一話(前編)
今日もいつも通り、世界はとても優しい。
「おはようございます、お嬢様」
「……おはよう」
ドアを開けて元気よく入ってくる侍女のエミリーの声で目が覚めた。
眠い目をこするアンジェの腕をぐんと引っ張ると、エミリーは乱暴にベッドから降ろす。
「早くお風呂に入りますよ」
「はあい……」
まだ寝ている体。
転びそうになりながらも、エミリーに従ってアンジェは浴室に向かう。
服を脱がせられ、浴槽に入れられる。
きゅきゅっと銀製の水口をひねるエミリー。
手桶にたまった水。
「う………」
一気に頭上から勢いよく降りそそぐ水。
小さく声が出た。
触れた瞬間、びくっと身体が縮こまる。
氷のように冷たい水が、頭のてっぺんから皮膚を伝って足元に流れる。
「ほら、縮こまらないでください。洗いにくいです」
「ううう、はーい……」
エミリーに注意されて謝る。
寒くて無意識に体を抱きしめていた。
いつも注意されるのに、ついやってしまう。
ぷつぷつと鳥肌が立ち、身体が小刻みに震える。
「昨晩もたくさん洗って差し上げたのにもうこんなに汚れてしまって」
「……ごめんね、洗ってくれてありがとう」
汚れているといわれて恥ずかしくなる。
小さな声で謝ると、エミリーはいつもの優しい笑顔になった。
「大丈夫ですよ、私にお任せください」
エミリーの明るい声と笑顔にアンジェは安心する。
濡れた髪の毛に直接固形せっけんを当てて、ゴシゴシと髪の毛で泡立てた。
「ふう、なかなか汚れが落ちませんね」
「ごめんなさ……っぷ!」
「ああもう、洗ってるときに喋ったら口に入りますよ」
「……んん……」
髪の毛で立てた泡でエミリーはアンジェの顔も洗った。
泡が目に入らないようにぎゅっと瞑る。
呼吸も最小限にする。
そろそろ息が苦しい……と思っていると、また頭上から冷たい大量の水。
何度も何度も頭上からかけ、アンジェの髪と顔に着いた泡を丁寧に落とした。
鼻に水が入るくらいに。
「っごほ、ごほ!」
「だから口を閉じててって言ったのに」
もー、とエミリーは困ったように笑った。
「く、口じゃなくて……鼻よ……」
「鼻はぎゅって指でしてください、っていつも言ってますよね」
そういうと鼻をつまんだ。
息ができずに口を開ける。口に水と泡が入ってきた。
「ごふ……ごくっ。……ぺっ」
そのまま飲んでしまう。口の中に苦みが広がる。
寒さと息苦しさに、ぶるぶると震え両手を握った。
しかしエミリーは気づいていないのか、今度はアンジェの身体に固形せっけんをこすり付けた。
「じゃあ今度は身体、洗いますね」
うんと綺麗にしますね! とエミリー楽しそうだ。
アンジェの首から足の先まで丁寧に、強く力を込めてせっけんで直接洗った。
固いせっけんにヒリヒリするが、綺麗にしてもらっているのだからこれでいいのだ。
洗い終わると泡を流す冷たい水がかけられた。焼けるような体の痛みが熱かったので、気持ち良いくらいだ。
さっとアンジェの身体を拭き、エミリーにタオルを巻いてもらい部屋に戻る。
「あら……」
鏡を見ると、いつもは白い肌が今日は一段と赤くなっていた。そっと触るとほのかに温かい。
「ふふふ、お嬢様は色が白くて不健康そうですからね。ピンク色になりとても女の子らしく可愛くなりましたよ」
「そう……? ありがとうエミリー」
明るい部屋で見ると、確かに血色がよく見える。
お礼を言うと、さらにエミリーはにっこりと笑った。
つられてアンジェも嬉しくなり笑う。
髪を乾かしてもらってからドレスを着せてもらう。
「ううう……エミリー……」
ぎゅぎゅぎゅっとコルセットを引っ張られ、内臓が潰されそうになる。
(……苦しい……)
引っ張られる力に負け、ふらっとよろけそうになると、さらにエミリーはきつくひもを引っ張った。
「お嬢様、頑張ってください!」
「う、うん……!」
「ほらほら、しっかり立ってください! まだまだ引っ張りますよ、綺麗になるためですから!」
「う、うう……」
返事をしたいが苦しくてうめき声が出てしまった。
(苦しいけど、綺麗になるため……!)
