第22話 魔王、知らない感情に触れる
(それは、まだ“嫉妬”とは呼べない)
少しだけ重くなった空気を打ち破ったのは、豊の大きないびきだった。
「……グォッ‼」
「……お兄ちゃん、もう……」
ソファから落ちそうになっている体を押し戻しても、少しも起きる気配はない。
小さくため息をついた結衣は、ノクスの方を向いて言った。
「後で、ちゃんと説明してもらうからね!」
夕食も終わり、家の中はそれぞれがくつろぐ時間になっていた。
ただ一人、キリだけがげっそりとしている。
「……大丈夫?」
床に座り込んだままのキリは、しばらく答えなかった。
濡れた髪から、水滴がぽたぽたと落ちている。
「……問題ない」
声は低いが、明らかに疲れていた。
ソファではアイルが爆睡している。
豊の豪快な洗い方に大はしゃぎした反動だろう。
結衣が新しいタオルを持って戻ってきたとき、テレビから賑やかな声が流れていた。
『そっくり双子ちゃん、大集合〜!』
画面には、同じ顔の子どもたちが笑い合っている。
キリはしばらく無言でそれを見ていた。
やがて、ぽつり。
「……なぁ」
「うん?」
返事をした瞬間、結衣は違和感に気づいた。
キリの声が、少し低い。
そして——かすかに、震えていた。
キリは視線をテレビから外さないまま、ゆっくり言った。
「この世界で……双子は、よくいるものなのか」
「え?」
思わず聞き返す。
「うん、いるよ? 珍しくはないかな。学校とかにも普通にいたし……どうしたの?」
キリは答えない。
ただ一瞬だけ、眠るアイルへ視線を向けて——またテレビへ戻す。
「……そう、なのか」
それだけだった。
けれど、その短い言葉が妙に重く聞こえた。
『二人がいてくれて、本当に幸せです』
テレビの母親が笑う。
キリの指先が、わずかに握られる。
結衣は黙って隣に座り、タオルをふわりと頭にかけた。
「このままじゃ、風邪ひいちゃう」
キリの肩が一瞬だけ強張ったが、振り払わない。
結衣はそっと手を動かし、痛くないように水気を拭き取る。
「……自分でできる」
「ふふ。いいじゃない。人にやってもらった方が、気持ちいいでしょ」
しばらく、タオルの擦れる音だけが続く。
結衣はふと思い出したように聞いた。
「アイルとキリって、どっちがお兄ちゃんなの?」
「……アイルだ」
「そっか。じゃあキリと私は同じだね」
「……同じ?」
「弟と妹ってこと。自由奔放な兄を持つと、下は苦労するって話」
「別に……苦労ってわけじゃ……」
結衣は笑った。
「うん、知ってる。なんだかんだ言って、私もお兄ちゃん好きだしね」
タオルを動かしながらそう言うと、尖った耳がじわりと赤くなっていくのが見えた。
沈黙のあと、キリがぽつりと口を開いた。
「……エルフの双子は、厄災なんだ」
結衣の手が止まる。
止めたことに、自分でも気づかなかった。
「そうなの?」
「昔、色々あったらしい。……俺たちには関係ない」
「うん」
結衣は何も聞き返さなかった。
ただ、またそっとタオルを動かし始める。
続きを待つでもなく、急かすでもなく、ただそこにいた。
「エルフは世界樹の管理と魔術を極めることに人生を捧げる」
キリはテレビを見たまま話す。
「……魔術は好きだ。だが俺は、アイルの絵の方がずっと好きだった」
「うん」
「里じゃ、ずっと異物だった。このままじゃダメだと思った。……ここにいたら、アイルの絵は死ぬ」
小さな声だった。
結衣は手を止めずに聞いていた。
「だから、手を引いて里を出た。最初は金が尽きた。人間の国じゃ、エルフってだけで変な目で見られた。正体を隠して……どうすれば絵を買ってもらえるか、ずっと考えた」
握りしめる指先。
「けど最近は……稼ぐために描かせてるだけみたいになってた」
結衣は、ゆっくり頷いた。
「……でも、今日。外でさ」
キリの声が、少しだけ変わる。
「耳を隠してたら、ただの子ども扱いだった。“仲いい兄弟で可愛いね”って……言われた」
声が、わずかに揺れた。
「俺たちは、厄災じゃないって……この世界は普通に言ってくる」
結衣はタオルを外した。
それからキリの背中に、そっと腕を回した。
「私、アイルの絵、すごく好きだよ。見てるこっちまで、幸せになる」
キリが息を止める。
結衣は小さく笑って続けた。
「……キリ、ずっと守ってきたんだね」
ぎゅ、と抱き寄せる。
キリは一瞬だけ腕に力を入れたが、すぐに力を抜いた。
「……抱きつくな! 俺は子供じゃない!」
「うんうん、そうだね」
「……っ‼///」
耳まで真っ赤になっていく。
廊下の影から、ノクスはその光景を見ていた。
結衣がキリを抱きしめている。
頭を撫でている。
優しい声をかけている。
キリは抵抗している。だが本気ではない。逃げていない。耳が赤い。
ノクスは腕を組んだまま、静かに状況を整理しようとした。
拒絶ではない。
親愛の表現だ。
子供に対する保護行動として、合理的だ。
問題はない。
——なのに。
胸の奥に、妙な違和感が残る。
痛いわけではない。
不快でもない。
名前のつけようのない、ただの落ち着かなさだった。
そのとき。
結衣がキリの頭をもう一度くしゃっと撫でた。
ノクスの眉が、わずかに動く。
そして結衣が、ぎゅっと抱き寄せる。
内側で何かが、ひびを入れた。
音もなく、静かに。
ノクスは視線を外した。
理由を考えようとして、やめた。
考えれば何かが出てきそうで、それが何なのかを知りたくなかった。
背を向けて、歩き出す。
(風呂に入る)
何の解決にもならないと分かっている。
それでもそう判断した。
去り際、ふと足が止まった。
振り返る気はなかった。
振り返るべき理由もない。
——気づいたら、振り返っていた。
結衣は笑っている。
キリは耳まで赤い。
その温かさの中に、自分がいる場面を——
ほんの一瞬だけ、想像してしまった。
即座に、思考を切る。
意味がない。
意味がない。
意味が——。
ノクスは早足でその場を去った。
数秒後、浴室からいつもより強めの水音が響いた。
無自覚な人が一名モヤモヤしています
今まで当たり前にそこにいる自分以外の人が割り込んでくると、モヤってしちゃうけど理屈で考えるノクスは答えをまだ出せません笑




