>>> 後編
ルーニーが見つかったのは10日後だった。
もう彼女は生きては居ないかもしれないと思われていた10日目の朝。学園の正門の前にルーニーはボロボロの姿で汚いシーツに包まれた全裸の状態で通行人に発見された。生きているのが不思議な程だった。
直ぐに治療院に運ばれたルーニーはできる限りの治療を受けて一命を取り留めることができた。
しかし失っていた右足の膝から下が復活することはなかった。
ルーニーは二週間ほどして意識を取り戻した。
しかし目が覚めたルーニーはパニックを起こし暴れ、その度に看護師たちにより眠らされた。
落ち着きを取り戻し、まともに会話ができるまでになったのはルーニーが保護されてから一ヶ月半以上も経ってからだった。
ルーニーは自分の身に起こったことを騎士隊に話した。直ぐに犯人を捕まえるべく騎士たちが動き出したが、ルーニーの失踪の痕跡を全く残さなかった者たちの犯行だった為に裏の仕事のプロや高位貴族が関わっているだろうと思われていた。だから犯人は見つかることはないだろうと……
ルーニーは治療院の一室でただ茫然として過ごしていた。何も考えたくない。何も思い出したくない。
だが犯人を捕まえる為には必要なんだと、思い出したくもない記憶を思い出して騎士隊の女性騎士に話さなければならなかった。相手が女性だから大丈夫なんてことは当然全く無い。ルーニーは犯人のことを聞かれる度に過呼吸を起こした。顔を見たはずなのに思い出せない。犯人の男たちの全身を一糸纏わぬ姿で見たはずなのに、ルーニーには思い出せなかった。思い出したくもない自分の純潔を奪った凶器ばかりが脳裏に焼き付いてルーニーの精神を追い詰めた。それはルーニーに使われた薬の副作用でもあった。
治療院での治療は長く続けられた。
ルーニーはその間、学園にも行けずに、友人たちの面会もすべて断って、病室に閉じこもった。少しでも体を動かさないと、と言われても、人に会いたくなかった。……人の目に自分の姿を晒したくなかった。
そんな、ただ日々が過ぎ去るだけの日々の中で。
ある夜、ルーニーの病室をミシディアが訪れた。
◇
「な……、に、しに……来たのよ」
ミシディアの姿を見た瞬間にルーニーはミシディアを睨みつけてそう言っていた。
一人でルーニーの病室へ入って来たミシディアは大きな花束を持ち、ルーニーの姿を見ると痛ましそうに眉尻を下げた。
「お加減はどお?」
ベッドヘッドに背をもたれかける形でベッドの上に座っていたルーニーに近付きながらそう聞いたミシディアは、ルーニーの返事を聞かずにルーニーの足元のベッドの上に持っていた花束を置いた。
その位置にはルーニーの本来あるはずの足は無く、ルーニーはその花束を蹴り飛ばしてベッドの下へ落とすこともできなかった。
「……何しに、来たのよ……」
ルーニーはミシディアの言葉には答えずに同じ言葉を繰り返した。
今の時間に面会が許される筈がなかった。何より面会希望者が来たらルーニーが心を許している看護師が先に聞きに来る筈なのだ。それなのに、それらも無しにミシディアはこの病室に入って来た。
……ルーニーは湧き上がる得体の知れない恐怖心を隠すようにミシディアを睨みつけた。
そんなルーニーを気にすることなくミシディアは微笑む。
「ごめんなさいね、突然訪問してしまって。
でも待てど暮らせど何も起こらないから気になってしまって」
そう言うと困ったと言わんばかりに苦笑して眉尻を下げたミシディアが小さな溜め息を吐きながら頬に手を添えた。
「だから、この“乙女ゲーム”の今後の展開がどうなるのか、ヒロインである貴女にお聞きしに来たの」
「展、開……?」
ルーニーにはミシディアが何を言い出したのか分からなかった。
でも嫌な汗が湧き出してくる。
聞きたくて聞きたくない言葉が目の前の女から紡がれそうな気がして、ルーニーは自分の口の中が乾いてくるのが分かった。
そんなルーニーとは反対に、ミシディアは少しだけ興奮するかのように頬を染めて話し始めた。
「そうですわ。この後はどうなりますの?
