光、統べる者 21.
水上警察用の警備艇に香川県警の刑事と乗り込んだ石井は、海面にギラつく太陽の反射光に一瞬目を閉じた。
往路のフェリーでは瑞々しい夏を彩るものに見えた波の照り返しも、今はどこか禍々しさすら感じてしまう。
…頭の中の声、いや思考か、あれは誰だったのか。
それはチューリップハットの男の遺体を発見し、携帯電話での通報を行った直後だった。
突如頭に流れ込んで来た言葉、思考。
石井は以前これを体験したことがある。
子供の幽霊、御笠一巳との対話、それと同じ感覚だった。
その“声”は自分に尋ねた。どこに行くのですか? と。
辺りを見回したが人影はなく、幽霊らしき存在も見当たらない。
まさかこのチューリップハットの死体が……と背筋に悪寒が走ったが、その後に続く“声”がその可能性を消した。
『その人の親族ですか?』
御笠万凛に会いに、という思考が頭を過ぎっただけだったが、それを“声”は読み取ったのだろう。
チューリップハットの男であるなら先の集落での会話と流れが合わない。明らかに別人だ。
思ったこと、考えたことをその“声”は次々と読み取り、いくつかの質問の後にこう締めくくった。
『危なくあなたを死なせるところだった。楠木万凛にそれ以上近付いてはいけない。直ぐにこの島から離れなさい』
次いで、最後の“声”。
『私との対話は警察は勿論、誰にも話してはいけない。命は大切にされた方がいい』
目の前の死体、謎の“声”……何か想像を絶する恐ろしい事が起こっているのだ。
石井はちらっと警備艇に同乗した刑事に視線を向けた。
…これから事情聴取か。
あの“声”の主が男を殺害した可能性、それは話さなければならないのだろうか。
いや、そんな話、頭の中の思考の対話など警察が信じるだろうか。
そもそもあの“声”がどこの誰なのか、もっと言えば生きた人なのか幽霊だったのかすら判らない。
説明のしようもない。
『命は大切にされた方がいい』
…脅し、なのだろうな。
今の石井の苦悶の表情、それは先の奈執からの精神感応によるものだった。
苦悶、そして葛藤。
人が一人亡くなっているのだ。
解決の糸口かも知れない“頭の中の声”を知りながら、それを黙秘し傍観するしかないのか。
石井の中の道徳心がちくちくと自身の胸を痛みつける。
…警察にいるという光一ならば、何か力になってくれるのでは。
しかし、どう連絡を取るのか。
あの崎真という刑事を伝に……いや……
死をほのめかされ悩む石井は、飛沫を上げて瀬戸内海を滑る警備艇に揺られながら嫌な汗をかき続けていた。
なるほどあれが包帯の男の保護者だったか、と奈執は目を細める。
『金色』の正体が十三歳の少年だったと判った時、その両親は健在なのかという疑問が軽く頭の片隅を過ぎった。
そして今読み取った石井の思念から、山本光一の保護者代理をその母親に相談しているらしいことが判った。
しかしながら母親との相談は何か事情があり話にならず、母親の主治医と保護者の件を取り決めたらしい。
その主治医が都筑という名の医学博士で、光一の入院受け入れをした病院の経営者であることも判った。
母親は病気なのか怪我なのか、相談にならない理由とは何なのか、そこまでは読み取れなかった。
だが今それは重要な事ではない。
死なれては面倒な存在、それを楠木万凛から遠ざけることが出来たことにほっとする。
死んだら死んだで「知らなかった」で済むと言えばそれまでだが、包帯の男の保護者を死なせたとなるとどんなとばっちりが回って来るかわからない。
そう、脱走者達にとって一番の『謎』は他ならぬ『包帯の男』なのだ。
奈執の念頭に浮かび上がった疑問。
それは、緑養の郷にも白楼にも蹴蘭山研究所にも、そして筒波精神病院にも捕えられたことのない少年がなぜ我々を集めたのか、だ。
かつての刑事局の悪業、それに付随する皆月真人の記憶、それらは疑いようもなく、包帯の男である山本光一からもたらされた事実こそ我々の行動原理そのものだ。
それが御笠一巳の霊に寄って山本光一に手渡されたらしいことも聞いている。
…じゃあ、どうして選ばれたのが十三歳の子供なんだ?
