閑話 ご主人様のために頑張った奴隷
簡明直截な最後の授業が終わり、日暮れになると肌を劈くような冷たい風が吹くので修人はそそくさと帰ろうとしていたのだが、年老いた男性教師が重たい荷物を持っている様子が目に入る。根の優しい修人はそんな教師の脆弱な様子が放っておけずに作業を手伝い、なんだかんだとその後も置き場の配置など色々と協力していたら普段の帰る時間から一時間が経っていた。
そして手伝いを終えた修人は教師から「ありがとうね」と感謝の言葉を聞き流し、廊下の窓越しに映る校庭で部活に勤しむ生徒の姿をじっと見た。吹奏部員の奏でる低い楽器の音色が校舎内にこだましており、脳裏でその勇姿を想像して青春の影がチラついてしまう。SM以外に熱心な興味のない修人は青春を謳歌している部活動に励む勇ましい姿を想像し、そして見物してふと心を奪われることは珍しいことではなかった。
別にそれは羨望しているという訳ではなく、そんな年相応の活動に励む生徒諸君にも潜在的な性癖があるはずだし、その表情や情動の裏にはどんな仄暗い性癖を持っているのかと妄想して修人は目を光らせているだけなのだが――不意に廊下を吹き抜けてくる何処からか忍び寄ってきた冷気に、少し運動したことで汗をかいた修人は寒気で身震いさせた。修人は、早く帰ろう、と思い立ち、玄関目掛けて足を動かした。
そして修人はいつものように下駄箱に向かったのだが、そこで複数の男女混合の生徒に囲まれる賑やかな中心点に愛衣を見つけ、咄嗟に、脊髄反射的に付近の物陰に隠れ――別にやましい関係だと周囲に知られていないためそんなこそこそと廊下の隅に身を隠さなくてもよいのだが、群れているその場所が丁度修人の靴が収納された戸棚がある場所へ続く道中であり、その一群が邪魔で、そうなった状況を伺うように聞き耳を立てながら修人はその様子をそっと覗き見た。
「そのチョーカー可愛いですね!」
坊主頭の上級生らしき男子生徒が熱烈な声音で褒める。
「ありがとうございます」
淑やかな声音でにこやかに愛衣は答える。
「間園さん、ずっとここに居るけど、誰か待っているのー?」
おかっぱ頭の背丈の低い男子生徒がそう言う。
「はい、迎えが来るのでここで待っているんです」
愛衣は困り顔でそう答えた。
「そうなんだね、それじゃあ、私は愛衣さんのお迎えの人が来るまで一緒に待っていようかなー」
愛衣と同じくらいの髪の長さがある糸目の女生徒が愛想を振り撒き、愛衣に目配せしながら言う。
その発言に周囲の有象無象の諸君が賛同するように「じゃあ俺も」「私も」と頷いていた。
「みんな、だめだよ、今の時期は日が落ちる時間が早いし、少しでも明るいうちに帰った方がいいよ。もしみんなに何かあったら、私、心配しちゃうから……」
その発言は愛衣の本心だし、周囲の生徒が愛衣に抱いている清廉潔白な人物像を言語化したような台詞であるため、愛衣にそう言われた取り巻き達はまるで神託を下された神官のような敬虔な視線で愛衣を見つめるなり口を開いていく。
「間園さんを心配させることはしたくないな……」
上級生らしき男子生徒がそう言う。それを皮切りに他の生徒も口を開く。
「そうだね、もう帰ろうかな」
「うん、愛衣さんを困らせたら悪いからね」
「間園さん、また明日ね!」
「さようなら、間園さん!」
愛衣を取り囲んでいた生徒達は別れの挨拶をそれぞれ並べながらそれぞれの帰路を目差していく。ある者は愛衣に手を振り続け、またある者は最後まで離れることを惜しんでいる様子さえあったが、いずれも愛衣の周囲からは誰もいなくなった。愛衣は終始細腕の手を小さく振り返し、「またね」「さようなら」などと一々忠実に別れの言葉を授けてあげていた。
そんな愛衣の敬虔な信者を集める司祭かのような振る舞いに、新興宗教の集会所を目撃している気分になり、愛衣の気分を損ねさせてでも関係を周知させない英断は後々の面倒を避けるためには正解だったと修人はつくづく痛感した。
修人がそんな思案をしている束の間のこと、ぽつりと独りになった愛衣が鞄からスマホを取り出して時間を確かめるために画面を光らせた。
「まだかな……」
愛衣は独白するように呟き、憂いた視線を周囲に配り、やがてその目線は修人の靴箱に向けられる。そして愛衣は修人の靴箱を開けるなり、「まだいるよね……」と寂しそうに呟いた。
そんな一連の愛衣の所作を眺めるように見ていた修人は驚嘆した。
もしかして、俺が来るまで待っていたのか?