わたくし、貴女に言われた通りに“悪役令嬢”になりましたのよ! “乙女ゲーム”がどんなものなのかはわからなかったのですが、“悪役”が出る作品などは大抵同じような設定ですものね! だからわたくし前世でよく見た“悪役”を参考にして頑張りましたのよ! 自分でもよくできたと思いますわ!」
そこまで言うとミシディアは姿勢を正してルーニーに対して少し体を斜めに見せて、扇子を広げると口元を隠して目を細めた。
「『お前たち、あの目障りな女を捕らえなさい。殺す以外は何をしても構わないわ。
わたくしに楯突くとどうなるか、その体に教え込んで差し上げなさい!!』」
言いながらミシディアは口元を隠していた扇子をルーニーに向けるとその口元に浮かべた笑みを見せつけるようにしてルーニーを不敵に笑って睨みつけた。
しかし直ぐにその表情を崩して恥ずかしげに笑って体をくねらせて照れた。
「なんて言って皆に指示したのよ? どうかしら? “悪役令嬢”できていた?」
フフフ♪、と恥ずかしそうに笑うミシディアにルーニーの頭は追いつかない。
この女はなんと言った?
“乙女ゲームを知らない?”
“皆に指示した?”
ナニをイッていルの?????
ルーニーは唖然としてミシディアを見つめた。
その目はとても人間を見ている視線ではなかった。
◇ ◇ ◇
自分を見つめて動きを止めてしまったルーニーにミシディアが気づき戸惑いの表情を浮かべた。
「あら? どうしましたの? もしかして、“悪役令嬢”らしくありませんでした?」
オロオロとして見せるミシディアにルーニーはカラカラに乾いた喉から絞り出すように声を出した。
「な、にを……言って……」
るの……、最後はもう音にすらならなかった。ルーニーの頭が理解することを拒んでいる。でも理解したくなくても理解できてしまっていて、ルーニーは引き攣る喉でハッハッと息をして、目の前に居る、楽しげに笑っている得体の知れない存在を見つめた。
「あ、ンタが……指示した……?」
ルーニーに押し寄せる絶望など気付かないのか、気付く気すらないのか、ミシディアはルーニーを不思議そうに見返して小首を傾げた。
「わ、ワタシを……こんな、目に、あ……あわせ……た、のは……」
「? わたくしですわ?」
サラリと言われた言葉にルーニーの目は驚愕に見開かれた。
しかしミシディアはそれすらも不思議そうに見返して首を反対側に倒して不思議がった。
「貴女がわたくしに『しろ』って言ったのですよ?
“悪役令嬢”。
あら? もしかしてやっぱり何か間違っちゃいました?」
そこで初めてミシディアは少しだけ焦った表情を作った。失敗に気付いた顔ではあったが、それはとても軽く、『卵焼きの塩と砂糖を間違えてしまった』くらいの焦り顔だった。
とても人を襲わせた人間がしていい表情ではなかった。
「ふ、……ふざけないでよっ!!!!」
堪らずルーニーの口から非難の声が上がる。叫んだせいで喉が少し切れたのかルーニーの口の奥で少し鉄の味が広がったが、ルーニーはそんなことすら気づかずにミシディアを睨んだ。
「あら?」
叫ばれて驚いたミシディアが少女のように口元に手を当てて驚いた顔をする。
それすらもルーニーの感情を逆撫でする。怒りからルーニーの唇は震え、自然と目には涙が上がってきた。怒りの震えは全身を巡り、ルーニーはベッドのシーツを限界まで握り締めた。
「あ、アンタっっ!?! アンタっ!! 何考えてんのよっ!?! わたっ、ワタシ死にかけたんだからっ!? 殺されかけたんだから?! 滅茶苦茶にっ……っ、滅茶苦茶にされたんだからっ!?! それをっ?!? な、何考えてんのよっ!?!!」
叫びながらルーニーは泣いていた。無意識にミシディアへと投げた枕はミシディアに当たることもなく下に落ちた。目の前の女が自分をこんな目に遭わせたのだと思うと何か言いたかった。
だが、ルーニーにすらも何をどう言えばいいのか分からなかった。だって、ルーニーにも分かっていた。
ミシディアにそうさせる切っ掛けを作ったのは、他の誰でもない、自分なのだと。
しかし……
「こんなっ……っ、こんなことやれなんて言う訳ないじゃない!!! バカじゃないのっ!?!?!」
悲痛に叫ばれたルーニーの言葉にミシディアは困ったように返事をする。
「わたくしもそう思ったんですけれど、態々『悪役をやれ』なんて言いに来る方ですもの。
そういう“被虐趣味”をお持ちなのかなって思いましたのよ?」
そうなのでしょう? などと言いたそうな顔で自分を見てくるミシディアにルーニーは絶望を感じた。
この女は何を言ってるんだ??
