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2024/03/30

 5165.


【篠田君は、誰が一番似合ってたと思う?】


【えぇぇっ?】


「おや? この流れは・・・」


「まさか・・・っ!」



 5166.


<やっぱり笠井さんかな>


<深山さんがサマになってた>


<穂照先輩以外に選びようがない>


<入谷さん抜きで決めるなんてアンフェアだ>



 5167.


「お、おい、これは・・・!」


「言うまでもなく、ここの選択次第で誰と結ばれるかが決まりますわよ?」


「くお・・・っ! こんな、こんな残酷なことがあっていいのか・・・!」


「殿方には誰しも、覚悟を決める時が必要なのです。さぁ、どうぞ」



 5168.


「待ってくれ! まだ心の準備が・・・! そうだ、こうなったら・・・!」


「クジで決めるなんてナシですわよ? いわゆる“1週目”で、どういった判断基準で誰を選ぶのか。当然ですが制作陣にフィードバックさせて頂きます」


「お兄さん、どうかご決断を」


「見せてくれよ兄。お前の望む未来ってやつを」



 5169.


「くっ、俺は、俺は、俺は・・・・・・!」


「「「・・・・・・」」」


「・・・・・・君に決めたっ!」


【やっぱり笠井さんかな】



 5170.


「兄ー! 兄ー! 兄ぃぃぃぃぃ!!」


「同級生に、してしまうなんて・・・私の何がいけなかったというの・・・?」


「妥当と言えば妥当ですが、少々面白みに欠けますわね」


「黙れお前ら。これから俺が奈々を幸せにするんだから大人しく見ていろ」



 5170.


「やっぱり笠井さんかな」


「あーっ、やっぱりそうなんだぁ。可愛いもんね笠井さん」


「うぐ、そう直接言われると」


「えへへへ。いじわるなこと聞いちゃったかな」



 5171.


「たっだいま~、です!」


「お帰り~。やっぱりみんな制服も可愛いなぁ~」


「それを言うならツグミ先輩もゼッタイですよ。アタシの脳内妄想ではもう何十回と着せ替えさせちゃってますからね」


「妄想はやめてよ~~~~」



 5172.


「衣装は演劇部から借りられるとして、お店の方の準備はどうしましょう?」


「そうねえ・・・まずは肝心のカフェを成り立たせるものから揃えましょうか。という訳で早速調理部を成敗しに出掛けるわよ!」


「なんで成敗になるんですか!」


「伝説のスーパー料理人が、そこには居るからよ」



 5173.


「・・・なんだお前ら、ウチになんか用か?」


「生徒会、じゃなかった文芸部の者よ? 話は通してあると思うのだけれど」


「文芸部だぁ? 聞いてねぇなぁ。ホンマにアポ取っとんのかワレぇ?」


「こんなアウトローな調理部初めて見ましたよアタシ・・・」



 5174.


「テツ、何をやってる」


「マイカの姉御・・・それが、このチャラチャラした連中が俺たちに用があるとか抜かしちょるんですよ」


「ふーん。あたしゃ知らないよ。真ん中の3年のは、どっかで見たことあるような気もするけど」


「なんで生徒会長の顔知らないんですかこの人たち・・・」



 5175.


「騒がしいぞお前ら。通行人は3秒で追い払えと言ってるだろう」


「ま、マスター・・・」


「やっほー野副くん。超エリート生徒会長の穂照祥子よ?」


「文芸部員として来たんじゃなかったんですか・・・」



 5176.


「来たか穂照。入れ。夕食の準備はないがな」


「マスター? 本当に良いんで・・・?」


「あたしにも言ってないってどういうことだいギン。1から10のうち5と6だけ省いて説明してもらうよ!」


「何なんですかこの人たち・・・」



 5177.


「お前らにも話してなかったのは悪かった。俺は、とある理由からこの女には逆らえないんだ・・・」


「ったく、何やってんだい。アンタほどの男が、こんな女に弱みを握られるなんざ」


「複雑な事情が絡み合ってるんだが、一言で済ませるなら、そうだな・・・部員が足りなくて廃部の危機に立たされてるんだ」


「アタシたちと一緒だった! しかも全然複雑じゃない!」



 5178.


「そういうこと。毎月の上納料理も最近は手抜き気味だし、廃部が嫌なら今度の文化祭で私たちに協力してね? そしたら年度いっぱいは隔週の上納で見逃してあげる。それに、文化祭で何か出せば部費とは別に文化祭予算も充当できるのだけど?」


「く・・・っ! そろそろフライパンを買い替えねばならんというのに・・・!」


「しっかりしろギン! まさかそんな事情があったとは・・・なんて卑劣な女だ。自分が生徒会長なのを良いことに個人的に所属してる部に都合のいいように利用するなんて」


「そこは本当にそうなのが申し訳ない限りデス。しかも“上納”って・・・」



 5179.


「いいだろう。お前たちとの勝負、受けて立つ。俺らが負けたら、要求通りお前らの文化祭に協力した上で隔週の上納も凝ったものを出すと約束しよう。ただし、俺らが勝ったら文化祭の協力も今後の上納もナシだ。もちろん受けるよな、生徒会長?」


「いいわよ。更に譲歩として、3戦のうち2戦の勝負内容はそっちに決めさせてあげる」


「このアマ・・・ナメやがって。こんな奴ら、二度と俺らに逆らえないようにしてやるぞ、マイカ、マスター」


「何で当然のように勝負する流れになってるんですか・・・」



 5180.


「まず1戦目はテツ、お前が行け。勝負もお前が得意なのでいいぞ」


「うっし。じゃあ言うまでもなくポーカーだ。そっちは誰だ?」


「私が行くわ」


「穂照先輩!? いきなりですか!?」



 5181.


「おいおい、ハナからカシラのお出ましかよ」


「何を言っているの? 私たちのカシラは部長である笠井さんよ? 当然ながら、トリで野副くんとやり合ってもらうことになるわ」


「「「「ええぇぇぇぇぇっ!!?」」」」


「安心して。そこまでは回らずに2戦で決まるから」



 5182.


「いやいやいやいや、何言ってんですか穂照先輩! あのマイカって人もめちゃくちゃヤバそうじゃないですか! 勝てるワケありませんって!」


「大丈夫よ、策はあるから。確かに彼らは、ポーカーフェースのテツ、ビブラフォンのマイカ、超熱伝導のギンと呼ばれる強者揃いだし、料理が得意そうな笠井さんでも野副くんには敵わない。だけど、他の2戦なら取れるわ」


「そんな、何を根拠に・・・!」


「まぁいいから、私を信じて見てて?」



 5183.


「あたしらもナメられたもんだね・・・どんな策があるか知らないけど、それを生徒会長本人はともかく2戦目もそいつらの誰かが実行できたとして、あたしに勝とうだなんて。 テツ! まずはあの女をやっちないな! こんな奴ら、逆にあたしら2人で片付けちまうよ!」


「おうよ。俺らを見くびったことを後悔させてやる。言っておくが普通のポーカーじゃないぞ。俺らのオリジナルルールをふんだんに盛り込んだ、ザ・フルコースポーカーだ」


「望むところよ」


「いくら穂照先輩でも、特殊ルールが付いた状態でそれに慣れてる人たち相手じゃあ・・・!」



 5184.


「はい、ファイブカード。私の勝ちね♪」


「な、んだ、と・・・ぐはぁっ!」


 どさり。


「テツ!!」



 5185.


「すごい、本当に勝っちゃった・・・」


「彼らが日常的にオリジナルのポーカーで賭博をしていたことは把握済みよ。当然ながら個人的な友達に頼んで、どんなものか体験してもらったこともある。長期戦になりやすくて、相手のイカサマの手口を逆手に取れば、あとは墓地に送られたカードをちゃんと覚えることでゲームメイクできる。こんな、まるでルーチンワークのように勝負を進める人になんて負けないわ。そっちこそ、私たちを甘く見てたんじゃないの?」


「くそっ、よくもテツを・・・!」


「穂照祥子、やはり侮れない女だったか・・・」



 5186.


「次はあたしだよ! そっちは誰が来るんだい! テツをこうした以上タダじゃおかないよ!」


「ひぃぃぃっ! 完全に怒らせちゃったじゃないですか! どうするんですか穂照先輩!」


「そんなの決まってるわよ。次はこっちで勝負内容を決められるんだから。 入谷さん、準備はいい?」


「え、ワタシですか?」



 5187.


「いやいやいやいや何言ってるんですか! あんなヤバそうな人とツグミ先輩をぶつけるなんて・・・って、あれ?」


「ふふ、分かった? さぁ調理部さん、次の勝負はあなたたちも大好きな荒事よ? 思う存分やり合って、気を失うか“参った”と言った方が負け。シンプルでしょ」


「はぁ!? このアマ何言っ・・・」


「“何を言ってる”も何も、2戦目の内容はこっちで決められるはずでしょう?」



 5188.


「ま、待て! いくら何でも本職の空手家相手じゃ・・・!」


「そんなこと言ったら、私だってポーカーは専門じゃないし、3戦目はそっちが決められるんだから野副くんの得意な料理にできるじゃない。こっちは1戦しか決められないって譲歩をしたのよ? それで不公平だなんて言わないわよね?」


「く、・・・そ、がぁぁっ!」


「味方ながら、こんな人が生徒会長でいいのかと本気で思えてきちゃいましたね・・・」



 5189.


「しょうがない。ここは俺が行こう。選手交代ならまだ許されるはずだ」


「さっきマイカさんが“次はあたし”って言ってたけど、まぁいいわ。3戦目が楽器対決になろうとも、ここで入谷さんが勝てば終わりだし。 という訳で、お願いね入谷さん♪」


「はい! 頑張ります!」


「ツグミ先輩、頑張って・・・!」



 5190.


「入谷さん、大丈夫でしょうか。いくら空手で都大会上位に入れるからって、あんなラグビー部みたいな体格の男子相手に・・・」


「しかも、競技でも何でもない、ルール無しの対決だからな」


「ちょっと2人とも、心配になるようなこと言わないでくださいよ!」


「だぁいじょうぶよみんな、入谷さんが負けるような相手ではないわ」



 5191.


「よし、それじゃあいくぞ! 空手やってるなら女だからって手加減は無用!」


「もちろんです。真剣勝負ですから」


「はぁぁぁぁぁ・・・っ!」


「・・・・・・スーーーーッ」



 5192.


「はぁっ!」


 ドスッ。


「やぁっ!」


 タァン!!



 5193.


「な、ァ゛・・・・・・」


「・・・・・・」


 ・・・どさり。


「ギン!!」



 5194.


「ギンーーーーー!!」


「マスターーーーーー!!」


「気絶ね。入谷さんの勝ち」


「フーーッ。ありがとう、ございました」



 5195.


「おい、しっかりしろ、ギン!」


「すごい、寸止めなのに気絶させちゃった・・・」


「しかも相手の攻撃を正面からお腹で受け止めて、でしたね」


「なんて腹筋してるんだ・・・初めて見たけどほんとに強いんだな」



 5196.


「マスター、マスター・・・! テメー、寸止めなんて手抜きしやがって! 情けでもかけたつもりか!」


「そんなつもりはないです。競技の方でも寸止めですから」


「それでもだよ! あたしらにもメンツってもんがあるんだ! カシラが寸止めでトんだなんて、丸潰れもいいところじゃないか!」


「それはあなたたちの都合でしょう? 入谷さん、気にしなくてもいいわよ」



 5197.


「さ、それじゃあ、文化祭、ここでカフェをやるから協力してね。もちろん、コスプレもしてもらう」


「はぁ!? なんだそれ! 聞いてねーし!」


「いま初めて言ったからね」


「フザけんな!!」



 5198.


「それで、コンセプトはどうするんですか? そもそも衣装の統一感もあんまりなかったですけど」


「そこなのよ篠田くん。演劇部の人たち、みんなの顔写真とスリーサイズだけで何を着せるか決めちゃって」


「なんでスリーサイズなんて知ってるんですか! 篠田先輩のヘンタイ!」


「なんで俺!?」



 5199.


