第二章 アイドル部を作ろう
翌日の朝、教室に入ったら、凛ちゃんがわたしの席の前で仁王立ちしていた。
「ひかり、昨日も屋上行ったでしょ」
責める言い方ではなくて、楽しそうなことを自分だけ抜け駆けされたときの顔だった。
「……なんで知ってるの?」
「顔に書いてある」
凛ちゃんは、どすんと自分の椅子を引いて、くるっと後ろを向いた。ひじを机の端に乗せて、顔を近づけてくる。
「で、また流れ星落ちた?」
「落ちた」
「え、またほんとに!?」
「しかもわたしが歌ったときも落ちた」
凛ちゃんの目が丸くなった。丸い元々の目が、さらに丸くなった。
「ひかりが歌っても落ちたの!?」
「うん」
「すごっ……」
凛ちゃんはしばらく何かを考える顔をしていた。考えるというより、興奮をどこに向けたらいいか決めかねているような顔だった。
「白石さんとは? 話した?」
「した。三日連続で会ってる」
「え、仲良くなってる。はや」
「仲良いかどうかはわからないけど」
正直なところ、透子がどう思っているかは読めなかった。拒絶はされていない。でも歓迎されているかどうかも、わからない。ただ、歌い終わったあとに少しだけ話す。それだけの関係だった。
でも、昨日の「考える」という言葉が、頭に残っていた。
わたしが言ったのは「一緒にもっと歌わない?」だった。それだけだった。アイドルとか、部活とか、そんな話はまだしていない。ただ一緒に歌おうと、それだけのことを言った。でも、頭の中では、もう少し先のことが動いていた。
お昼休み、わたしは凛ちゃんと向かい合ってお弁当を食べた。
「凛ちゃん、ダンスやったことある?」
「え、急に。あるよ、中学のとき。なんで?」
「趣味で?」
「うん、ダンス部だった。今の学校にダンス部ないから入ってないんだけど」
わたしはそこで、ひとつ息をついた。
「凛ちゃん、わたしたち、アイドルやらない?」
凛ちゃんの口からご飯が飛び出しそうになった。
「ぶっ、え、アイドル?!」
「屋上で」
「屋上で!?」
「流れ星の落ちる屋上で歌うアイドル部。部活として申請するかどうかはあとで考えるけど、まず活動だけ始めてみたい」
凛ちゃんはしばらくわたしの顔を見ていた。信じていいのか確認しているみたいに。
「……本気で言ってる?」
「本気です」
「なんで急に」
「急じゃないよ。三日考えた」
「三日で急だよ」
でも凛ちゃんの目が笑っていた。怒っているわけじゃない。むしろ面白がっている。わたしはそれを見て、少しだけ確信した。
「凛ちゃんはどう思う?」
「どうって……」
凛ちゃんは天井を見上げた。考えている顔。でも長くは考えなかった。
「楽しそうじゃん」
それだけ言って、にっと笑った。たぶん凛ちゃんは、何かを始める理由を、そんなにたくさん必要としない。
「あたし、やる!」
わたしは思わず笑い返した。返事というより、もう始まってしまったあとの声みたいだった。
「ありがとう。あと一人か二人、仲間が欲しい」
「誰かいる? 候補」
「……一人、話さないといけない人がいる」
その日の放課後、わたしは一人で屋上に向かった。
凛ちゃんも来ようとしたけれど、「今日はわたしだけ先に行く」と止めた。透子に何も話していないうちに、知らない人を連れていくのは違う気がした。
扉を開けると、透子はいた。
今日はフェンスの前じゃなく、屋上の端に近い給水塔の壁にもたれていた。何かを考えているみたいな顔をしていた。わたしに気づくと、少しだけ体を起こした。
「来た」
「来ました」
「……昨日のこと、考えてた」
透子は開口一番そう言った。わたしは少し驚いた。
「どんなこと」
「一緒に歌うって話」
「うん」
「わたしは別にいい」
透子は淡々と言った。表情は動かない。でも言っていることは、承諾だった。
「ありがとう」
「でも」
透子はわたしをまっすぐ見た。
「何のために?」
一秒、置いた。
「何のために歌うの? あなたは」
アイドルをやる理由を聞いているようで、たぶん透子が知りたいのはもっと別のことだった。わたしが、どこまで本気で自分の隣に立とうとしているのか。
わたしは答えを探した。
正直に言うと、最初から完全な答えは持っていなかった。ただ、透子の歌を聴いて、屋上で一緒に歌ってみて、何かが動いた。それが何かを、うまく言葉にできるかどうか。
