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メイドイントーキョー  作者: 水色蛍
BBSのドッペル
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19/22

第19話:チェーンメール

 翌日。秋葉原ラジオセンターの地下深く、第零技術局本部。

 無数のサーバーラックが低い唸り声を上げる「電子とニコチンの聖域」は、いつも以上に重苦しい空気に包まれていた。


「……なるほど。昨夜、ダミーマンションの外壁に設置した『対バグ結界・弐式(スパイダー)』が、何者かに視認された形跡がある、と」


 局長の九条院紗夜が、冷めた紅茶のカップを指先で回しながら言った。

 彼女の視線の先には、パイプ椅子に座らされた深澄カナがいる。

 カナは今日も学校を休んでいた。左肩の治療痕がまだ疼いているのもあるが、それ以上に精神的な動揺が大きかったからだ。


「はい。……リナが、帰る時に何かを見たみたいなんです。怯えていて……」


 カナが膝の上で拳を握りしめる。


「あの『蜘蛛』は、私の部屋を守るための防衛プログラムですよね? 敵じゃないのに、どうしてリナには見えたんでしょうか」


 開発室の奥で、椚蓮治が紫煙を吐き出しながら答えた。


「……そこが問題なんだよ。あの蜘蛛は、俺が組んだプログラムに、葛城さんの『呪術的コード』を混ぜて作った式神だ。物理的な実体はねえ。脳のフィルタが正常に機能している一般人には、ただの『空気の揺らぎ』にしか見えねえはずだ」


 椚はCRTモニターに表示された波形データを睨みつけた。


「それを『黒い怪物』として視認したってことは、松浦リナの脳内フィルタはもうボロボロだってことだ。……奴らの毒に侵食され始めてる」


「そんな……!」カナが顔を上げる。


「じゃあ、リナも私みたいに?」


「いや、適合者(お前ら)ほどじゃねえ。……だが、境界線上にいるのは確かだ」


 ここで、医務室から戻ってきた白衣(ツナギ)姿の医師・葛城が会話に割って入った。


「通常、免疫のない一般人が『あちら側』の論理に触れれば、脳が処理落ちして発狂するのがオチだ。だが、あの子はまだ正気を保ってる……ドッペルゲンガーとの接触が、あの子の中に『抗体』のようなものを作ったのかもしれんな」