「安心してみんな。センシティブな個人情報だから、生徒会の方で厳重に管理してるし演劇部とは機密保持契約も交わしてるわ」


「そもそも生徒会だからってスリーサイズを知ってるのは何でなのかなって思ってるのはワタシだけなのかな・・・」


「こればかりは諦めるしかなさそうですね・・・」


「ホントになんでこんな人を生徒会長にしちゃったんですか・・・」



 5200.


「本題に戻るわよ。カフェの方はもう、何でもアリアリのカオスカフェにしましょう。可愛い恰好してたらコンセプトなんて誰も気にしないわよ」


「また身も蓋もないことを・・・」


「よーしそれじゃあ、明日から本格的に設営に入るわよ。文化祭までは授業で調理実習がないことは把握済みだから」


「お前ら、勝手に話を進めやがって・・・」



 5201.


<翌日。先輩が言った通り、文化祭に向けた準備が始まった>


「集まったはいいんですけど、どうすればいいんですか? 恥ずかしながらアタシ、こういう時どうすればいいのか分からなくて」


「すみません私も、部長なのにこんなことではダメだと分かっては居るのですが・・・」


「いいのイイの。言い出しっぺは私なんだから、ある程度のことは任せて? ぼちぼち生徒会も忙しくなりそうだから、こっちの準備は早いうちに軌道に乗せておきたいの」



 5202.


「基本的には、学校にある備品で飾り付けとかインテリアを整えながら、外からの仕入れもする感じね。という訳で、買出し班を決めるクジ引きよ♪ せーのっ、ぽん!」


「「「「ぽん!」」」」


「あ、俺だ」


「私も、買出し班、みたいです」



 5203.


「それじゃ、今日の買出し班は笠井さんと篠田くんね」


「ちぇーっ。こういうイベント準備の買出しって憧れてたんだけどなー」


「クジ引きの結果に文句言わな~い。普通じゃ入れない倉庫なんかも案内してあげるから、こっちで我慢してね」


「あ、それはそれで楽しみかもです」



 5204.


「とりあえず今の段階で最低限必要なのはこれよ。あとは2人の好みで適当に追加してね」


「はい、ありがとうございます」


「何があるんだ?」


<笠井さんが先輩からメモを見る。初日ということもあって大した量じゃないな。そのうち、設営してたらあれが足りないこれが足りないとかが出てくるだろう>



 5205.


「それじゃあ2人とも、買出しデート楽しんで来てね♪」


「えぇぇっ!? ででででででででデートだなんて・・・違いますこれは遊びじゃないです買出しです立派な仕事です!」


「笠井さん落ち着いて! これは先輩の罠だから!」


「むーーっ。個人的にドストライクに可愛いのに男子の存在がないと奈々先輩のこの姿が見れないのがフクザツで仕方がありません・・・」



 5206.


「料理のラインナップについては、調理部を中心に考えていきましょう。早い段階で決めてしまって、ある程度は冷凍で食材をそろえておきたいわね」


「おう、任せろ」


「おいギン! なんでこんな奴らの言いなりになんか」


「俺たちは勝負で負けた。当然の道理だろう」



 5207.


「くそっ、テツが油断なんてせずあの女に勝ってれば・・・!」


「面目ない・・・しかし、マイカの姉御とてあの女に勝てるかどうか・・・」


「あぁん? このあたしの、舌のとろけるような演奏があんな性悪女に負けるってのかい!?」


「なんであの人って調理部にいるんでしょうね・・・」



 5208.


「ほらそこ、無駄口ばかり叩いてないでカフェのメニューを考えて!」


「「「イェッサー!」」」


「なんだか可哀相に思えてきましたね・・・」


「ワタシが勝っちゃったせい、なのかな・・・」



 5209.


「では私たちは、買出しに行って来ますね」


「行ってらっしゃ~~い」


「奈々先輩、穂照先輩にバレないようにお菓子とか買って来てくださいね!」


「それは聞こえないように言ってもらえるかしら深山さん?」



 5210.


<外に出ると、夏なんてすっかり忘れたような風が吹いていた>


「少し冷えますね。10月も後半なので当然ですけど、ちょっと前まではたまに暑い日もあった気もするのに」


「だな。魚だった頃は寒くなったら南の方に移動してたのに、何故か人間は年中同じ場所に留まるみたいだし。海と違って地面は繋がってないからしょうがないけど」


「住み慣れた故郷を離れたくないという気持ちもあると思います。それに、同じ場所にいて季節の移り変わりを見るのも、楽しいものですよ」



 5211.


「そうなのかな。しっくりこないけど」


<既に人間として6~7年過ごしてる笠井さんだから分かることなんだろうか。もちろん俺にも、冬は雪が降るとか、春には桜が咲くとかの知識も、それを見て過ごしてきた記憶も暗号みたいに脳内に存在してるけど、しっくり来ない>


「何かと悩ましいことも多いですけど、私は人間になれて良かったと思ってます。海の中だけでは見られない景色を見ることができて、美味しいものを食べることができて、本を読んで物語の世界に入ったり、新書なら他の人の考えを知ることができて、部活で色んな人と出会えて・・・私は、幸せ者だと思います」


「幸せ、かぁ・・・。やっぱりまだ、不条理な部分が気になるなぁ」



 5212.


「戸惑っちゃいますよね。なんで人間はこんな変なことやってるのかって。それも、もっと他に上手なやり方があるはずだと直感的に分かるような非効率なやり方で」


「部活を隠れ蓑に賭博したり、それに気付いた生徒会長が上納品を要求したりもな」


「あはは・・・確かに、意識して他者から何かを奪うということを、私たちはしませんからね。相手が可哀相だからしないというよりは、そもそも考えに浮かばないというのが正しいですし。

 でもそういうことをしてる人たちこそ、人生に楽しさを求めてるんじゃないかって、私は思うんです。手段は褒められたものではありませんが、人が生きる意味の本質はそこにあるんじゃないかって、そんな気がするんです」



 5213.


「正直なところ、生きるためだけならまだしも、私腹を肥やすために同族を虐げるっていうのが理解できないんだけどな」


「人間の精神構造上、他者を蔑むことに快楽を覚えることもあるみたいですから。インターネット上なんて酷いですよ」


「はぁ。なってみてから思うけど、やっぱり欠陥まみれだよ、この生き物」


「でも、そんなところも含めて私は、人間らしさなのかなって思ってます。変ですよね、こんなことを言ってしまうなんて」



 5214.


「まぁぶっちゃけ思ったけど・・・でも、なんとなく分かるよ。笠井さんの言ってること」


「本当ですか?」


「本当、と言えるほどかは怪しいけど、生きることを楽しむために自ら望んで人間になったんでしょ。結果として辛いことの1つや2つあったかも知れないし、搾取とか誹謗中傷で気持ちよくなってる人もいるんだろうけど一旦それを無視すれば、何に楽しさを感じるかが人それぞれというだけで、楽しく生きることを追い求めているのは変わらないってことだよね。嫌な楽しみ方をする人もいる現実も見てるんだから、笠井さんが言ってることは別に変じゃないよ。もちろん、笠井さんは人傷付けることを楽しむような人じゃないって分かってるから」


「篠田君・・・ありがとうございます。こんなお話ができる人がいて、本当に良かったです」



 5215.


「確かに、事情が事情だからなぁ・・・話したとして信じてもらえないし」


「ですよね・・・みんな、失礼ですけど先輩もかけがえのない友達だと思ってるので隠し事なんてしたくないのですが、こればかりは尻込みしてしまいます」


「間違いなく、熱でもあるんじゃないかって言われるだろうし、話せたもんじゃないよこんなの」


「これだけが私としても、心苦しい限りです」



 5216.


「篠田君はやっぱり、サバに戻りたいんですか? 願った訳でもなくある日突然人間になってしまったんですよね」


「そうなんだけど今は、今のままでいいかなって思ってる。人と関わるのって疲れるし、人生を楽しめと言われた時はピンときてなかったけど、少なくとも、海に帰って周りに合わせて泳ぐだけの生活に戻ることに積極的になる理由はないかな。そう言えるぐらいには、文芸部のみんなとか、神原や桐葉と過ごす毎日を、楽しめてる、のかな」


「だとしたら、私も嬉しいです。せっかくお友達になれたのに、今から篠田君にいなくなられてしまうと寂しいです。他のみんなだって同じだと思いますし、特に私は、望んだか望まぬかの違いはありますけど、魚から人になったという共通の境遇もあります。できれば篠田君にも楽しく過ごして欲しいですし、私でよければお手伝いもしたいです。って、何言ってるんでしょうね。先生でも何でもないのに」


「何でもなくはないよ。“お友達”って言ってくれたじゃん。神原や桐葉だって“もっと毎日を楽しめ”って言ってくるよ。それにもう、笠井さんには俺に文芸部って居場所を用意してくれてる」



 5217.


「そんな・・・! それは今村先生が強引にしたことですし私はまだ何も・・・!」


「でも多分、唯一の文芸部員が笠井さんじゃなかったら俺は、サバに戻った方がマシだって思ってた気がするよ」


「だとしても、私自身がまだ篠田君の役に立てた気がしてません。なのでお手伝いさせてもらいます・・・!」


「え? そこまで言うなら・・・でもどうやって?」



 5218.


「そ、それは、例えば、休日に私が楽しんでるものを一緒に体験してもらう、とか」


「えぇ??」


「あ、あわわわわわ忘れてください! 迷惑ですよねお休みの日にまで呼び出すなんてただ私は篠田君に選択肢の1つを見せようかと思っただけでほら部活で野球とかサッカーをやってる人もその競技の存在を知らなければのめり込むこともなかった訳でつまりその人間社会にはどんな“楽しみ”があるかを知るところから始めて色んなものを見た中で興味を持ったものから始めるのがいいのかなと思った次第でそのためには多くの選択肢を用意するのが私の仕事というか納税の義務というか高校は義務教育じゃないから通うと決めた以上は充実させたいというか・・・」


「ストップストップ! 言いたいことは分かったというか最後の方はちょっと訳が分からなかったけど言いたいことは分かったから!」



 5219.


「い、いえ忘れてください! 考えてみたら私かなり変なこと言ってしまったじゃないですかぁ男の子をお休みの日に誘うなんて何考えてるんですか私のバカバカバカバカ・・・!」


「待って待って待って待って! 別に変だとは思ってないし笠井さんが俺のためを思って言ってくれたのは分かってるから・・・! その、良かったら、見せて欲しいんだ。自ら望んで人間になった笠井さんが、どんなことをしてる時が楽しく過ごせてるのか。俺たちって男子とか女子とか関係なく、元サバだから。笠井さんもそのつもりで誘ってくれたんだよね。だったら、余計なことは考えずに、楽しもうよ。人間のアクティビティを」


「は、はい・・・ですがその、本当に、私なんかで良いんですか・・・?」


「良いも悪いも、笠井さんしかいないから。自分の境遇を話せたのも、それを信じてもらえたのも」



 5220.


「それはそうかも知れませんけど、“笠井さんしかいない”と言われると、弱いです・・・」


「う・・・」


「あ、ほら、やっぱり引いてますよね私が変なこと言ったから引いてますよね・・・!」


「違うから! 今のはその、あまりに可愛かったから驚いただけで・・・!」



 5221.


「か、かわ・・・!? なんでそんな恥ずかしいことを平気で言えるんですか! 余計なことは考えないって言ったじゃないですかぁぁ!!」


「ごめん! つい!」


「うぅぅぅぅ・・・ずるいです。私ばっかり恥ずかしい思いをさせられて・・・」


「いや、俺も結構恥ずかしかったからね・・・!?」



 5222.


「そんなことよりも買出しです! あんまり遅くなるとまた穂照先輩にデートだ何だの言われてしまいますよ!」


「そ、そうだね、急ごう・・・!」


<とは言え、休日に会う約束を取り付けた時点でそればもうデートなんじゃと思えてしまったんだけど、言うのはやめておこう。そもそもそれは、お互いに元サバだからやることであって、その2人がたまたま男女1人ずつだったというだけだからデートと呼べるような代物じゃないはずだ、うん>


「何をしてるんですか篠田君、早く!」



 5223.