能力スペックが高いからか。
確かに、『光の帯』を裏返して時空の狭間を作り出す結界など自分には形成出来ない。美馬にも出来なかったし篠瀬や穂褄にも無理だった。
論理的且つ俯瞰的な思考も十三歳とは思えない頭脳だ。天才児童であることは否定しない。
でも、それでも、だ。
…何かある。『金色』はまだ何か隠している。
奈執はほんの少し考え、すぐにやめた。
計画遂行を託されたのは自分だ。それは後で調べればいいこと。
『金色』が白楼で眠らされている今、新たな脱走者である雅弓や棚倉、狩野や栂井、更にはもうすぐ解放される警察の使い手達をまとめ導くのはこの奈執志郎なのだから。
…狩野君、役立たずの栂井なんか放っておいて早く戻れ。さすがに頭が重くなってきた。
精神疲労。
脱走者の中では比較的タフな奈執だったが、遠方にいた棚倉と栂井を遠隔転送させ、性懲りもなくこの島に踏み入って来た南條治信を撤退させる切り札も人体転送で引き寄せ、更には身勝手な狩野を呼び戻すための脅し転送、と度重なるとやはりきつい。
今気付いたが鏡水もこの島に近付いている。
サイコスリープは我慢でどうにかなる眠気ではない。いきなり意識が堕ちる。
男木島の若邑博士を死守するためにも狩野をここへ戻さなければならない。
意識を万凛の方へ向ける奈執。
この時もまだ奈執は気付いていなかった。
『金色』がその魂の明滅を取り戻し警察庁に現れていることに。
…また霊が『門』から……これで五体、いやもっとか? 能力を使うなよ、雅弓ちゃん。
楠木万凛の霊媒師能力、それがもたらす現象は幾つかある。
死者の霊を自分の肉体に憑依させ、その霊の言葉を第三者に聴かせる能力は取り立てて厄介な事態は起こりにくい。
だが、霊を第二階層まで降ろし第三者に認識させる能力、その霊を生前の『縁の者』へと向かわせる力、これが恐ろしい事態を招く。
かつて美馬恒征が分析した霊媒師能力、白楼の遠熊蒼甫関連データと武儀帆海の能力実践からの分析だが、それを奈執も知識共有している。
だがそれとは違う異質な点が、万凛の起こす現象にはある。
霊に呼ばれ、気付き、振り向いた時、既に生者の幽体はその一部が肉体から剥がれ始め、使い手の『光の帯』による幽体を隙間なく囲う行為で肉体に幽体が戻ることを阻害する、すなわち剥がれ続ける一方の状態に陥れるのが『抜き取り』だ。
でも、楠木万凛は使い手ではない。
剥がれかけた幽体の拘束はおろか、『光の帯』自体を放出出来ないのである。
幽体離脱などそう滅多に起こる現象ではない。にも関わらず、なぜ万凛の能力は『抜き取り』に至らしめるのか。
それが奈執には不可思議、もっと言えば奇怪だと思っていることの一つだ。
だから奈執は雅弓に『光の帯』を出すなと念を押していた。
『光の帯』の放出は非能力者の幽体が剥がれる現象と同じであり、その使い手本人も気付かぬまま完全に幽体離脱してしまうこともあるからだ。
それでも奈執が雅弓に“この危険な役目”を充てた理由には、遠熊蒼甫の定義する『霊視』の体験者だということがある。
『幽霊なんて怖くない。冷蔵庫みたいなだけ。でも優しい感じは危ないってわかった。お父さんとかエヅレみたく来ちゃダメって言ってくれないと帰ってこれない。』
この雅弓の言葉が霊の扱いに長けている使い手であることを示していた。
奈執達はスピリウル開眼時に霊の導きで第三階層=五次元空間への侵入を果たしているのだが、言葉や概念だけでは存在を認識し切れない五次元空間を認識出来たに過ぎず、霊の危険性までは経験則が足りない。
いや、霊の危険性と言うよりは万凛の能力の謎と言うべきか。
