第19話「贈り物」
小さな秘密を握ってクロヴィスに礼を伝えたあとで彼女は、いつまでも待たせるわけにもいかない、と普段よりも軽い足取りでマリーたちのいる応接室へ歩いていく。仄かに高揚する気持ちを抑えるために、首から提げた懐中時計をなぞるように触った。
たしかに柄にない、と呆れた笑いをこぼしつつ扉を開く。
「悪いな、遅れてしまったか?」
待っていたふたりの表情が明るくなる。とくにマリーは、ちょうど茶菓子が用意できたばかりだと嬉しそうに言って、彼女をいちばん立派なひとり掛けのソファに案内する。
「さあさ、座って。実は今朝、クッキーを焼いたのよ」
「いい香りがしているから分かるよ、マリー。お前の作る菓子は美味い」
「ふふ、お世辞でも嬉しいわ! シャルルも気に入ってくれたの!」
視線の先に映る少年風の少女は、片手にクッキーをつまみ、口もとをたべくずで汚している。ほんの少し前までは淑やかで華やかな世界に生きていたはずだが、ローズに影響されてか、はたまた順応が早いだけなのか、すっかり庶民と変わらない雰囲気がある。
ふと、ローズの視線はシャルルの手にとまった。
「その革のグローブはどうした、買ったのか?」
指ぬきの黒革で出来たグローブは、シンプルで飾りっ気もないものだ。けれどもそこそこに品質良く、値の張るものであるのはひと目でわかった。
「ううん。マリーが『着けていたほうがいい』って」
「……そうか。それは気を遣わせてしまったな」
なんとなく理由を察して、彼女はマリーに微笑む。
「気にしないで、私がしてあげたくなったの。あんなに柔らかい手が傷ついてしまうのはもったいないでしょう? それに、私じゃなくても分かる人には分かるから」
シャルルが女性であり、身分を比べて良いような相手でもないと分かっているマリーは、彼女が世俗に疎く、悪意ある人間の食い物にされてしまうのを防ぐのに、ひとつでも高価なものを身に着けておけば多少は狙われにくくなるだろうと考えた。
「うちに来る商人たちでもそうだけれど、みんな生きていくのに必死だから、相手がお金をたくさん持っているかどうかなんて関係ないの。でも声を掛けていい相手かどうかはよく見ているわ。ひとつでも品質の良いものを目立つように身に着けているだけで、彼らは安物を売りつけたりできなくなってしまうから」
商会を相手にしても彼ら商人というのはがめついもので、うまく言いくるめて得をしようとするのはよくある話だ。しかし土地ごとの需要と供給で交渉もできるのが商会だとしたら、そうはいかないのが貴族や旅行者たちだ。
彼らは常々、品質の良いモノを求めているか、あるいは必要最低限のモノしか持ち歩こうとしない。商人たちの言葉をたわごとだと聞き流すことさえある。価値が定まっている者に〝これはとても良い商品だ〟と言葉巧みに近づいたところで、買ってはもらえないし、丁寧に説明をしようものなら馬に走り方を教えるのと同じくらい愚かだろう。
「はは、そういえば商館の前で、そんな低俗なことも分からんような商人が声を掛けてきたんだったな。……たしか、ローレッツォとか言ったか」
名前を聞くなり、マリーは大きなため息をついてがっくりとした。
「またあのひとなのね、困った方だわ。ウェイリッジでは新参だから大目に見ていたのだけれど……まさかローズにまで声を掛けるだなんて。パパにも伝えておくわ。ああいうのを放置していると、カレアナ商会の沽券にも関わる話だもの」
しっかり者のマリーは、幼い頃から商館で父親のクロヴィスを手伝っている。今では多くの業務を彼女もこなすようになっているくらいの働き者だ。クッキーをひとつ頬張り、紅茶を一気に飲み干して、真剣な目をした。
魔女の機嫌を損ねていいのは、それを直接許された者だけだ。
「それがいい。こちらも忠告はしておいてやったから、程々にな」
「いつもお手伝い感謝するわ、ローズ。ありがとう」
「美味い茶菓子の礼だ、気にする必要はないさ」
「フフ、相変わらず優しいのね。さっそくパパに伝えてくるわ!」
情熱を輝かせた瞳で慌ただしく部屋を出て行き、ローズとシャルルのふたりだけが残る。ムードメーカーとも呼ぶべき彼女の退出に、もの静けさがやってきた。
「……へへ、グローブもらっちゃった。似合う?」
「ああ、とてもよく似合ってるよ。マリーに礼は言ったか?」
「もちろん! ローズの周りは、みんないい人ばっかりだね」
「人を見る目はあるつもりだ。たとえばお前を預かったみたいにな」
あたたかな紅茶をひとくち飲んで、彼女は言った。
「この経験のひとつひとつを忘れるなよ、シャルル。人間を形作るうえで誰かの優しさは、お前をより良くしてくれる。……きっと、良い旅になるはずだ」