第24話 限界の日に抱きしめられた理由
(私、頑張ってるのに——言葉にできなかったその本音を、魔王だけが拾った)
スーパーのバックヤードに、乾いた声が響いた。
「稲宮さん、さっきの対応、なんでああなるの?」
あぁ、ついてないな。
今日はすこぶる機嫌が悪いらしい。
遠巻きで見ていた他の人たちは、巻き込まれないように視線を外して、聞こえないふりをしている。
振り返る余裕もない。分かっている。
あの声だ。このスーパーで一番古株のパートさん。
「……すみません」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
「すみませんじゃなくてさぁ。入ってすぐの新人じゃないんだから、それぐらい分かるでしょ!?」
いつも、指示は曖昧だし、コロコロ変わる。
接客業だから仕方ないとしても、説教するたびに時間ばかり取られる。
三十分、一時間。
ずっと同じようなことを延々と言われ続けて、結局何を注意されているのか分からなくなる。
怒鳴るだけ怒鳴って、具体的な解決策は提示されないまま、仕事は遅くなるばかり。
言い返そうと思えば、言い返せる。
いつもなら、笑って流すことだってできる。
でも、今日は無理だった。
頭が重い。体がだるい。
胸の奥が、ずっと沈んだまま浮かび上がらない。
「聞いているの!? 分かったなら、早くしなさいよ!!」
「……はい」
足が前に出る。
でも、地面が少し遠い。
(……なんか、変)
視界の端が、白く滲む。
売り場に出ると、光が強すぎた。
音が大きすぎた。人の声が、全部一度に押し寄せてくる。
「結衣さーん、レジお願い!」
「……は、い」
体が勝手に動く。
いつもの笑顔を作る。
でも。
(私、ちゃんと笑えてる?)
頬の筋肉が、どこか遠い場所にある気がした。
昼過ぎ。
「ごめん結衣ちゃん、今日人足りないから午後もお願いできる?」
人の良さそうな顔のオーナーは、本当に良い人だと思う。
ただ、現場をまとめるのが苦手なだけ。
父が亡くなった時、親身になって相談に乗ってくれたのもこの人だし、米屋を続けていくのに不安を感じる結衣に、じゃあうちで午前中だけ働く、と誘ってくれたのも、心から心配してくれているからだと分かっていた。
けれど。
感謝するのと同時に、胸の奥に小さな棘が刺さったまま、じくじくと傷口を広げているように感じる。
次こそは、断れると思ってた。
午前だけの約束だったし。
でも。
「……大丈夫です」
言ってしまった。
自分の口から出た言葉なのに、他人が喋っているみたいだった。
(……なんで)
断る気力すら、なかった。
レジの前に立ちながら、ぼんやり思う。
(私だって……頑張ってるのに)
喉の奥が、きゅっと締まる。
(もっと、頑張らないといけないの?)
泣きたいわけじゃない。
ただ、何かが重い。ずっと。
どこかで誰かが笑っている。
カートの車輪が床を鳴らしている。
レジの電子音が、いつもより少しだけ遠く聞こえた。
夕方。
スーパーを出た瞬間、空気が冷たかった。
商店街の灯りが、ぼやける。
足が、思ったより重い。
(……帰らなきゃ)
その時。
前方に、黒い影。
見慣れた長身。
(……え)
ゆっくり近づいてくる。
ノクス?