また、最悪、雅弓の犠牲だけで済むなら、との打算も奈執にはあった。
奈執が万凛から距離を取っている理由は、霊の徘徊はその範囲が狭いからだった。
亡くした自分の妻の霊も万凛の『門』から降りている可能性はある。
透視に映る霊は万凛を中心に半径約三十メートル以内をさまよっていた。
あのチューリップハットの男性が『抜き取り』にあった場所もその範囲に入る。
霊の徘徊範囲には何か理由があるのだろうが、今肝要なのは理由よりもその実範囲を違わず見極めておくこと。
とにかく自分がやられては本末転倒。
少々無駄口の多い七歳の少女だが、雅弓に任せるのが妥当だ。
…楠木万凛の能力の怪異はそれだけじゃない。使い手でもないのに会話相手の想起した人物を読み取るのだからな。
二つ目の謎。
『能力媒体』を介さない精神感応……もしくは精神感応に代わる読み取りの力。
奈執が初めて楠木万凛の一軒家を訪れた時、なかなか言葉を発しない彼女に気を揉んだが、なんとかそれなりの会話は成立した。
だが精神感応により覗き込んだ彼女の意識空間は独特で、人や動物を幾何学的な図形と色で記憶しており、目の前で話している奈執自身のことですらその実像が見る見るただの図形に置き換わっていくのだった。
万凛との会話におけるNGワードは『門を開いて欲しい』である。
おそらくは亡き夫の御笠正一が授けたであろう鍵、その言葉がどれほど遠くの地に自縛している霊であっても呼び寄せてしまう。
奈執は険しい表情で傍らに倒れている気絶した男女を見遣った。
そして心の中で呟く。それ以上あの家に近付くな南條……と。
そこには、自分も出来ることならもう万凛の近くに『光の帯』を伸ばしたくない、という保身の念もあった。
万凛の住む一軒家は、山の斜面を削り取った様な場所にひっそりと建てられている。
家屋の三方は垂直に切り立った山肌の土に囲まれ、そのため潮風の害を受けにくいが、家の周囲は一年中湿気でじめじめしていた。
そのため取り囲む土の壁には蔦やシダ植物が這い回り、きのこ類も繁殖している。
「……はぁ、はぁ、ふぅ。」
駆け上がってきた雅弓はピンク色の運動靴が土まみれになってしまい、口元をへの字に歪めた。
オーバーオールの裾にも土が着いている。
…嫌がるかな、つるつるオバン。
一軒家の玄関口で踏み石に土を擦り付けつつ、後ろを振り返る。
ケーブもハルノブも見えない。
よかった。
静かに玄関の木製の引き戸を開ける。
「……ただいま。」
敷居をまたぐ瞬間、ひやっと冷たい感覚が過ぎった。
多分幽霊だこれ、と雅弓は思う。
でも気付かないふりをする。
タニモトの声も聴こえるが、今は無視している。
そうニヒロに言われているからだ。
…そういえばヨウコどこだろ……あ、考えちゃだめなんだっけ。
玄関の引き戸を閉め、靴を脱ぎ、土間から板張りの廊下に上がる。
ズボン裾に着いていた土がぽろぽろと廊下に落ち、雅弓は慌てて手で土間へと払い捨てた。
なるべく音を立てない様に廊下を奥へと進む。
静かにしろとは誰にも言われていないが、あの“つるつるオバン”を見ていると何か騒がしくしてはいけない気になるからだ。
突き当たりを右に曲がると奥の部屋だが、雅弓は急に尿意を思い出し、左へ曲がった。
小走りで便所に向かい、用を済ませ、奥の部屋へ向かう。
…ああ、足音うるさかったかな。
妙な緊張感が雅弓を包み始める。
今までどんな大人にも感じなかった重たい感じ。
…ユウキが教えてくれた、なんだっけ……あ、威圧感、かな。
それがあの“つるつるオバン”にはある。
