第一章 屋上で歌うと星が落ちる
最初に星が落ちた日のことを、わたしはたぶん、一生忘れない。
夕方の屋上は、風が強かった。フェンスの向こうに街が広がっていて、遠くの川が夕日に光っていた。その人は、フェンスの前に立って、ひとりで歌っていた。制服のスカートが風に揺れて、長い髪が空の色に少しだけ溶けて見えた。
わたしは扉の前で立ち止まって、その歌を、しばらく動けずに聞いていた。
上手い、とか、そういうのじゃなかった。
ただ、ずっと聞いていたくなる歌だった。
そして、サビに入った瞬間、空の向こうから光が一つ、落ちてきた。
流れ星だった。
昼でも夜でもない、夕方の空を、まっすぐに線を引くみたいに、その星は落ちた。
そのとき、わたしは思った。
――ああ、たぶんここから、何かが始まるんだって。
☆
転校してきたのは、五月の連休が明けてすぐだった。
星見坂女子高校の制服は、濃紺のブレザーに青みのあるチェックのスカートを合わせた、落ち着いたデザインだった。胸元のリボンは淡い水色で、光の加減によって少しだけ星明かりみたいに見える。
わたしのクラスは、二年三組。
「水瀬ひかりさんです。みなさん、仲良くしてあげてください」
先生に紹介されて、わたしは教室の前に立った。三十数人分の視線が一斉に集まる。転校はこれで四回目だから、そのプレッシャーにはもう慣れているはずだった。それでも、少しだけ心臓が跳ねた。しかも今は、新学期が始まったばかりの四月とは違う。教室の空気はできあがりかけていた。その中にあとから入っていくのは、四月の最初の日より少しだけ難しい気がした。
慣れる、というのは便利だ。最初の数日をそれなりにやり過ごす方法を、わたしはもう知っている。でもそのぶん、気づいたときには、どこにも深く根を下ろせないまま次の場所へ行ってしまうこともあった。
「よろしくお願いします。えっと、わたしは歌うのが好きです。得意なことは……人の話を聞くことと、あと、迷子になることです」
少し笑いが起きて、教室の空気が少しだけやわらいだ。たぶんわたしは、ぱっと見で強く印象に残るタイプではない。髪も肩に触れるくらいの長さで、背も声も、たいていは人の輪の中にうまく収まる。それはたぶん長所だけど、ときどき、自分がどこにいるのか分からなくなることもある。
席は窓側の後ろから三番目だった。隣は空席で、前の席の子は振り返ってきた。くりくりした目が人懐っこそうで、パーマのかかった茶色い髪が元気な印象だった。
「転校生! わたし、夏川凛。凛って呼んでいいよ。どこから来たの?」
「北の方です。凛ちゃん、よろしく」
「北! 雪降る?」
「めっちゃ降る」
「いいな~!」
凛ちゃんはそう言って、満足そうにパッと前を向いた。会話が速い。でも嫌いじゃなかった。こういう子がいてくれると、クラスに馴染むのが楽になる。
初日は、特別なことは何も起きなかった。金曜の授業を受けて、お弁当を食べて、掃除をして、帰った。転校初日にしては悪くない滑り出しだと、わたしは思った。
問題の噂を聞いたのは、週明け月曜日だった。
放課後の廊下で、凛ちゃんが教えてくれたのだ。
「ひかりって、屋上行ったことある?」
「この学校の? まだないけど」
「行ってみなよ。すごいから」
「すごいって何が」
凛ちゃんは声を潜めた。廊下を歩きながら、ちょっとだけ顔を近づけてくる。
「屋上で歌うと、流れ星が落ちるんだって」
わたしは一秒、言葉の意味を考えた。
「……流れ星?」
「そう。昼でも、夕方でも。歌うと落ちるの。この学校の七不思議みたいな話なんだけど、信じてる子、けっこういるよ」
「信じてる子がいるのかぁ」
「ひかりは信じる?」
わたしは少し考えた。
「半信半疑です」
「正直!」
