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19


 血のように赤い夕陽が地上に落ちていく。そのさまを横目に、わたしは叔父の病室に向かっていた。風も段々冷たくなっていた。

 今日という日はまるで嵐のように過ぎ去っていき、消えない傷を残していった。何も考えたくないほどの疲労感に襲われているというのに、わざわざ叔父に会いに行こうというのだから、きっと今のわたしはどこか狂っている。


「叔父様?」


 お供もなく、一人での訪問。こういうとき、たいてい傍についていたベラはもういないからだ。

 扉には鍵がかかっている。鍵など、かけさせてあっただろうか。覚えがない。

 そこへオーウェンがやってきた。そういえば、今回の件に一応決着がついたということで、とりあえず城預かりということになったのだったっけ。


「城内は自由に行動してもよいとお聞きしましたので、そのお礼に参りました」


 お礼など必要としていないのだが。なんとなく表情が明るいものとなり、いつも通りに微笑んでいるのが気に食わない。もう少し牢に閉じ込めておけばよかった。

 そう思っていたところに、うまい具合に彼の顔が曇った。わたしが入ろうとしていた部屋がどこか気づいたようだ。


「あなたは幸せそうで何より。……早速仕事を与えます。この扉を開けて頂戴」


 皮肉めいた口調にも動ぜず、彼は扉を顧み、不思議そうな顔をした。


「内側から鍵がかかっているようです。しかし、今の時間帯に鍵をかける必要はなかったはずですが……蹴破ってもよろしいですか」

「構いません」


 扉の向こうからは沈黙が返ってくる。こうして話していれば、中にいる叔父だって気づきそうなものを。それが奇妙と言えば奇妙だ。叔父は動けない身体だというのに。

 オーウェンの足が目の前の扉を蹴れば、思っていたよりも簡単に鍵が壊れた。

 その先の風景をきっとわたしは一生忘れないだろう。

 西日が部屋いっぱいに射し込む部屋。その中で佇む小さな男。派手な恰好を好む道化が、真っ白な服を纏って笑っている。いや、真っ白ではなかった。斑模様がついていた。血のように赤い点々が至る所についている。それは部屋中にもあるものだったが。

 彼は銀の盆を持っている。銀の盆には、作り物の首が置いてあった。穏やかに目を閉じた首。盆から零れた金の髪。

 彫刻の首を切り取ったかのように思った。道化は笑っている。奇妙なはずなのに、惹きつけられるものがあった。これは絵画だろうか。絵と現実を混同しているのではなかろうか。


「叔父様は?」


 道化は笑っている。本当に嬉しそうに。白粉の塗られた顔がひび割れるのではないかと思うほど。

 叔父が眠っているはずのベッドに目をやる。こんもりと布団が人の形をして盛り上がっている。いつのまに赤色の布団にかわっただろうか。染色したのだろうか。


「女伯さま!」


 背中からわたしを呼ぶ声がする。体を支える力強い腕。わたしは体が傾いでいたようだった。


「しっかりなさってください! 気を確かに!」


 そこまで必死で叫ぶことはないだろうに。体をゆすらないで頂戴。

 声が出なかった。

 視界が歪んでいく。頬に何やら熱いものが流れていく。流れて、顎に伝って、ドレスの裾に染み込んでいく。とめどなく、流れていく。

 自分の手は震えている。心臓が痛いほど、何かに握られている。それに反して四肢は冷たい。

 喉の奥がざらついた。口は開いているというのに。


「女伯さま、女伯さま!……イゾルデ! しっかりしなさい!」


 名前を呼ばれてゆっくりと振り返る。涙で何もかもごちゃまぜになったその顔で。

 見るな、とでもいうように体ごと振り向かされ、腕に閉じ込められる。暖かい胸に顔を埋めれば、なんとなく安心する。


「どういうつもりだ、ベンデンゲンチェルン。なぜお前がそのようなことをする」


 オーウェンの緊張した、低い声。彼も動揺しているようだ。心臓の鼓動が激しい。

 道化はきっと今も笑っているだろう。そして、歌うようにこう言うのだ。


「こうしなければ、完成しないからさ。劇は終幕までも人を惹きつけるものであるべきだからさ。中途半端な死に体を晒したところで先代伯の復讐は完成しないのさ」


 おれさまは道化。戯れに生きるのさ。

 オーウェンの服を掴む力が強くなる。


「完成……」


 呟いてみれば、まるで異国の言葉のよう。


「司教に恨みでもあったのか?」

「もちろん、ないさ」


 道化の乾いた笑声が部屋中にこだまする。


「戯れだ。所詮人生はそんなもの。戯れに生き、死ぬものさ。道化ならなおのこと! つまらないならば変えればいい。つまらない運命など、捨ててしまえばいい! 選択はいつだって目の前に転がっている物さ! いつ死ぬかだっておれさまが決める!」


