光、統べる者 20.
真夏の太陽が照り付ける中、女木島上空を湿った風が吹き渡る。
その風が密生した木々の葉を揺らす日蓮山、その山頂付近。
鬱蒼と生い茂る草木の合間を縫うように、空間の揺らめきを伴って山本光一は現れた。
彼を包む金色の能力霊体、その外郭がわさわさっと夏草を押し退けるように地面に近付く。
空中に浮いている光一の足元で、同時に出現した車椅子の能力保持が解かれ、バサッと落ち、ゴトッと傾いた。
その様子から山肌の斜面は足場がかなり悪いことが伺える。
車椅子など転がせる地面環境ではない場違いさだが、能力者の光一にとってそれは全く問題にはならない。
能力霊体に身体を預けた空中浮遊のまま、彼は第二階層クレヤボヤンスの眼を周囲に向けた。
明滅する『紫』はある家屋の中に在った。東浦の集落の中の民家だ。
『薄ピンク』も視える。が、あの子は集落から離れた一軒家に近い場所にいる。楠木万凛が住まうあの家の付近に。
他に能力者の魂の光は視えない。
…ん?
『薄ピンク』を追う光がある。二つ。
ああ、彼らか、と光一は直ぐに気付いた。県警の押塚と探偵の南條、いずれも非能力者、別段注意を向けるほどの者たちではない。
島の周囲はどうか。能力者はいるのか。
視界に瀬戸内海を滑る『灰色』が映る。
あれは、そうだ、刑事局の鏡水。この島に近付きつつあるようだ。
それ以外は、少なくとも女木島近辺には能力者はいない。
確か鏡水は狩野捜索も指示されていた。
四国捜査中に偶然知覚した『青緑』に釣られた、といったところか。
そう言えばその『青緑』、狩野が見当たらないが……その答えは奈執が『光の帯』を伸ばしているその先にあった。
「うーん……」
光一は思わず小さく唸った。
奈執も狩野も一体何をしているのか。
瞬間移動は四次元空間の時空の歪みを利用して三次元空間の座標と座標を繋ぐ能力。遠距離である程それなりの精神力疲弊になる……にも関わらずなぜか警察庁に飛んだ狩野、その狩野に能力霊体を伸ばしている奈執……奈執の能力者配置にミスがあったということなのだろうか。
…んん?
光一は更に眉をひそめた。
奈執の『紫』はこの女木島から遠く離れた東京の警察庁に伸び、何かを物質転送しているようだ。
これだけの遠隔転送ともなるとやはり相当な集中力と精神力を要する。
そのためか当の奈執はまだ光一の出現に気付いていない様子だ。
能力行使への過大な精神集中が奈執の精神視野を狭めているのだろう。
…で? さっきまでこの辺にいた狩野がどうして? 何をさせてる? 今は何を?
気になっていたこと。
奈執が自分自身も含めた使い手三人をこの女木島付近に置いた、その初期配置の理由。
無意識に目を閉じる光一。
スピリウル視界に切り替わった彼の透視は第一階層と第二階層を同時に知覚し、周辺をめまぐるしく探り始める。
その認識力と把握力の精度、処理速度は他の使い手の追従を許さない高スペックを光一は有している。
「あ!……」
思わず声を漏らす光一。
第二階層透視だけでは気付かなかった。
これか。
これを見張らせていたのか、狩野に。
見つけていたんだ、奈執は。
「……若邑兼久博士。」
博士は隣接する島、男木島にいた。
包帯の男である光一が皇藤満秀に書かせた杉浜光平への要求文書、その中にあるM.M.こと楠木万凛は若邑博士の精神鑑定と脳診察を受けている。
それが2001年7月29日のことで、皇藤が診察を取り持った理由は子育て放棄の上にそれを意に介さない万凛の異常さだった。
その際、若邑博士は精神鑑定の質疑応答の中である過ちを犯した。
それは家族の絆や愛情に関する、内容的にはごくありふれた質疑であり、『過ち』とする点があるならば若邑博士が万凛の霊媒師能力をよく知らなかったことだ。
若邑博士が内心で思い描いてしまったものと万凛の能力が恐ろしい事態を招いた。
若邑博士が想起したのは、食事を全く与えられずに死亡した乳児の事例や意図的に堕胎させられた臨月近い胎児の事例で、いずれも若邑本人が医師として対処した実際の案件。
そして万凛の能力はその乳児や胎児の霊を呼び寄せてしまった。
若邑博士の補助で来ていた看護師が二人いたのだが、二人とも精神に異常を来しそのまま刑事局の筒波精神病院に搬送された……。
そこからである。若邑兼久が皇藤の前から本当に姿を消してしまったのは。
要求文書を作成するに際し、慰霊碑と国営放送での公表、その期日をあなた自身が設定して下さいと包帯の男に求められた皇藤は、杉浜なら若邑博士の所在を握っているかも知れないとの疑念も込めて文書の中に『七月二十九日』を記した。
