表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
88/94

第87話 『枷』part3

 

 世界から、音が消えた。

 アナの悲痛な絶叫も、フィンの槍が空を切る鋭い音も、ケルヌンノス王の怒号も、全てが遠い世界の出来事のように引き伸ばされ、意味を失っていく。ベルの視界には、スローモーションで迫る死の情景だけが、無感情なまでに鮮明に映し出されていた。


 沼のように淀んだ青黒い毒がベットリと塗られた短剣の切っ先。それは、彼の白い首筋の皮膚を切り裂く寸前で、まるで時間が凍りついたかのように静止している。隻眼の虎獣人が浮かべる、憎悪と勝利の確信に歪んだ獰猛な笑み。その潰された左の眼窩の奥には、消えることのない深い闇が広がっているように見えた。


 死。

 その絶対的な概念が目前に迫る中、ベルの心は不思議なほど凪いでいた。恐怖はない。ただ、目の前の存在が放つ、凝り固まった憎悪と痛みの奔流を、彼は静かに受け止めていた。彼の黒い瞳は、一切揺らぐことなく、目の前の虎獣人の、唯一残された黄金の瞳の奥にある魂の叫びを、真っ直ぐに見つめ返していた。


(……そうだ。僕は、知っていたはずだ)


 その刹那、ベルの脳裏に、数日前の海での激闘が、灼けつくように蘇った。

 閃光のような剣筋。獣人の断末魔。そして、目の前の虎獣人と対峙した、あの瞬間。

 ヘレンの分析を待つまでもなく、ベル自身が見抜いていた。彼の動きの僅かな癖、左膝を庇う不自然な体捌き。そしてベルは、非情なまでに的確に、その弱点を突いた。腱を断ち切った右手首だけではない。勝利を確実なものとするために、彼の古傷である左膝に、容赦なく追撃の一閃を加えていたのだ。


(数日前、船の上で僕は、彼の弱点である左膝の古傷を、意図的に抉った。勝利のために、彼の痛みを、彼の歴史を、利用した。僕が与えた新しい傷と、僕が抉った古い傷。今、彼を突き動かすこの憎悪は、僕がさらに燃え上がらせたものだ。ならば……僕には責任がある)


 凍りついた時間の中で、ベルの思考は明確な結論に達する。

 これは、僕が始めなければならない対話だ。


「――あなたのその傷、痛みますか?」


 絞り出すような、か細い声。しかし、それは狂乱の戦場に、奇妙なほどはっきりと響き渡った。

 ベルは震える声で、しかし逃げることなく続けた。


「僕がつけた腕の傷も……そして、僕が抉ってしまった、その左膝の古傷も…」


 その言葉は、虎獣人の殺意の奔流を物理的に堰き止めた。

 憎悪と勝利の確信で塗り固められていた彼の思考に、純粋な「理解不能」という名の亀裂が入る。

 なぜ。なぜこの小僧は、自らが勝利のために抉ったはずの古傷を、今さら癒そうなどとする? これは罠か? 傲慢な勝者による、憐れみという名の侮辱か? それとも…。

 コンマ数秒にも満たない、しかし永遠にも感じられる硬直。それが、運命を分ける一瞬となった。




「ベル君っ!?」


 フィンの悲鳴が、ようやく現実の時間を連れ戻す。だが、誰もが動けなかった。ベルの次の行動が、あまりにも常軌を逸していたからだ。


「あなたの憎しみは、きっと痛みから生まれている」


 ベルは、喉元に突きつけられた毒の刃を意に介すことなく、静かに語り続ける。その黒い瞳には、罪悪感と、それ故の強い意志が宿っていた。


「同胞を失った心の痛み、誇りを傷つけられた魂の痛み、そして…今もあなたを苦しめるその体の痛み。僕が抉ってしまったその痛みは、僕が終わらせなければならない」


 ベルは祈るように、そっと震える右手を伸ばした。

 その無防備な行動は、仲間たちですら予測不可能なものだった。


「自殺行為だ!」


 シャンデリアの上から戦況を俯瞰していたウールが、思わず声を漏らす。アナも、敵の牽制を続けながら、信じられないものを見る目でベルを見つめていた。敵意と殺意の塊である相手に、自ら手を差し伸べるなど、狂気の沙汰としか思えない。


「僕が与えた痛みを、僕に癒させてください」


 ベルの手のひらに、温かく、そしてどこまでも穏やかな光が灯った。

 それは、彼の代名詞とも言える治癒再生魔術の輝きだった。だが、その光景はあまりにも異質だった。

 治癒再生魔術は、対象に直接触れて発動させる魔法だ。負傷した味方を守り、安全を確保した上で、初めて行使できる神聖な儀式のはず。それを、剥き出しの殺意の目の前で、無防備に、自ら差し出すように発動させるなど、前代未聞だった。


 その光は、戦場に渦巻く憎悪や殺気とは全く異質な、生命の源流そのものを思わせる優しい輝きを放っていた。それは、傷つけることを知らず、ただ癒し、再生させることだけを目的とした純粋な魔力の奔流。

 虎獣人は、目の前で起きた現象を理解できなかった。差し伸べられた手と、そこに灯る光。それはあまりにも美しく、そして彼の生き様とは相容れないものだった。彼は反射的に短剣を振り下ろそうとしたが、その光に見つめられていると、なぜか体に力が入らなかった。まるで、魂がその光に魅入られ、肉体の命令を拒絶しているかのようだった。




 ベルの指先が、虎獣人の体に触れる寸前、ふわりと光の粒子となって拡散した。そして、その光はまるで意志を持っているかのように、一部は腱を切られた右手首へ、そして大部分は、彼の憎悪の根源であり、ベル自身が抉った左膝の古傷へと吸い込まれるように集束していく。


 次の瞬間、虎獣人の全身を、経験したことのない感覚が襲った。


(――なんだ、これは…?)


