第12話 ゲートは戻ってこない
異世界へ飛ばされてから、神代拓真が最初に決めた方針は単純だった。
ゲートが消えた場所から離れない。
地球側では、三枝たちが必ず再接続を試みる。
鉄平も真帆も、拓真が消えたまま諦めるような人間ではない。
ならば勝手に移動するより、同じ場所で待っていた方が救助される可能性は高い。
そう判断した。
その判断自体は、間違っていなかったと思う。
ただ一つ。
拓真には知らないことがあった。
地球と、この世界。
二つの世界で流れる時間が、同じではないということを。
◇ ◇ ◇
「……開かないな」
ゲートが消えてから三時間ほどが経過していた。
拓真は巨大な樹木の根元に腰を下ろし、何度目か分からない確認を行った。
《Boundary Signature:Trace》
《Unknown Particle Density:Stable》
境界反応は完全には消えていない。
ごく僅かだが、確かに残っている。
だからこそ、ここを離れにくかった。
「反応があるってことは、また開く可能性はある……よな」
もちろん誰も答えてくれない。
隣にはリーゼが座っている。
彼女は剣を膝の上へ置きながら、さっきから不思議そうに拓真の様子を眺めていた。
「タクマ」
「ん?」
リーゼが何もない空間を指した。
そこは、ゲートが存在していた位置だ。
次に両手を開き、閉じる。
「ゲート?」
「ゲート」
どうやら単語として覚えたらしい。
「そう。ここにもう一回ゲートが開くのを待ってる」
拓真も同じ動作をしてから、自分を指し、続いてゲート跡を指した。
「俺は向こうから来た」
リーゼがじっと見ている。
「……まあ、分からないよな」
拓真は苦笑した。
言葉を一から覚えるというのは想像以上に大変だ。
ただ、まったく進歩していないわけでもない。
三時間ほど一緒にいる間に、いくつかの単語は分かるようになっていた。
水はアクァ。
火はフィア。
木はフィルナ。
そして。
「タクマ」
「はいはい」
自分の名前。
リーゼはかなり正確に発音できるようになっている。
拓真も彼女の名前だけなら完璧だった。
「リーゼ」
「?」
拓真は地面へ指を立て、それを空へ向けてゆっくり動かす。
さらに太陽を示した。
「一日」
「……?」
「日」
リーゼはしばらく考えていたが、やがて何かに気づいたらしい。
太陽を指し、それから両手を大きく動かしながら何かを説明する。
「やっぱ分からん」
言葉の壁は厚い。
ただ、一つだけ確認できたことがある。
アーマーの時計では、異世界へ来てから三時間十四分。
太陽の動きも、その時間から考えて不自然ではなかった。
「一日の長さは、地球とそこまで変わらないのかな」
少なくとも、太陽が数時間で沈むような世界ではないらしい。
拓真は何気なくそう判断した。
この時はまだ、それ以上深く考える理由がなかった。
◇ ◇ ◇
もっと差し迫った問題があった。
《Battery:61%》
「減ったなぁ……」
アーマーの補助出力はほぼ最低まで落としている。
魔獣との戦闘で使った電力が大きかった。
このまま何もせず待っているだけなら、メインバッテリーを停止させることもできる。
問題は生命維持だった。
《Oxygen Reserve:51min》
「こっちの方がまずい」
拓真はヘルメット内で眉を寄せた。
酸素ボンベを使い続けるわけにはいかない。
すでに外気浄化モードを併用しているが、完全に外気へ切り替える判断はまだしていなかった。
外部大気の測定結果自体は悪くない。
酸素濃度は地球とほぼ同じ。
一酸化炭素や硫化水素のような既知の有害ガスも検出されていない。
問題は、既存のセンサーで分類できない成分。
そして生物由来の危険性だった。
細菌。
ウイルス。
胞子。
寄生性微生物。
「さすがにセンサーだけじゃ分からないんだよな……」
拓真が悩んでいると。
「タクマ?」
リーゼが覗き込んできた。
「いや、こっちの問題」
彼女は当然ながら普通に呼吸している。
植物も生えている。
動物もいる。
