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メイドイントーキョー  作者: 水色蛍
『前編』25時のシーク音
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9/21

第9話:朝比奈乃亜

 秋葉原、ラジオセンターの地下深くに存在する第零技術局の本部。

 その一角にある医務室は、病院特有の消毒液の匂いではなく、ハンダごての焼ける匂いと強いメンソールの香りが混ざり合っていた。


「……はい、これで処置は完了だ。傷口の縫合も済ませたが、あまり無理に動かすなよ」


 白衣を着た中年の局員医師が、ピンセットをトレイに投げ入れた。

 ベッドに腰掛けたカナの左肩には、真新しいガーゼと包帯が巻かれている。


 麻酔が切れ始め、ズキズキとした鈍痛が戻ってきていたが、それは「生身の傷」の痛みだ。上位者の毒による「侵食痛」は、別の手段で抑え込むしかない。


「ほら、いつものやつだ。補給しておいたぞ」


 医師が放り投げてきたのは、市販の『フリスク』や『ミンティア』のような、小さなプラスチックケースだった。


 中に入っているのは、ただの清涼菓子ではない。


 上位者の構成物質を中和し、体内での増殖を遅らせるための、組織特製の抑制剤だ。痛み止めの役割も果たす。


「ありがとうございます……」


 カナはケースを振り、二粒ほど取り出して口に放り込んだ。

 強烈なミントの刺激と、舌が痺れるような化学的な苦味。

 これが、彼女が「人間」でいられるための生命線だ。


「局長には私から報告を入れておく。『今日はもう帰して休ませろ』とな。……学生なんだから、たまには早く帰って寝ろ」


 医師はぶっきらぼうに言いながらも、その目には父親のような気遣いがあった。

 この組織の人間は皆そうだ。


 口は悪いが、どこか過保護だ。


 それは彼らが知っているからだ。

 まだ十代の少女たちが背負うには、この任務があまりにも過酷で、本来なら大人が引き受けるべき「毒」を彼女たちに代行させているという事実を。


 カナは頭を下げて医務室を出た。重い鉄扉を抜け、地上へと続く階段を上がる。

 ポケットのガラケーが震えた。


【メール受信:椚(くぬぎ)】

【件名:無題】

『今日は帰って休め。メンテナンスは後日でいい』


 たった一行のメール。カナは小さく苦笑して、携帯を閉じた。


「……了解です」


 秋葉原の夜風は冷たかった。

 ネオンサインが煌めく電気街を背に、カナは総武線のガード下を歩き出した。


 浅草橋のセーフハウスに戻ると、カナは泥のように重い体を引きずって玄関に座り込んだ。


 靴を揃える気力もない。ローファーを脱ぎ捨て、部屋に入る。


「……あー、しんど」


 誰もいない部屋で、独り言が空虚に響く。


 カナは左肩を庇いながら、慎重にジャージを脱いだ。

 鏡に映る体は、包帯と絆創膏だらけだ。


 デコルテや二の腕には、半感染の証である黒い幾何学模様が、タトゥーのように浮かび上がっている。

 抑制剤のおかげで色は薄くなっているが、消えることはない。


(一生、このままなのかな)


 ふとした瞬間に襲ってくる絶望を振り払うように、カナは大きめのTシャツとスウェットパンツに着替えた。


 お腹は空いているはずなのに、食欲が湧かない。

 冷蔵庫にある昨日の残りのハンバーグも、今はただの油の塊に見える。


 カナはそのまま、吸い込まれるようにベッドへダイブした。

 スプリングが軋む音。

 枕に顔を埋めると、洗剤の香りと、自分の汗の匂いがした。


 それが妙に落ち着く。


(……あぁ、お風呂入んなきゃ)


 傷口を濡らさないようにシャワーを浴びるのは面倒だ。

 でも、髪についた埃や、戦場の匂いを落としたい。

 思考がまとまらない。意識が水底へと沈んでいく。


 また、女子力を。いや。《《人間》》を捨ててしまう。その時だった。


『……コン、コン』


 控えめだが、たしかなノックの音が聞こえた。


 カナは跳ね起き、枕元に転がったMDプレーヤーを掴もうとした。


 だが、すぐに思い直した。このセーフハウスの場所を知っているのは、組織の人間だけだ。そして、この控えめなノックのリズムには聞き覚えがあった。


「……誰?」


 警戒しつつドアに近づく。


『……私。ノア』


 ドア越しに聞こえたのは、鈴を転がすような、か細い少女の声だった。


 ガチャリと鍵を開けると、そこに立っていたのは、灰色の巨大なパーカーに身を包んだ小柄な影だった。


 朝比奈(あさひな) 乃亜(のあ)。


 フードを目深に被り、首には彼女の体の一部のような大きなヘッドホン。手にはコンビニの袋が提げられている。


「……ノア? どうしたの、急に」

「……カナさんの生体バイタル、すごく乱れてたから。……心配で」


 ノアは俯いたまま、ボソボソと呟いた。

 彼女は303号室の住人であり、このチームの「目」であるオペレーターだ。普段は自分の部屋(電子要塞)から一歩も出ない彼女が、わざわざ隣の部屋まで来るのは珍しい。


「そっか。……ごめんね、心配かけて。入って」


 カナが招き入れると、ノアは音もなく部屋に入り、部屋の隅にあるクッションにちょこんと座った。まるで捨て猫のような佇まいだ。


「これ……差し入れ」


 ノアがコンビニ袋から取り出したのは、『ウィダーinゼリー』とプリン、そしてホットレモンだった。病人でも怪我人でも喉を通るものばかりだ。その不器用な優しさに、カナの胸が少しだけ温かくなる。