<そんなこんなで、買出し終了。もちろん、リストになかったものを自分たちのセンスで選ぶ余裕なんてなかった。何なら手分けして集めに行ったし、合流するときも気まずかった。でも、土曜日の11時に駅前で、ということだけは決まった。はぁ、やっぱり人間関係って疲れるな・・・>


「本当に最低限しか買って来なかったのねえ。インテリアも創作なのだから、そこは文芸部員として創作意欲に沸いてもらいたかったなあ。それとも、初めてのデートでドギマギしちゃってそんな余裕なかったとか?」


「「そんな訳ないじゃないですか!」」


「そんな強烈に否定しなくても・・・逆に怪しいな~」



 5224.


「篠田先輩はズルいです。男というだけで奈々先輩に可愛い反応をさせることができるんですから。こんなことなら私も男の方が良かったですよ」


「男だったらむやみやたらに女子に抱きつくことはできなくなるぞ」


「その時は1人の女の子をオトしちゃえばいいんですよ。篠田先輩には無理でしょうけど。こんなうだつの上がらない人に抱きしめられるなんて、考えただけで通報したくなっちゃいますね」


「自分で想像しておいて通報はあんまりだろ・・・」



 5225.


「こうなったら、女子にしかできない方法で奈々先輩とスキンシップを取るだけです。奈々先輩だぁ~いすきぃ~」


「わぁっ、ちょっと深山さん・・・」


「それは男の人がやる飛びつき方なのよ・・・」


「あははは・・・でも、何だか和んじゃいますね。ワタシもたまに抱きつかれる時は“やめて~~”って感じになりますけど、傍から見てる分には子犬と飼い主みたいで」



 5226.


「穂照先輩っ、作業の分担は毎日変えるんですよね!」


「そうね。ずっと同じ人と同じ作業ばっかりじゃつまんないでしょうし」


「やったぁ!」


<そんなこんなで、文化祭に向けた準備は着々と進んでいくことになった>



 5227.


<今日のところは終わって、帰宅>


「はぁーーっ」


<土曜日、笠井さんとお出掛けか。もちろんデートのような趣旨じゃないことは分かってるんだけど、緊張するな・・・というか、考えたらちょっとムラムラしてき・・・くそっ、人間の体め、なんでこんなすぐ発情するん・・・がっ! このままじゃ、いやむしろ、土曜日に笠井さんと過ごしてる最中にこうならないようにするには・・・!>


「ぐ、おぉ・・・まい・・・!」



 5228.


(あ、あわわわわ・・・本当に、約束、つけちゃいました・・・おぉ、男の子と、お出掛け・・・いえ、そんなんではなくこれはただ、元々は魚だったという共通の境遇があったことによるもので決して男女のあれでは・・・し、篠田君も篠田君です。いきなり“可愛い”だなんて。そんなこと言われたら、私・・・)


「っ・・・!」


(だ、ダメです! 篠田君のことを考えたら体が火照って・・・! 何で人間の体ってこうなんですかぁ! も、もう、ダメです・・・いえダメです! 男女がどうとか考えるのは篠田君にしつれ・・・いえ、もしお出掛けの当時にこうなってしまったら・・・そ、それだけ絶対にダメです! そんなことがないようにしなくてはいけません! こ、これは仕方のないこと、最悪の事態を回避するには仕方のないことなんです・・・!)


「んっ、うぅ・・・人間のバカぁ・・・」



 5229.


<そして迎えた、土曜日>


「あ、笠井さん」


「篠田君・・・! こ、こんにちは・・・!」


「あ、うん。こんにち、は」



 5230.


「あの、その、今日は、ありがとうございます。お時間を頂いて。しかも約束の10分前に来てもらって・・・私が時間を守るタイプだから気を遣わせちゃいましたよね」


「そんなことはないよ。確かに笠井さんのことだから早めに来そうだなぁとは思ってたけど、時間をもらったのはお互いさまだし、今日のことは楽しみだったし」


「“楽しみ”って・・・プレッシャーかけないでくださいよぅ!」


「えぇ? じゃあ俺はなんて言えば・・・」



 5231.


「も、もっと普段通りに、気楽にしてください! でないと私の方がプレッシャーで潰れてしまいます! 深海の水圧には篠田君も耐えられませんよね・・・!」


「そりゃそうだけど、普段通りって言われても・・・」


「普段通りは普段通りです! 毎日顔を合わせる人と、毎日顔を合わせる場所で! ここは部室です! 教室です! 学校なんです!」


「思いっきり駅の改札前で言われても・・・」



 5232.


<そもそも、部室でも笠井さんといるってだけ緊張感があるのに・・・なんてこと言ったら逆効果だし、本当にどうすれば・・・と、とにかく本題に入ろう!>


「きょ、今日は、笠井さんが休みの日にしてることを教えてくれるんだよね。早速だけど教えてよ」


「そうです! そのために来たんです! すぅ、はぁ。・・・篠田君に好みに合うかは分かりませんが、あくまで人生を楽しむために選択肢の候補として、気楽に考えて頂ければと思います」


「分かったよ。笠井さんも変な気は遣わずに、“自分が楽しんでるもの”を、抑えたり控えめにしたりしないで、ありのままを教えて欲しい」



 5233.


「はい。では遠慮なく。まずは月並みですが、ウィンドウショッピングです」


<という訳で、駅ビルに入っていく>


「お洋服とかは、よくここに見に来るんですよ。ちょっと値が張るので結局は安いお店で買うことが多いんですけど、なんだか見てるだけでもオシャレした気分になってしまって」


「へぇぇ~~っ。色んなのがあるんだなぁ」



 5234.


<なんというか、新鮮だ。俺1人じゃどうあっても来れない場所だし。女の人の服を並べるだけで、こんなに華やかになるんだな>


「篠田君は、お洋服を見たりはしないんですか?」


「うん、あんまり。ほつれてきたら親が勝手に新しいのを買ってくるって感じだし」


「あはは・・・男の子だと、そういう人の方が多いのかも知れませんね」



 5235.


「次は小物を見に行きましょうか。実は私、お洋服よりもこっちの方が見てて楽しいんです」


<ということで、1つ上のフロアに移動。エスカレーターを上がった目の前に、財布が並んでいた>


「私にはまだ早いんですけど、お財布とか鞄とか、いつか、大人っぽいものを持ち歩きたいなって思ってるんです」


「確かに、女の人用のものでもなんだか、かっこいい感じがするね」



 5236.


「でももう既に、笠井さんには似合いそうだけど?」


「そんな! 私なんてまだまだです! ほ、褒めても何も出ませんからね? というか褒めるの禁止です! プレッシャー禁止令です!」


「えぇぇぇぇっ!?」


<今のもダメなの!?>



 5237.


「うーーん。ほんとに似合いそうだと思うんだけどなぁ」


「やめてくださいよぅ。やっぱりまだ、背伸びしちゃってる感で出てしまいますって」


「そうかなぁ」


「そうなんですっ」



 5238.


<同じフロアの別の店に移動。今度はインテリア系の小物だ>


「この辺りはお手頃な価格なのが多くて、部屋に置くもので人には見られませんから、よく買っちゃいます。毎日過ごすお部屋ですから、自分好みのものを置いておきたくって」


「ふーーん。インテリアかぁ」


<確かにどれも、笠井さんの部屋に置いてあっても不思議じゃない。というかザ・笠井さんという感じがして、とてつもなくしっくりくる>



 5239.


「篠田君は、自分のお部屋のオシャレとかも興味ないんですか?」


「そうだなぁ。意識したことないけど、言われてみれば質素かも」


「でしたら試しに、いえ何でもな・・・いいえ、今日は私の“生きる上での楽しみ”を篠田君に教える日でしたね。フーーーッ。・・・篠田君、ここは騙されたと思って、何か1つ買ってみる、というのはどうでしょう・・・?」


「え、俺が?」



 5240.


<部屋に置く飾りを、俺が・・・? でもそうだよな。笠井さんがどんな楽しみ方をしてるかってのを教えてもらいに来たんだもんな。でも、部屋に飾り物って、どんなのを置けばいいんだろう。この店に並んでるものをチラチラと見ても、ズバリこれを置きたいってものには行きつかない>


「やっぱり、興味ない、ですか・・・?」


「いやそんなことは・・・! ただちょっと、何を買えばいいのやらって感じで。ごめん」


「いえ、私の方こそ、急に変なことを言ってしまってすみません」



 5241.


「大丈夫だいじょうぶ。むしろありがとう。本当に、部屋に飾りを置くなんて考えたこともなかったから選べなくて・・・そうだ、笠井さんに選んでもらっても、いい、かな・・・?」


「え、私、ですか?」


「だって、ほら、いつも自分ので選び慣れてるだろうし」


「自分のを選ぶのと人のを選ぶのとでは全然違いますよぅ~~」



 5242.


「お願い、そこを何とか! この通り!」


「そんな頼み方をされると弱いです・・・うぅぅぅぅ~~っ。プレッシャー禁止令に抵触しますよぅ。制限圧力を20キロパスカルオーバーですよぅ~~」


「そんな制限速度オーバーみたいに・・・」


「ですが分かりました。自分の楽しみを教えると言ったのは私ですし、篠田君にもお部屋の飾り付けを楽しんでもらえると嬉しいので、頑張ります」



 5243.


「ですがその、選んでいる間は、席を外して頂けると・・・」


<笠井さんは懇願するように俺を見た。確かに、俺が見てるそばでは考えづらいだろうな>


「頑張り、ます・・・けど、過度な期待は禁物ですからね・・・?」


「あ、うん、えっと・・・とにかく待ってるよ」



 5244.


<できるだけ笠井さんの視界に入らないように、エスカレーターのそばまで戻ってそこのベンチで待った>


「お待たせしました」


「“待たせた”なんて、俺が買うものを選んでもらってたん・・・って、買っちゃったの!?」


「はい。その、せっかくですので、プレゼントを、なんて・・・」



 5245.


「いやいやいやいや、大丈夫だよ! お金返すよ! なんだか奢らせたみたいになっちゃうし!」


「私の方は大丈夫です! その、大したお値段ではないですし!」


「それでもだよ! このままじゃ俺の気が済まないから! そうだ、お茶休憩にしよう! そこで俺が奢るから! ケーキでもなんでも一緒に!」


「えぇぇぇっ!?」



 5246.


「大丈夫です大丈夫です! そこでごちそうしてもらったら意味ないじゃないですかぁ!」


「いやいやいや俺だって、これ奢ってもらっちゃったら意味ないというか、お互い様だって分かるよね・・・!?」


「それはそうかもしれませんが、うぅぅ・・・でしたら、お茶をごちそうしてもらうのではなく、私が部屋に置くものを選んでもらってプレゼントして頂く、というのはどうでしょう・・・」


「えっ??」



 5247.


「いやいやいやいや、奢るだけならまだしも、選ぶなんて俺には無理だよ! プレッシャー禁止令だよ! 30キロオーバーだよ!」


「そ、それこそお互い様ですし・・・! それに、せっかくなので、篠田君が選んでくれたものを、お部屋に置きたいなぁって・・・ダメ、ですか・・・?」


「うっ・・・」


<上目遣いはやめて・・・! そんな目で見られたら断れないじゃん・・・!>



 5248.


「わ、わかったよ・・・でも、センスないものを選んじゃうかも知れないからね・・・?」


「はい、大丈夫です。篠田君の選んでくれたものなら何でも、お部屋にあるだけで嬉しくなってしまいそうですし」


「え?」


「あ、いえ、そのっ、今のは決して変な意味ではなく、学校でお友達になれた人とプレゼントを贈り合った記念というか友情の証というかそういう感じのものなので安心してください!」



 5249.


「そういうことなら・・・」


<ホッとしたような、ちょっと残念なような・・・って、何考えてんだ俺! 笠井さんの言うように、俺たちはただ同じ境遇を持つ友達同士というだけで・・・!>


「では私はここで待ってますね。あっ、あと、私が篠田君に買ったものは1500円なので、そのお値段以下でお願いします」


「分かった。1500円だね」



 5250.


<笠井さんと別れ、お店へ。なんか俺が笠井さんの部屋に置くものを選ぶ流れになったけど、どうすればいいんだ・・・? せめて、笠井さんが普段どんなものを買ってるかは聞いておけばよかった>


「そうだ、さっき俺に買ってくれたもの・・・って、まだ笠井さんが持ってるじゃん」


<しまった・・・奢ってくれたことに動揺して受け取ってなかった>


「う~~~~ん」



 5251.