 オーウェンから無理やり身体を離して、道化の方を見れば、彼が口の端を釣り上げて笑っているのが見えた。窓枠に手をかけている。


「女伯さまのこと、嫌いじゃなかったよ」


 いつだって悩んで苦しんでいてさ。

 道化はさらに笑みを深める。泣いているような笑みだった。

 ぱちりと瞬きした刹那、道化の姿は部屋から消えていた。しばらくあって、どすん、と何かが地面に落ちたような鈍い音が聞こえた。

 言うまでもない。道化が物言わぬ肉の塊になった瞬間だった。




 叔父の葬儀はごく内々にすませることとなった。死に方が死に方だ。大っぴらにできるものではない。

 季節は夏を過ぎ、秋へ。

 城を囲む山々が鮮やかに染まっていく。

 もうあの祭りの日は遠い。

 わたしの目の前には、ひとつの区切りがあった。

 粗末な木の棺を撫でる。ささくれだっていて、怪我をしてしまいそうだ。案の定、指先からぷつりと血の滴ができてくる。

 貴族ならば、石の棺に納められるというのに。小さな村で誰にも知られずひっそりと葬られるはずがなかったというのに。

 バスチアンが眠っているという棺は、内々に城内の礼拝堂に運ばせた。あとでまた正式に葬られることになっている。その前に、わたしはバスチアンと対面することを望んだのだ。

 今、ここにいるのは、わたしとオーウェンの二人きり。この男のずうずうしさも相変わらずだが、咎める気はなかった。


「ねえ、オーウェン。バスチアンのことを覚えていて?」


 もちろんでございます、と彼は神妙な顔で頷いた。


「まったく、素晴らしいお方でした。……しかし、女伯さまを一番にはしなかった方です。この方が好きではありませんでした」

「思い切ったことをいうわね」


 わたしは小さく笑い、さらに続けた。


「政略結婚ですもの。気持ちだけはどうにもならないでしょうに」


 そういえば、パーシヴァルはバスチアンのことを「初めて恋した男」と評していた。だが、わたしの心には動揺こそあれ、恋情を感じていない。きっと、恋をする前に恋をやめてしまったからだ、と今ならわかる。振り向いてくれない人を思えるほど、心が強くあれないから。


「でも、叔父にとって納得できることではなかったのでしょうね」


 あなたに言っておきたいことがあります、とわたしはオーウェンを見つめる。


「わたしはあなたを責めません。たとえ、あの模擬決闘で叔父と闘う寸前になって、自分の持つ剣が真剣だと気づいていても、それは不可抗力でしかないのですから」


 彼はあっけにとられて、まじまじとぶしつけにわたしの眼を覗き込む。この男、最近になってあからさまになってきた。


「さ、開けなさい」


 彼の答えを聞く前に、命令する。

 棺が開けられる。中には二人の遺体がある。あの日の衣装を纏ったままの白骨。彼がバスチアン。もう一つの白骨は、質素なドレスを身に纏っていたが、高価そうな首飾りと指輪を身につけている、ちぐはぐな遺体だった。

 二人は抱き合って棺に収まっていた。もう二度とはなすまいというふうに。長い巻き毛の金が散らばっていた。きっと「彼女」のものだろう。

 ……こんなもの、見せられたら、もうどうしようもないではないか。

 わたしは、敗者。最期まで勝てなかった。

 それでも悔しさよりも、寂寥感を覚えてしまうのはなぜだろう。棺に横たわる二人は、現実で結ばれなかったことを知っているからだろうか。


「ねえ、教えて。彼女は一体誰だったの?」


 声が掠れてしまうのを許してほしい。

 オーウェンは一瞬ためらったように見えた。それは、とまで言いかけて、また閉じる。急かすように見続けていると、彼は声を潜めて、耳元でこう囁いた。


「バスチアン様の異母姉妹にあたられるお方です」


 優しくしないと、罪の意識を感じてしまうのだよ――

 かつて夫だった男の言葉が蘇る。彼の罪悪感とは。

 氷解した謎は斜陽のように儚い輝きを放ちながら、人を魅せるもの。その眩しさを思い、そっと目を閉じた。


「そう、そういうことだったのですね……」


 わたしは棺を閉じさせた。

 死が二人を分かつとも、死こそが二人をつなげ給え。


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