 カナは懇願するように局長を見た。


「局長、お願いします。リナを助けてください。……記憶処理でも何でもして、あの子を日常に戻してあげてください」


「……記憶処理(フォーマット)は万能ではありませんわ」


 紗夜は静かに首を横に振った。


「脳の一部を焼くことになります。下手をすれば廃人になる。……それに、一度『視えてしまった』眼は、記憶を消しても無意識下で異界を捉え続けます」


「じゃあ、どうすれば……」


 カナの声が震える。


「……いっそ、私たちの仲間に引き入れれば、守れるんじゃないですか? 私たちが近くで監視して、戦い方を教えれば……」


『バンッ!!』


 椚が乱暴にキーボードを叩き、椅子を回転させてカナを睨みつけた。


「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、深澄」


 いつになくドスの効いた声だった。


「お前、こっち側の世界がどういう場所か分かってて言ってんのか? ……俺たちが、どういう思いでここにいるか」


 カナが息を呑む。

 椚、葛城、そして九条院紗夜。

 彼ら「大人たち」は、カナや莉子のような、体内にバグを宿した「適合者」ではない。灰谷のような、視えない一般人とも違う。


 彼らはかつて、何らかの形で「世界の真実(バグ)」に触れてしまい、精神を焼かれながらも生き残った、言わば「汚染された生存者」だ。

 適合手術で肉体を変異させたわけではない。


 ただ、「知ってしまった」が故に、日常へ帰る切符を破り捨てられた人間たち。

 その絶望と、二度と戻れない孤独を「知識」と「技術」という武器に変換して、この薄暗い地下にへばりついている。


「俺たちはな、好きでこんなモグラ暮らしをしてるわけじゃねえ。……外の世界じゃ息ができねえから、ここで毒を喰らって生きてるんだ」


 椚は吐き捨てるように言った。


「あの子をこっち側に引き込むってことは、その『地獄』への片道切符を、お前の手で渡すってことだぞ。……その覚悟がお前にあるのか?」


「…………」


 カナは言葉を失った。


 リナを、あの日なたの匂いのする世界から、このオイルとニコチンの臭いが染み付いた世界へ引きずり込む。


 それは、ドッペルゲンガーがやろうとしていたことと、何が違うのか。


「殺してしまった方が、楽かもしれないぞ?」

「!!!!」


 カナがその場から崩れ落ちる。


「……椚さん、言い過ぎよ」


 それまで壁際で黙って缶コーヒーを飲んでいた沢良木莉子が、静かに口を開いた。

 彼女はカナの肩に手を置き、椚を睨み返した。


「深澄だって、分かってるわよ。……ただ、友達を失いたくないだけでしょ」


 莉子の指先は冷たかったが、その重みには確かな連帯感があった。


「……でも、椚さんの言う通りよ。一般人を巻き込むのは最終手段。今はまだ、私たちが守れる範囲で動くしかないわ」


「……監視は強化します」紗夜が結論を下した。


「乃亜、学校のサーバーとリナさんの携帯、常時モニタリングなさい。……少しでも『閾値』を超えたら、即座に介入します」


『……了解。リナさんの視覚データ、共有設定完了』


 スピーカーから、乃亜の淡々とした声が響いた。


 カナは自分の無力さを噛み締めながら、モニターに映った「日常」の映像

 ——高校の正門を見つめることしかできなかった。


 その日の夜。

 松浦リナは、自室のベッドの中で膝を抱えていた。

 部屋の明かりは消しているが、眠れる気配はない。


(……うるさい)


 耳鳴りがする。

 いや、耳鳴りではない。

 部屋の隅にあるコンポの待機電源のランプ。

 机の上の携帯電話の充電器。

 窓の外にある自動販売機。


 それらから発せられる微弱な電子音が、リナの耳にはまるで「虫の羽音」や「断末魔の悲鳴」のように聞こえていた。


『ジジ……ジジジ……ミテ……』

『……コッチ……キテ……』


「……やだ、もう」


 リナは布団を頭から被り、耳を塞いだ。


 昨日、カナのマンションで見た「蜘蛛」。

 あれ以来、世界がおかしい。

 コンビニの店員が商品をスキャンする「ピッ」という音が、骨を折る音に聞こえる。


 通学路のカーブミラーに映る自分の顔が、一瞬だけ知らない誰かの顔に見える。


(カナに、相談したい……)


 携帯に手を伸ばす。

 発信履歴の一番上には『カナ』の名前。

 でも、指が止まる。


「……こんなこと言ったら、頭おかしいって思われるかな」


 昨日の今日だ。


 やっと仲直りして、カナのことを信じるって決めたのに。


「変なものが見えるの」「音が聞こえるの」なんて言ったら、今度こそ嫌われるかもしれない。


 それに、カナは風邪で寝込んでいる。迷惑はかけられない。


 その孤独感が、リナの心の隙間を広げていく。


 誰にも言えない秘密。

 共有できない恐怖。


 それは、かつてカナが一人で抱えていた孤独と、皮肉にも同じ形をしていた。


『ブー……ブー……』


 不意に、携帯が震えた。ビクリと体を震わせ、画面を見る。

 カナからではない。

 着信画面には『【緊急】拡散希望』という、見知らぬ件名が表示されていた。


「……チェーンメール?」


 当時、女子高生の間で流行っていた「不幸の手紙」のデジタル版。

『このメールを5人に回さないと呪われます』といった類のものだ。


 普段なら無視して削除する。

 だが、そのメールの冒頭の文章が、リナの視線を釘付けにした。


『To: 迷える子羊さん

 件名: あなたの視ている世界は本物ですか?』


「……え?」


『最近、変なものが見えませんか?