<こういう時、神原や桐葉がいれば・・・でも“自分で考えろ”って言われそうだな>


「あぁ~~~っ・・・」


<ウンウン唸りながら、あれでもないこれでもないとウロウロしていると、声をかけられた>


「お客さま、何かお探しでしょうか?」



 5252.


「あぁ、えっと、友達にプレゼントを・・・ですが、女の子なので、どれにすればいいやらで・・・」


「まぁ、そうなんですね。それは、失敗したくありませんよね」


「はい、まぁ・・・」


(あら? この子、さっきカップルで・・・それで、女の子の方だけ残って“男の子への贈り物”を買って行ったけど・・・なるほど)



 5253.


「まず大前提として、お客さまが選ぶものであれば何でも大丈夫ですよ」


「ですが、そうは言っても・・・」


「ですよね。お客さまご自身が選ぶことに意義があるので特定のものをお勧めすることはできませんが、今回のようなケースですと、実用性のない、言わば単なる飾り物の方がよいかと思います」


「単なる飾り、ですか・・・」



 5254.


「はい。当店では小物入れやペン立てもありますが、そういったものは、お贈りする相手さまが既にお持ちである場合に持て余してしまうことになります。どのような形でお贈りするかによるところもありますが、今お客さまが検討されているものはサプライズプレゼントでしょうか」


「いえ、お互いにプレゼントし合おうということになって」


「であれば尚のこと、実用性はない方がよいでしょう。記念品として部屋に置いて頂くことが一番だと思います」


「そうです。今日の記念にということでそうなんですけどそれ以上の特別なものがあるとかでもなくて・・・」



 5255.


(おぉ~。さっきの女の子も同じこと言ってて可愛らしかったなあ。お付き合いはなさそうだけどこれは・・・男の子の方をひと押ししたい、けど我慢のしどころね)


「あまり身構える必要はありませんよ。変なものを選んでしまってもそれはそれで、笑い話にしてしまえば良いのですから」


「あはは、それもそうですね」


「大きさも、あまり邪魔にならない範囲、ですがそれなりに目につきやすいもの、例えばこちらぐらいのものが丁度よいかと思います」



 5256.


「なるほど・・・」


<店員さんが近くにあったコップを示した。10センチぐらいか。確かに、あんまりデカすぎてもな。で、コップは実用品だから他から選べということか・・・>


「もうひとつのポイントとして、動物をあしらったものは女性に好まれやすい傾向があります。ですがご本人が既にお持ちのものと重複してしまうリスクはあります。一方、木や花、それから乗り物や機械を連想させるものは、お相手さまの好みに合わせるのが少々難しくなります


「難しいですね・・・」



 5257.


<確かに動物は無難だけど、無難なものを選んだ感が出るし、笠井さんこの店よく来るだろうし、下手すりゃ種類どころか商品までがっつり被る。かと言って機械仕掛けチックなものにして外したくはないし・・・>


「じゃあ、お花、とか・・・?」


「よいと思います。こちらへどうぞ」


「花ならなんか、商品まで被ったとしても、まぁいいかなって思える気がした」



 5258.


「こちらです。カラフルなものは気が引けるということであれば、木材や金属でできたシンプルなものもございます」


「おぉ・・・」


<確かに、俺からのプレゼントであんまりカラフルな花の置物って何だか変だな>


「あるいは、花言葉を意識して選んでみるもの良いですよ」



 5259.


「いや~さすがにそこまではしなくていいかなって。見た目だけで決めようと思います」


「かしこまりました。では、私にできるのはここまでですので、決まりましたら会計の方までお越しください」


「はい」


<よし、あとはこの中から選ぶだけだな。って、それが大変なんだけど>



 5260.


「うーーん」


<やっぱり、カラフルなやつはやめよう。俺が女子にカラフルな花のプレゼントなんて、末代までの笑いものだ。となると木製か金属製か・・・? でもの金属の置物は、笠井さんの部屋には似合わないかなぁ>


「お」


<ひとのものが、俺の目に留まった>



 5261.


「ドライフラワー、か・・・」


<木の小さな箱の上に、花束? って程ではないけど、7~8センチの箱に短い花をシュコシュコと差していったらこうなるんじゃないかって感じのものがあった。色は全体的にセピア調で、ちょっとオレンジや青が混ざってるのもあるけど、これくらいならまあって感じだ>


「第1候補かな」


<他のも見てみようと思って、辺りをぐるりと回った。ガラスに入ったビビッドカラーののやつとか、ガッツリした彫刻(2万円!)とか、厚みはあるけど平面チックな木のオブジェとかがあったけど、さっきのやつ以上にしっくりくるものはなかった>


「よし、あれにしよう」



 5262.


<最初に見つけたドライフラワーなるものを持って行った>


「まぁ。いいものをお選びになりましたね」


「はい。自分でも結構、これがいいかなって」


「きっと、喜んでいただけますよ」



 5263.


「ごめん、お待たせ」


「いえ、私は大丈夫です。それに、なんだか、自分へのプレゼントを選んでもらってると思うと、嬉しくて・・・すごく、満たされた気持ちになりました」


「でも、そんな大層なものじゃ・・・」


「それはそうかも知れないんですけど、というか私何言ってるんでしょうね。さっきのは忘れてください永遠に!」




 5264.


「えぇぇっ? そんなこと言われても・・・そうだ、笠井さんが俺に買ってくれたものも、見せてもらっていい?」


「あ、はい、そうですね。私も、篠田君がどんなものを選んでくれたのか、気になります。この場で見せ合いっこしましょう」


<そして、2人のプレゼントを交換。まずは笠井さんのを受け取・・・>


「「あっ」」



 5265.


<指が触れ合ってしまった!>


「ごごご、ごめんなさい! そんなつもりはなかったのですが・・・!」


「いや、こっちこそ! たまたまだから許して欲しいというか、プレゼントありがとう! お、俺のもほら」


<笠井さんから受け取ったのは一旦ベンチにおいて、自分のものを、紙袋の側面をつかんで取っての方を空けて笠井さんの方に向けた>



 5266.


「あ、ありがとうございます・・・」


(うぅぅ・・・指が触れ合ったことよりも、それで慌ててしまったことの方が恥ずかしいです・・・そもそも指ぐらいこれまでも何度か触れることがありましたし、なんで今更・・・意識するともっと恥ずかしくなってしまいましたぁぁぁぁ・・・!)


<ビックリした・・・指ぐらいこれまでも何度か触れたはずなのに、笠井さんが照れてしまっているせいでこっちも余計に・・・おぉぉぉぉぉ落ち着け、笠井さんは単純に男子が苦手なだけで俺を特別意識してる訳じゃないんだ落ち着け落ち着けこんなことでは元サバの同志だの友情だの言えなくなるぞ落ち着け・・・>


「よ、よし、さっそく開けるね・・・」



 5267.


「は、はい! そうですね・・・!」


<2人して、がさこそと袋を開ける>


「おぉ・・・」


<俺のは、金属製の、タヌキの置物だった。カラフルな花だったらどうしようかとも思ったけど、俺が部屋に置きやすいものを選んでくれたみたいだ>



 5268.


「わぁぁぁっ、きれいなドライフラワー・・・」


「大丈夫、だったかな・・・」


「はい、とっても。私、動物が好きなので動物のものを買うことが多いのですが、その、こういったものも、すごく、今のお部屋に合いそうです」


「良かった・・・」



 5269.


「その、私の方は、大丈夫だった、でしょうか・・・」



「こっちも大丈夫だよ。これなら親とかに見られても恥ずかしくないし、あの質素な部屋のアクセントになると思う」


「ほぉっ。よかったです。私の方も、ありがとうございます。大事にしますね」


「俺の方こそ。帰ったら早速部屋に飾るよ」



 5270.


「一旦、お茶休憩にしましょうか。休憩、といっても、私、コーヒーが好きなので、これも人間のアクティビティのひとつです」


「そっか。飲み物って正直、水分さえ取れればいいやって思ってるから、よくわかんなくて」


「実は結構、海溝の底よりも奥が深い飲み物なんですよ」


「へぇぇ~~っ、そうなんだ」



 5271.


<笠井さんの案内で喫茶店へ>


「このお店の“オリジナルブレンド”がお勧めなんですけど、篠田君は、苦いのは大丈夫でしょうか」


「苦いのかぁ、どうだろ」


「注文した後でお口に合わないと困りますよね・・・であれば、カフェオレはどうでしょう」



 5272.


「あ、カフェオレなら、神原からもらったことあるし、大丈夫かも」


「ではそちらにしましょうか。私がオリジナルブレンドを注文しますね。それから、パンケーキも美味しいので、半分こしましょう」


「うん」


<確かにちょっと、小腹も空いてきたかも>



 5273.


<注文してしばらく待つ>


「色んな種類があるんだなぁ・・・このカフェモカってのは?」


「カフェモカは、ミルクに加えてチョコレートシロップをトッピングしたものです。もちろん美味しいですよ」


「マジで色んなのがあるんだな・・・」



 5274.


<他にも、抹茶ラテだの、なんてろマキアートだの、フラッペだの、マジでマジでいろんなものがあった>


「多すぎで困っちゃいますよね。一度に全部は無理ですが、1つずつ試していって、自分の好みに合うものを探すのもいいかも知れません」


「うん、ちょっと気になってきたかも。1人でこんなオシャレな店に来れるかって不安もあるけど」


「あのその、もちろん私もお手伝いしますというか、お手伝いさせて頂けると嬉しいというか・・・って私ってばなななな何を・・・もちろん篠田君に差し支えなければですし、神原君や桐葉さんにお願いしてもいいですし・・・!」



 5275.


「い、いやもちろん笠井さんにお願いしたいというか俺たちは同志というか何だか催促しちゃったみたいで申し訳ないというか・・・」


「そんな催促だなんて・・・! 私はその、今日みたいにまた篠田君とお休みを過ごせたら嬉しいというか“生きる楽しみ探し”を手伝わせて欲しいというか・・・」


「じゃ、じゃあ、笠井さんにお願いしよう、かな・・・」


「は、はい・・・よろしく、お願いします・・・」



 5276.


<ちょっと待って、笠井さんが可愛すぎてヤバい・・・! 神原がよく女子とデートに行く理由が分かった気がする・・・>


(あわわわわわ早くもまた約束をしてしまいました次を切り出そうかと別れ際のシミュレーションを昨夜から何度もしていたのですがまさかこのタイミングで自然にできるなんて・・・嬉しすぎます! う、嬉し・・・!? 私ってば何を・・・こここここれは篠田君に生きる楽しみを見つけてもらうためであって決して男女のあれではというか単に私が男の子と接するのが苦手というか・・・!)


「お待たせしました。こちら、ブレンドとカフェオレ、それからパンケーキです」


(何この2人チョー可愛いんだけど。毎週ウチにきて進展具合をチェックさせて欲しいんだけど! そうだ高校生カップル割を店長に進言しよう!)



 5277.


「カフェオレか・・・」


<神原から紙パックのものをもらったことがあるけど、さすがにそれと比べるのは失礼だよな。とにかく飲んでみよう>


「ズズ・・・お、うまい」


「本当ですか? よかったです。シロップも使わずにいきなりだったので不安でしたが」



 5278.


「シロップ? ああ、甘いやつか。言われてみれば、神原からもらったやつと比べたら甘さが全然ないけど、率直にうまいと思った。このままでもいける」


<むしろ紙パックの方が、甘さでごまかしてるんじゃないかとさえ思えた>


「もしかしたら、普通のコーヒーも大丈夫かも知れませんね。こちらもひとくちどうですか?」


「え??」



 5279.


「え? ・・・わっ、私ったら何を! いぃいぃい今のは忘れてくださ・・・いえ色んなものを味わって欲しいと言ったのは私ですしその篠田君さえ差し支えなければこれをそのまだ私はまだ口を付けてませんし・・・!」


「え、えっと、そこまで言うなら・・・」


<というか純粋に、そっちがどんな味なのかも気になる。新品ならまだハードルは低いし、一度俺が飲んだのが笠井さんに戻るけど、どのみち断れる状態じゃない>


「じゃあ、いただきます・・・」



 5280.