ぼんやりした頭で見上げる。
ノクスの顔は、はっきり見えない。
でも。
怒っている。そう感じた。
(ちょっと……やめてよ)
(今、元気ないんだから)
視線を落とす。
その瞬間。
強い手が、肩を掴んだ。
体がぐらりと揺れる前に、支えられる。
何も言わない。
ただ、支えるように隣に立つ。そのまま歩き出す。
(……抱き上げて運びたい)
(だが、こいつはそれを嫌がる)
(人目を気にする)
(余計な負担になる)
「ノクス……?」
低い声が落ちる。
「呼吸が浅い。足取りも不安定だ」
一拍。
「馬鹿者」
短い声。
結衣の体がぴくりと硬直する。
けれど、ノクスの手は離れない。
「体調が悪いなら、何故言わない」
(……なんで分かったの)
声にならない。
ただ、その手の温度だけが、今は妙に頼もしかった。
家に着くなり、扉が開く。
靴を揃える間もなく、そのまま部屋へ押し込まれた。
「夕飯の支度……」
「お前は大人しくしていろ」
完全に命令口調。
逆らう余地も与えない。
着替えて横になると、外から足音が聞こえた。
ドタドタドタ。
「結衣ちゃんどうかしたのー?」
「騒ぐな。結衣の体調に障る」
「何っ、結衣は具合が悪いのか!?」
「……大丈夫なのか?」
「豊、お前が一番大人しくしていろ」
「俺かよ!?」
廊下の騒ぎが、遠くで聞こえる気がした。
思わず、口元が緩む。
静かに開いた扉。
ノクスが入ってくる。
手には、湯気を立てる器。
「消化に良い食事はこれだと、ぐーぐるが言っていた」
(ぐーぐる)
結衣は思わず吹き出しそうになる。
「……ノクスが作ったの?」
胸を張る。
「私に不可能はない」
少しだけ笑う。
「……ふふ」
差し出された器を両手で持ち、ゆっくりと口に運ぶ。
温かい。
優しい味が、弱った体に染み込んでいく。
だしの香りが、鼻の奥をそっと通り過ぎた。
食べ終えるまで、ノクスは何も言わず、ただじっと見守っていた。
空になった器を確認すると、満足そうに小さく頷く。
そして、結衣の額にそっと手を当てた。
「熱があるな」
ひんやりとした手の感触が心地よくて、結衣は思わず目を閉じる。
そのまま、離れない手の温度を静かに味わった。
「おそらく、疲れが出たのだろう。最近、色々騒がしかったからな」
差し出された薬を受け取り、水で流し込む。
一息ついたところで、ノクスは低く言った。
「その体で無理をして、さらに仕事を引き受けたのだ。あの店には文句を言わなければ気が済まん」
「しょうがなかったの……人、いなかったし」
「仕方ないでは済まないのだ、結衣。お前は断るべきだった」
その言葉が、責められているように聞こえてしまった。
違う。そうじゃないと、頭では分かっている。
でも。
視線を落とす。
肩が、小さく震える。
「うん……ごめん」
それでも、涙がこぼれた。
ぽたり、と布団に落ちる。
「ごめん……違うの」
何度も「ごめん」を繰り返してしまう。
止められない。
ノクスは明らかに戸惑った様子で、少しの間だけ動かなかった。
それから、ゆっくりと結衣の頭に手を置く。
ぎこちなく、撫でる。
「お前は本当によく頑張っている。だが、無理はするな。皆、結衣が心配なのだ」
「……うん……」
言葉にならない声。
涙が止まらない。
ノクスは一瞬だけ迷うように視線を揺らし、やがて意を決したように結衣の体を引き寄せた。
大きくて、優しくて、温かいものに包まれる。
背中をあやすように叩く手は、魔王とは思えないほど柔らかかった。
「テレビで見た。抱きしめるという行為は、“おきしとしん”なるものを分泌させ、幸福感をもたらすそうだ」
少しだけ間が空く。
「今の結衣に必要なことだ」
小さく、付け足す。
「……魔族の私で効果があるかは分からんが」
思わず、結衣の口元が緩む。
「……ふふ」
「私は、頑張っている結衣を好ましく思っている。だが、体を壊しては元も子もないだろう」
だから、と静かに言う。
「今は眠れ」
あやすように背中を撫でる手の体温が、ゆっくりと体に染み込んでいく。
重かった体が、少しずつ軽くなる。
張り詰めていたものが、ほどけていく。
ノクスの腕の中は、思ったより広くて、思ったより温かかった。
それだけのことなのに。
今日一日ずっと重かった何かが、するりと溶けていく気がした。
結衣は、静かに目を閉じた。
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