被虐趣味?? そんな訳ないだろう??
「あ、アンタ、乙女ゲームをなんだと思ってるのよ!?!!」
「そこは本当に申し訳ないと思っておりますのよ? 前世ではそういうことには本当に興味がなくて“乙女ゲーム”がなんなのか全く知らないのですわ」
苦笑するミシディアにルーニーの方がもう訳が分からなくなる。怒りが大き過ぎてどうしたらいいのか分からない。
大きく頭を振ってルーニーはミシディアを責める。
「学園が舞台なんだから登場人物は学生だけに決まってるでしょ?! 何、人を雇ってるのよ?!? アンタ自身がどうにかするに決まってるじゃない?! 悪役令嬢なんだからっ!?! 乙女ゲームは恋愛ゲームよ!?! ヒロインが恋愛するの!? そのヒロインを痛めつけて何の意味があるのよ?!?!」
「あら? 恋愛? ヒーローが居るんじゃありませんの?」
カランとしたミシディアの態度にルーニーはただただ体を掻き毟りたくなる衝動にかられる。怒りでどうにかなりそうだった。
「ヒーローは居るわよ!!! 私と恋してくれる男たちがっ!!!」
それを聞いてミシディアの目が輝いた。
「まぁ! それはやっぱり騎士の方? それとも魔法が得意な殿方かしら? それとも影の仕事をする人かしら?
わたくしの家を敵に回す方ですものね! さぞ魅力的で素晴らしく、そしてお強い方なのでしょうね!!」
「……は?」
ウキウキしながらそんなことを言い出したミシディアに、ルーニーは意味が分からずに唖然として無意識に小さな言葉が口から漏れた。
この女は、何を、イッテイルンダ??
◇ ◇ ◇
未知の生物を目の前にしているかのような表情をして止まるルーニーにはお構いなしに、ミシディアはワクワクが止められないと云わんばかりに嬉しそうに身をくねらせる。
「その方はいつわたくしの下に来て下さるのかしら? わたくしいつでも迎え撃てるように準備してますのよ?
わたくしは“悪役令嬢”!
物語の悪役と言えば『部下達の一番後ろで余裕をかましてふんぞり返って座っているボス』ですものね!!
この世界の雰囲気からイメージは『ヨーロッパマフィアのボス』かしら?! 『悪代官』ではちょっとイメージが違いますものね! フフ、わたくし葉巻もお酒も嗜みませんけれど、令嬢らしくお茶を優雅に飲みながらヒーローを待ちたいと思いますわ!
そして必ずや、華々しく美しい最期を遂げてみせましょう!!
『悪役』の名に恥じぬように!!!」
舞台の上にいる女優のように両手を上に広げてドレスの裾をひるがえして回ると心底楽しいんだと云わんばかりの顔でミシディアは微笑んだ。
そして思い出したかのようにルーニーを見てその目を覗き込む。
「そうですわ。ちゃんとその『ヒーロー』のお名前を知っておきたいのですけれど、教えてくださる?」
ニッコリ、と、本当に無邪気に、心から楽しんでいるかのようにミシディアに微笑まれて、ルーニーは息が止まった。
そして理解した。
駄目な人種に最悪なお願いをしてしまったのだと……
「あ……、あ、あぁ……あ……」
そう理解してしまった途端に、ルーニーの口からは意味もなく声が漏れた。
体の震えが止まらない。
目の前の“美しく優しい笑顔の女”が怖くて仕方がない。
得体の知れない物に自分の体が支配されてしまったような気持ち悪さが押し寄せる。
見開いた目に見える物が暗くなる。
息がまともに吸えない。
そんなルーニーに。
「ねぇ?
