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第38話 確定申告が終わりかけたので、お出かけします

 (魔王に確定申告を任せたら、休日が戻ってきた)


 その日の夜、家の中の空気はいつもより柔らかかった。


 大きな問題が一つ、ようやく終わりを見せたからかもしれない。


 結衣は自室の机に頬杖をつき、ぼんやりと天井を見上げていた。


 終わったんだ。


 正確には、まだ完全に終わったわけではない。

 申告書の提出も、税金の支払いもこれからだ。


 それでも——

「これなら間に合います」という言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


 胸の奥にずっと居座っていた重たい石が、ようやくどけられたような感覚だった。


 机の上には、整理された書類の控え。

 以前のような、見ただけで目を背けたくなる混沌はない。


 本当に、ノクスすごすぎる。


 ペンを走らせる横顔。

 迷いのない手。

 淡々とした声。


「正しい形に整えればいい」


 ——まるで世界の仕組みを当然のように理解しているかのようだった。


 思い出すと、少しだけ笑ってしまう。


 魔王って、税務もできるんだ。


 肩の力が抜ける。


 今までどれだけ無意識に力を入れていたのか、初めて分かった気がした。


 ベッドに倒れ込む。

 枕に顔を埋めると、かすかに洗剤の匂いがした。


 久しぶりに、ちゃんと眠れそう。


 まぶたが自然と重くなって、考え事をしなくてもいい夜はこんなにも静かだったのかと思いながら、結衣は深い眠りに落ちた。


 ⸻


 目が覚めた瞬間、まず感じたのは軽さだった。


 胸が苦しくない。

 呼吸が浅くない。


 天井を見つめたまま、しばらくぼんやりする。


 今日、休みだ。


 ゆっくりと思い出した。


 何も追われていない朝。

 起きなければならない理由も、急がなければならない用事もない。


 それだけで、世界が少し優しく見えた。


 のんびりと体を起こし、カーテンを開ける。


 春の光が、部屋いっぱいに流れ込んだ。


 思わず目を細める。

 いい天気だった。


 そのとき、控えめなノックの音。


「結衣ちゃん、起きてる?」


 聞き慣れた柔らかい声だった。


「アイル?」


 扉がそっと開き、金髪の青年が顔を覗かせる。


「入っていい?」


「うん、どうぞ」


 部屋の中に入ったアイルは、結衣の顔を見てほっとしたように微笑んだ。


「なんだか、顔が明るくなったね」


「……そう?」


「うん。昨日までと全然違う」


 言われてみて、気づく。


 確かに、胸の奥の重苦しさがない。


「……終わりそうなの。確定申告」


 アイルの顔がぱっと輝いた。


「本当!?」


「うん。税理士さんが間に合うって」


「やったね!」


 心から嬉しそうな声だった。


 その様子に、結衣の胸がじんわりと温かくなる。


「……心配かけちゃったね」


「ううん。だって結衣ちゃん、すごく頑張ってたもん」


 迷いのない言葉だった。


「僕たち、何もできなかったけど」


 少しだけ声が小さくなる。


「でも、ずっと応援してたよ」


 結衣は思わず笑った。


「それで十分だよ」


 アイルは少し首を傾げてから、ぱっと顔を上げた。


「じゃあ、ご褒美に一緒に出かけよう?」


「お出かけ?」


「うん。僕、絵を描きたいんだ」


 にこっと笑う。


「画材がほしくて。今あるの、もうほとんど使っちゃって」


 そういえば、最近ずっと描いていた。

 紙の上に、この世界で見たものを次々と残していた。


「郊外のショッピングモールなら、多分あるよ」


「ほんと!?」


 目が輝く。


「うん、画材屋さん入ってたはず」


「やった!」


 ぱっと手が伸びてきた。


 温かくて、迷いのない手。


 気づいたときにはもう、扉の方へ引っ張られていた。

 

「早く準備しなきゃ!」


「ちょ、ちょっと待って!」


 慌てて立ち上がる。


 さっきまでの静かな朝が、一気に賑やかになった。


 久しぶりに、ただの休日みたいだ。


 そんなことを思いながら、結衣は急いで部屋を出た。


祝10万字突破のお話は日常です

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