「……透子の歌が、もったいないと思ったから」
「もったいない」
「こんなにいい声なのに、ひとりで歌ってるのが。もっと聴いてほしいし、もっと一緒に歌いたいし」
透子はわたしの顔を見ていた。
「あなたは?」
「わたしは?」
「あなた自身のために、じゃないの?」
わたしはまた少し考えた。
「両方かも。透子の歌を聴いてたら、わたしも歌いたくなったから。でも透子のためってのも嘘じゃない」
透子は少しだけ目を細めた。
「正直なんだね」
「よく言われる」
「変なやつだとも言った」
「それもよく言われる」
透子の口元がまた少しだけ動いた。昨日と同じ、笑ったわけじゃないけれど、どこかが緩んだ感じ。
わたしは息を吸った。
「ねえ、透子。もう少しだけ聞いていい?」
「……どうぞ」
「アイドル、一緒にやらない?」
今度は沈黙が長かった。
透子はわたしを見た。それから空を見て、またわたしを見た。
「アイドル?」
「うん」
「部活として?」
「できたら。まず非公式でも」
「何人いるの?」
「今はわたしと、クラスの子が一人。あと透子に声かけようと思ってた」
「三人」
「三人。これから増えるかもしれない」
透子はまた黙った。
フェンスの向こうで、鳥が一羽飛んでいった。夕日が少し赤くなってきた。
「……わたしに向いてないと思う」
「どうして」
「アイドルって、明るくて、にこにこして、みんなに愛されるやつでしょ」
「全部が全部そうとは限らないと思う」
「でもわたし、笑えない」
「笑えなくてもいい」
たぶんここで透子が聞きたかったのは、励ましじゃなくて、条件つきじゃない肯定だった。
透子が少し眉を上げた。
「笑えなくていいの?」
「透子は歌えるから」
わたしははっきりと言った。
「歌える人が一番大事だよ。にこにこなんて、わたしが全部引き受ける」
透子はしばらくわたしを見ていた。
この人を信じていいのかどうか、透子はまだ決めきれていないように見えた。
やがて透子は、正面を向いた。
「……あなたとなら、やってもいい」
アイドルでも、部活でも、その順番じゃなかった。先にあったのは“あなたとなら”で、そのあとにようやく“やってもいい”が続いていた。
わたしは、笑った。
「ありがとう、透子」
「お礼はまだいい。うまくいくかわからない」
「うまくいくよ」
「根拠は」
「流れ星が落ちてるから」
透子は少しだけ、間を置いた。
「……馬鹿みたいな根拠」
「でも否定できないでしょ」
透子はまた黙った。
でも今度は、少しだけ、本当に少しだけ、口元が緩んだ。
わたしはそれを見て、ますます確信した。
これは、うまくいく。
翌日、わたしは凛ちゃんに報告した。
「透子が、やってくれることになった」
「え! ほんとに?」
「本当に」
「あの超クールな人が!?」
「そう」
凛ちゃんは小さくガッツポーズをした。
「やっばい。三人になった」
「もう一人か二人、欲しい」
「確かに。誰かいる?」
わたしは考えた。
クラスの子を見渡す。音楽が好きそうな子、部活に入っていない子、何か別のことを探しているような子。まだ詳しくわからない。
「楽器できる子とかいたら最高なんだけど」
「楽器か……あー」
凛ちゃんが顎に手を当てた。
「月城さん、ピアノめっちゃうまいって聞いたことある」
「月城さん?」
「隣のクラスの子。お嬢様系の。コンクールとか出てるらしいよ」
「話したことある?」
「ない。ちょっと近づきにくいんだよな。雰囲気が」
「どんな雰囲気?」
「……丁寧すぎる感じ? 怒ってるわけじゃないんだけど、話しかけると敬語で返ってくるから、なんか遠い感じがする」
わたしは少し考えた。
「会ってみていい? 月城さんに」
「え、今日?」
「できたら」
「ひかり行動はやすぎるって」
「善は急げ」
凛ちゃんはちょっと呆れたような顔をして、でも立ち上がった。
「わかった。紹介だけはするよ。あとは知らない」
昼休み、凛ちゃんに連れられて隣のクラスに行った。
月城玲奈は、教室の窓際で本を読んでいた。
一目で分かった。雰囲気が違った。姿勢が良くて、本の持ち方もページのめくり方も、なんというか、丁寧だった。制服の着こなしも綺麗で、胸元くらいの長さの黒髪を上品にまとめてある。目元は涼しげで、整った顔立ち。華やかというより、きちんと美しい。