仕方ない、頑張らないと! と思っていると、さらに力が加わる。
「まだまだ! まだいけますね! いけますよ!」
「……ううう……」
「お嬢様が……綺麗になるためですからっ!」
ぎゅううっとエミリーは極限までコルセットをしめる。
ほんのり頬が赤くなり、うっすらと汗ばんでいるエミリー表情はとても満足げな笑顔だ。
「お嬢様、とても美しいですわ!」
鏡に映る自分の姿。銀に近い金の髪は綺麗に結わえられ、豪華なドレス。
異様に細い腰はエミリーのおかげである。
「ふふふ、ありがとうエミリー」
お礼を言うと、いえいえとさらに満面の笑みを浮かべた。
(苦しかったけど、エミリーも喜んでくれたし私も綺麗にしてもらってよかった!)
長いコルセットをしめる時間の後、あっという間に整えられた身だしなみ。
やっと朝食の時間だ。
長い廊下を歩き、二人で食堂へ向かう。
「おはようございます、お兄様」
食堂にはすでに兄のリオンが座っていた。
アンジェを見るとパッと顔を輝かせ笑う。
「おはよう。今日も可愛いね。特にその髪型」
「ありがとう、エミリーにしてもらったの」
ちらっとエミリーを見ると、エミリーは満足そうな表情を浮かべていた。
(エミリーが嬉しそうで、私も嬉しいわ)
嬉しそうなエミリーをみると気持ちが良い。
ほどなくして料理が運ばれてきた。
二人きりの食事は安心する。
「今日もお父様は忙しいみたいだね。寂しいのかい?」
アンジェの視線に気づいたのか、リオンが言う。
「え? ううん、寂しくないわ。だってお兄様がいますもの」
ふふふ、と笑う。
リオンと二人で過ごす食事の時間が、アンジェにとって家族と過ごす楽しい時間でもある。
春先でまだ気温が低いが、柔らかな光が室内を照らす。
暖かく、そして穏やかで優しい気持ちにしてくれる良い季節だ。
「今日は何をするんだい?」
「なにしようかしら」
「そろそろ暖かくなってきたし、外に出るのはどう?」
「久しぶりの外! いいわね」
長い冬の季節、ずっと室内にこもっていた。
「花が咲いているんじゃないかな。見に行ってみたら?」
「お花! 私大好き!」
「僕も稽古で外に出るよ。一緒に行くかい?」
「やったー、嬉しいわ」
優しいリオンとの楽しいおしゃべり。とても幸せだ。
「アンジェが食べ終わったら行こう」
「もう食べたわ」
「まだたくさん残っているじゃないか」
「そう……?」
言われてみれば、お皿にはまだ残っている。
でももうお腹いっぱいで入らない。
うーんと困っていると、苦笑しながらリオンは席を立つ。
そして手を差し出してきた。
「いいよ、行こうか」
「うん!」
元気に返事をしてリオンの手を取る。
温かい体温に安心する。
明るい部屋のなか、柔らかい光、春の香り、リオンの手のひら。
それだけで胸がいっぱいになり心が躍る。
「それじゃあまたね」
「またね、お兄様!」
玄関でリオンと別れた。
「ねえ、エミリー」
エミリーを振り返ると、怖い顔で睨んでいる。
どきりとした。
いつもにこにこ満面の笑みのエミリーは、たまに怖い顔になる。
しかし、すぐにぱっと歯を見せるようにエミリーは笑った。
「ああ、花を見に行きたいんですよね」
「そう! 早く見たいわ」
怖い顔に少しだけ緊張したが、途端に解ける。
スタスタと歩き出したエミリーに遅れないように急いで着いていく。
大きな裾のドレスが歩きにくい。
息を切らせながら追いかけると、エミリーはぴたりと止まった。
「はあ、はあ、はあ……ここ……?」
城の横にある小さな花畑。白い花がたくさん咲いている。
「よかった、まだ咲いてた」
エミリーが摘んだ花は、まるでランタンのような形をしていた。
不思議な形に、アンジェは目を輝かせる。
「可愛い!」
「これ、春を告げる花っていうんです」
「春を告げる花!? 素敵な名前ね」
一輪受け取って香りをかぐと、エミリーは笑った。
「お嬢様に花冠を作ってあげますね」
「本当に!? 楽しみだわ!」
エミリーは鼻歌を歌いながら、器用に白い花を摘んではくるくるっと回してあっという間に花冠を作った。
そうしてアンジェの頭に乗せる。白い可憐な花の冠は、ぴったりのサイズだ。
「わああ、すごいわ、可愛い」
一輪の花を握ったまま、くるくる回る。
「とてもよくお似合いです」
そういってエミリーも楽しそうに微笑み手を叩いた。
「ありがとう、エミリー大好き!」
「……ふふふふ」
そういってエミリーに抱き着く。
エミリーは抱き着かれるまま笑っている。
(そういえば、エミリーはお兄様たちと違って抱きしめてくれないのよね……)
恥ずかしいのかしら?
そう思い、エミリーから離れ頭に乗っている花冠を手に取る。
花冠の香りをかぐ。
なんとなく、ふわっと甘く冷たい香りがしている気がした。