「これは・・・」


「どうですか?」


「うまい。さすがにちょっと甘さが欲しい気もするけど、全然いける」


「そうですか。良かった。実は私も、いつもお砂糖を少し入れているので、入れた状態でもどうぞ。はい」



 5281.


<笠井さんからスティックシュガーを受け取った>


「これ全部入れるの?」


「私はいつも、半分ぐらいですね。足りなければ追加するのは簡単なので、まずは半分でどうでしょう」


「そうだね。いつも笠井さんがその味なら」



 5283.


<砂糖を半分だけ入れて、飲んでみた>


「おぉ・・・うまい!」


「良かったです。お口に合いましたか?」


「うん。こんな、こんな飲み物があるなんて・・・!」



 5284.


「人間って凄いですよね。植物になってる実から、このような飲み物を作ろうだなんて、私は考えにも及びませんよ。お砂糖だって、植物の汁を煮詰めて作ると聞いたことがありますし」


「そう言われると確かに凄いかも。俺たちなんて、海中を漂ってるプランクトンとか小魚をそのまんま食べるだけだったからな。陸上の他の動物だって、植物はそのまま食べるだけだ。それを育てて、ここまで加工して、“楽しむ”、のか・・・本当に、改めて考えると凄いって思えるよ」


「私も、ずっと思ってました。コーヒーを発明した人はきっと天才ですよ」


「俺たちなんて、その完成品をお金でもらってるだけだもんな・・・」



 5285.


<人間がなぜ働いてるのか、なぜそこを目指して学校に通うのか、理解できた気がした。これは、凄い。もっとお金があれば、量も質も手に入るわけで、コーヒー以外にも人間は色んなものを作り出してるわけで・・・>


「冷めないうちに、いただいちゃいましょう」


「そうだね。ありがとう、これ」


<俺は、既にふたくちもらったコーヒーを笠井さんに返した>



 5286.


「・・・・・・ゴクリ」


「ん? どうかした?」


<笠井さんが、コーヒーを受け取ったっきり、それを見たまま固まってる>


「い、いえ、何でもないです・・・!」



 5287.


(し、篠田君が一度飲んだものだと思うとなんだか緊張してしまいました! いけません、私たちは“楽しい”を探す同志なのにこんなこと・・・! ですが意識ようにしようとすればするほど余計に意識してしまいます~~~!)


<あ、そうだ、あれ、俺の飲みかけじゃん! 笠井さんもそれを思い出して・・・やめて! 俺のことなんて気にしないで飲んで! 意識されるとこっちが恥ずかしくなるから!>


「いただ、きます・・・」


<自分で頼んだものなのに、笠井さんは緊張した面持ちでカップを口に運んだ>



 5288.


(ん、んん~~~~~! 味なんて全然わかりません!! どうしちゃったんですか今日の私! 絶対おかしいですやっぱり人間はおかしいです!)


「ど、どうかした・・・? 砂糖を入れたのが俺だからちょっと味が違ったとか」


「だだだっ大丈夫です! 私もいつも目分量ですしちょっとぐらいお砂糖の量が変わったところで影響はありませんしいつも通りの美味しさでしたから・・・!」


(思わず嘘をついてしまいました・・・! 今の私じゃお砂糖が入ってなくても2倍や3倍入ってても絶対に違いが分かんないですよぅ~~~!)



 5289.


「ぱっ、パンケーキの方も食べましょう!」


「そうだね。こっちは小麦に、クリームは牛乳? それからイチゴのジャムにブルーベリー・・・やっぱり人間って凄いもの作るんだなぁ~~っ」


「本当ですよ。このナイフやフォークも、山で採れる鉄鉱石から鉄だけを取り出して、あとは錆びたりしないように他の金属も混ぜたりして・・・私たち魚がまんまと網に掛かってしまうわけです。私の方で切り分けますね」


<笠井さんは早口で話しながらも、パンケーキを上手いこと切り分けていた。やっぱりコーヒーのことを意識してしまったのか、頬がちょっと赤い。のは気のせい、だよな・・・>



 5290.


「はい、どうぞ。私が作った訳ではありませんけど」


「ううん、ありがとう。ごめん、動かないままで」


「大丈夫ですよ。これを食べようと言ったのは私ですし」


<笠井さんはついでと言わんばかりに、自分の分を切り分けて皿に移した>



 5291.


「それじゃあ、いただいちゃいましょう」


「いただきます・・・んっ」


<これは・・・!>


「なんだこれ・・・すげぇ・・・」



 5292.


「どうでしたか・・・? 男の人って、甘いものが苦手な人も多いと聞くのですが・・・」


「完璧だよ。なにこれ。こんなものが世の中に存在したなんて・・・」


<暗号のように脳内に存在する記憶を辿っても、こんな美味しいものを食べたことはない。子供の頃は誕生日ケーキを食べてたような・・・? ダメだ、幼すぎて曖昧だ。もう、用意されたものを適当に、ただ生きるために食べることに慣れてしまった。これが、食・・・人間の、楽しみ・・・>


「美味しい。とにかく美味しい。味だけじゃなくて、食感、って言うのかな。なんかこう、口の中で感じる全てのものが、この食べ物を食べることに、喜びを感じてるというか・・・何言ってんだろ俺」



 5293.


「良かったです。喜んでもらえて。まさか、そこまで篠田君のお口に合うなんて思ってもみませんでした」


「いや、これ、革命だよ。天地がひっくり返るよ。というかひっくり返ったよ、今まで俺の中にあった、“食べる”に対する考え方が」


「そこまで言ってもらえるなんて・・・誘った甲斐がありました」


「いや、本当に、甘いのに疲れたら苦みのあるコーヒーもあるし、この組み合わせ、最強じゃないか・・・?」



 5294.


<パンケーキとカフェオレを、思う存分に堪能して過ごした。今度からは俺も、普通のコーヒーでいいかも知れない。でもカフェモカやらなんてろマキアートやらも気になるな・・・これは文字通り、楽しみが増えた>


「次は実は、私も行ったことがないのですが、いつも外から見ていて気になっていたものがあるのですが、そこでいいですか?」


「うん。なんか笠井さんのお勧め、さっきから俺に合うものばっかりだし」


「良かったです。次のがどうかは分かりませんが、1人では入りづらかったのでご一緒してもらえると助かります」



 5295.


<そして、辿り着いたのが・・・>


「うさぎ、カフェ・・・?」


「はい。カフェとは言っても、飲み物が出るのではなくて、うさぎさんがいるお部屋に入って、触れ合って過ごすところです。その、篠田君さえよければ、ですが・・・」


「うん。確かにお客さん女の人が多いけど・・・せっかくだし」



 5296.


<支払いを済ませて、入った>


「わぁぁぁぁぁっ、うさぎさんがいっぱいです~~~」


<目を輝かせる笠井さん。この店に入ってみたかったって言ってたしな>


「あっちに行ってみましょうよ、篠田君」



 5297.


<早速うさぎたちのもとへ>


「可愛いです~~~。触ってもいいんですよね?」


「大丈夫だと、思う。“おさわりの際の注意事項”ってあるぐらいだし、それさえ守れば」


「で、では失礼して・・・」



 5298.


<笠井さんが両手を伸ばしても、うさぎは逃げることなく待ち構えて、触れるなり気持ちよさそうに目をつぶった>


「わぁぁぁぁぁっ、可愛いです~~~~見てください篠田君、私、うさぎさんに触ってしまってます~~~」


「う、うん、そうだね」


<笠井さんのテンションが上がりすぎて反応に困る・・・俺としてはうさぎよりも笠井さんの方が見応えがあるんだけど>



 5299.


「だっこもできるみたいです。えいっ。わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ、本当に凄いです。やばいです。やばやばのやばです。私、どうにかなっちゃいそうです~~~~~」


「そこまでなの・・・!?」


<確かに見てて癒される光景だけど、俺から見える景色は、うさぎと笠井さんのセットなんだ。本当に絵になる>


「篠田君も、ほら」



 5300.


「あ、うん」


<俺も、もう1匹いた方のうさぎを、両手に抱えた>


「なるほど・・・」


<これがうさぎか。なんかモフモフしてて、肌触りは良いな。大人しいながらも、少し手を動かして撫でると、ちゃんと反応する。これは確かに、和むな>



 5301.


「お客さま、せっかくですから、お写真をお撮りしましょうか?」


「いいんですか?」


<店員からの申し出に舞い上がる笠井さん。こんな姿は本当に珍しい>


「では、スマートフォンをお預かりしますね」



 5302.


<一度うさぎを降ろして、笠井さんと、俺の分のスマホも預けた。そして再び、うさぎを抱きかかえる>


「それじゃあ撮りますよ~」


「はいっ! ほら、篠田君も」


「あ、うん」



 5303.


「男性の方、もうちょっと笑顔で!」


「えぇ? えっと・・・」


「ほら篠田君、こんなにも可愛らしいうさぎさんですよ~~」


「あ、はは・・・」



 5304.


(今だ!)


 パシャシャシャシャシャシャシャ。


「うわぁっ」


<まさかの連打!>



 5304.


「はい、次、男性の方の端末で撮りますね~。笑顔ですよ~~」


<それが簡単にできれば苦労しないんだけど・・・>


「はい、ちーず」


 パシャシャシャシャシャシャシャ。



 5304.


「はい、ちゃんと撮れてますね。こちらどうぞ」


「「ありがとうございました~」」


<それぞれ、店員さんからスマホを受け取る>


「良かったですね、篠田君っ」



 5305.


<そのあとも、色んなうさぎと触れ合いながら過ごした。2人並んで写真を撮るというのはもうなかったけど、笠井さんに頼まれて撮ったり、俺がうさぎを触ってるところを撮られたりはあって、終始ハイテンションな笠井さんに流されることが多かったけど、そこも含めて楽しめた。そして店を出るなり・・・>


「ほんっ、とーーに、ごめんなさい!!」


<これである>


「私ったら自分ばっかり楽しんで、篠田君のことをそっちのけにしてしまって・・・!」



 5306.


「大丈夫だいじょぶ! そっちのけになんてされてないし、俺もうさぎと触れ合えたし、ちょっとテンション上がってる笠井さんも新鮮だったし」


「やめてくださいよぅ~~~! 反省してるんですからぁ~~!」


「反省なんてしなくていいって! 本当にその、うさぎもだけど、笠井さんの方も見てて楽しかったから」


「それが恥ずかしんですよぅ~~! 篠田君のばかぁぁ~~!!」



 5307.


<結局、笠井さんが落ち着くまでに5分は掛かった>


「今日の私はダメダメですダメの上にダメの5重塗りです自分から“楽しみを教える”なんていっておいて自分だけ楽しんじゃうとかもうバカとしか言いようがありません海に変えるべきです土に変えるべきですあぁそうか天に召すべきって言うのが正しいですねはははははは・・・」


<この有り様だ。我を忘れるぐらいテンション上がってたのが恥ずかしいのは分かるけど>


「その、笠井さん、本当に、気にしなくていいから・・・」



 5308.


<そこから笠井さんが正常に戻るのに、更に5分掛かった>


「すみません、取り乱してしまって。篠田君は気にしなくてい良いと言ってくれますが、やっぱりその、反省点は反省点として、胸にしまっておこうと思います」


「そ、そう・・・」


<俺としては、あのハイテンション笠井さんをもう1回見たい気もするけど、それを言うとまた取り乱してしまうからやめておこう>



 5309.


「今日はその、ありがとうございました」


「俺の方こそ、ありがとう。人間の、色んな楽しみ方を知ることができたよ。特に、コーヒーとパンケーキは凄かった。今まで知らずに過ごしてきたのがもったいないぐらいだよ」


「そこまで言ってもらえて、私も嬉しいです。その、また今度も・・・」


「うん。もっと色んなものを、食べてみたいし飲んでみたい。その時はまた、笠井さんに手伝って欲しい、かな・・・」



 5310.


「はっはい! 私でよければぜひ・・・!」


「良かった。1人じゃやっぱり、ああいうお店には入りづらくて」


「それを言ったら私も、その、うさぎカフェ・・・また自分を抑えられなくなってしまうかも知れませんが、また、一緒に来て欲しい、です・・・」


「俺で良かったらいつでも呼んでよ。土日は暇なこと多いからさ」



 5311.