ヒーローのお名前を教えてくださる?」
道を聞くような気軽さで目の前の女は聞いてくる。
「もしかして、変身ヒーローなのかしら? それでは変身前のお名前をお聞きする事はできませんねぇ」
困ったわぁ……
夕飯の卵を切らしていたかのような呟きがルーニーの恐怖心をじわじわと広げていく。
こんな女に
自分が、頼んだのだ
悪役令嬢をしてくれと
自分が、頼んだのだ
その所為で自分は凌辱され、足を奪われ、心まで壊される程に体も心も何もかもを滅茶苦茶にされた……
全ては、
自・分・が・頼・ん・だ・所・為・で…………
そのことにルーニーの心が瓦解する。
「あ、あぁあぁああああああっ!!!」
ルーニーの口から喉が裂けるような声が漏れる。
それはどんどんと大きくなって絶叫となった。
「あぁああああああアアァアアアアっ!! いやああああああっ!!!!」
「きゃあ!?」
あまりの叫び声にミシディアは自分の耳を塞いで後退った。
「いやぁああああっ!! ヤあぁああああああああっ!!!!」
ルーニーはただただ自分の頭を両手で押さえて大きく頭を振り続けて絶叫した。大粒の涙が溢れ、シーツを濡らしていく。
「まぁっ!? どうしたの?!?」
ミシディアはただ戸惑うことしか出来なかった。
そんな病室の扉が開いた。
「大丈夫ですかお嬢様?!」
それはルーニーの看護師ではなく、ミシディアの侍女だった。
侍女は慌てて病室内へと入ってくるとミシディアの側に寄り添った。そんな侍女にミシディアは困っている表情を隠すこと無く見せてどうしましょうと言った。
「わたくしは何もないのだけれど、突然叫び出されてしまって……
これじゃあ、お話は無理そうねぇ……」
五月蝿いのと予定が狂ってしまったことに対してミシディアは眉尻を下げて困り顔で溜め息を吐く。
そんなミシディアに侍女も眉間にシワを寄せてルーニーを見た。
「敵の名前は聞き出せましたか?」
侍女はそう言いながらルーニーから視線を離してミシディアを見た。
ミシディアは顔を左右に小さく振った。
「それが教えては下さいませんでしたの。やっぱりそういう“ズル”はダメなのね」
はぁ……、と溜め息を吐きながら言われた言葉に、侍女も残念そうな顔をした。
部屋ではまだルーニーが泣き叫んでいるのに二人はもう気にしては居なかった。
ミシディアが本当に残念そうな顔をしてルーニーを見ると、直ぐにその視線を離して病室を出る為に歩き出した。
その後ろを侍女が付いていく。
そしてミシディアに声を掛けた。
「では引き続き万全の警戒をし続けます」
ミシディアは侍女を振り返らずに返事をした。
「お願いね」
ルーニーの絶叫を聞きながらミシディアはただただ困ったように溜め息を吐いた。
折角“ストーリーの確認”をしに来たのに当の本人がおかしくなってしまっていて話ができなかった。こんな風になるなら最初にちゃんと話を聞いておくんだったとミシディアは後悔した。
ルーニーが言いたいことだけ言って去って行ってしまったから、その勢いに釣られてミシディアも暴走してしまった。自分がルーニーに対して事を起こせば勝手に“ストーリーが進む”のだと思ったのだ。まさかあれから何も反応が無いとは思わなかった。
ダメだわぁ……こんなことじゃ、“貴族令嬢”失格ね……
ミシディアは落ち込んだ。
侯爵家の娘として、物事の先を読んで動けなければいけないのに、それができなかった『自分に』落ち込んだ。ルーニーのことはミシディアには後悔することではなかったので、そのことでは心はもう動かなかった。
既にルーニーはミシディアにとっては『終わった人』になっていた。
ミシディアと侍女が歩く廊下に誰かが飛び出してくることも、ミシディアたちを呼び止める者も居ない。
この治療院の中にいる人や警備員など全ての人が今は眠らされている。だからルーニーがどれだけ叫んでも誰も助けには来ない。
悪役令嬢らしく、権力など使えるものなど使ってミシディアは動いていた。それが『ルーニーの求めること』だと思っているからだ。
ルーニーの叫び声を聞いていたミシディア側の人間たちは『何がしたかったんだ、ルーニーは』と全員が首を傾げていた。
◇ ◇ ◇
「それにしてもこのゲームの『ヒーロー』とはどんな方なのかしら……
もしかして……『勇者』、とか……?