少なくとも人間に似たリーゼが生存できる環境なのだから、急性毒性のある大気ではない可能性が高い。
だからといって、地球人にも安全とは限らない。
「でも、このままだと飯も食えないんだよな」
ヘルメットを開けなければ水も飲めない。
異世界へ数時間立ち寄るだけなら問題なかった。
しかし遭難となれば話は別だ。
拓真はしばらく考えた末、非常袋から小型の採取容器を取り出した。
外気サンプルはすでに複数採取している。
アーマーの簡易生体検知ユニットでも、既知の危険物質は検出されていない。
「ゼロリスクは無理か」
そもそも、あと一時間もしないうちに酸素は尽きる。
選択肢がなくなる前に決断すべきだった。
拓真はリーゼを見た。
「ちょっと離れてて」
「?」
身振りで距離を取るよう示す。
何度か繰り返すと、リーゼは二歩ほど下がった。
「ありがとう」
アーマーを低出力状態へ。
外気浄化装置を最大。
ヘルメットの気密を解除する。
《WARNING》
《External Environment Not Certified》
「知ってる」
《Confirm Seal Release?》
「解除」
カシュッ。
僅かな空気の音。
内部圧力と外気が均される。
拓真はすぐにはヘルメットを脱がなかった。
数秒待つ。
異常なし。
臭い。
森林。
湿った土。
植物。
地球の山中とかなり近い。
ただ、その中にどこか甘い香りが混じっている。
「……空気だ」
当たり前のことなのに、不思議な感動があった。
異世界の空気。
自分が今、それを吸っている。
ゆっくり深呼吸する。
「普通……だな」
息苦しさはない。
喉の刺激もない。
めまいもない。
リーゼが驚いたようにこちらを見ていた。
「どうした?」
彼女は拓真の顔をじっと見る。
そして。
「タクマ?」
「そう。拓真」
写真では見せた。
だが実際の顔を見るのは初めてだ。
リーゼが恐る恐る近づいてきた。
「人間だよ」
「……?」
「いや、人間って言っても通じないか」
するとリーゼが自分を指した。
「ヒューマ」
「……ヒューマ?」
次に拓真を指す。
「ヒューマ?」
「おお」
意味はかなり推測できる。
「人間?」
拓真は自分を指し、頷いた。
「ヒューマ」
リーゼの顔から少し緊張が抜けた。
「なるほど。少なくとも俺と同じような種族だって認識にはなったのか」
今度はリーゼの耳を見る。
さすがに触らない。
指すのも失礼な気がする。
「でも耳は違うんだよな」
リーゼは拓真がどこを見ているか察したらしい。
自分の耳へ手を当てた。
「エルファ」
拓真の動きが止まった。
「……エルファ?」
「エルファ」
「え?」
似ている。
あまりにも。
「エルフ?」
「エルファ」
「ほぼエルフじゃん……!」
リーゼが困惑する。
拓真は思わず笑った。
「マジかよ。本当にエルフなのか」
もちろん、地球の創作物に登場するエルフと同じ存在なのかは分からない。
単に発音が似ているだけかもしれない。
それでも。
「異世界に来て、魔法使う長耳の女の子がエルファ……出来すぎじゃない?」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
◇ ◇ ◇
夕方。
ゲートは開かなかった。
拓真は何度も境界反応を測ったが、ごく弱い残留反応があるだけ。
変化の兆候はない。
リーゼは一度、村があると思われる方向を指した。
拓真が首を横に振ると、彼女も無理には誘わなかった。
「今日くらいは待つ」
拓真はゲート跡へ視線を向ける。
「地球側なら、もう何かやってるはずだ」
真帆が解析している。
三枝が人員を動かしている。
久世もいる。
鉄平は間違いなく怒鳴っている。
「親父、キレてるだろうなぁ……」
少し笑う。
だが。
胸の奥には不安がある。
再びゲートが開く保証はどこにもない。
過去の観測では、同一地点に連続して開く場合もあれば、二度と観測されない場合もあった。
「……明日も開かなかったら」
どうする。
ここでさらに待つのか。
それとも人里へ行くのか。
食料はある。
水は足りないが、携帯浄水器がある。
