第86話 『枷』part2
王宮『百獣の広間』は、生命の謳歌そのものを体現したかのような、野性的で荘厳な熱気に満ちていた。天井から吊るされた巨大なシャンデリアは、歴戦の獣たちが捧げたであろう巨大な角と、洞窟の奥深くでしか採れぬ魔光石を組み合わせた芸術品で、磨き上げられた黒大理石の床に、まるで深海に差し込む光のような幻想的な模様を投げかけている。屈強な獅子や熊の獣人たちが奏でる楽団の音楽は、腹の底に響く太鼓のリズムと、天を突くような角笛の旋律が絡み合い、広間に集う者たちの闘争本能と祝祭の心を同時に掻き立てていた。
テーブルには、これでもかとばかりに料理が並ぶ。皮はパリパリに、肉はナイフを必要としないほど柔らかく焼き上げられた大猪の丸焼き。岩塩と香草をふんだんに使って蒸し上げられ、湯気と共に芳醇な香りを放つ巨大な川魚。人の頭ほどもある鳥の脚肉にかぶりつく狼獣人の横では、繊細な細工が施された森の果実のタルトを小柄な兎獣人の貴婦人が淑やかに口に運んでいる。豪快さと繊細さが同居するこの光景こそが、獣人国家チャタルの文化そのものだった。
その豊穣と活気の中心、主賓が座るべき玉座の隣に設けられた特別な席で、この日の英雄であるはずのベル・シレイラは、しかし、全身の筋肉痛よりも厄介な、むず痒いような居心地の悪さを感じていた。
「ベル、ほら、口を開けなさい。この『ロックグリフォン』の胸肉、丁寧に筋切りしてあるから、すごく柔らかいわよ」
アナがにこやかに、熱々の肉片を冷ますために優しく息を吹きかけ、銀のフォークで差し出す。その仕草は洗練されており、まるで完璧なメイドのようだった。
「旦にゃさま、こっちの『森の雫』っていう果物も、びっくりするくらい甘くて美味しいにゃ! あーん!」
反対側からはテトが、指先を蜜で濡らしながら、宝石のように輝く赤い果実をつまんで差し出していた。その瞳は、子猫が飼い主にじゃれるように期待に満ちてキラキラと輝いている。
「……あの、二人とも、本当に自分で食べられますから。腕は、まだ動くし……」
戦闘の反動による全身の筋肉痛は、確かにフォークを持つ腕すら鉛のように重く感じさせるほど酷い。だが、七歳の少年としての小さなプライドと、年上の美しい女性二人に甲斐甲斐しく世話を焼かれる状況への羞恥心が、彼の頬を微かに赤く染めていた。
「だーめよ。英雄様は、今、安静第一なんだから。これは任務の一環よ」
アナは悪戯っぽく片目をつむる。
「そうにゃ! 旦にゃさまは、みんなにニコニコ愛想を振りまくのがお仕事なのにゃ! 食べるのは私たちが手伝うから、旦にゃさまは父様とおしゃべりしてればいいのにゃ!」
アナとテトは顔を見合わせてくすくすと笑い、まるで雛鳥に餌を与える親鳥のように、次々とご馳走をベルの口元へと運ぶ。その微笑ましい光景に、近くの席にいた歴戦の武人たちが、厳つい顔をほころばせながら温かい眼差しを向けていた。
「カカカッ! 盟友殿は、戦場での鬼神の如き勇姿とは随分と印象が違うようだのぅ。これではどちらが従魔かわからぬではないか」
玉座から、獣王ケルヌンノスが愉快そうに喉を鳴らした。その黄金の瞳は、楽しげに細められている。
「……うるさいです」
むすっとした表情で言い返すベル。その子供らしい態度に、王は満足げに頷いたが、その表情はすぐに、ふっと影を帯びたものへと変わった。祝宴の喧騒が、まるで分厚いガラスを隔てた向こう側の出来事のように感じられるほど、王の声のトーンは静かに、そして重く沈んだ。
「ベルよ。此度の盟約、そして我が国を救ってくれたこと、心から感謝している。だがな、この祝宴の光が届かぬ深い闇が、この国にはまだ巣食っているのだ。この国に住まう全ての獣人が、お前と我々の選択を手放しで祝福しているわけではない」
