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第52話 制約の中で勝て

 (上限は越えられない。——ならば、その中で勝てばいい)


 改装作業の合間、まだ完全には整っていない厨房に、簡易的な調理スペースだけが用意されていた。


 その一角に、見慣れない機材が置かれている。


 大きな、ずっしりとした金属の釜。


 結衣は思わず足を止めた。


「店長、これどうしたんですか?」


 店長は少しだけ照れたように頭をかく。


「米の話があってからな。乃久栖さんと相談して決めたんだ。もう電気釜も古かったし、どうせ買い替えるなら……ってな」


 釜を軽く叩く。


「昔使ってたようなガス釜に戻してみようかって」


 結衣は目を見開いた。


「ガス釜……」


 懐かしい響きだった。


 子供の頃、父が使っていた記憶がある。

 火加減で味が変わる。

 炊き上がりの香りが違う。


 無意識に、指先が釜の縁をなぞっていた。


 ひんやりとした金属の感触が、記憶の中の匂いと重なる。


「……難しくないですか?」


 思わずそう言っていた。


「まぁな」


 店長は苦笑する。


「でも、やる価値はあるだろ?」


 その横で、腕を組んでいた乃久栖が静かに口を開く。


「兵糧の質を上げるなら、熱源は重要だ。電気釜は安定はするが、上限が低い」


 淡々とした声。


「火力と立ち上がり。蒸らしの余熱。すべてが違う」


「そこまで言われたら、やってみたくなるだろ?」


 店長が笑う。


 結衣は少しだけ笑った。




「で、今日は試作な」


 店長が手を叩く。


「いきなりガス釜は難しいから、まずは持ち込みの炊飯ジャーで味を見る」


 厨房の端には、家庭用の炊飯器がいくつか並べられていた。

 そこに、稲宮米店の米が用意されている。


「本格的にやるならガス釜。でも、まずは米そのものの違いを見る。それが分かれば、やる意味も見えるからな」


 結衣はゆっくり頷いた。


「……分かりました」


 炊き上がるまでの時間、厨房の外ではパートたちがざわざわと様子を見ていた。


「ほんとに違うのかしらねぇ」

「おにぎりなんてどれも一緒じゃない?」


 そんな声も混じる。


 その中に、リコの姿もあった。


「楽しみです!」


 屈託なく笑っている。


 やがて、炊飯器が音を立てた。


 誰も喋らなかった。


 炊飯器の蓋が、ゆっくりと開く。


 ふわり、と湯気が立ち上る。


 同時に、空気が変わった。


「……え」


 誰かが思わず声を漏らした。


 米の香り。


 甘くて、柔らかくて、どこか懐かしい匂いが、厨房いっぱいに広がっていく。


 しゃもじを入れる。


 粒は立っている。つやもある。


 悪くない。


 むしろ、普通に美味しい出来だ。


 結衣は、ほんの少しだけ眉を寄せた。


 でも。


 噛んだ時のほどけ方。

 甘みの立ち上がり。


 どれも悪くないのに、どこか届いていない。


 前は、もっと――


 言葉にはならない違和感が、胸の奥に残った。




「はい、どうぞ」


 おにぎりが配られていく。


 一人が口に運ぶ。

 止まる。

 もう一口。

 ゆっくり噛む。


「……美味しいんだけど」

「普通に、かなり美味しいよこれ」

「え、これ塩むすびでしょ?」

「なんでこんな味するの?」


 ざわざわと声が広がる。


 リコもひと口食べて、目を丸くした。


「え、すご……お米ってこんなに甘いんだ」


 その反応を聞きながら、結衣は少しだけ視線を落とした。


 美味しい。


 それは分かる。


 でも――これじゃない。


 ほんの少しだけ、届いていない。


「いやー、十分じゃないか?」


 店長が満足そうに笑う。


「正直、ここまで違うとは思ってなかったよ」


 おにぎりをもう一口かじる。


「最近の米、正直ちょっと値段ばっかり上がってな。味はそこまで変わらないだろって思ってたけど……これは違うな」


 軽い調子の言い方だった。


 困ってはいる。

 けれど、どこか「仕方ないもの」として受け止めている声だった。


 結衣は小さく頷いた。


「……そうですね」


 でも、心の中で言葉が続く。


 今の米、やっぱり少し違う。


 一昨年の不作。

 去年の偏り。


 例年と違い、今ある米も使える種類も限られている。


 仕方ない。

 分かっている。


 それでも、分かってしまう。


 もっといけるはずなのに、と。




「……不満か」


 乃久栖の声が、静かに落ちた。


 結衣は少しだけ顔を上げる。


「え?」


「周囲の評価とは、反応が違う」


 まっすぐな視線だった。


 結衣は少しだけ迷ってから、笑った。


「……美味しいよ?」


 一拍置く。


「でも、ちょっと、届いてない感じがして」


 乃久栖は一瞬だけ考え、視線を米に落とした。


「原料の問題だな」


「え?」


「今流通している米は、質が安定していない。不作と流通の偏り。良質なものは先に確保される」


 淡々とした声。


「どれだけ技術を使っても、素材の上限は越えられん」


 結衣は、ゆっくりと息を吐いた。


「……やっぱり、そうだよね」


 納得と、少しの悔しさ。


 その二つが混ざったまま、どちらにも整理できない。


 その空気の中で、キリが静かに口を開いた。


「だからこそ、だ」


 視線は、おにぎりへ向いたまま。


「この条件でこの味が出るなら、十分戦える。むしろ、伸びしろがある」


 乃久栖が結衣を見る。


 ほんのわずかに、目を細めて。


「制約があるほど、設計の価値は上がる」


 短く言い切ってから、わずかに口角を上げた。


「条件は揃ったな」


「え?」


「素材は不完全。環境も不十分――だが、それでいい」


 静かに言い切る。


「その制約の中で勝てば、それは“再現できない強さ”になる」


 赤い瞳が、ゆっくりと細まった。


「ここからが本番だ」


 結衣は何も言わなかった。


 ただ、さっきまで胸にあった「届いていない」という感覚が、すっと形を変えていくのを感じていた。


 届いていないのではなく――


 まだ、たどり着いていないだけだ。


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