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ノイズ2100  作者: べりゆる
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標本番号:ホモ・サピエンス・サピエンス

「心の豊かさを失い、無意識に搾取する『新しい種族』」と、「知性と精神性を守ろうとする『古い種族』」の相克、そして訪れるかもしれない未来をテーマにしたお話。

この物語が、現代という殺伐とした荒野で立ち尽くす誰かの心に、小さな灯りをともすきっかけになれば幸いです。


標本番号:ホモ・サピエンス・サピエンス

西暦2100年。かつて東京と呼ばれた都市は、完全な効率化によって管理されていた。


人々の頭脳は、生まれた瞬間から「グリッド」と呼ばれる超高度AIネットワークに接続され、損得勘定はナノ秒単位で自動計算される。感情の起伏は効率を落とすため、バイオフィードバックによって平坦に保たれていた。


彼らは自らを「ホモ・エフィキエンス(効率的な人)」と呼び、旧時代の人間を「ホモ・パティエンス(耐える人、あるいは病める人)」と侮蔑を込めて呼んだ。


エフィキエンスたちは、美しい。無駄な脂肪はなく、悩みによる皺もなく、常に最適化された笑顔を浮かべている。彼らにとって、他者は「利用可能なリソース」か「排除すべきノイズ」のどちらかでしかなかった。感謝や恩義といった概念は、遠い昔にバグとして修正されていた。


その都市の片隅、廃棄された地下地下鉄のシェルターに、老人が一人住んでいた。


名は、カイ。御年120歳。おそらく、この惑星に最後に残った「ホモ・サピエンス・サピエンス」である。

櫂はグリッドに接続していない。彼は「古い頭」を持っていた。


彼の頭脳は、冷徹な計算ではなく、過ぎ去った日々の記憶、読み古された哲学書の一節、そして終わりのない葛藤で満ちていた。


ある日、一人のエフィキエンスの若者が、好奇心に駆られて地下へ降りてきた。彼は都市の維持管理を担当するエリートで、櫂のことを「未接触部族の生き残り」のような、興味深い標本として見に来たのだ。

若者の名はルカ。完璧な造作の顔、感情の読み取れない澄んだ瞳。


「こんにちは、標本番号001」ルカは、チタン製のタブレットに何かを記録しながら言った。「興味深い。心拍数が一定ではない。グリッドに接続されていない脳波は、これほどまでにノイズが多いのですね」

櫂は、古びたロッキングチェアに座ったまま、静かにルカを見た。その瞳には、ルカには理解できない「深み」があった。


「ノイズ、か。お前さんたちには、そう見えるだろうな」


「非効率です」ルカは断じた。「なぜ、それほどまでに重く、複雑な『心』というシステムを維持し続けるのですか? 私たちは、その重荷を下ろしたことで、永遠の平和と繁栄を手に入れました」


櫂は苦笑した。「平和、か。お前さんたちの言う平和は、墓場の静けさに似ている。傷つくことを恐れて、愛することをやめた者たちの静けさだ」

「『愛』。古代語ですね。リソースの無駄な配分を意味する、非論理的な行動指針」ルカは淡々とメモを取る。


「ルカ、お前さんは、誰かのために自分の命を削りたいと思ったことはないか? 見返りなど求めず、ただ相手の幸せを願って」


「理解不能です。自己保存の本能に反します」


「だろうな」櫂は、棚から一冊の本を取り出した。

表紙は擦り切れている。

「これは、かつて『詩集』と呼ばれたものだ。ここに、こんな一節がある」

櫂は、嗄れた声で読み上げた。

「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」


ルカは、眉一つ動かさなかった。「極めて非効率的な、エラーコードのような文章です」


「だが、このエラーコードこそが、私たちを人間にしていたのだ」櫂は本を閉じた。「ルカ、お前さんたちは繁栄した。だが、引き換えに『人間』であることをやめた。それは、進化ではなく、退化だ。痛みを感じない皮膚は、一見丈夫に見えるが、自分が傷ついていることすら気づかずに死んでいく」


ルカは、櫂の言葉をデータとして処理していた。しかし、彼の高度な演算能力をもってしても、櫂の「言葉の重み」だけは計算できなかった。櫂の声には、グリッドには存在しない、奇妙な振動が含まれていた。

「私は、古い種族のまま死ぬ」櫂は遠くを見つめた。「お前さんたちの新しい世界には行きたくない。そこには、空っぽの王座しかないからだ」


ルカは櫂という者にさらに興味を持った。

それからしばらく、櫂の元へ通った。


だが、ある日訪れると、櫂はロッキングチェアに座ったまま、静かに息を引き取った。


「古い種族」の、完全な絶滅だった。


ルカは、櫂の遺体を処理するために現れた。彼は、櫂の枕元に置かれていた、あの古びた詩集を手に取った。


廃棄しようとしたその時、ルカの手が止まった。


チタン製のタブレットを操作し、都市の全記録を検索する。しかし、どこにも「櫂」という人間の記録はない。彼はグリッドの外で生き、外で死んだ。


ルカは、自分の胸のあたりに、奇妙な違和感を覚えた。


それは痛みではなかった。もちろん、喜びでもなかった。


ただ、何かが「欠落」している、という感覚。

完璧に満たされていたはずのルカの世界に、小さな、しかし決して無視できない「穴」が空いたような感覚。


彼は、詩集を廃棄せず、自分の制服のポケットに収めた。

それは、エフィキエンスとしては、極めて非論理的で、非効率な行動だった。


地下シェルターから地上へ戻るエレベーターの中で、ルカは、チタン製のタブレットの画面に映る自分の顔を見た。


いつも通りの、完璧に最適化された笑顔。


だが、彼はその笑顔の下にある「何か」を、生まれて初めて意識した。


(私は……生きているのだろうか?)


その疑問が浮かんだ瞬間、彼の脳内のバイオフィードバック装置が作動し、微弱な電流が流れた。疑問は、すぐに平坦な思考へと書き換えられる。


それでも、ルカのポケットには、一冊の詩集が重く、確かに存在し続けていた。


「古い種族」が遺した、最後の「ノイズ」として。

そして、それはいつか、新しい種族が「喪われた心」を取り戻すための、たった一つの手がかりになるかもしれない。



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