達ですか?」
「そう。旦那さんから奥さんへの贈り物なの」
「旦那さんから奥さんへ?」
咲は首を傾げた。
「それって、バレンタインデーですか?」
バレンタインデーといったら、女性が男性へチョコレートを贈り、告白するのが相場だ。
「バレンタインだね」と花音が頷く。
「日本ではチョコを贈ることになっているけど、これってお菓子メーカーの戦略で始まったものなんだ」
それは咲も聞いたことがある。
「アメリカでは男性から女性へ贈り物をするのが一般的だし、贈り物もチョコに限らない。花束やカード、それに贈り物ではなく、ディナーや観劇に行って楽しむことも多い。ヨーロッパの国に目を向ければ、また違った習慣が目につく」
「そうなんですか?」
そうなの、と花音は笑う。
「そもそもバレンタインデーの謂れには諸説あってね。それで国によって異なる習慣が生まれたんじゃないかな?」
「そうなんですね」
「で、その一つにキリスト教のお祝いっていう説があるんだよ」
「キリスト教のお祝い?」
「そう。キリスト教を信仰していたバレンタイン司祭を偲んで始まったものとされるね」
「バレンタイン司祭? バレンタインは人の名前なんですか?」
「まあ、そうなるね」
単純でしょ、と花音は肩をすくめた。
「あ、いえ……」
言葉を濁した咲をケラケラと笑い、花音は続ける。
「ローマ帝国時代の話なんだけど。当時、皇帝の命令によって兵士の結婚が禁じられていた時期があったんだ」
「結婚が禁止? どうしてですか?」
「家庭を持つと生きて帰ろうとして、手を抜くとかなんとか」
「勝手な理屈ですね」と咲は呆れた。
咲からすれば家庭を守るために士気が上がりそうな気もするが。
そうだね、と花音も同意する。
「きっとバレンタイン司祭もそう思ったんだろうね。――だから皇帝に内緒で兵士の結婚式を執り行うことにしたんだ」
「でも、それって、皇帝の命令に背く行為ですよね」
咲は眉根を寄せた。あまりいい予感がしない。
まあね、と花音も眉を顰める。
「そのうち、バレンタイン司祭の行いは皇帝の耳にも届くようになった」
「それで?」と咲は怖いもの見たさに続きをせがむ。
「それで皇帝は……」
花音は勿体ぶるように、そこで言葉を止めた。咲はゴクリと喉を鳴らした。