凛ちゃんは声を上げて笑った。そのときは本当に半信半疑だった。普通に考えればあり得ない話だった。でも、なぜかその噂だけは頭に残った。
屋上で歌うと、流れ星が落ちる。それはどんな景色だろう、とわたしは思った。
屋上への扉は、校舎の四階の一番端にあった。鍵がかかっているかと思ったら、扉はすんなり開いた。屋上利用禁止の張り紙は、剥がれかけてフェンスに引っかかっていた。
夕方の風が、ざっと吹いてきた。空が、広かった。街が見えた。川が見えた。遠くに山のシルエットが見えた。夕日がちょうど建物の向こうに沈みかけていて、空全体が橙と桃色の中間みたいな色に染まっていた。
わたしは少しだけ息を止めた。
きれいだった。それだけで、ここに来た理由はあったと思った。
フェンスの前に、人がいた。金属のフェンスにほんの少し寄りかかるようにして、女の子が立っていた。こちらに背を向けている。長い黒髪が風に揺れていて、制服のスカートが同じように揺れている。
そして彼女は、歌っていた。わたしは扉の前で、動けなくなった。
声が、よかった。うまいという言葉では足りない気がした。何か別の言葉を探そうとしたけれど、見つからなかった。声が空気に馴染むみたいに広がって、風に乗って、屋上全体に満ちていく。メロディは聞いたことのない曲だった。穏やかな出だしから、少しずつ広がっていくような。わたしは動けなかった。
邪魔をしたくなかった。声をかけるのが怖かった、というより、この歌が途切れてほしくなかった。それだけのことだった。
彼女はまだこちらに気づいていない。目を閉じているのか、あるいは街のほうを向いているのか。ただ歌い続けている。
そしてサビに入った瞬間だった。
空から、光が落ちた。わたしは目を見開いた。夕方の空を、真っ直ぐに、一本の線を引くみたいに。ほんの三秒か四秒か。でも確かに見えた。流れ星だった。どう考えても、流れ星だった。夕方の空に、流れ星。彼女の歌が、終わった。静寂が戻った。
風だけが鳴っている。わたしはしばらく、何も言えなかった。
彼女がこちらを振り返ったのは、それから十秒くらい経ってからだった。
夏用の白い制服、黒い髪。切れ長の目が、まっすぐにわたしを見ていた。驚いているような、驚いていないような、判断しにくい表情だった。
わたしはとっさに手を上げた。
「あ、えっと、ごめんなさい、覗くつもりじゃなくて」
「……いつからいたの?」
囁くような声だった。
「歌の途中から……本当にごめんなさい」
彼女はしばらくわたしを見ていた。
「見たの」
「え?」
「流れ星」
一秒の間があった。
「……見た」
「そう」
彼女はそれだけ言って、フェンスから離れた。わたしのほうに歩いてくる。近づいてくるにつれて、顔がはっきりと見えた。整っていた。いわゆるクール系というか、表情が少ない。でも怖い感じはしなかった。
彼女はわたしの前で立ち止まって、少しだけ首を傾けた。
「転校生?」
「あ、うん。水瀬ひかりです」
「……白石透子」
「透子さん」
「透子でいい」
「透子。歌、すごくよかった」
透子はまた少しだけ黙った。表情が動かない。でも、ほんの少しだけ、何かが変わった気がした。頰か、目か、口元か。どこかが、かすかに動いた気がした。
「……ありがとう」
風が吹いた。透子の髪が揺れた。夕日が少し落ちて、空がさらに橙に染まった。
わたしはそのとき、なぜかまた思った。
――ここから、何かが始まる。
翌日、わたしは凛ちゃんに報告した。
「流れ星、本当に落ちたよ」
凛ちゃんは目を丸くした。
「え、ほんとに!? 見たの?」
「見た。夕方なのに、ちゃんと一本落ちた」
「すごっ!! 一人で行ったの?」
「うん……あと、屋上に人がいた。歌ってる人」