 誰にも言えない音が聞こえませんか?

 それはあなたが壊れているからではありません。

 世界の方がバグっているのです。

 同じ悩みを持つ仲間が、ここにいます。

 ↓↓↓

 http://ur-tokyo.net/bug_report...』


 指が震えた。


 まるで自分の心を見透かしたような内容。

 罠かもしれない。

 イタズラかもしれない。


 でも、今のリナにとって、「同じ悩みを持つ仲間」という言葉は、何よりも甘美な救いのように思えた。


「……見るだけ、なら」


 リナは誘われるように、そのURLをクリックした。

 画面が暗転し、小さな砂時計のアイコンが回り始めた。


 翌朝。


 雨は上がっていたが、空はどんよりとした鉛色だった。

 松浦リナは、重い足取りで教室に入った。


 カナの席は、今日も空席だった。

 やはり、風邪が治っていないのだろうか。


(カナに会いたい……)


 リナは自分の席に座り、机に突っ伏した。

 教室の空気が、妙にざわついている。

 いつもなら「おはよー」「宿題見せてー」といった明るい声が飛び交う時間だ。

 しかし今日は、どこか湿っぽく、ヒソヒソとした囁き声が充満していた。


「ねえ、これ見た?」

「回ってきたー! 超怖くない?」

「てかマジっぽくない? 私もたまにあるし」


 女子生徒たちが携帯を見せ合い、異様な熱気で話している。

 ミキのグループも例外ではない。


「おはよ、松浦さん」


 ミキが声をかけてきた。その目は少し充血し、興奮しているように見えた。


「ねえ、昨日『裏サイト』見た? なんかすごいことになってるよ」


「え……?」

「ほら、これ」


 ミキが突きつけてきた携帯の画面。

 黒い背景に、赤い文字でおどろおどろしく書かれたスレッド。


『世界のバグ報告スレ 109』

『562: 昨日、新宿で顔のない男見た』

『563: 俺も。てか、鏡見たら自分の顔が溶けてた』

『564: みんな気づいてないフリしてるだけだよね?』

『565: カナは二人いる』


「ッ……!?」


 リナの心臓が早鐘を打った。


『カナは二人いる』。


 あの時の噂だ。

 ミキが新宿で見たカナと、電話に出たカナ。

 それが、都市伝説としてネット上で増殖している。


「なんかさー、気持ち悪いよね。……でも、ちょっと分かるかも」


 ミキがふと、真顔で呟いた。


「最近さ、携帯の電波とかおかしいし。……たまに、通話してる相手の声が、機械みたいに聞こえることない?」


(……やめて)


 リナは耳を塞ぎたくなった。

 教室中の生徒たちの会話が、不協和音のように頭の中で反響する。


 みんなの意識の底に、確実に「あちら側」への疑念が植え付けられている。


 これは、ただの噂話ではない。

 あのサイト——ドッペルゲンガーが遺した「精神汚染ウイルス」が、学校という閉鎖空間でパンデミックを起こしているのだ。


『ブー……ブー……』


 リナの手の中で、携帯が震えた。

 画面を見る。

 また、あのメールだ。


『To: リナ

 件名: 迎えに行くね』


『本文:

