その後を少々
今日もボクはここにいる。
月日が流れ、また暑い夏がやってきた。
元気な声が聞こえ、引き付けられるように視線が向かう。
たくさんの人に囲まれた中心には予想台があり、その上でひとりの男がうれしそうに声を張り上げている。
「この予想の3本目にダンシングシスターという馬を特別に入れました。この真っ白な馬は正直いって、力は足りません。でも、どうしても応援したくて入れさせてもらいました。この馬のお兄さんは――」
ボクは、うれしそうに馬について語るその男が気になり、気持ちを集中させると、その男の心を覗きこんだ。そしたら見えてきた。男の心の中が。
都心から電車を乗り継いで1時間半。さらにバスに揺られること30分。
バス亭から緩やかな坂道を上っていくとすぐに、
「おう、あれか」
目的の場所を示す看板が目に映った。
健太は入口の自販機でチケットを買い、ゲートに立つ女性に渡して中へと入っていく。
ネットで調べたところによると、けっこう人気の施設らしいが、今日は平日だからか、人の姿はまばらだ。
健太の慣れ親しんだ匂いが鼻に流れこんでくる。同じような匂いでも、やはり緑に囲まれた場所のほうが断然合っている。
身近な動物と触れ合える動物園というだけあって、犬や猫、ウサギ、その他の小動物はもちろん、屋内施設には爬虫類もいるようだ。
他にも牛やヤギもいる。そして――
健太が近づいていくと、柵を飛び越えそうな勢いでやってくる姿がある。
首を伸ばしてきたと思ったら、心地いい痛みが肩にあった。
「こらっ!」
食事の干し草を準備をしていた飼育員があわてて駆け寄ってきた。
馬を離そうと間に入ってきたが、そんなのお構いなしに、歯をむき出しにして飼育員を嚙み、健太にも噛みつてくる。
健太は自然と笑顔になり、溢れだしそうな涙をこらえていた。
「すいません」
飼育員は馬をおさえながら、白髪の頭を下げてきた。
顔を上げて健太の顔を見ると、「君か」
馬は噛むことに満足したのか、その場を離れ、エサを食べ始めた。
2人は柵の前にあるベンチに腰を下ろしていた。
「びっくりしたよ。ここに来てからはお客を噛むなんて、なかったのに。君なら納得だ」
そう言って彼は楽しそうに笑った。
厩務員を辞めた後も、元気そうなで、楽しそうな貫太郎の姿にほっとするとともに、うれしさがこみ上げてくる。
「そういえば。しょっちゅう顔は合わせていたけど、話すのは初めてだな」
「そうですねぇ。レース前に予想屋と厩務員が話したりしたら不正行為の疑いで問題になっちゃいますからね」
そう言って健太が微笑むと貫太郎も微笑んでいた。
「まぁ、あいつはそんなの関係なく君に歯をむきだしにして、なんか話してるみたいだったけどな」
貫太郎が視線を動かした。健太も同じところに視線を送った。
真っ白な馬体の馬が夢中で食事をしている。愛おしいマサルがそこに生きている。
「あいつは、昔から何故だか君がお気に入りだったよなぁ。今でも変わんないんだなぁ」
貫太郎の頭の中には、パドックで健太に噛みつきにいこうとしているマサルの姿が浮かんでいた。
知らない人が見たらマサルが嫌がって噛もうとしているように見えるかもしれない。でも、ちゃんと見ていればわかる。マサルの真っ黒な目が無邪気な子供のように輝いていたことを。
貫太郎は勿論わかっているし、健太もわかっている。だから、さっきのマサルの姿を思い出すだけで、今にも涙がこぼれそうになってしまう。
健太は鼻をすするようにして涙をこらえ、話題を変えた。
「本当によかったですねぇ。ここに来れて」
「そうなんだよ。マサルにも引退後は悲しい話しがきていたらしい。でも、俺にはよくわからんけど、パソコンに映像が映って、ここの社員が見て社長にお願いしてくれたらしいんだ」