問題はバッテリー。
アーマーは現在のままなら数日は維持できるが、高出力戦闘を繰り返せば一気に消耗する。
「町に行った方が、生存率は高いか」
異世界人がいる。
文明もある。
リーゼを見る限り、いきなり人を食うような文化ではなさそうだ。
もっとも一人を見ただけで世界全体を判断するのは危険だ。
拓真が考え込んでいると。
「タクマ」
「ん?」
リーゼが何か差し出していた。
小さな赤い果実。
「……食べ物?」
リーゼは自分でも同じ実を一つ食べてみせる。
「毒見してくれたのか?」
「?」
「ありがとう」
拓真は一度スキャンした。
既知の強毒性物質は検出なし。
もちろん未知の毒まで保証されない。
ただ、リーゼが普通に食べている。
一口。
「……甘い」
少し酸味がある。
ベリーに近い。
「美味しい」
リーゼが拓真の表情を見て笑った。
「これ」
拓真は果実を指す。
「名前?」
自分。
「拓真」
果実。
リーゼは理解した。
「ラミ」
「ラミ」
また一つ。
この世界の言葉を覚えた。
こうやって少しずつ増えていくのだろう。
◇ ◇ ◇
一日目。
ゲートは開かなかった。
拓真はアーマーのメインシステムを休止させ、緊急電源だけでセンサーを最低限維持した。
眠る時も完全には装甲を脱がない。
巨大樹の根元に背を預け、非常用シートを使う。
リーゼは少し離れた場所で焚き火を作った。
火打ち道具は使わない。
指先。
小さな炎。
「便利だなぁ……」
拓真が言うと。
「?」
「こっちの話」
夜空。
星。
当然ながら、知っている星座は一つもなかった。
その事実を見た時。
改めて。
本当に帰れない場所へ来たのだと感じた。
◇ ◇ ◇
二日目。
ゲートは開かなかった。
朝から境界反応を測定。
変化なし。
拓真は周辺二百メートル以内だけをドローンで調査し、水場を見つけた。
小さな川。
透明度は高い。
リーゼも普通に飲んでいる。
それでも拓真は煮沸し、さらに携帯浄水器を通してから飲んだ。
「タクマ」
「俺の世界では、水はこうして飲むんだよ」
「……?」
「嘘。普通は水道から出る」
伝わるはずもない。
リーゼは呆れたような顔をしていた。
この日。
拓真は彼女が小さな水の塊を空中に作るのを見た。
「……待って」
リーゼの掌の上。
拳ほどの水。
「水も出せるの?」
「アクァ」
「いや名前じゃなくて!」
当然通じない。
センサーを向ける。
未知粒子が減少。
リーゼ自身の反応も低下。
「基本魔法ってやつなのかな……」
炎。
水。
治癒。
同じ人物が複数種類を使っている。
魔石のように一属性固定ではない可能性がある。
拓真の中では研究項目が際限なく増えていった。
◇ ◇ ◇
三日目。
まだ。
ゲートは開かなかった。
「……おかしい」
拓真はゲート跡に立っていた。
地球側で三日。
これだけ行方不明になっているなら。
国家レベルで大騒ぎになっているはずだ。
当然、可能な限りの手段で再接続を試している。
「それなのに何もない」
再び同じ位置へゲートを開く技術を地球側が持っていない。
それは分かっている。
だが。
三日。
このまま待つだけでいいのか。
食料はまだある。
水も確保できた。
ただし。
この森に大型魔獣がいることは、もう確認済みだ。
そしてリーゼ。
彼女は三日間。
ずっと付き合ってくれている。
本来なら帰る場所があるはずなのに。
「リーゼ」
「?」
拓真は彼女が示していた方角を指した。
「町」
両手で屋根。
リーゼが頷く。
「セリア」
「セリア?」
リーゼはもう一度町の方向を指す。
「セリア」
「町の名前かな」
おそらく。
セリア。
村か町か。
分からない。
拓真はゲート跡を見る。
そして。
手元の境界センサー。
残留反応は記録済み。
位置も地形データとして保存した。
戻って来られない距離へ行く必要はない。
「……行くか」
声に出す。
三日待った。
もし今日。
明日。
それでも開かなければ。
結局いつかは移動しなければならない。
むしろ非常食を使い切ってから動く方が危険だ。
「生き残る方を優先する」