凛ちゃんは少し考える顔になった。
「ひょっとして、白石透子さん?」
「知ってるの?」
「有名だよ。歌がめちゃくちゃうまいって。でも部活入ってなくて、一人で屋上で歌ってるって噂があった」
わたしは昨日のことを思い出した。フェンスの前に立つ透子の後ろ姿。夕日の中で揺れる黒い髪。そして、あの歌声。
「一人で歌ってるのを見たらなんか……」
「なんか?」
うまく言えなかった。
「もったいないなって、思った」
ひとりで歌うことが悪いわけじゃない。でも、あんなふうに綺麗な声が、誰にも受け取られないまま夕方の空に消えていくのは、なぜか見ていられなかった。たぶんわたしは、歌そのものより先に、そういう時間がひとりきりで終わってしまうことの方を、寂しいと思った。
凛ちゃんはわたしの顔をじっと見た。それからにっと笑った。
「ひかり、なんか考えてる顔してる」
「してない」
「してるって。転校してきたばかりなのに、もう何か企んでる」
「企んでない」
でも否定しきれなかった。わたしの中に、ぼんやりとした何かが芽生え始めていた。形のない、でも確かにある、そういう何かが。
放課後、わたしは一人で屋上に向かった。透子がいるかどうか、わからなかった。でも行ってみたかった。理由は自分でもよくわからなかった。強いて言えば、もう一度あの歌を聴きたかったのかもしれない。あるいは、昨日の「また流れ星が落ちるかもしれない」という期待かもしれない。
扉を開けた。透子はいた。今日も同じようにフェンスの前に立っていた。でも、まだ歌い始めていなかった。ただ街を眺めていた。
わたしの足音に気づいたのか、透子がこちらを向いた。
「また来た」
「また来ました」
「……今日も見るの」
「聴いてもいいですか」
透子は少しだけ首を傾けた。昨日と同じ仕草。
「どうして」
「きれいだったから」
短く答えた。透子はまた黙った。
風が吹いた。
やがて透子は、正面を向いた。
「……邪魔しないなら、いていい」
「分かりました」
わたしはフェンスから少し離れたところに座った。屋上のコンクリートは少し冷たかった。遠くで部活の声がした。テニス部か、ソフトボール部か。
透子が歌い始めた。昨日とは別の歌だった。少し速いテンポで、でもやっぱり広がるような声。わたしは目を閉じた。
夕方の風と、透子の声と、遠くの部活の音。
全部が混ざって、なんだかとても穏やかな気持ちになった。
ひとりで聴いているのに、寂しくなかった。
サビが来た。また、光が落ちた。
今度はわたしにもはっきり見えた。空の端から端まで、一本の線が走った。昨日より少し長かった。昨日より少し明るかった。
透子の歌が続いている。わたしは空を見上げたまま、考えた。
これは何だろう。偶然とは思えなかった。証明はできないけれど、感覚として、これは関係ある、とわたしは確信していた。
透子が歌うと、星が落ちる。この屋上には、何かある。
透子の歌が終わった。
静寂。
わたしは立ち上がった。透子がこちらを見ている。
「また落ちた」
「うん」
「毎回落ちるの?」
「……だいたい」
「なんで」
「わからない」
透子は短く答えた。不思議に思っていないのか、あるいは不思議に思いすぎて慣れてしまったのか。わたしは少し考えてから話しかけた。
「ねえ、透子」
「なに」
「聞いてもいい?」
「……聞いていいよ」
「透子は、なんでひとりで歌ってるの?」
透子はまた黙った。
風が吹いた。やがて、ぼそっと言った。
「……ほかに歌う場所がないから」
わたしはその言葉を、しばらく頭の中に置いた。
ほかに歌う場所がない。部活には入らない。合唱部でも軽音部でも。だからひとりで屋上に来る。誰にも聴かせないで、ただ歌う。
それは、寂しくないんだろうか。