凛ちゃんがわたしの背中を押した。
「いってらっしゃい」
「ちょっと、一緒に来てよ」
「あたしじゃ力不足だよ。ひかりの方が絶対うまくいく」
信頼とも無責任とも取れる言葉を残して、凛ちゃんは廊下で待つ体勢に入った。
わたしは一人で月城さんの席に近づいた。
「あの、月城玲奈さん?」
月城さんが顔を上げた。穏やかな目だった。怖くはない。でも確かに、凛ちゃんの言う「遠い感じ」というのは分かった。きちんとしていて、整っていて、少し距離がある。
「はい、そうですが」
「転校してきた水瀬ひかりといいます。突然すみません、少し聞いてもいいですか」
「……ええ、構いませんよ」
月城さんは本をそっと閉じた。
「ピアノを弾かれると聞いて。コンクールにも出てるって」
「少し、嗜む程度ですが」
「コンクールで入賞するのが嗜む程度なんですか?」
月城さんが少し目を細めた。困っているのか、笑っているのか、判断しにくい表情だった。
「……少々、大げさに伝わっているようですね」
「いえ、すごいと思って来たんです。じつは、一緒に何かやってほしくて」
「何かとは」
「アイドル部です」
月城さんの表情が、かすかに止まった。
一秒。二秒。
「……アイドル部」
「屋上で歌う、アイドル部です」
「屋上で」
「はい。作曲とか、ピアノとか、音楽的なことを担ってほしくて」
月城さんはしばらく黙っていた。驚いているのは分かったが、それ以上は表情に出なかった。
「突然、ずいぶんと大胆なお誘いですね」
「転校してきてまもないので、まだ空気を読む前に動こうと思って」
「……それは、戦略ですか?」
「半分はそうです」
「屋上で歌うと流れ星が落ちる、という話を聞いたことがあります」
口調は穏やかだったけれど、噂話を面白がる声ではなかった。確かめる前の人の声だった。
「はい。本当に落ちます」
「見たのですか」
「三回見ました」
月城さんが少し眉を動かした。
「三回」
「自分が歌っても落ちました」
「……少し、考えてもよろしいですか」
「もちろんです。でも、なるべく早めに返事をもらえると嬉しいです」
「なぜ急ぐのですか?」
「楽しいことはなるべく早く始めたいから」
月城さんはわたしを見た。それから、ふっと小さく息を吐いた。表情は変わらなかったけれど、雰囲気が少しだけ柔らかくなった気がした。
「……分かりました。週明けまでにお返事します」
「ありがとうございます」
わたしは頭を下げて、廊下に出た。自分のクラスに戻ろうとしたところで、凛ちゃんが教室から飛び出してきた。
「どうだった?」
「週明けまでに返事くれるって」
「え、断られなかった?」
「断られなかった」
「ひかりすごっ……」
凛ちゃんはきらきらした目でわたしを見た。わたしは苦笑いした。
「まだ返事もらってないよ。断られるかもしれない」
「でもあのお嬢様が話聞いてくれただけでもすごいよ。普通もっと早く切られる」
「そうなの?」
「だって転校してきたばっかだよ? 知らない人から突然アイドル部とか言われたら普通断るじゃん」
それはそうかもしれない、とわたしは思った。でも月城さんは断らなかった。「考えます」と言った。それは、可能性がゼロじゃないということだった。
この日は、凜ちゃんは日直で、わたしは先生に呼ばれて放課後、屋上へ行けなかった。
週明け月曜日の昼休み、月城さんが一人で教室に来た。
わたしは席にいて、凛ちゃんと話していた。月城さんはわたしの前に立って、姿勢よく言った。
「水瀬さん。お返事に来ました」
「はい」
「やってみます」
凛ちゃんが小さくガッツポーズをした。机の下で、見えないように。
「ありがとうございます、月城さん」
「玲奈で構いません。月城さんだと少し距離を感じるので」
「じゃあ玲奈さん。わたしもひかりって呼んでください」
「分かりました、ひかりさん」
玲奈さんは少しだけ首を傾けた。
「一つ聞いてもよいですか」
「何でも」
「流れ星が落ちるのは、確かなのですか」
「確かです。見てもらえれば分かります」
「……じつは金曜日の放課後、一人で屋上に行ってみました」