地球へ帰るためにも。
まず。
この世界で生きなければならない。
「リーゼ」
拓真は自分を指し。
次に彼女。
そして。
セリアの方向を指した。
「一緒に行っていい?」
言葉は通じない。
だが。
意味は伝わった。
リーゼは一瞬驚き。
それから笑った。
「タクマ」
手招き。
「……それは分かる」
拓真も笑った。
非常袋を背面へ固定する。
アーマーのシステムを起動。
《Battery:48%》
「半分切ったか」
無駄遣いはできない。
通常歩行時の出力を十二パーセントまで落とす。
ヘルメットは閉める。
集落へ入る前に、どう対応するか考える必要がある。
「よし」
最後に。
ゲート跡を振り返った。
「必ず戻ってくる」
地球。
家族。
友人。
みんな。
待っている。
拓真はそう信じていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
地球。
神代拓真がゲートに飲み込まれた山中。
「境界値、変化なし」
「再開口の兆候もありません」
観測員の報告に、三枝は黙ったままモニターを見つめていた。
「最後の通信から?」
「三枝さん」
真帆が答えを求める。
三枝は腕時計を確認した。
「……七時間十九分です」
「七時間……」
真帆は呆然とした。
鉄平が顔を上げる。
「待て」
声が低い。
「七時間?」
「はい」
「拓真が消えたのは朝だぞ」
「現在は夕方です」
「……」
鉄平は何も言わない。
ただ。
拳を強く握った。
一方。
異世界。
神代拓真の体感では。
すでに。
三日が過ぎていた。
地球側で経過した時間は。
僅か七時間あまり。
まだ誰も。
その違いの意味を理解していなかった。
だが後に。
地球と異世界をつなぐ研究において、極めて重要な法則として記録されることになる。
異世界で十日が過ぎる間に。
地球では。
たった一日しか過ぎない。
二つの世界の時間流速は、およそ十対一。
そしてこの時間差が。
神代拓真の異世界での冒険を。
誰も予想しなかった形へ変えていくことになる。
異世界へ飛ばされてから、神代拓真が最初に決めた方針は単純だった。
ゲートが消えた場所から離れない。
地球側では、三枝たちが必ず再接続を試みる。
鉄平も真帆も、拓真が消えたまま諦めるような人間ではない。
ならば勝手に移動するより、同じ場所で待っていた方が救助される可能性は高い。
そう判断した。
その判断自体は、間違っていなかったと思う。
ただ一つ。
拓真には知らないことがあった。
地球と、この世界。
二つの世界で流れる時間が、同じではないということを。
◇ ◇ ◇
「……開かないな」
ゲートが消えてから三時間ほどが経過していた。
拓真は巨大な樹木の根元に腰を下ろし、何度目か分からない確認を行った。
《Boundary Signature:Trace》
《Unknown Particle Density:Stable》
境界反応は完全には消えていない。
ごく僅かだが、確かに残っている。
だからこそ、ここを離れにくかった。
「反応があるってことは、また開く可能性はある……よな」
もちろん誰も答えてくれない。
隣にはリーゼが座っている。
彼女は剣を膝の上へ置きながら、さっきから不思議そうに拓真の様子を眺めていた。
「タクマ」
「ん?」
リーゼが何もない空間を指した。
そこは、ゲートが存在していた位置だ。
次に両手を開き、閉じる。
「ゲート?」
「ゲート」
どうやら単語として覚えたらしい。
「そう。ここにもう一回ゲートが開くのを待ってる」
拓真も同じ動作をしてから、自分を指し、続いてゲート跡を指した。
「俺は向こうから来た」
リーゼがじっと見ている。
「……まあ、分からないよな」
拓真は苦笑した。
言葉を一から覚えるというのは想像以上に大変だ。
ただ、まったく進歩していないわけでもない。
三時間ほど一緒にいる間に、いくつかの単語は分かるようになっていた。
水はアクァ。
火はフィア。
木はフィルナ。
そして。
「タクマ」
「はいはい」
自分の名前。
リーゼはかなり正確に発音できるようになっている。