「では今日は、これで失礼しますね」


「うん、また後でれん・・・あれ?」


「どうかしましたか? 忘れ物とか・・・」


「いや、その・・・笠井さんの連絡先、教えてもらっても、いいかな」



 5312.


「ふえぇぇぇっ!? あの、えと、その、それは・・・」


<この瞬間、しまったと思った。何聞いてんだ俺ぇぇぇぇぇぇ! あなたに気がありますって言ってるようなもんじゃんかよぉぉ! せっかくコーヒーとパンケーキを教えてもらって、いい感じにまた次回ってなったのに、そりゃ今日のことは口頭だけだったから連絡先知ってた方が便利だけどぉぉぉ!! えぇい、言ったものは取り消せない! 完全な建前って訳でもないし最初に思った通りのことを言おう!>


「いや、えっと、これからも、人間の楽しみ方を教えてもらうに当たって、いつでも連絡がついた方がいいかなって。今日もほら、もし風邪ひいて来れなくなっても連絡できなかったし・・・」


「そ、そうですよね! 知っていた方がいいですよね! 絶対にその方がいいです! いいに決まってます!」



 5313.


<なんだか笠井さんもヤケになったように見えたけど、無事に交換できた>


「本当に、今日はありがとうございましたっ!」


「おぉ俺の方も。またよろしく!」


<恥ずかしさが残り、お互いに慌てるように別れた。神原や桐葉に見られたら絶対笑われる・・・>



 5314.


<部屋に戻るなり、笠井さんが選んでくれたタヌキの置物を早速開ける。よし、あそこに置こう>


「・・・・・・」


<部屋のインテリアそのものとしては特に何も思わなかったけど、今日笠井さんと過ごした1日が、思い起こされた。めちゃくちゃ迷ったプレゼント選び、俺の食に対する考え方を変えたコーヒーとパンケーキ、そしてうさぎと、テンションの上がる笠井さん・・・この中で何が1番良かったかと聞かれたら、多分パンケーキだ。あれは革命だった。だけど、今日は何が楽しかったかと聞かれたら・・・笠井さんと過ごした時間、が答えになる>


「あ、れ・・・?」



 5315.


「いや、待て待て待て待て・・・!」


<笠井さんはそんなことのために今日俺と過ごしてくれた訳じゃ・・・! ちゃんと、守らなきゃ。元サバの同志として、生きる楽しみを教えてもらってるんだ。それを口実に笠井さんと会うなんて失礼じゃないか・・・! だけど俺の中には、笠井さんと会うことそのものが、“楽しみ”の1つとして残ってしまって・・・パンケーキやうさぎがなくても多分、1人で食べたり見に行ったりするよりも、楽しいと思えてしまいそうなんだ・・・!>


「く、そぉ・・・っ!」


<教えてくれ、タヌキ。俺はどうすればいいんだ・・・! こんな、こんな下心みたいなのがあるなんて知られたら、きっと笠井さんを困らせてしまう! そしたら、今日みたいには一緒に過ごせなくなるかも知れない。それだけは、絶対に嫌だ。俺は、どうすればいいんだ・・・タヌキの置物が教えてくれるはずもなく、俺はただ、悩むしかなかった。だけど、笠井さんが選んでくれたタヌキを見ていると、今日一緒に過ごした時間が鮮明に思い起こされて、満たされるような気持ちになった>



 5314.


「どうしましょう・・・」


(連絡先を、交換してしまいました。男の子と。それも、篠田君と。いえ別に篠田君が特別という訳ではなく・・・! いえ、やっぱり特別です。元々はサバだったという共通の境遇、文芸部の仲間で、今日は一緒に過ごして楽しかった・・・否定できません。うさぎカフェでの失態はさておき、いつも飲んでいるコーヒーは、篠田君がいるだけでいつも以上に美味しかったですし、同じものを美味しいと言ってくれて嬉しかった。それから、プレゼントも・・・そうだ、開けないと)


「これを、篠田君が、私に・・・」


(っっ~~~~~~~~!! どどどどどうしましょう! 嬉しすぎて死んでしまいそうです! 私はこれからどうすれば・・・! どうして、今まで当たり前のように教室や部室出会っていたのに、月曜日のことを考えただけで緊張で潰れてしまいそうです! プレッシャー禁止令です! 制限100キロオーバーです! 規定値の2倍です! 一発免停です~~!!)



 5315.


(1人で悶々として、答えが出ることはありませんでした。ですが私には、篠田君の同志として、色んな“楽しみ”を教えていかなければならないんです。こんな、篠田君と一緒に過ごしたいという気持ちの方が勝ってしまうようでは、同志に対して失礼です! こういう時はお部屋の飾りを見て落ち着かないと・・・!)


「あ・・・」


(それよりも何倍も大きくて、色も目立つヌイグルミもあるのに、私の目はすぐに、篠田君が選んでくれたドライフラワーで止まってしまいました。セピア調の落ち着く色合いで、他の動物グッズの方が可愛らしいものもあるのに、なぜかそのドライフラワーが1番、私の心を満たして、同時に舞い上がらせもしました。今日は、本当に楽しかった・・・)


「ど、どうして、こんなに、こんなにも、嬉しいのでしょうか・・・」



 5315.


「そうだ、写真・・・!」


(そういえば、うさぎカフェでの失態の時に写真をたくさん撮っていました。改めて見ると、本当に恥ずかしい限りです。うさぎさんと触れ合う楽しさを篠田君に教えなければならない立場だったのに、自分ばっかり楽しんでしまって・・・しかも、そんな私の姿が面白かっただなんて・・・!)


「でも、私のことも見てもらっていたということに・・・」


(なななななななななななな何を考えているんですか私は! ももももももももちろん私と一緒にいて楽しいと思えてもらえるのは嬉しいことですけどそれはお花やうさぎさんと同じで見物するものとしてということであって私自身のことなんかこれっぽっちもという感じのはずで元サバという同志のよしみでコーヒーや他のデザートも一緒に食べに行こうと言ってもらってるのであってそれを利用して篠田君と過ごす時間を楽しもうだなんて失礼極まりないことで・・・!)



 5316.


(ダメです。このままでは月曜日に顔を合わせた時に心臓が破裂してしまいます。せめて明日、少しだけでも、今日のお礼ということでお話だけでもできれば・・・ってやっぱり口実を作って篠田君に会おうとしてる感じがします~~!)


「でも、本当に・・・」


(このままでは月曜日を乗り切れそうにないので、仕方ありません。せ、せっかく連絡先を交換しましたし有効活用しないと・・・!)


「すぅ、はぁ、すぅ、はぁ・・・」



 5317.


 ピロン♪


「ん? あ・・・」


<笠井さんからの連絡だ>


<今日はありがとうございました。月曜日に学校で顔を合わせる前に、今日のお礼を言っておきたくて、明日、少しだけでもお会いすることはできるでしょうか? もちろん篠田君の都合がよければでいいので・・・!>



 5318.


「確かに、このまま月曜日に再会は、ちょっと気恥しいかも。神原や桐葉に“もしかしてデートでもしたのぉ?”とか言われる未来が見える。よし、返信だ」


(わわっ、もう返事が来ました・・・! えっと・・・“もちろん。お礼を言いたいのはこっちの方だし、喜んで”。・・・っっ~~~~~! こ、こんなに嬉しいなんて、やっぱり私はどうかしちゃってます~~~~!)


「お、返事だ」


<そんな、私の方こそ“喜んで”です! 今日と同じ時間でいいでしょうか! 挨拶だけですぐに終わりますので!>



 5319.


「挨拶だけ、か・・・」


<ちょっと残念に思ってしまった自分がいる。やっぱり俺は・・・でも、そうだよな。今日色々教えてもらったのにすぐまた明日もなんて。笠井さんは暇じゃないだろうし>


「よし、寝よう」


<時間はそれでOKという趣旨の返事をして、最後にタヌキの置物をもう1回見て、布団に入った。今日は、本当に楽しかった・・・>



 5320.


「笠井さん」


「あっ、篠田君っ、こんにちは。すみません、2日も連続でお呼び立てしてしまって」


「いやいや、全然大丈夫。俺としても、あのまま次に会うのは学校ってなるよりは、こっちの方が良かったから」


<“こっちの方が良かった”なんて言いつつ、2日連続で会えて本当に嬉しかった。また、笠井さんが目の前にいる。今日は挨拶だけで終わるのが惜しまれるけど>



 5321.


<でも、少しだけ話すぐらいなら、いいよな>


「昨日の置物、部屋に置いてるよ。確かにちょっと、アクセントがあって良いかも」


「気に入ってもらえて良かったです。私の方も、動物のお人形が多いところにお花の飾り物が入って、少しお部屋が華やかになった気がします」


「そっか。笠井さんの部屋に合わなかったらどうしようかと思ってたからよかった」



 5322.


<あのタヌキの置物を見るたびに昨日のことを思い出して満たされた気分になる、なんて口が裂けても言えないな>


(あのドライフラワーを見るたびに昨日のことを思い出して胸が張り裂けそうになるなんて、本当に心臓が破裂してしまっても言えません・・・)


「・・・・・・」


「・・・・・・」



 5323.


「えっと、今日のところは、これで。昨日は本当にありがとう」


「はっはい! そうですね! 私の方こそ、とても楽しかったです! よかったらまた、一緒に人間のアクティビティで過ごしましょう!」


「もちろん! その、笠井さんの都合さえよければ、いつでもいいから」


「はいっ! では今日は、これで失礼します!」



 5324.


<挨拶を済ませて、分かれた。マジで5分にもならずにすぐ終わったな・・・でも、笠井さんと過ごせるだけで楽しいなんて言って困らせる訳にもいかない。次の機会は絶対あるんだし、今日のところは我慢だ我慢>


(本当に、挨拶だけで終わってしまいました・・・ですがそういう約束でしたし、なんのアクティビティもなしに、篠田君と過ごせるだけで楽しいだなんてワガママでお時間を取らせる訳にはいきません。次の機会もあるのですから、今日のところは我慢です、我慢)


「・・・・・・フーーーーッ」


「・・・・・・はぁ~~っ」



 5325.


<迎えた、月曜日。昨日も笠井さんと会ったことは大正解で、ちょっと気恥しい思いがありながらも、普通に過ごせた。放課後は、文化祭の準備だ。部室でできることはないので、調理室に直接集合ということになっている>


「よーし今日は、街に待った試食会よ? 野副くん、準備はできてる?」


「おう。今日の分の材料は土日にうちに揃えておいたぜ」


「「「おぉぉ~~っ」」」



 5326.


<俺たちがパンケーキ食べたりうさぎと触れ合ったりしてる間に、そんなことをしていたのか。なんだか申し訳ないな・・・>


「作ってくるから、作業でもしながら待ってろ」


「「「はーーーい」」」


<そんな訳で部屋の飾り付け作業だ。調理室は大きな机が多いから、授業の調理実習の時も使う隣のダイニングルームを、カフェに改造している最中だ。今日の買出しは、野副先輩の料理が完成するまでは一旦保留。どんなのを作るんだろう。俺の中で食に対する考えがひっくり返ったこともあって、楽しみだ>



 5327.


「たのもーーー!」


「なんで道場破り風なんだよっ」


「神原、桐葉。来てくれたか」


<実はこの2人にも、当日のカフェを手伝ってもらうことになった。これまでもちょくちょく設営も手伝ってくれてたけど、今日は調理部部長の逸品を試食ということで予定を合わせて来てもらった>



 5328.


「調理部の部長さんかぁ。かなりのコワモテだけど、ちょっと楽しみだよね」


「それな。ああいう人に限ってぜってー、ヤバいぐらいの絶品出してくるぜ?」


「どんなのを作ってるんだろうな」


「はいはいみんな、気になるのは分かるけど手を進めるわよ」



 5329.


「深山さん、その赤いのを取ってもらってもいい?」


「はーーい!」


「入谷さんそこ、なんか踏んじゃってるよ?」


「わわわっ、ごめんなさい!」



 5330.


<そんなこんなで作業を進めていると、調理室からマイカ先輩が出て来た。部長のアシスタント? だろうか。一応調理部員だしな>


「おうお前らー。もうすぐ出来上がるから作業止めな。ホコリが舞った状態でギンの料理食うなんて許さねえからな」


「「「はーーーい」」」


<一旦作業止めて、休憩することになった。笠井さんがお茶の準備に向かい、深山さんが追いかける。気になったのは、桐葉がマイカ先輩を見たまま固まったことだ>



 5331.