その瞬間、この人はやっぱりそういう人なんだ、と思った。誰かの話だけで決めずに、自分の足で確かめに行く人。
「一人で?」
「はい。誰もいませんでしたが……少しだけ、ピアノの曲を口ずさんでみました」
「落ちましたか?」
玲奈さんは少し間を置いた。
「……落ちました」
凛ちゃんが今度は声を上げそうになって、口を押さえた。
「だから来ました。あれを見たら、気になりますよね」
参加を決めた、というより、確かめた先にもう立っていた、という言い方だった。
「気にならない方が不思議です」
わたしがそう言ったら、玲奈さんは少しだけ、本当に少しだけ、口元に微笑みが浮かんだ。いつもの丁寧で整った表情の中に、何かが混じった気がした。
「ひかりさんは、面白い人ですね」
「よく言われます」
「変なやつ、とも言われませんか?」
「それもよく言われます」
玲奈さんはまた小さく笑った。
その日の放課後、三人で屋上に行った。
初めて三人で屋上の扉を開けた。透子はすでにいた。フェンスの前に立って、夕日を見ていた。わたしたちの気配を感じたのか、振り返った。
凛ちゃんを見て、玲奈さんを見て、それからわたしを見た。
「……連れてきたんだ」
「うん。みんな、この子が白石透子。メインボーカルになってもらう予定」
「え、もう決まってるの?」
透子は驚く。わたし以外の全員が思ったかもしれないが、誰も声には出さなかった。
「夏川凛です! ダンス担当で! よろしくです!」
凛ちゃんが元気よく言った。透子はわずかに目を細めた。
「月城玲奈と申します。作曲と、ピアノを少々。よろしくお願いします」
玲奈さんが丁寧に頭を下げた。透子はそれを見て、少しだけ頷いた。
「……白石透子。よろしく」
最低限の言葉だった。でもそれが透子らしかった。凛ちゃんはへへっと笑って、玲奈さんは穏やかに微笑んだ。
わたしはみんなの顔を見回した。
転校して十日ほどしか経っていない。でも今、四人が屋上に立っていた。夕日が全員を橙色に染めていた。遠くで部活の声がした。風が吹いた。
「せっかくだから歌おう」
わたしは誘った。
「何を歌うの?」
透子が聞いた。
「何でもいい。知ってる曲を、一緒に」
「バラバラになるじゃん」
凛ちゃんが突っ込んだ。
「だからとりあえず今日は声を合わせてみよう。合わなくてもいいから」
玲奈さんが少し考える顔をした。
「みなさんはどんな曲が好きですか?」
それから五分くらい話して、全員が知っていて歌えそうな曲をなんとか一曲見つけた。昔よく流れていた、明るいポップスだった。
「じゃあ、行くよ」
わたしが言って、歌い始めた。
最初はバラバラだった。四人の声が、ちぐはぐに交差する。テンポが少しずれる。でも、だんだんと揃ってくる。透子の声が際立っていた。凛ちゃんの声は元気で、玲奈さんの声は透明感があった。わたしは全体を聴きながら、自分の声を合わせた。
サビに入った。
空から、光が走った。一本じゃなかった。二本、落ちた。
凛ちゃんが歌いながら「え?!」と声を上げた。玲奈さんが息を飲む気配がした。透子は歌い続けていた。
最後まで歌い終わって、四人で空を見上げた。
もう星は落ちていない。でも橙の空に、さっきの光の軌跡がまだ目に焼き付いている気がした。
「二本落ちた」
凛ちゃんが言った。
「人数が増えたから」
わたしは突っ込んだ。
「本当にそういうこと?」
玲奈さんが問いかけた。
「たぶん」
「たぶんって」
「証明はできないけど、たぶんそういうこと」
玲奈さんは少し考えて、「ふしぎですね」と言った。
「ふしぎ。でも楽しい♪」
凛ちゃんが笑顔で繰り返した。
透子はずっと空を見ていた。
わたしはみんなの横顔を順番に見た。
「これ、続けようよ」
誰も反対しなかった。凛ちゃんが元気よく「うん!」と言って、玲奈さんが「ええ」と言って、透子は「……うん」と言った。
夕日がさらに沈んで、空が赤みを帯びた。わたしたちは四人で、しばらくそこに立っていた。アイドル部は、この日から始まった。
名前もまだない。曲もまだない。ライブの予定もない。あるのは、流れ星の落ちる屋上と、四人の声だけだった。でも、それでじゅうぶんだと、わたしは思った。
流れ星が二本落ちた夕空の下で、わたしたちの放課後は、始まったばかりだった。