拓真も彼女の名前だけなら完璧だった。
「リーゼ」
「?」
拓真は地面へ指を立て、それを空へ向けてゆっくり動かす。
さらに太陽を示した。
「一日」
「……?」
「日」
リーゼはしばらく考えていたが、やがて何かに気づいたらしい。
太陽を指し、それから両手を大きく動かしながら何かを説明する。
「やっぱ分からん」
言葉の壁は厚い。
ただ、一つだけ確認できたことがある。
アーマーの時計では、異世界へ来てから三時間十四分。
太陽の動きも、その時間から考えて不自然ではなかった。
「一日の長さは、地球とそこまで変わらないのかな」
少なくとも、太陽が数時間で沈むような世界ではないらしい。
拓真は何気なくそう判断した。
この時はまだ、それ以上深く考える理由がなかった。
◇ ◇ ◇
もっと差し迫った問題があった。
《Battery:61%》
「減ったなぁ……」
アーマーの補助出力はほぼ最低まで落としている。
魔獣との戦闘で使った電力が大きかった。
このまま何もせず待っているだけなら、メインバッテリーを停止させることもできる。
問題は生命維持だった。
《Oxygen Reserve:51min》
「こっちの方がまずい」
拓真はヘルメット内で眉を寄せた。
酸素ボンベを使い続けるわけにはいかない。
すでに外気浄化モードを併用しているが、完全に外気へ切り替える判断はまだしていなかった。
外部大気の測定結果自体は悪くない。
酸素濃度は地球とほぼ同じ。
一酸化炭素や硫化水素のような既知の有害ガスも検出されていない。
問題は、既存のセンサーで分類できない成分。
そして生物由来の危険性だった。
細菌。
ウイルス。
胞子。
寄生性微生物。
「さすがにセンサーだけじゃ分からないんだよな……」
拓真が悩んでいると。
「タクマ?」
リーゼが覗き込んできた。
「いや、こっちの問題」
彼女は当然ながら普通に呼吸している。
植物も生えている。
動物もいる。
少なくとも人間に似たリーゼが生存できる環境なのだから、急性毒性のある大気ではない可能性が高い。
だからといって、地球人にも安全とは限らない。
「でも、このままだと飯も食えないんだよな」
ヘルメットを開けなければ水も飲めない。
異世界へ数時間立ち寄るだけなら問題なかった。
しかし遭難となれば話は別だ。
拓真はしばらく考えた末、非常袋から小型の採取容器を取り出した。
外気サンプルはすでに複数採取している。
アーマーの簡易生体検知ユニットでも、既知の危険物質は検出されていない。
「ゼロリスクは無理か」
そもそも、あと一時間もしないうちに酸素は尽きる。
選択肢がなくなる前に決断すべきだった。
拓真はリーゼを見た。
「ちょっと離れてて」
「?」
身振りで距離を取るよう示す。
何度か繰り返すと、リーゼは二歩ほど下がった。
「ありがとう」
アーマーを低出力状態へ。
外気浄化装置を最大。
ヘルメットの気密を解除する。
《WARNING》
《External Environment Not Certified》
「知ってる」
《Confirm Seal Release?》
「解除」
カシュッ。
僅かな空気の音。
内部圧力と外気が均される。
拓真はすぐにはヘルメットを脱がなかった。
数秒待つ。
異常なし。
臭い。
森林。
湿った土。
植物。
地球の山中とかなり近い。
ただ、その中にどこか甘い香りが混じっている。
「……空気だ」
当たり前のことなのに、不思議な感動があった。
異世界の空気。
自分が今、それを吸っている。
ゆっくり深呼吸する。
「普通……だな」
息苦しさはない。
喉の刺激もない。
めまいもない。
リーゼが驚いたようにこちらを見ていた。
「どうした?」
彼女は拓真の顔をじっと見る。
そして。
「タクマ?」
「そう。拓真」
写真では見せた。
だが実際の顔を見るのは初めてだ。
リーゼが恐る恐る近づいてきた。
「人間だよ」
「……?」
「いや、人間って言っても通じないか」
するとリーゼが自分を指した。
「ヒューマ」
「……ヒューマ?」