「ゆかりちゃん、どうかした?」


<神原が声をかけるも、桐葉はホケーーっとした感じだ>


「なんだお前? あたしの顔になんか付いてんのか?」


「あっ! えっと、もしかして先輩って、“ビブラフォンのマイカ”、だったり、しますか・・・?」



 5332.


「チッ、んだよ。まだ知ってる奴いんのかよ」


「桐葉も知ってたんだな」


「いや知ってるも何も、この道じゃ有名人だよ。アタシらの年代で音楽やってて“ビブラフォンのマイカ”の知らない人はいないよ? マジでビブラフォンのマイカなの!?」


「マジだけど、そこまでの有名人って、マジか」



 5333.


「マジマジ。マジ寄りの大マジ。中学時代に地域のピアノコンクールにビブラフォンを引っ提げてっては、レギュレーション違反で失格になりながらも圧倒的な演奏のあまり他の子に最優秀賞を上げるのもなんか違う・・・みたいなことを何回もやって出禁にされて、ずっと消息を絶っていたところで去年のIUMF、インターナショナル・アンダーグラウンド・ミュージック・フェスティバルの何でもあり(バーリトゥード)部門で、ビブラフォンのソロってだけならまだしも、日本人しか知らないようなゴリゴリのJ-POPで世界中の闇のブローカーを魅了したのは今でも語り草だよ? 原曲の音源データもプレミア付いちゃって表の音楽業界も揺れに揺れたんだから。篠田ホントに知らないの?」


「知る訳ないだろそんなの・・・」


「そんな昔話、まだ覚えてるやつがいたのかい」


「そりゃあ・・・アタシは音楽始めたの高校で、クラシックとはあんまり縁ないですけど、たまに聞きますよ、“ビブラフォンのマイカ”の演奏で心が折れてプロへの道を諦めたって話。事実、今のアタシらの世代ってピアノやってる子が相当少ないらしいですし」



 5334.


「へえ、そんなことになってたんだな」


「本当になんでこの人って調理部なんでしょうね・・・」


「それでマイカさん、まさか文化祭のカフェなんかで演奏するんですか?」


「まぁな。ギンが“あの女に逆らうな”って言ってる以上はしゃあない。何ならお前もやるか? ギターとも合わせられるぞ」



 5335.


「えっそんなムリムリムリムリ! アタシなんて素人に毛が生えた程度で、“ビブラフォンのマイカ”とセッションなんてやったらアタシのショボい演奏が浮き彫りになって恥ずかしくて死んじゃいますよ!」


「なんだよ桐葉、せっかくならやってみたらいいのに」


「軽く言ってくれないでよ篠田ぁ。テニスで言えばインターハイ優勝するような人とダブルス組めって言われてるようなもんだよ? 無理でしょ」


「そう言われると無理なような気がしてきたな・・・」



 5336.


「別にあたしは、お前のレベルに合わせることもできるぞ?」


「ムリですムリです! そんなことでクオリティを下げるよりはマイカさんのソロの方がいいですって!」


「ま、そうかも知れないけどな」


<そんななのか・・・すごいな。桐葉がここまで興奮するのも珍しい>



 5337.


「なんだかすごく気になっちゃったんですけど、」


<深山さんだ>


「その、“ビブラフォンのマイカ”の演奏、聞かせてもらうことはできたり、できなかったり・・・?」


<その一言で、一同の注目が改めてマイカ先輩に向けられた>



 5338.


「なんだ、そんなことか」


「確かにみんな一度は聴いておいた方がいいわね。初見が文化祭当日になったら、多分仕事になんなくなるわよ?」


「穂照先輩は聴いたことがあるんですか?」


「えぇ。さっき話に出た、去年のIUMFでね」



 5339.


「なんで裏社会のコンクールなんて行ってるんですか・・・」


「そりゃあ、我が校の生徒がそんな場所に出向くなんてことを、黙って見過ごす訳にはいかないじゃない」


「だったら行く前に止めましょうよ・・・」


「そこはほら、私も“ビブラフォンのマイカ”の演奏を聴いてみたくて。本当に凄かったわよ?」



 5340.


「確かにアタシも聞いてみたいですね。マイカ先輩、今からできたりするんですか?」


「そうだな・・・道具ならある。けど、ギンの料理の後じゃ見劣りするから先にさせろ。 ギン! 済まないがちょっと待ってくれ!」


「おう! 5分で済ませろよ!」


<どうやら、今すぐに演奏してくれるらしい>



 5341.


<廊下を経由してガラガラと、鉄琴が運ばれてきた。これがビブラフォンか>


「どこに置いてあるんですか?」


「調理準備室に決まってるだろ」


「普通は調理準備室から楽器は出てこないんですケド・・・」



 5342.


「ここでいいか。どうせホコリ立つからギンの料理は厨房の方で食うぞ」


<“厨房”は多分、調理室のことを言ってるんだと思う>


「お前ら、マイカの姉御の演奏だぞ。心して聞くように」


「ヤバい、素人に毛が生えた程度でも音楽やってる身としては超楽しみなんですけど・・・!」



 5343.


「曲は普通に、人気のあるやつでいいよな。文化祭だし」


<そう言うなり、マイカ先輩はバチを持つ手を動かし始めた>


 ♪♪♪・♪・♪・♪♪♪♪♪・♪♪・♪♪・♪


<音が鳴り始めたその瞬間に、世界が止まった>



 5344.


<俺は、この4分半の記憶を、ほとんど失ったと言ってもいいだろう。俺も知ってる曲、日本人の高校生なら誰でも知ってるであろう曲、“夜に爆ぜる”を、マイカ先輩が、ビブラフォンで演奏したことはもちろんハッキリと覚えている。だけどその4分半の間、自分が何をしていたのか、呼吸をしていたのかすら覚えてない。少なくとも、誰とも喋ってはいない。目はつぶってなかったはず。多分マイカ先輩を見ていた。5本の指が使えるピアノでも難しそうな演奏をたった2本のバチで、訳の分からない手さばきで弾いていたと思う。その、目を見張って見ていたはずの光景すらも、ほとんど覚えていない。俺の意識は、多分みんなの意識も、完全の音の世界に飛んでいた>


 ♪♪♪♪♪♪♪・♪・♪!


「「「「「「「・・・・・・」」」」」」」


<演奏が終わってもしばらく、誰も動けないでいた>



 5345.


<そんな静寂が続く中で、ようやく体が動くようになった俺たちは、お互いの顔色を伺ったのちに、声を張り上げた>


「「「「わぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・っ!」」」」


「うぅぉぉぉおおおおおお! なんだこれ! オレ意識トんじまってたぞ! なぁ英介!」


「あ、あぁ・・・」



 5346.


<マジでこの4分半の記憶がない。俺はどこにいたんだ? ここでマイカ先輩の演奏を聴いてたんだけど、本当にここにいたんだよな? 他のみんなの鳴りやまない拍手も、深山さんと桐葉と神原の絶叫も、言葉を失ったままの笠井さんと入谷さんの姿も、満足気な穂照先輩とテツ先輩の顔も、その全てが、さっきの演奏が現実だったことを物語っている。それぐらいに、夢の中にいたんじゃないかと錯覚するようなものだった。あれは人間業なのか? いや、人間だからこそできる業なんだ。他の動物じゃあ絶対にできない。腕のない魚にはもってのほかだ>


「ピアノ辞めちゃった子の気持ちが痛いほど分かるよ。趣味程度でしかやってないアタシもちょっと泣きそうだもん。ギターもガチで練習されたら3日で抜かれるっしょ・・・・」


「俺、歌じゃないただの曲には興味なかったけど、撤回するわ。さっきのは普通に歌詞のある歌だったけど、楽器だけでも、こんなに心揺さぶられるんだな・・・」


<マジでヤバいな、こりゃ・・・どうなってんだよ、人間ってやつは>



 5347.


「どうだ? 満足したか?」


「満足なんてモンじゃないですよ! こんなところで何やってんですか! 早く吹奏楽部に入ってコンクールで金賞かっさらって来てください!」


「まだ出禁続いてっから無理に決まってんだろ。それにもうIUMF獲ったしな」


「ダメですって! マイカ先輩はもっと日の光を浴びるべきです! 世の中にはもっと、マイカ先輩の演奏を必要としてる人が絶対にいますから!」



 5348.


「おい! お前生徒会長だろ! コイツなんとかしろ!」


「深山さんがこうなったらもうどうしようもないわ。疲れて眠るまで我慢してね」


「フザけんな!!」


「深山さんのお陰で落ち着いてられるけどアタシも結構ヤバかったりするんだよね・・・」



 5349.


「えぇい、もうガマンできない! あの、アタシっ、ギターやってて、技術は地道に積んでくしかないですけど、いざ人前で演奏するとなると緊張しちゃいそうで、何かその、心構えみたいなのを教えてもらえればな~、なんて・・・」


「心構えだぁ? ンなもん。聴く奴らの時間をもらうんだから、その分だけ返してやるだけだよ。ま、カフェでBGMやるだけなら誰の時間も奪わねぇけどな」


「確かにまずはそういうのからが良いんですかね。でも“ビブラフォンのマイカ”と並ぶのはムリ・・・ゆくゆくはライブもしたいし・・・その、もらった時間を返すっていうのは、感謝の印とかですか?」



 5350.


「感謝というか、くれた時間に対して“損はさせねぇ”っていう、投資へのリターンのつもりでやってる。仮に4分半の演奏でも、100人集めたら450分、1万人集めたら4万5千分、つまり750時間で、ほぼ1ヶ月だからな。私に与えられた4分半には、1ヶ月分の時間が集まってるんだ。お粗末な演奏なんかできるかよ。当然練習は750時間なんかじゃ足りない。 それで、緊張だぁ? お前、自分のために集まった人に対して、どのツラ下げて言うつもりだ。あぁん?」


「う・・・そうですよね。ごめんなさい・・・」


「桐葉・・・大丈夫か?」


「うん、平気。ごめんね心配かけて。アタシももっと音楽と見つめ合わなきゃって思っただけだから」



 5351.


「最後にもう1つだけいいですか? どうしてマイカさんは、ピアノコンクールにビブラフォンを・・・」


「さっきの聞いて分からなかったのか? 色々試した結果コイツが1番、完成度の高い演奏になったってだけだ。なのに大人どものコンクールときたら、楽器で制限をかけやがる。それで完成度の低い演奏させられたんじゃ、音楽に対する冒涜だっての」


<マイカ先輩は吐き捨てるように言った。あんな凄い演奏する人でも苦労があったんだな・・・ここは、人間の不条理な部分が強く出たと言っていいだろう>


「マイカさん・・・やっぱ凄いです。同じ学校に通えてるだけでも光栄です・・・!」



 5352.


「あたしなんて別に凄かねぇよ。本当に凄いのは曲を作った奴の方さ。あたしはただ、誰かが作った曲を弾いてるだけだからな。曲は作れねえ。もちろん曲なしに演奏はできねえからな。お前の言う“凄さ”ってやつは、誰かが作った凄ぇ曲の上に成り立ってんだ」


「うはぁ・・・」


<感心した様子の桐葉。確かに、さっきの曲を作ったのも人間なんだよな。曲自体は俺も店とかで流れてるのを聞いたことがあったけど、目の前で演奏を見て、今の言葉を聞いて、改めて“曲を作った誰か”の凄さを認識できた気がする。人間には、ここまでのことができるのか・・・これでもまだ、氷山の一角だったりするのか?>


「マイカさん、マジでカッコいいです・・・色々教えてもらって、ありがとうございましたっ!」



 5353.


「ったく、あたしの演奏なんかでビビッてたら、ギンの料理食った日にゃ意識トぶぞお前ら」


「もう既にマイカ先輩の演奏で意識半分トんじゃってましたケドね・・・」


「どんな料理が来るのかな・・・ワタシ、楽しみを通り越して怖くなってきちゃったよぉ~~・・・」


「同感です。まだ興奮冷めやまないというのに、あの演奏をした人にここまで言わせるほどの料理が出て来るんですよね」



 5354.