フフ、でしたらわたくしは最終的には『魔王』ということでしょうか? それなら前世のお兄様に見せてもらったゲームにありましたわ!
あぁ、どうしましょう♪ ここは魔王らしく、ドラゴンでも探した方が宜しいかしら?」
ミシディアは『乙女ゲームのストーリーを想像』してワクワクする。未知の“お話”に期待するその表情は少女のように愛らしかった。
ルーニーの失敗はミシディアと話をした時に『当然悪役令嬢も乙女ゲームの内容を知っている』と思い込んだことだった。
自分が知っているから相手も知っていて当然だ、と思い込んでしまったが故に必要な情報をミシディアに与えなかった。
きっとミシディアなら、ルーニーが乙女ゲームの展開を事細かく説明していれば、喜んで『イジメ』をしてくれただろう。そういう『悪役』も居るのだと理解してくれただろう。
別にミシディアは自ら率先してルーニーに関わろうとなど、していなかったのだから。
ミシディアに接触して、ミシディアに自分を害せと強請ったのは、他の誰でもない『ルーニー』本人なのだ。
ルーニーの前世は内弁慶なオタク女子だった。専門学校からの帰り道で暴走した電気自動車に撥ねられて死んだ。凄いスピードだった。
前世のルーニーは少女漫画や恋愛物のラノベを好み、その延長線で乙女ゲームを知ってどハマリした。
特にお姫様が幸せになるお話が好きで、勿論童話も好きだったが、ルーニーが読んだことのある童話は全て子供向けにアレンジされた『悪いことをした人も謝れば許される世界』が表現されたものばかりだった。
友達が怖い話やアクション映画を観に行こうと誘ったこともあったが、ルーニーは暴力が怖くて見るのも嫌いだったから観たこともなかった。
前世のルーニーはそんな感じだったので、周りにいる人もわざわざルーニーが嫌がる暴力系の作品を見せたりなんかしなかった。
だからルーニーの考える『悪役』のイメージで『一番悪い悪役』は、乙女ゲームの中で『ヒロインを虐める悪役令嬢』だった。
しかしミシディアは違う。
ミシディアの考える『悪役』のイメージで『一番悪い悪役』は、『必要であれば人を何人殺しても気にしない、金と権力と知能を持った人間』だった。ミシディアが『悪役』を知ったのは前世の兄が好んで観ていた『外国のアクション映画』だったからだ。
マフィアにギャングにヤクザに政治家にアサシン。
格好良いヒーローを際立たせる為に存在する悪役は、前世のミシディアには魅力的に見えた。絶対にしちゃいけないけれど、そんなことは当たり前に分かりきっていることだけれど……前世のミシディアは悪役キャラに憧れを持っていたりした。真似しちゃ絶対にいけないけれど。
そんなミシディアにルーニーは言ったのだ。
“悪役をやれ”、と。
直接的な表現はしなかったがミシディアには『私を虐めて』と言っているようにしか思えなかった。その時点でミシディアはルーニーを『特殊性癖の人』と位置付けた。きっと“死にかけた時に一番幸福を感じちゃうような女性”なのだろうなぁ、と……
『悪役』なんて、他人の命をなんとも思っていないような役をやれと言ったということは、そういうことなんだろう、と、ミシディアは思ってしまった。
“貴女の言いたいことは全て理解しましたわ!☆”という『善意』の心から、ミシディアはそう、理解してしまったのだ……
そうして、今回の悲しい事故は起こってしまったのだった……
ルーニーはもう貴族社会に復帰出来ないどころかこの先まともに生きていけるかも怪しかった。
乙女ゲームのヒロインとしての攻略対象者からの好感度も全然上げられていない状態なので、高位貴族である攻略対象者の援助も見込めない。