「そっか」
わたしはそれだけ言った。透子は少し首を傾けた。
「なんで聞いたの」
「なんとなく」
「……変なやつ」
「よく言われる」
透子はかすかに、ほんのかすかに、口元が動いた。笑ったわけじゃない。でも、固まっていた表情が少しだけ緩んだ気がした。
わたしはまた空を見上げた。もう星は落ちていない。夕日がさらに落ちて、空が濃い橙になっている。この屋上は、広くて、きれいで、誰もいない。
透子の歌を、こんなにいい場所で、こんなにひとりで歌い続けるのは。
やっぱりもったいないと、わたしは思った。
それはきっと、歌が上手いからだけじゃない。
あの声のある放課後が、誰のものにもならないまま終わってしまうのが嫌だった。
たぶんわたしは、あの屋上を、もう一度行きたい場所にしてしまっていた。
三日目の放課後も、わたしは屋上に行った。
透子はいた。今日は最初から少しだけ、こちらを確認するように振り返った。わたしに気づくと、また正面を向いた。それだけで、なんとなく「いていい」という意味だと分かった。
透子が歌い始めた。三日分聴いて、わたしには少し分かってきたことがあった。透子の声は、感情が乗るとさらに変わる。穏やかな部分は本当に穏やかで、盛り上がる部分はまるで別の人みたいに広がる。技術的にうまいというより、歌に正直なんだと思った。
サビが来た。今日も、落ちた。
わたしはもう驚かなかった。でも、見るたびに綺麗だと思った。夕方の橙の空に走る白い光。ほんの数秒で消えるけれど、確かにそこにある。
透子の歌が終わった。わたしは立ち上がって、透子の隣に立った。フェンスの向こうに街が広がっている。二人分の影が、コンクリートに細く伸びている。
「ねえ、透子」
「なに」
「わたしも歌っていい?」
透子が振り向いた。表情が動いた。今度ははっきりわかった。少し、驚いている。
「……歌えるの」
「少しだけ。上手くはないけど」
「なんで」
「なんでって」
「なんで歌いたいの、ここで」
わたしは考えた。けど、うまく答えられなかった。自分でも、なんでかよくわからなかった。ただ、透子の隣に立ったら、歌いたくなった。それだけのことだった。
「透子の歌を聴いてたら、歌いたくなったから」
透子はまた少しだけ黙った。
やがて、正面を向いた。
「……どうぞ」
わたしは、息を吸った。知ってる歌を歌った。昔から好きだった曲の、サビだけ。大きな声じゃなかった。でも屋上で歌うと、なんだか声が広がる気がした。風に乗って、街の方向へ飛んでいく気がした。
サビを歌い終えた。
そして。空に、また、光が走った。わたしは思わず透子の袖を掴んだ。
「見た?」
「……見た」
「わたしが歌っても落ちた」
「……うん」
透子はわたしの顔を見ていた。いつもより少し、目が大きい気がした。
わたしの中で、何かがはっきりした。
これは偶然じゃない。もっと多くの人と、この屋上で歌ったら、流れ星は、どうなるんだろう。
それは星のことを考えたはずなのに、胸の奥で動いたのは別の気持ちだった。
ひとりで終わる放課後じゃなくて、誰かと残る放課後がほしい。
そう思ったのは、たぶん久しぶりだった。
わたしはゆっくりと透子の顔を見た。
「ねえ、透子」
「なに」
「わたしと一緒に、もっと歌わない?」
透子は一瞬、何かを言いかけた。
でも言葉にはならなかった。
夕日が落ちた。空が、少しだけ暗くなった。
透子は正面を向いて、ゆっくりと言った。
「……考える」
それは、断りじゃなかった。わたしは少しだけ笑った。
夕焼けの屋上に、二人分の影が伸びていた。
何かが始まろうとしていた。星はもう落ちない時間になっていたけれど、わたしの胸の中には、まだ光がある気がした。