修人は、さっき愛衣は誰かが迎えに来るとか言っていたが、そんな愛衣が態々自分の靴箱を開けてまで自分の所在の在処を推測し、ただでさえ冷風吹き荒む肌寒い玄関口で行き違いにならないよう気を配って待っていたのだと思わずにはいられなかった。
その推理の答えを知るためにも修人は颯爽と愛衣の前に姿を現すことにした。物陰に潜めていた身体を堂々と顕現させ、肌寒さに少し震える歯茎を噛み締める。ゆっくりと、だが普段は静かに歩くが敢えてわざとらしく足音を立てて存在を誇示した。
そんな音に待ち惚けを食らっている愛衣の敏感な聴覚が気付かないわけがなく、耳をそばだてていた愛衣は、その音の方へと顔を向けるなりあどけない笑顔になった。
「ご主人様っ!」
無邪気な笑顔で恥ずかしげもなく主従を明確に表現する敬称を口ずさむ愛衣。
あまりにも耳に通りやすいソプラノ調の声音の愛衣にそう呼ばれた修人は、慌てて周囲に目を配り、誰の存在も視認できずに安堵しつつ、修人は右手の人差し指を唇にあてがい、「シーっ!」と沈黙を促し、焦慮を隠しきれずに少しムッとした表情で愛衣を睨んだ。
そんな修人の憂慮を知らない愛衣は待望のご主人様を目掛けて小走りをするなり脇目も振らず、情緒のままに詰め寄った。
そんな愛衣にほんのりと、呼んだら嬉々として駆けつけてくる犬を飼っている人の気持ちが理解出来かけている修人は、爛々と瞳を輝かし、細い黒髪を振り乱す愛衣を捕まえるために距離を詰めた。
そして距離にして一尺もない範囲の視界に愛衣を捉えた頬に含羞の色を浮かべる修人が口を開いた。
「不容易なその呼び方はやめ――」
「ご主人様っ、お待ちしていました」
愛衣は合流するなり、修人の説教を遮るように懐に飛び込んでくる。そして愛衣は喜悦に満ちて綻ぶ頬を隠すことなく、修人を見上げながらそう言う。
「お待ちって、うわっ、冷たっ」
周囲の視線など意に返さないと言わんばかりの堂々とした愛衣の胸板への突進を受け止めた修人は、客観的に見れば親しすぎる距離にいる愛衣を引き剥がすべく愛衣の両肩を掴み、まるで氷殻に触れたかのような寒冷した衣服に仰天した。
「……ずっと待っていましたから」
ご主人様との逢瀬に陶酔しきった眼差しを向ける愛衣が慕情の籠った赤い頬をしながらひっそりとそう言う。
「愛衣さん、俺のこと、どれくらい待ってたの?」
とりあえず愛衣を押し退けつつ、慮外な行動をしていた愛衣に修人はそう言う。
「今日は委員会のお仕事がなかったので、授業が終わってから……、大体一時間くらいでしょうか」
「結構待っていたんだね、連絡してくれればよかったのに」
「勝手に待っていただけですから、それに……」
愛衣は臆するようにそう言い、憂苦と周章の交じる複雑な面持ちになる。
「それに?」
少しの沈黙に言葉の続きが気になった修人は黙秘する愛衣を急かす。
「……ご主人様を待っている姿を見せたくて、喜ばせたかったから、伝えるわけにはいかなかったんです」
「……なるほどね」
修人はそんなサディストの支配欲を擽るような奴隷の台詞に感悦して喜色満面になる。そして修人は愛衣を押し退けていた右手をそのまま奴隷の首筋に這わせ、隷属の証であるチョーカーを――首輪に人差し指の先をあてがい、愛衣の平静を掻き乱すような妖艶な手つきで嗜みながら言葉を紡ぐ。
「ひょっとして、こんな吐く息も白くなってしまうような場所で連絡もせずに甲斐甲斐しく俺を待っていた理由は……、飼い主を待機して従順さを見せつけることで従属している意志を明確に表示したかったの?」
「……その通りです」
「結構な奴隷根性だね」
「はい、確かに寒かったですけど、待つ間中、私と会った時にご主人様が喜んでくれるかもしれないって思うと耐え忍ぶことができました。……ご主人様は私の考えていることが透けて見えるように解るんですね」
一驚して瞠若する愛衣が瞳をぱちくりさせながらそう言う。
「普段から愛衣さんと接してきた性格とか、思考を推察しただけで、明瞭に解るわけじゃないよ」
「……それで、その、ご主人様は、私が玄関で待っていて、喜んでくれましたか?」
憂い顔の愛衣が伏し目がちになりながら憂心を口にした。
「嬉しかったよ。秀麗な彼女がサプライズで待っていてくれて歓心しないわけがない」
普段は無愛想な修人だが、奴隷であり、彼女でもある愛衣の自主的で献身的な行動にサディストとして欣幸して笑みを零した。
それから付け加えるように、
「でも――」
と言い、憂憤を潜めた視線を愛衣に向けて言葉を紡ぐ。