男爵家は態々平民から引き取ったのに何の役に立てることもできずにとんだお荷物を背負うことになった。ルーニーの実父である男爵はルーニーの外見の良さを見込んで養子に迎え入れたのであって、決して『血の繋がった子供だから』という理由からではなかった。『この見た目で上の家格の家に嫁に行ければ……!』と考えての養子縁組だったのにこんなことになってしまって男爵は心底ガッカリした。
しかし、『実の子だからと引き取ったのに傷モノになったからまた捨てる』、なんてことをすれば男爵家としての評判が悪くなるのは目に見えている。男爵は仕方がなく地方の療養院へとルーニーを預けた。ルーニーは体だけではなく心も壊していたので専門家の側にいる方が安全だろうという最後の親心でもあった。
こうしてルーニーは乙女ゲームの舞台から去った。
今後ルーニーが驚異的な回復を見せて学園に戻ってきても『乙女ゲーム』は再開されないだろう。既に純潔ではなく片足も無いルーニーを、今の婚約者から代えてまで、嫁として受け入れる高位貴族の家はないからだ。
ミシディアはルーニーに別れを告げた後も、ずっとヒーローが来るのを今か今かとワクワクハラハラしながら待っていた。
しかし待てど暮らせどヒーローはやって来ない。自分の周りの警護を強化し続けている娘がさすがに気になったミシディアの父親が独自に調査して、ミシディアを狙う者の動きは全く一切虫の触角の動きにもならない程に全然『無い』ことを確信した後、父親である侯爵は娘に知らせてミシディアの為に割いていた要員を下げさせた。
身の危険が無いことが証明されたのになんだか若干ガッカリしている愛娘に父親は不思議に思ったが、それ以外は本当に優秀な娘なので大して気にすることはなかった。
「はぁ……、乙女ゲームとはどんなストーリーだったのかしら……
立派な“悪役令嬢”になりたかったのに腕を振るう機会もないのね。
てっきりルーニーの平民の時の恋人か幼馴染なんかが復讐に燃えてこの侯爵家を敵に回す展開なのかと思ってましたのに……」
そう言うとミシディアはドレスのどこからか細身の短剣を取り出して指や腕を使ってクルクルと短剣を回し出した。
そしてその短剣を素早い動きでスパンッと真っ直ぐに投げて壁に掛けられてた的に当てると続け様に短剣を何本も取り出して的にスパパパパンッと投げ付けた。
『乙女ゲームのミシディア』はそんなことはしなかったのだが、『転生した悪役令嬢』だからか、今のミシディアは自分の強さに自信を持てるほどに強かった。
「ヒーローと一騎打ちしてみたかったわぁ……」
前世で観た映画のクライマックスを思い出してミシディアは溜め息を吐いた。
自分の婚約者がその『乙女ゲームのヒーロー』であると気付くこともなく、ミシディアはこの先も生きる。
自分の父親が「我が娘は王の盾にも鉾にもなれる王妃となりますぞ!」と王家に売り込んでいることなど知る由もなく、ミシディアはこの先も何の邪魔もされずに“王太子の婚約者”のまま学園を卒業した。
ルーニーが始めた乙女ゲームはバッドエンドとなったが、ミシディアの人生はゲームとは無関係に進み、とても平穏な幸せで満たされるのだった。
[完]
※ルーニーが思う『駄目な人種』とは:悪いことも正しいことも法律も倫理も道徳も全部“理解した上”で、自分がどうしたいか周りが何を望んでいるか未来の為にどうなるかをその時の自分の立ち位置から考えて行動する人。悪意より善意で動く方が多いが『その善意が“人々の考える善意”と同じであるか』はその時の状況次第となる。
全てを分っていて行動しているので基本『正論で論破』とかは効かない。分かりきったことを改めて諭されても困るという態度になる。