次に拓真を指す。
「ヒューマ?」
「おお」
意味はかなり推測できる。
「人間?」
拓真は自分を指し、頷いた。
「ヒューマ」
リーゼの顔から少し緊張が抜けた。
「なるほど。少なくとも俺と同じような種族だって認識にはなったのか」
今度はリーゼの耳を見る。
さすがに触らない。
指すのも失礼な気がする。
「でも耳は違うんだよな」
リーゼは拓真がどこを見ているか察したらしい。
自分の耳へ手を当てた。
「エルファ」
拓真の動きが止まった。
「……エルファ?」
「エルファ」
「え?」
似ている。
あまりにも。
「エルフ?」
「エルファ」
「ほぼエルフじゃん……!」
リーゼが困惑する。
拓真は思わず笑った。
「マジかよ。本当にエルフなのか」
もちろん、地球の創作物に登場するエルフと同じ存在なのかは分からない。
単に発音が似ているだけかもしれない。
それでも。
「異世界に来て、魔法使う長耳の女の子がエルファ……出来すぎじゃない?」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
◇ ◇ ◇
夕方。
ゲートは開かなかった。
拓真は何度も境界反応を測ったが、ごく弱い残留反応があるだけ。
変化の兆候はない。
リーゼは一度、村があると思われる方向を指した。
拓真が首を横に振ると、彼女も無理には誘わなかった。
「今日くらいは待つ」
拓真はゲート跡へ視線を向ける。
「地球側なら、もう何かやってるはずだ」
真帆が解析している。
三枝が人員を動かしている。
久世もいる。
鉄平は間違いなく怒鳴っている。
「親父、キレてるだろうなぁ……」
少し笑う。
だが。
胸の奥には不安がある。
再びゲートが開く保証はどこにもない。
過去の観測では、同一地点に連続して開く場合もあれば、二度と観測されない場合もあった。
「……明日も開かなかったら」
どうする。
ここでさらに待つのか。
それとも人里へ行くのか。
食料はある。
水は足りないが、携帯浄水器がある。
問題はバッテリー。
アーマーは現在のままなら数日は維持できるが、高出力戦闘を繰り返せば一気に消耗する。
「町に行った方が、生存率は高いか」
異世界人がいる。
文明もある。
リーゼを見る限り、いきなり人を食うような文化ではなさそうだ。
もっとも一人を見ただけで世界全体を判断するのは危険だ。
拓真が考え込んでいると。
「タクマ」
「ん?」
リーゼが何か差し出していた。
小さな赤い果実。
「……食べ物?」
リーゼは自分でも同じ実を一つ食べてみせる。
「毒見してくれたのか?」
「?」
「ありがとう」
拓真は一度スキャンした。
既知の強毒性物質は検出なし。
もちろん未知の毒まで保証されない。
ただ、リーゼが普通に食べている。
一口。
「……甘い」
少し酸味がある。
ベリーに近い。
「美味しい」
リーゼが拓真の表情を見て笑った。
「これ」
拓真は果実を指す。
「名前?」
自分。
「拓真」
果実。
リーゼは理解した。
「ラミ」
「ラミ」
また一つ。
この世界の言葉を覚えた。
こうやって少しずつ増えていくのだろう。
◇ ◇ ◇
一日目。
ゲートは開かなかった。
拓真はアーマーのメインシステムを休止させ、緊急電源だけでセンサーを最低限維持した。
眠る時も完全には装甲を脱がない。
巨大樹の根元に背を預け、非常用シートを使う。
リーゼは少し離れた場所で焚き火を作った。
火打ち道具は使わない。
指先。
小さな炎。
「便利だなぁ……」
拓真が言うと。
「?」
「こっちの話」
夜空。
星。
当然ながら、知っている星座は一つもなかった。
その事実を見た時。
改めて。
本当に帰れない場所へ来たのだと感じた。
◇ ◇ ◇
二日目。
ゲートは開かなかった。
朝から境界反応を測定。
変化なし。
拓真は周辺二百メートル以内だけをドローンで調査し、水場を見つけた。
小さな川。
透明度は高い。
リーゼも普通に飲んでいる。
それでも拓真は煮沸し、さらに携帯浄水器を通してから飲んだ。
「タクマ」
「俺の世界では、水はこうして飲むんだよ」