 長年、彼を苛み続けてきた灼熱の痛み。数日前にこの小僧に抉られ、さらに悪化した呪いの傷。憎悪を燃やすための薪であり、獣人としての誇りの拠り所ですらあった激痛が、まるで春の陽光に照らされた雪解け水のように、すーっと和らいでいく。

 呪いの矢によって蝕まれ、常に軋み、疼き続けていた膝の関節が、何十年ぶりかに、その本来の機能を取り戻そうとしている。神経を直接焼くような痛みが消え、代わりに温かい血が巡り始める心地よさ。

 それは、至福と呼ぶべき感覚だった。


 だが、その安らぎは、彼の精神に強烈な混乱と矛盾をもたらした。

 敵である人間に、それも自分を打ち負かし、古傷を抉るという非情な手段を使った憎い相手に、癒されている。

 獣人の誇りの一部と化していた「痛み」を、奪われている。

 これは屈辱だ。許しがたい冒涜だ。そう頭では理解しているのに、体は、魂は、この抗いがたい安らぎに歓喜の声を上げていた。


 ズキリ、と。今度は彼の心臓が痛んだ。

 肉体の痛みが消えていくのと反比例するように、心の痛みが浮き彫りになっていく。


 なぜ、憎い相手に癒されなければならない。

 なぜ、憎しみ続けることが、こんなにも苦しい。

 なぜ、この小僧は、自分を殺さずに癒そうとする。

 わからない。理解できない。理解したくない。


 彼の脳裏に、大爪戦争の光景が蘇る。

 父の亡骸。仲間の断末魔。人間の嘲笑。

 それらの記憶は、常に膝の痛みと共にあった。痛みが憎しみを増幅させ、憎しみが痛みを肯定していた。それは、彼を彼たらしめるための、歪んだ環。

 だが今、その環の一部が、あまりにも優しく、そしてあまりにも理不尽な光によって断ち切られようとしていた。


「ぐ……ぅ、ああああああああああッ!」


 それは、怒りでも悲しみでもない、魂の叫びだった。

 憎悪の拠り所を失った虎獣人の体から、力が抜けていく。張り詰めていた精神の糸が、ぷつりと切れた。彼はもはや、短剣を握りしめていることさえできず、カラン、と乾いた音を立てて刃が床に落ちた。

 そして、その巨躯は、まるで糸の切れた人形のように、その場に膝から崩れ落ちた。


 彼の隻眼から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

 それは、長年の苦しみから解放された安堵の涙か。それとも、己の誇りが崩れ落ちた屈辱の涙か。あるいは、その両方か。彼自身にも、もう分からなかった。


 抵抗の意志を完全に失った虎獣人は、駆けつけたフィンや王の親衛隊によって、一切の抵抗をすることなく、静かに拘束された。彼はただ、呆然とベルを見つめ、その小さな体に宿る、理解を超えた力の前に、ひれ伏すしかなかった。




 祝宴の混乱が、ようやく収拾されつつあった。

 拘束された『枷』のメンバーたち。安堵の溜息をつく者、未だ興奮冷めやらぬ者。そんな喧騒に満ちた広間を、冷ややかに見下ろす一対の瞳があった。


 場所は、広間から少し離れた、王族専用のバルコニー。

 そこには、屈強な体躯を持つ壮年の狼獣人が一人、腕を組んで静かに戦いの顛末を眺めていた。肩には将軍の位を示す豪奢な肩章が輝いている。ヴォルフガング将軍。ケルヌンノス王の右腕と謳われ、武闘派貴族の筆頭として、多くの兵士から絶大な支持を集める男だった。


 彼は、虎獣人が膝から崩れ落ち、涙を流す無様な結末を見届けると、小さく、しかし侮蔑を込めて舌打ちした。


「……使えぬ駒だ。感傷に浸るとは、獣の誇りを忘れたか」


 その呟きは、誰に聞かせるでもなく、夜の冷たい空気に溶けて消えた。

 彼の背後に、音もなく影が現れる。バルコニーの影と同化していた別の部下が、静かにその場に跪いた。


「将軍。計画は…失敗に終わりました」


「失敗?」


 ヴォルフガングは、視線を眼下の広間に向けたまま、嘲るように言った。


「あれは失敗ではない。実験だ」


 彼はゆっくりと振り返り、凍てついた冬の湖のような冷徹な瞳で部下を一瞥した。


「今回の蜂起で、いくつもの有益な情報が手に入った。王の甘さ。あの小僧が持つ、常軌を逸した治癒の力。そして、あの小僧の仲間たちの戦闘能力。どれも、こちらの想定を上回るものだったが、おかげでデータは揃った」


 ヴォルフガングの口元に、冷酷な笑みが浮かぶ。


「虎の男は、憎しみを煽るにはうってつけだったが、しょせんは猪武者。捨て駒としては上出来だろう。王は同胞を手にかけたという心の傷を負い、あの小僧は自らの力が新たな火種を生む可能性を知った。これで良い」


 部下は、黙って主の言葉を待つ。


「問題ない。駒はまだいくらでもある」


 ヴォルフガングは再び眼下の広間に視線を戻す。彼の視線の先には、仲間たちに囲まれ、心配そうにされているベルの姿があった。


「次の一手は、より静かに、より確実に……王の喉元に牙を突き立てる。あの小僧の『優しさ』こそが、この国を滅ぼす毒となるようにな」


 彼の言葉と共に、チャタル王国に巣食う本当の闇が、その輪郭を初めて現した。

 ベルたちが対峙すべき真の敵は、憎しみに駆られたテロリストなどではない。冷静な頭脳で国を内側から蝕む、影の支配者。

 新たな戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