華村ビルの人々 ―1―
「それじゃあ、入居の手続きはこれでおしまいね」
華村花音は書類をまとめると、テーブルの上でトントンと整え、クリアファイルへと挟んだ。それを隣の椅子の上に置き、ニコリと咲に微笑みかける。
「咲ちゃんのおかげで、このビル、ようやく満室になりました」
「はい、拍手ぅ」とパチパチと手を叩いてみせる。
「そうなんですか?」
ハイテンションな花音を咲はキョトンと見つめた。花音は拍手を止め、うん、と頷いた。
「五年前に祖母が亡くなってから、五階はずっと空き部屋だったの」
「それは意外ですね」
ここ華村ビルは外観こそ半分廃墟と化してはいるものの、徒歩五分圏内には商店街や病院なども揃い、駅近の生活環境には恵まれた立地だ。
それでいて家賃は三万円と破格の条件なのだから、普通に考えたら、すぐに満室になっても良さそうなものである。
「入居者は誰でもいいってわけじゃないから」
咲の考えを見透かしたように花音が言った。
「え?」
「誰でもいいなら部屋はすぐ埋まったかも。でも、僕は咲ちゃんみたいな子を待ってたの」
「私みたいな?」
咲は首を傾げた。そう、と花音が笑う。
「というか、咲ちゃんを待ってた」
花音は冗談めかしたが、その手の冗談に不慣れな咲は顔を赤くして俯いた。それを微笑ましく眺め「で、このビルの入居者なんだけど」と花音は続けた。
「一階には悠太くん。彼とはこの前会ったよね」
その言葉に、人懐っこい悠太の顔が思い浮かんだ。
悠太とはフラワーアレンジメントの体験教室でここを訪れたときに知り合った。自分より年下ながら、華村ビルの一階で喫茶店を経営しているやり手(?)の男の子だ。少し茶色がかったショートヘアのクリクリッとした目が印象的な、子供っぽさの残る小柄な子。
それに比べ、と咲はチラリと花音を見遣った。
花音はまさに大人の男という印象だ。
目鼻立ちのはっきりした端正な顔立ちと背中まで伸びた艶のある黒髪。その髪を緩く三つ編みにし、ゴムで結んで左胸へと垂らしている。
更に一七五センチはあろうかという身長は彼のスタイルの良さを際立たせ、落ち着いた柔らかい物腰は大人の余裕を感じさせた。
いつ見ても、見惚れてしまう。
「で、二階だけど」との花音の声に、咲は我に返った。
「二階は僕の倉庫だから、入居者はなし」
「倉庫、ですか?」
それもまた意外だった。
ビルのワンフロアを丸々倉庫にしてしまうなんて採算が取れないのでは、と他人事ながら心配してしまう。
でも、それをいうなら、ワンフロアを三万円で貸すのも不採算なのだろうけど。
「お花の道具が多くてね。このフロアだけじゃ足りないんだ」
花音が肩をすくめた。そうですか、と咲は部屋の中を見渡す。
たしかに部屋の中は整然としていたが、棚の中は窮屈そうに押し込められた花器やラッピング資材で溢れかえっていた。
「それでここ四階が僕のアトリエで、五階が咲ちゃんのお部屋。以上かな」
「……あの、三階は?」
失念したのか、故意なのか、花音は三階の入居者に言及しなかった。
「ああ、三階ね」
花音の眉がピクリと動いた。この様子だと、三階の入居者の話はわざと避けたらしい。
「――三階には瀧川凛太郎って子がいるんだけど……」
「瀧川凛太郎、さん?」
「彼、ちょっとした問題児なんだよね」と花音は眉間に皺を寄せた。
「それはどういう?」
花音を悩ませるくらいなのだから、よっぽどの人物なのだろう。
「凛太郎はね、目つきが鋭くて、身長もあるから、妙に威圧感があるんだよね」
その容貌に、なんとなく心当たりがあった。
「それに口も悪くて……あと、態度も」と花音はほとんど悪口のようなことを曰う。
――それって。
咲の頭の中に、エレベーターで遭遇した男の顔が思い浮かんだ。
「だから、いきなり出会すとびっくりすると思うんだ」
「――それなら、たぶん、もう会いました」
「え、会った?」
花音がキョトンと咲を見た。「どこで?」と慌てたように尋ねる。
「ここに来る前。エレベーターで」
「大丈夫? 何もされなかった?」
「はい、大丈夫です……でも、花音さんのいうとおり、口も態度も悪かったです」
咲はさっきの彼の言動に腹立たしさを覚え、ついハッキリ口にしてしまった。
「あ、やっぱり?」と花音は苦笑した。
「咲ちゃんが、そこまでハッキリ言うんだから、よっぽどだよね」
――はい、よっぽどです。初対面の人間を貧乳呼ばわりするのは。
咲は心の中でぼやき、曖昧に笑った。
「実は、入居者が決まらなかった原因の一つが凛太郎なんだ」
「そうなんですか?」
「うん。ここを内見に来た人が凛太郎の洗礼を受けて、みんな辞退しちゃってね」
たしかに咲も切羽詰まった状況でなければ、少し考えたいところではある。
「――もしかして、咲ちゃんも、辞める?」
そんな咲の考えを見透かしてか、花音が寂しげな表情を浮かべた。
「あ、いえ。それはないです」
咲は慌てて手を振った。
「こんな好条件の物件、そうそう見つからないですから。それに――」
「それに?」
「私、一刻も早く実家を出たいんです」
咲の言葉に、花音は満足げに笑った。
「やっぱり、咲ちゃんで正解だった」
「え?」
意味がわからず、咲はジッと花音を見つめた。
「……祖母が生きていた頃、五階は駆け込み寺として使われていたんだ」
「駆け込み寺?」
うん、と花音がうなずく。
「事情があって住む場所を失くした人を保護するところ」
「住む場所を失くした人……」
たしかに今の自分はそうかもしれない、と咲は思った。
「あ、でも、私、そこまで追い込まれているわけでは」
「だけど、凛太郎に会っても心変わりしなかった」
「まぁ、そうですね」
「それが一つのパラメータなの。凛太郎もああ見えて、役に立ってるんだ」と花音は片目を瞑った。
「よければ、部屋の内見をしていく?」
紅茶を一口啜り、チラリと時計を確認して尋ねる。
部屋の様子は早く知りたかったから、花音の提案は願ったり叶ったりだった。
「ぜひお願いします」
咲は深々と頭を下げた。