王の視線は、広間にいる臣下たちの顔を一人一人確かめるように巡る。その視線は、忠誠を誓う者たちの顔を通り過ぎ、何人かの顔の上で僅かに、しかし鋭く留まった。
「今から数十年ほど前、我ら獣人と人間との間で、血で血を洗う大規模な戦争があった。人間たちはそれを『蛮族討伐』と呼び、我らは『大爪戦争』と呼ぶ。……多くの同胞が、人間の狡猾な罠と、信じた末の裏切りによって命を落とした。我が父である先王も、和平交渉の場で人間の騎士団に騙し討ちに遭い、帰らぬ人となった。その時の憎しみは、今なお癒えぬ傷として、一部の同胞たちの魂に深く、深く刻み込まれておる」
その言葉には、国を背負う王としての苦悩と、父を奪われた一個の獣人としての悲しみが、重く滲んでいた。
「その消えぬ憎しみを糧とし、歪んだ愛国心を正義と信じて生まれたのが、過激派組織『枷』だ。彼らは、人間との融和を説く我らを『誇りを捨てた弱腰』と断じ、力による獣人至上主義の復権を謳っている。彼らにとって、今日のこの祝宴は…同胞を殺した人間と王が馴れ合う、断じて許しがたい裏切りの光景に映っていることだろう。我らが融和への道を一歩進むたび、彼らの心の傷は抉られ、憎悪の炎は燃え盛るのだ」
ケルヌンノスは、琥珀色に輝くエールの満たされた杯を、静かに傾けた。その瞳の奥には、同胞でありながら刃を交えねばならぬかもしれぬ未来への、深い憂いが宿っていた。ベルは、アナとテトが差し出す食べ物にも気づかず、ただ黙って、王の言葉が持つ、血塗られた歴史の重みを受け止めていた。
その王の視線が届かぬ広間の隅。煌びやかなシャンデリアの光が作る影に紛れるように立ち、警備の任に就く男が一人。
警備隊長の腕章を巻いた、隻眼の虎獣人。
彼は壁に背を預け、一見すると泰然と周囲を睥睨しているように見えたが、その体重は不自然なほど右足に偏っていた。大爪戦争の折に人間の矢を受けて以来、時折疼く左膝の古傷が、祝宴の喧騒に合わせるかのように、ズキズキと熱を持った痛みを主張しているのだ。
彼の意識は、とうにこの祝祭の場にはなかった。その隻眼は、ただ一点――王と親しげに言葉を交わし、女たちに傅かれている忌々しい小僧、ベル・シレイラにのみ、焼き付くような憎悪と共に注がれていた。
(……馴れ合い、戯れおって……!)
内心で吐き捨てた毒は、煮えたぎるマグマのように熱い。
ズキン、と古傷の疼く左膝が、数日前の悪夢を鮮明に呼び覚ます。
――荒れ狂う海上。人間を攫い、我らの力を示す計画は、完璧なはずだった。あの小僧一人の前で赤子の手を捻るように打ち砕かれた。仲間たちの断末魔。そして、閃光のような剣筋が、この古傷の左膝を抉り、さらに利き腕である右手首の腱を容赦なく断ち切ったのだ。
まだ傷は癒えていない。右の手首はだらりと垂れ下がり、力を込めようとするだけで、神経を直接焼かれるような激痛が走る。長年連れ添った愛斧を握ることすら叶わない、この屈辱。この手は、数えきれないほどの人間を屠り、獣人の誇りを守ってきた手だ。それが今や、小僧一人に奪われ、無様に震えている。
その全ての元凶が、目の前で子供のように「あーん」などと世話を焼かれているのだ。
許せるはずがなかった。
我ら獣人の誇りは、いつからこんなにも安っぽくなったのだ。同胞の血を忘れた王は、もはや我らが王ではない。人間を信じ、我らを地に貶めた子供に媚びへつらう姿は、大爪戦争で散っていった英霊たちへの冒涜に他ならない。父王の無念を、王は忘れてしまったというのか。
(王よ、貴方が忘れた誇りは、我ら『枷』が取り戻す。この腐りきった国を、真の獣人の手に取り戻すのだ! 我らこそが、先王の意志を継ぐ者!)