 今、あなたの後ろにいるよ。

 目を開けて。

 本当の教室(せかい)を見せてあげる』


 恐怖で体が凍りつく。

 後ろ?リナは恐る恐る振り返ろうとした。その時。


『キィィィィィィィィィィン……』


 鼓膜を引き裂くようなモスキート音が、教室全体に響き渡った。


「……あ、あぁ……」


 リナの視界から、色が消えた。


 教室の壁が、ドロドロとした灰色の粘液のように溶け落ちていく。


 窓の外の景色は、ノイズが走る砂嵐の壁に変わった。


 そして、クラスメイトたち。

 ミキも、男子生徒も、先生も。


 全員の顔が、つるりとした「のっぺらぼう」に変わっていた。


『リナちゃん』『リナちゃん』『コッチヲ見テ』

『キヅイタ?』『キヅイタ?』


 のっぺらぼうたちが、一斉に首を180度回転させ、リナの方を向いた。

 口はないはずなのに、頭の中に直接響くような声で話しかけてくる。


 それは、昨日の「チェーンメール」の文面を読み上げる無数の合成音声だった。


「いや……いやぁぁぁっ!!」


 リナは悲鳴を上げて席を立ち上がった。


 しかし、足が動かない。


 床から伸びた無数の「黒い手」が、リナの足首を掴み、引きずり込もうとしていた。


『オイデ』『オイデ』

『カナハ、コッチニイルヨ』


 教室の黒板から、上半身だけの少女が這い出してきた。

 深澄カナと同じ顔。


 しかし、その体は無数のLANケーブルと肉塊で構成されている。

 ネットの海で再構成された、ドッペルゲンガーの怨念。


『リナ……寂シカッタデショ?』


 偽物が、長い腕を伸ばしてリナの頬に触れようとする。

 その指先からは、毒々しい紫色のスパークが散っている。

 あれに触れれば、リナの精神は完全に書き換えられ、二度と戻れない「あちら側」の住人になってしまう。


「……カナ、助けて……!」


 リナが絶望の中で、本物の名前を叫んだ。

 誰もいないはずの空席に向かって、助けを求めた。その時。


「——させないッ!!」


『ドォォォォォォォォンッ!!』


 凄まじい轟音と共に、教室の後ろの扉が蹴り破られた。

 いや、蹴り破られただけではない。扉そのものが衝撃波で吹き飛び、廊下の壁にめり込んだ。


「下がって、リナ!!」


 土煙の中から現れたのは、息を切らせた深澄カナだった。制服の上からパーカーを羽織る。その左目は充血し、幾何学模様の痣がこめかみで激しく明滅している。

 乃亜からの緊急アラートを受け、組織の車から飛び降りて駆けつけたのだ。


「椚さんからもらった新装備(これ)のテストには、ちょうどいいわね!」


 カナは右手に握りしめた白いデバイス——『HDDオーディオプレーヤー』のホイールを、親指で激しく回転させた。液晶画面に『Volume: MAX』の文字が踊る。


「消えろ、スパムメール!!」


『PLAY』


 MDとは比較にならない、膨大なデータ量の奔流が解き放たれた。

 5GBのハードディスクから読み出された重厚な音圧(プレッシャー)が、可視化された衝撃波となって教室を薙ぎ払う。


『ギャァァァァァァッ!?』


 黒板から這い出していた偽物の影が、衝撃波に煽られて霧散する。

 床から伸びていた黒い手も、のっぺらぼうの幻覚も、ガラスが割れるように砕け散った。


「……ハァ、ハァ……!」


 教室に、静寂が戻る。色が戻り、クラスメイトの顔が戻る。

 ミキたちが、ぽかんとした顔で、突然乱入してきたカナを見ている。

 彼女たちには、今の攻防は見えていない。


 ただ、リナが叫んで倒れそうになり、休んでいたはずのカナが凄い勢いで飛び込んできて、それを支えたようにしか見えていないのだ。


「……リナ、大丈夫?」


 カナが震えるリナの体を抱きしめた。

 その体温は熱く、汗で濡れている。


「……カナ……?」


 リナが虚ろな目でカナを見上げる。


「……私、変な夢を……また、カナが……」


「ううん、夢じゃない。……でも、もう大丈夫」


 カナはリナの頭を撫でながら、心の中で誓った。


 もう隠せない。


 ここまで侵食が進んでしまった以上、ただ「知らないフリ」をさせることはできない。


 カナはポケットの中で、まだ熱を帯びているHDDプレーヤーを握りしめた。


 それは、リナをこちらの世界(地獄)へ連れて行くための、覚悟の重さのように感じられた。

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