全然しゃべらないし、『光の帯』が使えないから何を考えているのかも判らない。
奥の部屋の前に着く。
その襖に手を掛けた雅弓は再び冷気を感じた。
でも、無視。
そろりそろりと引き戸を開ける。
「ただいま。」
雅弓のか細い声には全く反応を示さず、先と同様にその女性は居た。
その部屋は八畳間で、まるで時代劇のセットでも見ているかの様な古式家具が並んでいる。
窓はあるが雨戸が閉められており、外の光は一切入って来ない。天井の電灯も消されている。
青銅製の灯篭が二つ火を灯しており、その間に女性は座り、背後には屏風が立てられていた。
女性は和服姿で背筋は姿勢良く、顔はやや下向きでその目は時折ゆっくりと瞬きをする。
薄暗いため肌の血色はよくわからないが、肌荒れやシミなどは全く見られない。
しわも無いため、雅弓はコズカくらいの年かなと思っていた。
…つるつるオバン。
そして最も雅弓に警戒心を抱かせているのは、その無表情さ。
感情が全く判らないのだ。
機嫌が良いのか悪いのか、楽しいのか悲しいのか、さっぱり読めない。
「あ、あのね……あ。」
雅弓はニヒロに言われている『楠木万凛への報告』をしようと口を開いたが、襖を閉めていないことに気付き急いで閉めた。
「え、っと、青い服の変な帽子の人、なんかいなかった。」
万凛の前に正座しつつ、雅弓は報告を始めた。
しかしやはり万凛は反応しない。伏せ目がちの瞳すらぴくりとも動かない。
「……あ、だってね、探したのに、お巡りさんいて、親は? とか聞かれて……」
すると微動だにしなかった万凛が左腕をゆっくりと上げ、その手の平を雅弓に向けると、また下ろした。
そして静かに言う。
「あれは、かえった。」
万凛がしゃべってくれたことに少し嬉しくなった雅弓は強張っていた表情を緩めた。
「え、そうなの? 帰ったのか、なんだ。」
しかし、雅弓は知らない。
万凛の言葉が示す本当の意味を。
かえった、とは魂が肉体から抜けて第二階層、或いは第三階層に上がった、という意味だ。
「マリも視えるの? 使い手?」
雅弓の問い掛けに、だが万凛は再び無反応だった。
無視された様に感じた雅弓は少しムッとしたが、ニヒロに言われている通り我慢した。
ニヒロ……奈執が雅弓に指示したこと、それは大きく二つある。
一つはこの楠木万凛の家を訪れる人がいた場合、雅弓が玄関まで出て対応し、玄関前で待たせて万凛に報告すること。
二つ目は、訪れる人が無くても三十分置きくらいに家屋の周囲を見て周り、人を見掛けたら戻って万凛に報告すること。見つけた人の具体名は必要なく、容姿の特徴を伝えればいい、という指示。
その雅弓の行動は二つとも実質的にこの一軒家の監視、と言える。
万凛は事前に、奈執に『門を開いて下さい』と言われているため、結果的には雅弓と接触した人々は決して万凛に辿り着くことは出来ない。
なぜならば、魂を抜かれ、死ぬからだ。
雅弓の言葉が拙かったとしても、その魂の『抜き取り』は成る。
雅弓の記憶の残像があれば万凛は縁の故人を呼び出せる。
無感情に、機械のように、淡々と霊を向かわせる。
縁の生者へと。
…無視しなきゃ。あーでも……あーもう! こいつだけなんでこんなに!
雅弓は続けて報告しようとしたが、ついしかめっ面になってしまった。
時折現れる『こいつ』のせいで。
…幽霊のこと考えちゃダメなのに!
こいつ。
子供の幽霊。
多分自分と同い年か年下か、男の子。
なぜか他の霊よりはっきり視えるこいつ。
『光の帯』も出してないのに、はっきりと。
…座んなそんなとこに! 首から血ぃ出して! どっか行ってよもう!