「そうですか」
健太もそれを見ていた。
大手動画サイトに投稿されたマサルの姿が流れていた。誰かがパドックの様子からはじまり、馬場を後にする姿までしっかりと撮影していた。
動画には撮影者らしき人の声が入り、自分なりの解説が織り交ぜられていた。はじめはパドックでのマサルと貫太郎の姿を静かな口調で語り、ダンスを踊るように舞っているマサルのことは声を張り上げながら語っていた。そして、馬場を去っていくところでは鼻をすすりながら語っていた。
その動画の最後は『さよならヒーロー』という言葉で締めくくられていた。
「社長もそれを見たらしく、『定年になったらあなたも来てください』って誘ってくれて、俺までお世話になっちゃてるよ」
照れ笑いを浮かべながらいう貫太郎に、健太の口からは、「よっかたですねぇ」という言葉が流れでていた。
「小さな動物園だし、競馬場や牧場のように広いところを駆けまわるわけにはいかないけど、ほら、ここは海が近いんだよ。だから、朝早く海岸に連れていくと、砂の感触が嬉しいのか駆けまわっているよ」
「そうなんだ。よかったなぁマサル」
健太はマサルへと視線を向けた。現役と変わらぬ引き締まった体は夏の日差しを浴びて、光り輝いている。
「けっこう人気者なんだよマサル。パソコンのやつがよかったのか、その動画っていうのか。それを見たっていう人が来るんだよ。俺は見てないから、よくわからないけどマサルが暴れてた姿がダンスをしてるってことになってる見たいで、踊らないマサルを見ると残念がられるんだよ。でも、何故だか俺が噛まれているとみんな喜んでるんだよ」
不思議そうな顔で貫太郎はそう言ったが、動画を見ている健太にはお客の気持ちがよくわかった。
「もしかしたら。あれのせいかなぁ」
貫太郎が指刺したほうに視線を向けると、柵につけられた木の手作りプレートが目に止まった。
「これはいいや」
プレートに書かれえた文字を目にし、そんな言葉が口をつく。
「マサルを見に来た若いカップルがいて、その男のほうが白いタオルを落としたから拾ってあげようと近づいたら、若いお嬢さんがマサルを見ながら『こんにちは、【噛みつきヒーロー】』って挨拶してるんだよ。なんかおもしろくて。あれ作っちゃったよ」
「そうですか」
ピッタリな気がした。あの光景を見た人なら、きっとマサルはそう見えただろう。
「話しを聞いてみたら、二人もその日に競馬場にいたらしんだ。それで笑っちゃうけど、あんな噛みつき君が、何て言ったかな〝愛のなんちゃら〟っていうらしいよ」
健太はまたマサルへと目を向けた。
(すごいな。マサルは〝愛のキューピット〟にもなったんだな)
それからも貫太郎は話しは続いた。
貫太郎が定年でここに来る前には、〝お守り〟にしたいって浪人生がタテガミをもらいに来たとか、主戦だった騎手がつい最近、どこかの墓参りの帰りに寄っていったとか、うれしそうに自分の息子の話しをするように語っていた。
健太も同じ思いになっていた。
「すいません。バスの時間があるんで」
健太はそう言いながら立ち上がった。
「悪かったねぇ。なんだかうれしくて、ベラベラと俺ばっか話しちゃって」
「いえ、俺も楽しかったです」
貫太郎はにっこり笑てうなずくと「マサ!」と大声で呼んだ。
振り返ったマサルは、すぐに駆け寄ってくると、貫太郎を噛み、健太にも噛みついてきた。
「また来るからな。噛みつきヒーロー」
健太はマサルの鼻のあたりを撫でると、貫太郎に頭を下げ、その場を後にした。
予想台を眺めていた黒いネコはひとつ声をあげると、その場を後にした。