虎獣人は、静かに視線を巡らせた。
警備兵の中に。給仕係の中に。そして、陽気な音楽を奏でる楽団の中にさえ、同じ憎悪の炎を目に宿した同胞たちが潜んでいる。彼らは皆、大爪戦争で家族を、友を、誇りを人間に奪われた者たちだ。彼は、痛む右手首を隠すように左手でそっと押さえながら、彼らにだけ分かるように、微かに、しかし確かな意志を込めて顎を引いた。
――時は、満ちた。
目配せを受けた者たちが、それぞれの持ち場で無言のまま頷き返す。その瞳には、これから始まる血の粛清への、狂信的な覚悟が宿っていた。祝宴の華やかな光は、彼らの心の深い闇までは、決して届かなかった。
祝宴が最高潮に達したその時、ケルヌンノス王がゆっくりと玉座から立ち上がり、黄金の杯を高々と掲げた。広間の喧騒が一瞬にして静まり、全ての獣人の視線が王へと注がれる。
「皆、静粛に! 我が同胞たちよ! 今一度、ここに宣言する! 我らチャタル王国は、人間の英雄ベル・シレイラと、血よりも濃い魂の盟約を結ぶ! これより彼は、我らが唯一無二の――」
王の言葉が、そこで途切れた。
「――獣人の誇りを、今こそ取り戻せェェェッ!!」
甲高い金属音と共に、警備隊長の虎獣人が佩いていた長剣を抜き放ち、雷鳴のような絶叫を上げたのだ。
それが、反逆の狼煙だった。
虎獣人の叫びに呼応し、祝宴会場の至る所で潜んでいた『枷』のメンバーたちが、隠し持っていた武器を手に、一斉に蜂起した。給仕のトレーの下から毒塗りの短剣が、楽器ケースの中からクロスボウが、そして警備兵の鞘から殺意に満ちた刃が、次々と姿を現す。
「「「ウオオオオオオッ!!」」」
平和な祝祭の雰囲気は、ガラス細工のように粉々に砕け散った。歓声は悲鳴に、陽気な音楽は怒号と金属音に取って代わられ、華やかな広間は一瞬にして血と裏切りが渦巻く凄惨な戦場へと変貌した。何が起きたか理解できない獣人たちが逃げ惑い、テーブルが倒れ、料理と食器が派手な音を立てて床に散乱する。
だが、その混沌の渦の中心にあって、ベルの仲間たちの動きは驚くほどに冷静で、そして迅速だった。
「――敵、総勢三十七! 斥候タイプ十二、重装兵タイプ八、術師タイプ三! 刃物の八割に即効性の麻痺毒を塗布! リーダーはあの隻眼の虎、最も危険です!」
誰よりも早く、ヘレンの紅き魔眼が敵の戦力、配置、脅威度をミリ秒単位で分析し、その情報を思考伝達で仲間全員に共有する。彼女の報告は、単なる情報ではなく、最適化された対処法までを含んでいた。
彼女の報告が終わるか終わらないかの刹那、フィンの杖が閃いた。
「させません!【結界魔法】!」
ベルたちを中心とした半径五メートルに、神々しい光のドームが瞬時に形成され、襲い来る最初の矢と毒刃の波を寸分違わず弾き返した。結界に触れた矢は勢いを失い、カランと虚しく床に落ちる。
結界が稼働した直後、アナが舞う。
「――風よ、我が刃となれ!『風装』!」
彼女の体が淡い緑光を放つ風のオーラに包まれる。それは、風魔法と強化魔法を極限まで融合させた彼女だけの戦闘形態。次の瞬間、アナの姿は人間の目で捉えることのできる速度を超越し、銀色のレイピアが残像を描きながら結界の外へと飛び出した。
「散りなさい!」
不可視の速度で敵陣に切り込んだ彼女の剣閃は、まさに風のバレエ。反逆者たちは、何が起きたのかを理解する間もなく、武器を弾き飛ばされ、あるいは急所を外した正確無比な一撃で戦闘能力を奪われていく。血を流さず、しかし確実に敵を無力化していくその剣技は、圧倒的な実力差を残酷なまでに示していた。
「マオリス、フェイドクロー、シェルナイト! 行くにゃ!」
テトの凛とした号令と共に、彼女の足元の影が蠢き、三体の従魔が実体化した。鋼鉄の甲殻を持つ亀のような「シェルナイト」がベルの前に立ちはだかり、その巨体で物理的な盾となる。俊敏な黒豹「マオリス」は影から影へと跳び、敵の死角から現れては攪乱し、鋭い爪を持つ怪鳥「フェイドクロー」がシャンデリアに止まり、上空から奇襲の機会を伺う。
「そして、私も戦うにゃ! インストール!」