「ありがとう。ちょうど、お腹空いてたんだ」


 カナがプリンを開けると、ノアは少しだけ安心したようにパーカーのフードを外した。

 露わになったその素顔は、薄暗い部屋の中でも発光しているかのように整っていた。


 色素の薄い茶色の髪。透き通るような白い肌。

 そして何より、顔の半分を占めるのではないかと思うほど大きな瞳。


 その容貌は、今まさにテレビで見ない日はないトップアイドル——鈴木あみや、雑誌の表紙を飾り続けている広末涼子を彷彿とさせる、完成された「美少女」そのものだった。


 身なりさえきちんとして街を歩けば、間違いなくスカウトマンの列ができるだろう。だが、その瞳には光がない。


 深い絶望を見てしまった者特有の、静かな諦観が漂っている。


「……痛む?」


 ノアがカナの左肩を見て言った。


「うん、ちょっとね。でも薬飲んだから大丈夫」

「……そっか」


 会話が途切れる。でも、気まずくはない。

 彼女たち——カナ、リコ、ノアの三人は、言葉を交わさなくても通じ合う部分がある。


 彼女たちは全員、3年前に起きた「地下鉄トンネル崩落事故」——そう報道されている大規模災害の被害者だ。


 公式発表では「老朽化したトンネルの崩壊とガス管の破裂」とされている。


 だが、事実は違う。


 あの夜、地下鉄のホームで起きたのは、大規模な位相崩壊(パンデミック)だった。


 空間が裂け、見たこともない怪物が溢れ出し、人々が「部品」に変えられていった地獄。


 その中で、適合者として覚醒し、生き残ったのがこの三人だけだった。

 家族も、友人も、本来の日常も、すべてあそこに置いてきた。


「生き残り三姉妹」。


 局の人間はそう呼ぶが、それは美しい絆などではない。

 同じ地獄を見て、同じ呪いを体に宿し、同じ復讐心だけで繋がっている、奇妙な運命共同体だ。


「……学校、どうだった?」


 ノアが唐突に聞いてきた。


「え?」

「……カナさんが命がけで守った場所。……みんな、元通りになった?」


「うん。……完璧だったよ。誰も何も覚えてない」


 カナは自嘲気味に笑い、スプーンでプリンを突いた。


「私が戦ったことも、自分たちが消えかけてたことも、最初から無かったことになってる。灰谷さんたちの仕事のおかげでね。……それが、私たちの任務(しごと)だから」


 誰にも知られず、誰にも感謝されず、日常を守る。

 それが正解だ。


 けれど、その「正解」が、時々ひどく冷たく感じる。

 教室での笑い声の中に自分だけがいないような、透明人間になったような感覚。


「……ノアは? 学校、行ってないの?」


 カナは話題を変えた。

 ノアは15歳。本来なら中学3年生で、高校受験の真っ只中だ。

 だが、彼女が学校に通っている様子はない。


「……行ってない。行く意味、ないし」


 ノアは膝を抱えて、さらに小さくなった。


「担任の先生とか、何度か連絡あったみたいだけど……紗夜さんが『処理』したみたい。海外留学することになった、とか言って」


 九条院紗夜の根回しだ。彼女の手にかかれば、戸籍上の事実さえも書き換えられる。

 ノアは社会的には「不在」の存在となり、この閉じた世界で、モニターと向き合うだけの生活を送っている。


「……高校、行きたくないの?」


 カナが尋ねると、ノアは首を横に振った。


「怖いもん」

「え?」

「人間が、怖い。……あの日、みんな、怪物になる前に……お互いを突き飛ばして、自分だけ助かろうとしてた。……私、それを見てた」


 ノアの大きな瞳が揺れた。


 彼女はカナよりも幼い12歳で、人間の醜悪さと、世界の理不尽さを同時に見てしまったのだ。

 だから彼女は、リアルな人間関係(オフライン)を拒絶し、0と1で構成されたデジタルの世界(オンライン)にしか居場所を見いだせない。


「でも……カナさんとリコさんは、違うから」


 ノアはポツリと言った。


「二人は、私を見捨てなかった。……だから、平気」


 カナはスプーンを置いた。甘いプリンの味が、喉の奥で詰まるような気がした。


 あの日、逃げ惑う地下鉄の中で、カナの手を引いてくれたのはリコだった。

 そして、瓦礫の下で泣いていたノアを背負って走ったのは、カナだった。


 理由なんてない。

 正義感でもない。


 ただ、あの極限状態で、自分と同じ「目」をしている人間を見捨てることができなかっただけだ。


「……そっか。私も、ノアがいてくれてよかったよ」


 カナがそう言うと、ノアは照れくさそうにヘッドホンを耳に戻し、視線を逸らした。


「……長居した。帰る」


 ノアは立ち上がり、パーカーのフードを深く被り直した。

 再び「引きこもりのハッカー」に戻る儀式のように。


「ありがとう、ノア。またね」


 ノアは無言で小さく手を振り、部屋を出て行った。

 ドアが閉まる音が、静寂を取り戻す。


 カナは空になったウィダーinゼリーの容器を握りしめた。

 孤独ではない。傷の痛みも、失った過去も、共有できる相手がいる。


 たとえそれが、傷を舐め合うような歪な関係だとしても、今のカナにとっては、それが唯一の救いだった。


(……お風呂、入ろう)


 カナは立ち上がった。少しだけ、体が軽くなった気がした。

 明日もまた、嘘で塗り固められた日常が待っている。

 でも、帰ってくる場所(ホーム)には、確かに仲間がいる。


 湯船にお湯を張りながら、カナはあゆの曲を口ずさんだ。

 その歌声は、夜の浅草橋の雑踏に、密やかに溶けていった。

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