第84話 平気だから
(長袖を脱がない理由を、結衣はまだ知らない)
日を追うごとに、気温は確実に上がっていた。
朝の空気でさえ、どこか湿り気を帯びている。
昼になれば、肌にまとわりつくような暑さ。
初夏とは思えないほどの陽射しが、容赦なく照りつける。
そんな中で――
無洗米の機械は、予定通り搬入された。
店の奥に据えられたそれは、今までの設備とは明らかに違う存在感を放っている。
「……すげぇ」
ぽつりと呟いたのは、豊だった。
「うちに、ついに……無洗米が……」
まるで子どもみたいに、目を輝かせている。
「ほら結衣、見てみろよこれ」
機械の周りをぐるぐると回りながら、落ち着きなく声を上げる。
「これであれだぞ、研がなくていいんだぞ!?」
「う、うん、知ってるけど……」
結衣が苦笑する。
「いやでもさ、すごくないか!? これ!」
「すごいけど、落ち着いて」
「だってさぁ!」
完全にテンションが上がっている。
その様子を、少し離れたところから見ていたアイルが、くすっと笑った。
「なんか、かわいいね」
「設備導入でここまで喜ぶのも珍しいな」
キリが淡々と呟く。
「……合理的に考えれば、作業効率の改善は歓迎すべきことだが」
「いや、そういう話じゃないでしょ」
軽くツッコむアイル。
その横で。
ノクスは腕を組んだまま、機械を見ていた。
「これで作業時間は短縮される」
淡々とした声。
「その分、他に時間を回せる」
「……うん」
結衣は、小さく頷いた。
(少しずつだけど)
確実に、変わってきている。
店も。
環境も。
自分たちのやり方も。
その変化を、ほんの少しだけ実感する。
けれど――
それと同時に。
暑さもまた、確実に増していた。
逃げ場のない湿気と、強すぎる日差し。
それは、じわじわと体力を削っていく。
気づかないうちに。
少しずつ。
確実に。
「……暑い」
ぼそりと、聞こえた声。
視線を向ける。
店の入り口近く。
エレンが、軽く壁にもたれかかっていた。
「大丈夫?」
結衣が声をかける。
「うん、まぁ」
いつものように笑う。
「ちょっと、外暑すぎてさ」
軽く言う。
けれど。
その顔色は、ほんの少しだけ悪かった。
長袖の袖口を、無意識に引き寄せる。
ほんのわずかな仕草。
「……水、飲む?」
「あとででいいよ」
即答する。
「平気だから」
笑ってみせる。
その笑顔に。
(……平気じゃないよね)
結衣は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
けれど。
それ以上は、何も言わなかった。
撮影は、まだ続いていた。
稲はゆっくりと育ち、風に揺れる色も、少しずつ変わっていく。
それを追うように、結衣たちも何度か足を運んでいた。
「よし、今日はこっち回るぞ」
運転席から、豊の声が飛ぶ。
今回は、豊のバンだ。
「機材、大丈夫か?」
「問題ない」
キリが即答する。
「カメラも充電満タンだよー」
アイルがのんびりと続ける。
「結衣ちゃんは?」
「大丈夫!」
後部座席から返事。
その隣で。
「……狭くない?」
エレンが、少しだけ苦笑する。
「まぁ、米運ぶ車だからな」
豊が笑う。
「今日は人の方が多いけど」
「それ、なんかちょっと面白いね」
軽く笑いが起きる。
車は、そのまま走り出した。
窓の外に広がる景色。
青空と、どこまでも続く田んぼ。
――そして。
強すぎる日差し。
「……今日も暑そうだねぇ」
アイルが呟く。
「昨日より気温が高い。湿度も上がっている」
キリが淡々と補足する。
「それ、わざわざ言う?」
エレンが顔をしかめる。
「事実だ」
「聞くだけで暑くなるんだけど」
そんなやり取りの中で。
エレンは、窓の外に視線を逃がした。
長袖の袖口を、無意識に指でつまむ。
(……またか)
小さく、息を吐く。
車が止まる。
ドアを開けた瞬間。
熱気が、まとわりつくように押し寄せた。
「うわ……」
結衣が思わず声を漏らす。
「昨日より暑いかも」
「体感温度は確実に上がっているな」
キリが短く言う。
「これ、ほんとに初夏?」
アイルが苦笑する。
その横で。
「……ほんとそれ」
エレンが、ぽつりと呟いた。
顔にかかる熱気を振り払うように、軽く息を吐く。
「この暑さ、ちょっとおかしくない?」
「この辺、湿気がすごいからね……」
結衣が苦笑する。
「慣れるまではきついかも」
「慣れる気がしないんだけど」
さらっと言う。
けれど。
その声は、ほんの少しだけ力が抜けていた。
「よし、行くか」
豊が軽く手を叩く。
全員が動き出す。
田んぼの中。
照り返しの強い地面。
逃げ場のない日差し。
撮影は、いつも通り進んでいく。
「結衣、そこもう少し右」
「うん、こんな感じ?」
「いいね、そのまま」
「角度、少し下げた方がいいかも」
アイルがさらっと調整する。
「……確かに」
キリが頷く。
ノクスは、少し離れた位置から全体を見ていた。
その少し後ろで。
エレンが、ふっと足を止める。
一瞬。
それでも、すぐに歩き出す。
(……ちょっとまずいな)
視界が揺れる。
地面との距離感が、曖昧になる。
「エレン?」
結衣が振り返る。
「大丈夫?」
少しだけ、不安そうな声。
「ん?」
顔を上げる。
いつもの笑顔。
「大丈夫大丈夫」
軽く手を振る。
「ちょっと暑いだけ」
「でも――」
言いかけて、止まる。
エレンが、先に一歩踏み出したから。
――ぐらり、と。
「……っ」
わずかに、体が揺れる。
その瞬間。
「おい」
横から手が伸びた。
しっかりと肩を支えられる。
豊だった。
「ふらついてるだろ」
「ああ……」
反射的に笑う。
「ちょっと足取られただけ」
「嘘つけ」
即座に返す。
「顔、真っ赤だぞ」
ぐっと覗き込む。
逃がさない距離。
「水飲むか? 車戻るか?」
言葉に迷いがない。
純粋な心配。
「いや、平気だって」
軽くいなす。
「このくらいで倒れてたら、やってられないし」
「無理すんなって言ってんだよ」
ぽん、と肩を叩く。
その手の温度が、妙にリアルで。
一瞬だけ、エレンの表情が固まった。
(……なんだよ)
押しつけてこない。
でも、引かない。
踏み込むくせに、見返りを求めない。
(……こういうやつ)
ほんのわずかに、目を細める。
(本当に、厄介なんだよな)
視線を逸らす。
「ほら、あと少しで終わるからな」
豊が軽く笑う。
「終わったら冷たいもんでも買って帰るか」
その言葉に。
結衣が、ほっとしたように息をついた。
「……ほんとに大丈夫?」
もう一度だけ、聞く。
さっきよりも、少しだけ近い距離で。
「……大丈夫」
答える。
少しだけ、視線を外したまま。
「平気だから」
それ以上は、何も言わせないような言い方だった。
結衣は、ほんの一瞬だけ迷って。
「……そっか」
小さく頷いた。