テトは自らの胸に手を当て、従魔たちの力をその身に宿す。小柄な身体が魔力で満ち溢れ、彼女は砲弾のような速度で飛び出し、自分よりも遥かに巨大な熊獣人の腹に、信じられない威力の拳を叩き込んだ。熊獣人は「ぐふっ」と蛙が潰れたような声を漏らし、巨体をくの字に折り曲げて沈黙した。
その間も、ウールは冷静に戦場を俯瞰していた。彼は祝宴用のテーブルを蹴り台にして壁を駆け上がり、シャンデリアの支柱に足を掛けて逆さまにぶら下がるという離れ業をやってのける。
「厄介な蝿は、先に叩き落とす」
彼の構える魔導銃が、後方で混乱に乗じて詠唱を始めていた術師タイプの獣人を正確に捉える。息を止め、心臓の鼓動の合間に引き金を引く。放たれた魔弾は、寸分の狂いもなく術師の杖を砕き、詠唱を中断させた。彼の精密狙撃は、敵の戦術の芽を、それが開く前に的確に摘み取っていく。
分析、防御、高速蹂躙、攪乱、狙撃。ベルを守るという一点で結ばれた彼らの連携は、もはや一つの生命体のように有機的に機能し、圧倒的多数の敵を相手に一歩も引けを取らなかった。
「同胞に刃を向けるとは……愚か者どもがッ!」
ケルヌンノス王は、その顔に深い苦悩の色を浮かべながらも、反逆者たちを次々となぎ倒していく。だが、相手が憎むべき敵ではなく、道を違えただけの同胞であるという事実が、王の拳を僅かに鈍らせていた。殺さぬように手加減してしまうのだ。その一瞬の躊躇が、戦況を泥沼化させていた。
その凄惨な戦いを、ベルはフィンの結界の内側から、唇を噛み締めて見つめていた。
守られているだけの自分。仲間たちが血を流し、王が心を痛めているのに、筋肉痛で動けない自分が、もどかしくてたまらなかった。
(僕のせいで…僕がここにいるから、彼らは蜂起したんだ。なのに、僕は何もできないのか?)
彼は、全身の筋肉が断末魔の悲鳴を上げるのを感じながら、ゆっくりと、しかし確かな意志をもって立ち上がった。
「ベル様、いけません! ここは危険です!」
「ベル、動いちゃダメ!」
ヘレンの制止と、敵をいなしながらこちらを窺うアナの悲鳴を背中で受けながら、彼は結界から一歩、外へと踏み出した。
そして、憎悪の炎に身を焦がす反逆者たちに向かって、凛とした、それでいてどこか悲しみを帯びた声で語りかけた。
「やめてください。ケルヌンノス王は、あなたたちの未来を、この国の未来を誰よりも想っている。憎しみの連鎖は、新たな悲しみを生むだけで、何も解決しません」
不思議なことに、ベルの幼い声は、剣戟の音や怒号が渦巻く戦場にはっきりと響き渡った。その声に、何人かの若い獣人が一瞬動きを止める。
「それに、僕はもう、この国の『盟友』です。だから、みなさんが抱えている国の問題や痛みは、僕の問題でもあります。あなたたちが人間から受けた傷のことも、聞かせてほしい。一緒に考えさせてください」
その真摯な言葉は、しかし、復讐の鬼と化した虎獣人の心には届かなかった。むしろ、彼の憎悪の炎に油を注ぐ結果となる。
「黙れ、小僧ォッ!」
虎獣人にとって、その言葉は勝者の傲慢であり、同情という名の侮辱でしかなかった。
「貴様のような人間に、我ら同胞が流した血の悲しみの何がわかる! その偽善に満ちた口を、永遠に閉じさせてくれるわッ!」
虎獣人は咆哮と共に、床を砕かんばかりの力で地を蹴った。
彼の狙いはただ一つ、ベルの喉元。
獣人族の中でも最速と謳われた彼の瞬発力は、仲間たちの完璧な連携防御網に、コンマ数秒にも満たない、しかし致命的な綻びを生じさせた。ウールが次の狙撃目標に照準を合わせ、アナが別方向の敵を斬り払った、その一瞬の隙。
彼の動きは、アナの風をも置き去りにした。
フィンの結界を纏った槍も、ウールの弾丸も、テトの従魔も、間に合わない。
「――危ないッ!」
虎獣人の左手が、懐から引き抜いた短剣を煌めかせた。腱を切られ使えぬ右手の代わりに、不慣れな左手で握りしめられた刃。
その刃には、沼のように淀んだ青黒い毒が、致死の輝きを放ちながらベットリと塗られている。
その死の切っ先が、無防備なベルの首筋へと、一直線に突きつけられた。
「ベル君ッ!」
「ベルッ!」
フィンの悲痛な声と、アナの絶叫が、スローモーションと化した世界に木霊する。
煌めく毒の刃が、ベルの大きく見開かれた瞳に映り込む。
絶対的な死が、小さな英雄の目前に迫っていた。