その子供の霊は雅弓の横に並んで正座し、くるんと首だけ雅弓の方に向けたからたまらない。
でも冷たい感じはしない。
なんか薄く笑ってる。
キモい。
でもキモくない。
でも知ってる。
こういうのが一番やばい。
きっと魂とか連れて行かれちゃうんだ。
雅弓は必死に無視しようとし、でも内心では無視出来ずにこの子のことばかり気に掛かりつつも、万凛に向かって報告を続けた。
「えっと、それでね、いたのはお巡りさんが三人。やせてるのがいろいろ私に聞いてきた人と、なんか道具箱持ってた背が高いのと、ちょっと太ったオジンのお巡りさんで、あと、ケーブとハルノブ。」
万凛の顔色を伺うように見る雅弓。
やはり無反応。
「……あ、えっと、ケーブはコート着たオジン。茶色の、あ、濃い緑と茶色混ぜた色の、怖そうと思ったけど怖くないんだよケーブ。」
また少し万凛の反応を待つ雅弓。
でもつるつるの顔は全く表情を変えない。
「ハルノブはね、ハルノブ。探偵だよ。ちょっと悪い人って自分で言ってた。けど、ハルノブは好き……あ、白い、えっと、背広? 大人が着るやつの。」
雅弓がそこまで言った時、万凛は、今度は右手をゆっくりと上げ手の平を雅弓に向けた。
そしてまたゆっくりと降ろす。
雅弓は万凛が何を言うのか待ったが、無言だった。
ちらっと隣を見る雅弓。
子供の霊はいつの間にか万凛の方へ顔を向けている。
…ひゃっ!
冷気。
立て続けの冷気。
思わず硬く目をつむる雅弓。
無視しようと思っていてもわかる。自分の前から背後へと流れていく冷たい感触。
どうしてか万凛の辺りから出て来て外に向かって行く幽霊たち。
…つるつる大型冷蔵庫オバン業務用。
内心で万凛のアダ名を長く増やしつつ、思う。
この子供の霊はどうして出て行かないんだろう、と。
…あ、あーもう、考えちゃいけないんだった幽霊のこと!
悪寒。嫌な感じ。
この寒い感じは幽霊冷蔵庫のせい?
わかんないけど、凄く嫌な感じ。
子供幽霊のせいじゃないし、多分マリのせいでもない、何か悪い事が起こりそうな感じ。
その凶兆の予感を本能的に感じながらも雅弓は考えまいとした。
何か楽しいことを考えなくては、と霊や万凛から必死に意識を逸らす。
…学校はやく行きたいな。授業どんなかな。休み時間とか、給食とか……あ。
雅弓は上目使い気味に万凛の方を見て言った。
「ねえ、お菓子食べていい? ニヒロが置いてったやつ、それ。だってお腹空いちゃった。」
部屋の出入り口付近に置いてあるビニール袋を指差す。
そして万凛の返事を待つ。が、無言。
「ねえったら。あー聞いとけばよかったなニヒロ、食べていいか……マリに買って来たんでしょ? あれ。」
しかし万凛はやはり微動だにしない。
「ねーったらねえ! 業務用オバン! 食べていい!? マリが食べるの!?」
声を荒げる雅弓。
すると万凛に反応があった。
彼女は目を細め、顔をほんの少し起こし、言う。
「私は食事をしない。」
…あ、しゃべった。
「え、ご飯食べないの? いつも?」
雅弓の質問に、やはりまた沈黙の万凛。
無視された感に苛立つ雅弓。
「え、うそだー、死んじゃうんだよ食べないと! イオリ言ってたもん! うそつきつるつるぎょうむ、あ、大型冷蔵庫オバ……」
「騒がしい音だな。」
騒ぎ立てるような雅弓の物言いに被せる様な万凛の言葉。
その意味がよく判らなかった雅弓は思わず聞き返した。
「……え?」
次の万凛の言葉は間を空けずに発せられた。
「私は茶を飲む。それ以外は口にしない。」
「え、ぜんぜん食べないの? お腹空かないの?」
カサッ
背後でビニール袋の音。
雅弓が振り向くとあの子供の幽霊がお菓子の袋の所にいた。
そしてその幽霊はにこっと笑うと、すーっと消えていった。
…なんだろーなーあの子……あ、ダメダメ、無視しなきゃ……
雅弓は万凛の方へ振り返り言う。
「じゃ食べちゃうからねお菓子。あとで怒んないでね。」
万凛は何も答えず、また視線を床へと落とした。
雅弓は少し足が痺れ、四つん這いでお菓子の所まで行くと、小分けのスポンジケーキのような洋菓子の箱を開けた。
そして一緒に入っていたミルクティーのペットボトルも開栓すると、ミルクコーヒーを万凛の方へ向けて見せた。
「いる? マリ、コーヒー。」
万凛は相変わらず無反応だ。
仕方なく雅弓はコーヒーを袋に戻し、スポンジケーキの小袋を開けて口に運んだ。




