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第21話 魔王、言葉に敗れる

 (この世界は、言葉だけで人を挫折させる)


 玄関の扉を、結衣はいつもより強く閉めた。


 バタン、と乾いた音が廊下に響く。靴も揃えないまま上がり込み、足音がやけに大きい。


 昼間の光景が、何度も頭をよぎる。帽子をかぶった双子、普通に買い物する兄、そして平然と現れた魔王。


(なんで来てるの!? しかも職場!! 心臓止まるかと思ったんだけど!?)


 リビングの扉を勢いよく開けた。


「ちょっと!! 昼間のあれは一体なんだったの——」


 言葉が、途中で止まる。


 まず目に入ったのは、ソファだった。


 豊が、完全に沈んでいた。


 作業着のまま、口を半開きにして、腕をだらりと垂らし、魂が抜けたように眠っている。微動だにしない。呼吸音だけが規則正しく響いていた。


「……寝てる」


 しかもただの昼寝ではない。米袋を担ぎ続けた男特有の、地面と同化するタイプの爆睡だ。


(この人だけ平和すぎるんだけど!?)


 だが、本当に異常なのはその奥だった。


 テーブルの上が、紙で埋まっている。


 結衣はゆっくりと近づいた。


 スーパーのチラシ、手書きの数字、地図のようなもの、意味のわからない記号、細かいスケッチ。ノートは開かれたまま、辞書は何冊かが重なり合い、紙は床にまで広がっていた。


 どこから手をつけたのか、いつからこうなったのか、まったく見当もつかない。


「……なにこれ」


 その中央に、三つの影があった。


 ノクスはテーブルの上に小さな姿で座り込み、顎に手を当てたまま動かない。完全に戦略会議の顔だ。


 キリは分厚い本とノートを睨みつけ、鉛筆を握ったまま固まっている。


 アイルは床に腹ばいになって、色付きのペンで何枚もの紙に何かを描き散らしていた。


 誰も、結衣に気づかない。


「……ちょっと」


 反応なし。


「ちょっと!!」


 アイルが顔を上げた。


「おかえり、結衣ちゃん」


 完全に普通だった。


 キリもちらりと視線を寄越す。


 ノクスだけがゆっくりと顔を上げ、何事もなかったかのように言った。


「ちょうどいい。帰ってきたか」


(ちょうどよくない!!!!)


「ちょうどよくない!!」


 結衣は机に両手をついた。


「昼間のあれ、どういうこと!? なんでお兄ちゃんまで巻き込んで——」


 その瞬間。


「——うわぁぁぁあああああ!!!」


 部屋に絶叫が響いた。


 結衣が跳ねる。


 叫んだのは、キリだった。


 机に突っ伏し、髪をかきむしっている。ノートはぐしゃぐしゃ、紙は折れ、鉛筆は転がり、さっきまで端正に並んでいた資料の山が完全に崩壊していた。


 知性が音を立てて溶けたような跡だった。


「な、なに!? 何事!?」


 キリが顔を上げる。


 目が据わっていた。


「なんだ、この文字は!!」


「……文字?」


「ひらがなとカタカナだけではダメなのか!?」


 机を叩く。その手が微かに震えていた。


「なぜ同じ意味を三種類の表記で書ける!! なぜ使い分ける!! なぜ混在させる!!」


「え、えっと……」


 キリはノートを突きつけた。


「これだ!!」


 そこには震える字で書かれていた。


 きょうはスーパーにいった。

 今日ハすーぱーに行ッた。


「どっちだ!!」


「……どっちも合ってる」


「意味があるのか!?」


「ある……かな……」


 キリは頭を抱えた。


 眉間に深い皺が寄り、耳が微かに伏せられている。


「漢字の意味は理解できる!! 理屈としては優れている!! だが!!」


 紙を叩きつける。


「なぜ読みが一つではない!! 同じ文字が状況によって音を変えるとは何事だ!! 非効率的だ!!」


「……」


「一日でこれを習得しろというのか!! 何年かかる!! 何十年だ!! 俺の余命は足りるのか!!」


「ちょっと落ち着いて、そこまでじゃないから——」


「落ち着けるか!!」


 アイルが床からのんびり言う。


「僕は形が綺麗だから好きだよ〜」


「美しさの問題ではない!!」


 キリが机に突っ伏す。


 しばらく、荒い呼吸だけが続いた。


「この世界は……情報を詰め込みすぎだ……」


 ノクスが低く呟く。


「……分析をまとめさせるのは、まだ早かったか」


 その声に、反省の色がうっすら滲んでいた。


 あまりの形相に、結衣は怒りが急速に萎んでいくのを感じた。


 考えてみれば、ノクスが異常なほど優秀すぎるだけで、これは普通に考えれば当然の反応なのかもしれない。


 昨日今日でこの世界に来た子が、日本語を一日で習得しようとしていること自体、むしろ——。


「えっと……何やってるかは分からないけど、私も手伝おうか?」


 キッと睨み返してきたキリの瞳が、よく見ると潤んでいた。


 癇癪を起こした子供のようで、少し可愛い。


「まだだ! 俺はまだやれる!!」


「そ、そう……」


 負けず嫌いなのか意地なのか、キリは鉛筆を握り直した。


 その横で、アイルは鼻歌を歌っている。


 結衣は床に散らばった紙を一枚拾い上げ、息を呑んだ。


 精密なスケッチだった。


 食べ物、建物、商品のPOP。


 そして——豊が笑っている顔、レジで接客する結衣。


 線一本一本が迷いなく、なのに柔らかい。


 写真のような正確さではなく、その瞬間の空気ごと閉じ込めたような絵だった。


「アイル、絵がすごく上手いんだね」


「えへへ……ありがとう、結衣ちゃん」


 アイルは照れたように頬を掻く。


「キリがずっと守ってくれたから描けたんだよ」


 キリが即座に顔を上げた。


 さっきまでの絶望が嘘のように、その声が張った。


「アイルの絵が上手いのは当たり前だ! エルフの中でも、アイルにしかない才能なんだからな!」


「人間の貴族にだって人気があったんだぞ」


 続ける声は、誇らしさで少し上ずっていた。


「……アイルの絵は本物だ」


 一拍置いて、小さく付け加えた。


「誰にも否定されない」


 その言葉は、結衣の胸のどこかに静かに刺さった。


 誇りとも庇護とも違う、もっと切実な何かが混ざっていた。


 守ってきたのではなく、守らなければならなかった——そんな過去の匂いがした。


 ノクスが思い出したように言う。


「……里から飛び出した変わり者のエルフがいると聞いたことがある。お前たちのことか」


 キリは淡々と返した。


「別に。他のエルフにはアイルの才能の素晴らしさが分からなかっただけだ」


 その瞳の奥に、影があった。


 結衣は何も聞かなかった。


 ただ、手の中のスケッチをもう一度見た。


 レジの自分が、こんな顔で笑っていたのかと、少し驚きながら。


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