「寒い場所に居続けたことで風邪を引いてしまったらどうするの? 俺は少なくとも長時間彼女を待たせた罪悪感を勝手に抱いて心象が悪くなるし、それになにより心配だから……、もし待つなら次からはちゃんと連絡して」
「ごめんなさいっ。……でも、照れた様子のご主人様を見てしまって、喜ばせる感覚が癖になりそうで……、その、気候が温和な時だったら、連絡せずに待ち伏せしても、いいですか?」
修人に至極真っ当な指摘をされて叱られる子供のように哀感に浸る愛衣だったが、一憂したのち、けろりと態度を変えて臆することなく直言した。
「……まあ、その判断は愛衣さん次第に任せるよ。俺が懸念しているのは、愛衣さんの体調が崩れる心配と、それが原因で愛衣さんへの調教が出来ない侘しさが嫌なだけだからね」
憂悶した様子の修人がそう言い面映ゆい態度を愛衣に取りながら閉口する。
そんな意外で瑞祥な素振りをする修人をまじまじと見つめていた愛衣は、一途な恋慕が心底溢れて陶然し、自然と口から言葉が出ていく。
「ありがとうございます、ご主人様、私の体調を気にしてくれて……、本当に嬉しいです」
「彼女の体調を気にするのは彼氏としては当然でしょ」
修人はそう言い、愛衣に触れていた両手をぱっと離し、慨嘆を込めた声音で言葉を紡いだ。
「あと、そのご主人様って呼称なんだけど、場を弁えて使ってね。さっき、デカい声で俺の事をそう呼んだから『誰かに聞かれていたらどうしよう』って冷や汗かいたよ。誰かに主従関係を悟られること自体は別に構いはしないよ、でも、それに付随する面倒事に巻き込まれるのは本当に避けたい」
「ごめんなさい、ご主人様……、気をつけます。……その、そんな不躾な奴隷には、お仕置が必要ですよね?」
愛衣は期待を瞳に宿してもじもじしながら修人にそう言う。
まるでそうなる様に愛衣が最初から企てていたのでは無いのかと修人は思案して内心慄然した。普段から聡明で利口なはずの秀才である愛衣が、主人からの言いつけを忘却し、何度も感情に傾倒して命令を守ろうとしない背景には、実は敢えて厳命を破ることでお仕置を受けたいのではないか、と空恐ろしい了見が脳裏に過った。真性のマゾヒストであり、俊傑と名高い愛衣の知能技に感心しつつ、修人はそれの真偽がどうであれ、答えは決まっていたので素直に口にした。
「お仕置はしないよ」
「……そうですか」
「残念そうだね。してほしかったみたいだ」
「……してほしくなかったと言うと、嘘になります」
「愛衣さんは貪欲だね」
「……お昼休みにしたことが頭に残って、悶々としていて……、全然性欲的に満ち足りなくて……、ご主人様ともっとしたいからです……」
愛衣はそう言い、顔を火照らせる。
「抽象的でよくわからないよ。なにをしたいの?」
悪戯な笑みを浮かべた修人が視線を背ける愛衣に嬉々としてそう言うのは、愛衣の羞恥心を煽るためだ。
「……ご主人様と、えっちがしたいです」
頬を紅潮させて上擦るようにそう言う愛衣。普段は純白の雪のような透明な肌の愛衣だが、喜怒哀楽に忠誠的な表情には血の気が良く通いやすいようで、赤面すると頬だけでなく顔中が熟れた林檎のように紅みを帯びることが愛衣にはよくある。
そして今回は自分の口からご主人様に対し、熱烈な願望を自らの口をもって懇願したので、まあ半ば言わされたようなものだが、それがマゾヒスト的に被虐心を刺激され、性的な興奮も得たせいもあり、普段よりも赤面していた。
そんな愛衣に愛欲の申請を受けた修人は、奴隷の飢えるような渇望する視線をじっと見返しながら蔑むように言う。
「そんなにムラムラするなら、自分で慰めれば?」
修人はそう言い、愛衣の切望を一蹴する。
それから修人は愛衣の手を取るなり口を開く。
「こっちにおいで」
修人はそう言い、愛衣の返事を聞く間もなく手を引いて先程自分が隠れていた階段の傍にある壁を目差した。
そんな強引な修人に成されるままに手を引かれる愛衣はご主人様の背を追いかけるように足を動かす。
躍起になってサディズムの影が修人からチラついて見えている愛衣は期待していた。これから行先で何をされるのだろうかと妄想し、被虐心が胸を躍らせるのだ。
「あのっ、ご主人様、何処に行くんですか?」
欲情している愛衣は興奮した気持ちを抑えながらそう言う。
「着いてのお楽しみ」
主導権を握る支配者である修人は、サディスティックな恭しい笑顔でそう言い、早足で目的地へと足を動かした。