「……?」
「嘘。普通は水道から出る」
伝わるはずもない。
リーゼは呆れたような顔をしていた。
この日。
拓真は彼女が小さな水の塊を空中に作るのを見た。
「……待って」
リーゼの掌の上。
拳ほどの水。
「水も出せるの?」
「アクァ」
「いや名前じゃなくて!」
当然通じない。
センサーを向ける。
未知粒子が減少。
リーゼ自身の反応も低下。
「基本魔法ってやつなのかな……」
炎。
水。
治癒。
同じ人物が複数種類を使っている。
魔石のように一属性固定ではない可能性がある。
拓真の中では研究項目が際限なく増えていった。
◇ ◇ ◇
三日目。
まだ。
ゲートは開かなかった。
「……おかしい」
拓真はゲート跡に立っていた。
地球側で三日。
これだけ行方不明になっているなら。
国家レベルで大騒ぎになっているはずだ。
当然、可能な限りの手段で再接続を試している。
「それなのに何もない」
再び同じ位置へゲートを開く技術を地球側が持っていない。
それは分かっている。
だが。
三日。
このまま待つだけでいいのか。
食料はまだある。
水も確保できた。
ただし。
この森に大型魔獣がいることは、もう確認済みだ。
そしてリーゼ。
彼女は三日間。
ずっと付き合ってくれている。
本来なら帰る場所があるはずなのに。
「リーゼ」
「?」
拓真は彼女が示していた方角を指した。
「町」
両手で屋根。
リーゼが頷く。
「セリア」
「セリア?」
リーゼはもう一度町の方向を指す。
「セリア」
「町の名前かな」
おそらく。
セリア。
村か町か。
分からない。
拓真はゲート跡を見る。
そして。
手元の境界センサー。
残留反応は記録済み。
位置も地形データとして保存した。
戻って来られない距離へ行く必要はない。
「……行くか」
声に出す。
三日待った。
もし今日。
明日。
それでも開かなければ。
結局いつかは移動しなければならない。
むしろ非常食を使い切ってから動く方が危険だ。
「生き残る方を優先する」
地球へ帰るためにも。
まず。
この世界で生きなければならない。
「リーゼ」
拓真は自分を指し。
次に彼女。
そして。
セリアの方向を指した。
「一緒に行っていい?」
言葉は通じない。
だが。
意味は伝わった。
リーゼは一瞬驚き。
それから笑った。
「タクマ」
手招き。
「……それは分かる」
拓真も笑った。
非常袋を背面へ固定する。
アーマーのシステムを起動。
《Battery:48%》
「半分切ったか」
無駄遣いはできない。
通常歩行時の出力を十二パーセントまで落とす。
ヘルメットは閉める。
集落へ入る前に、どう対応するか考える必要がある。
「よし」
最後に。
ゲート跡を振り返った。
「必ず戻ってくる」
地球。
家族。
友人。
みんな。
待っている。
拓真はそう信じていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
地球。
神代拓真がゲートに飲み込まれた山中。
「境界値、変化なし」
「再開口の兆候もありません」
観測員の報告に、三枝は黙ったままモニターを見つめていた。
「最後の通信から?」
「三枝さん」
真帆が答えを求める。
三枝は腕時計を確認した。
「……七時間十九分です」
「七時間……」
真帆は呆然とした。
鉄平が顔を上げる。
「待て」
声が低い。
「七時間?」
「はい」
「拓真が消えたのは朝だぞ」
「現在は夕方です」
「……」
鉄平は何も言わない。
ただ。
拳を強く握った。
一方。
異世界。
神代拓真の体感では。
すでに。
三日が過ぎていた。
地球側で経過した時間は。
僅か七時間あまり。
まだ誰も。
その違いの意味を理解していなかった。
だが後に。
地球と異世界をつなぐ研究において、極めて重要な法則として記録されることになる。
異世界で十日が過ぎる間に。
地球では。
たった一日しか過ぎない。
二つの世界の時間流速は、およそ十対一。
そしてこの時間差が。
神代拓真の異世界での冒険を。
誰も予想しなかった形へ変えていくことになる。