<どんなのが出て来るんだと一同が妙に緊張した面持ちで調理室に移動。調理部の面々を入れてちょうど10人だけど、そのくらいの人数で試食会ができる十分な広さはある>


「うっはぁ~~・・・凄い良い匂いがするですけど!」


「これだけでもう、ゼッタイに美味しいって分かっちゃうね」


「これは・・・オムライス、でしょうか」



 5355.


「前菜は済んだようだな、マイカ」


「まぁな。十分なお膳立てはできたと思うぜ」


「さぁて次は“超熱伝導のギン”の腕前を見せてもらうわよ?」


「ホントにどんなオムライスなんですかあれ・・・」



 5356.


「そもそも“超熱伝導”って何なんですか? あったまりやすいとかですか?」


「あったまりやすさの指標は熱容量といって、材料ごとに決まる比熱ってパラメータと、フライパンの大きさや厚みによって決まるもので、これはこれで重要なファクターなんだけど熱伝導とは別よ。

 熱伝導は時間とは関係のない、物質中での熱の伝わりやすさのことよ。熱伝導がいいフライパンは温度ムラが少なくて、全面で一様な温度で調理できるの。特に卵料理なんかは、温度管理しやすいことが有利に働くわね。厳密には物質の熱伝導率と、その厚みで決まる熱抵抗ってファクターがフライパンの温度ムラを決めるんだけど、彼、野副くんは、最も熱伝導率の高い材料である純銀の調理器具を使ってるのよ」


「「「純銀!?」」」


「そうよ。ほら、あそこ」



 5357.


<穂照先輩が指差した先には、デカいアクリルケースの中に入った銀一色のフライパンや鍋があった。あれ純銀なのか・・・アルミとかステンレスじゃなくて>


「他の金属をちょっと混ぜたやつの方が多いけどな。いかんせん純銀は、変形しやすい」


「それでも十分ヤバいですよ・・・銀のフライパンなんて」


「無駄口ばかり叩いてないで食え。冷めるぞ」



 5358.


<もちろんコンロにもフライパンは乗ってて、もう火は止まってるけど2つのフライパンで同時に調理してたらしく、テツ先輩とマイカ先輩がそれぞれオムライスを大皿に移して、ナイフで切り分けた>


「さっさと椅子に座んな。立ったまま食ったらマジでブッ倒れるぞ」


「はっはい!」


「ワタシやっぱりなんだか怖いよぉ~~」



 5359.


<ついに、個々の皿に取り分けられたオムライスが俺たちの前に置かれた。それぞれが思い思いのテンションで“いただきます”を言ってから、スプーンでそれを口に運ぶ。その瞬間に、世界が弾けた>


「んん~~~~~~~~っ!!」


「マッ・・・・・・カッ・・・!」


「・・・っと、さすがは野副くんね。久々の本気の料理だから、さすがの私もイきかけたわ」



 5360.


<まともに話すことができたは穂照先輩だけで、深山さんは叫び、神原は声にならない掠れた声を上げ、他の面々はスプーンを咥えたまま固まっていた。オムライスが、口の中で踊っている。本当に、そうとしか表現のしようがなかった。とろけるように、膨らむように、口いっぱいに幸せを届けようとするがごとく、優雅な舞いを、唾液に消化されて縮小していくまで、繰り返していた。30秒か? それとも2分か? 時間なんて分からない。口の中で幸せが広がっていること以外の感覚が消え失せて、自然に意識が戻るのを待つしかなかった>


「プハッ! ハァッ、ハァ、ハァ・・・何だったんだ、今の・・・!」


「分からない・・・自分がどうなってたかも・・・」


「アタシ多分心臓止まっちゃってましたよ・・・途中でムネとか触られちゃってても絶対気付けませんでしたよ・・・」



 5361.


「あらみんな、お帰り。どうだった?」


「どうだった何も・・・先輩、本気でこの調理部を人数不足ってだけで廃部にしようとしたんですか?」


「どうしよう篠田くん、やっぱりこの子手強いわ」


「すみません、今はそういうノリに付き合う余裕がないです」



 5362.


<マジで何なんだ、これ。この間のパンケーキとは違って、オムライスは初めて食べる料理じゃない。それなのに、作る人によってここまでの違いができるなんて・・・デザートだけが特別な訳じゃなかった。普通の料理だって、人を楽しませる可能性を秘めてるんだ>


「どうしよう。すっごく美味しかったのに、ワタシ、続きを食べるのが怖いよぉ・・・」


「私もです。感覚としては臨死体験をしたようなものですからね・・・ですが、また手が勝手に動いてしまう自分もいます・・・」


「奈々先輩、今度は一緒に幸せに浸りましょうね・・・!」



 5363.


<結果、1人当たりのボリュームは普通のオムライスの1/3ぐらいだったのに、ひと口食べる度に意識が別世界に行くものだから、完食するのに10分以上かかった。後半は少し慣れがきたのと冷めてもきたからフリーズ時間は短くなったけど、それでも完食した今でさえ、穂照先輩以外はみんな、ちょっとした放心状態になってる>


「ったくテメーら、時間かけやがって。最後の方は冷めてただろ」


「いや、その・・・マイカさんが太鼓判を押すだけのことはあったというか・・・アタシ今日、全身が震えてギター弾けそうにないです・・・」


「だな・・・まさか英介が文芸部に入ったことからこんなことになるなんて、思いもしなかったぜ、俺」



 5364.


「というかこれ、調理器具が良いってだけじゃ作れないよね・・・」


<入谷さんが呟いた。確かにそうだ。同じ材料と道具を与えられても、絶対に真似できないぞ、こんなの>


「ま、そこがギンの凄いとこだな。あたしにはできない、“レシピのアレンジ”ができる」


「アレンジ?」



 5364.


<思わず聞き返してしまった>


「あたしはさっき言った通り、用意された楽譜通りに弾くだけだ。あたしの演奏スタイルに合わせてアレンジしてくれる人がいるからな。

 それをギンは1人でできる。卵や米に混ぜる調味料は? 配合は? 一緒に入れる具材は? そのサイズは? 味なんて、それだけでいくらでも変わる。極めつけは、やっぱり温度だ。何度で何分焼くか? その温度に到達するまでの時間変化はどうするか? わざと温度ムラを大きくしてみるか? 蓋をするか? 考えることは山ほどある。あれやこれやと試行錯誤を繰り返した先に、お前らが食ったオムライスは完成したんだ。もちろん、そのレシピ通りに調理する技術も必要だがな」


「うっはぁ・・・さすがはマイカさん、が認める料理人」


「普段テキトーにフライパンに突っ込んでるだけなのが恥ずかしくなってきましたね・・・」



 5365.


「レシピのアレンジよりも難しいことはあるがな」


<今度はギン先輩自らが言うらしい。アレンジよりも難しいことがあるのか・・・?>


「ゼロからレシピを作ることだ。俺は、誰かが作り上げたオムライスという料理と、それを何人もの人がアレンジしたレシピも山ほど見てきたからな。それを自分好みに変えるだけだ。

 だが必ず、世界で初めてオムライスを作った奴がいる。当然、世界で初めてオムレツを作った奴も、米を作った奴も、ニワトリの卵を食おうとした奴も、ケチャップを作った奴も、“最初にそれをやった奴”がいる。ケチャップを例にするが、お前らは、材料だけを渡されて、そこからケチャップを作ることができるか?」


「ケチャップを、作る。ゼロから・・・」



 5366.


「想像、したこともありません」


<俺のつぶやきを、笠井さんが拾った>


「今でこそ、“自家製 ケチャップ”とネット検索すれば簡単に作り方が見つかるでしょう。でも、そもそもケチャップという言葉すら存在しない状況下で、その調味料を編み出した人がいるんですよね・・・」


「その通りだ。もちろん、トマトをある程度食った経験を基にそれを使った調味料を作ろうとしたとは思うがな」



 5367.


「そもそもトマト栽培の実用化も難しかったろうが、今はそれを無視するにしても、新たな調味料の開発は困難を極めるものだろう。どの料理に使うことを想定していたにしてもだ。あの、他にはない独特の味をどうやって編み出したのか、気になるばかりだ」


「演奏や料理が凄いと言ったら作曲やレシピ作りの話まで出てきてもうアタシ限界ですよ~~」


「ま、一応文芸部としては、創作の難しさを知れて良かったんじゃない?」


「そういえばアタシたち文芸部でした!」



 5368.


<マジで、次から次へと感心させられる。おととい食べて感動したパンケーキだって、“こういう食感のデザートが欲しい”って思い付きだけで出来るもんでもないんだよな。アイデアを、形にする苦労もあるんだ。生地に使う材料と配分、そして焼き方・・・何度も失敗を重ねて完成させた人がいたからこそ、俺はパンケーキと、オムライスとも出会うことができたんだ。人間という生き物の恐ろしさが、まだ底を知れない。もっと、知りたくなってきた。人間に、どんな可能性があるのかを。できればそれを、1人で探すんじゃなくて・・・>


「「あっ・・・」」


<笠井さんと目が合ってしまった。思わず目を逸らす。変に見えてなかったか? 不安に思えてきたけど、改めて笠井さんの方を見ることもできない・・・>


(め、目が合ってしまいました・・・美味しい料理の感想を伝え合いたいと思ったら、つい・・・へ、変じゃなかったでしょうか・・・)



 5369.


<やばい。どうしようもなく、また笠井さんと出掛けたくなってしまった。コーヒーの約束はもちろん、料理に、音楽に、インテリアに動物との触れ合い・・・人間の編み出した全てを、笠井さんと見て、聞いて、感じて、共有したい・・・>


(どうしましょう・・・篠田君とのお出掛け、今すぐにでもしたくなってしまいました・・・ですが今は文化祭の準備に集中です・・・集中、できそうにないです・・・篠田君のことが頭から離れません・・・)


<うおぉぉぉぉぉ・・・俺はどうすればいいんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!>


(ああぁぁぁぁもう! 私はどうすればいいんですかぁぁぁぁ~~~~!!)



 5370.


「おもてなしはここまでだ。片付けはテメェらも手伝え」


「「「「はーーーい」」」」


<答えなんか出るはずもなく、俺の葛藤なんてみんなが知る由もなく、究極の演奏と料理のほとぼりも落ち着いて日常に戻る。作業があることで少しは気も紛れたけど、同じ空間に笠井さんがいるから結局はずっと落ち着けなかった・・・これも、人間の苦労なんだろうか。それとも、元サバだから慣れない感覚に戸惑ってるだけ・・・? 何もかも、分からない・・・>


(結局全然集中できませんでした・・・というか篠田君もいる中で集中できるはずがないんですそうですこれはシチュエーションが悪いんです神様のいたずらです試練ですきっと混乱してる私の様子を見て笑ってるんですそもそもこんなにも特定の男の子のことで頭がいっぱいになること自体がおかしいんです神様が仕組んだ罠ですだっておかしいじゃないですかこんなのきっと軽々しく人間になりたいなんて言った私への罰なんでですでももう限界ですからどうか解放を・・・ダメです。この気持ちは、失いたくない、です・・・私は、どうしたら・・・)



 5371.


<それから文化祭までの間は、当然のように笠井さんと顔を合わせることになった。だけどあれ以来、次のお出掛けの予定をどう切り出そうかということばかりが頭をよぎって、文化祭準備の作業で用があってもひと言だけで事務的な会話しかできなくなった。どうしちまったんだ、俺は・・・なんだか、笠井さんも俺と必要以上に関わるのを避けてるような気がするし・・・>


(はぁ。あれ以来、篠田君とはまともにお話しできてません。次のお出掛け、誘わなきゃ、誘わなきゃと思ってるのに、そう思えば思うほど、動揺してしまって・・・すごく、つらいです・・・少し前まで何の気なしにお話ししていたことが、夢だったんじゃないかと思えてきました。お話ししたいのに、一緒にお出掛けもしたいのに、どうしても勇気が、出ないです・・・今までの関係が壊れるのが怖いという気持ちが邪魔して、それでこうなってしまうなんて、本末転倒です・・・篠田君もなんだか、私がいると居心地が悪そうですし・・・)


<うぅぅわぁぁぁぁぁぁぁぁ!! どうなっちまうんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!>


(っっ~~~~~~~~!! 私はどうなってしまうんでしょうか~~~~~!!)


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