皇藤と杉浜、二人にしかわからない暗号の様に、メッセージとして。
尚、『十五時四十二分』という時刻は、あの日錯乱した看護師の一人が壊した柱時計、止まってしまった時計が指し示していた時刻だ。
光一達が若邑兼久を探し出す為には皇藤の協力が必要だった。
だが皇藤本人も若邑博士の行方は知らない。
楠木万凛に精神感応で読心を仕掛けても、若邑兼久という人間自体を想起してくれない。
若邑博士の精神鑑定報告書に寄れば『……人間を人間とは認識しておらず、道端の石ころとなんら変わらないイメージと種別感覚が見受けられ……』といった記載がある、それが楠木万凛だ。
だから彼女に想起させるのは事象、人物ではなく過去に起こった出来事を思い起こさせる。それに必要だったのが皇藤の記憶だった。
万凛の『あれは運ばれて来た。今は男木島にある』という思念を奈執が精神感応で読み取り、初めて若邑博士の所在が明らかになった。
その若邑兼久博士。
現状、魂の光が肉体の中にある、と言うことはまだ生きている。
だが三次元を視る眼には酸素吸入器や点滴などが映り、昏睡状態のようだ。
灯台下暗し、という慣用句をふと思い出す光一。
女木島から失踪した若邑博士を再び楠木万凛の近くに隠すなど、誰が想像出来るだろうか。
博士の現在の容態の原因、誰が男木島に連れて来たのか、その理由は何なのか、それらは未だ残る謎だった。
勿論、御笠一巳の霊は教えてくれるはずもない。
奈執が狩野に男木島の若邑博士を見張らせたのは、警察の捜査が入らないようにという意図に加え、使い手刑事の手が伸びた場合に阻止出来る者は? と考えた時、スピリウルの使い手が必要と考えたのだろう。
…で? 奈執さんは狩野を呼び戻そうとしているのか?
それに、仔駒雅弓の役割は何なのか……
…あ、そうか……そういうこと……
刑事や警官がこの島をうろついている訳、山中にある死体と見張り、楠木万凛の一軒家に迫る押塚と南條……光一は察した。
奈執が仔駒にさせている事と、これから訪れるであろう惨状を。
クレヤボヤンスの意識を死霊の光に向けてみる。
この島に徘徊する死者の魂の光。
やはり、か。
刹那、光一の眉間に縦じわが深く寄った。
…でも、これでは無差別な……や、でも……
皇藤満秀、杉浜光平、そして最後のピース若邑兼久、この三者は警察の保護下になど置かせてはならない。
そういう意味で奈執の判断は間違っていない、と思うべきか。
一つ確かなことは、これならば楠木万凛も若邑兼久も警察の手に渡ることはない、ということだ。
仔駒本人もうっかり『光の帯』を放出したりしない限り、餌食にはならないはずだ。
計画が円滑に進まない要因は警察庁に配置された棚倉や栂井にあると、おそらく奈執もそう認識しているだろう。
光一は、集落の中にいる奈執に一瞬意識を向けた後、再び空間の揺らめきの中へと姿を消した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
風見は覆面パトカーの運転席から降りるや否や、警察庁正面玄関に立つ警備局公安課の警官に向かって叫んだ。
「刑事局捜査課の風見です! 屋上人員配置とワイヤーの準備は!?」
敬礼と共に大声で即答する公安課警官。
「は! 配置及び準備完了、直ちに状況開始します!」
「急いで下さい! ワイヤーは形だけ投げ下ろしてもらえればいい!」
どうせワイヤー引き揚げなど使わない、傍目にワイヤーを伝っている様に見えればいい、全く以って要らない気苦労ばかり掛けさせる……と内心で愚痴る風見。
…さっさと警察庁内だけでも『使い手の存在と能力』を公表してしまえばいいものを。
無線機で状況開始の指示を送っている警官に風見は駆け寄り、無線機を奪い取る。
「……割り込み失礼、こちら刑事局捜査課風見、一本だけで構わないので迅速にお願いしたい、どうぞ。」
『……ジッ……只今安全帯及び滑車チェック完了、これより所定ポイントに二本降下させる、どうぞ。』
チェックなどいらん、一本でいいと言っているだろう! なんでもいいから早くしろ! と怒鳴り散らしたい衝動をぐっとこらえ、風見は奪った無線機を腰のベルトに挿し、隣に立っていた警官からも無線機を奪った。
覆面パトカーの方を振り返ると、紅河が後部シートからのそっと降りて来たところだった。
義継はまだ車内に座っており、白い『光の帯』をその頭上に揺らめかせている。
風見は車に走り寄り、後部ドアを開けると無線機を一つ義継に手渡した。
「義継君、制圧に当たる人員の状況はこの無線機から常に流れてくる。持っていて。さっきはあんな言い方したけど、有事の際は何かをお願いするかも知れない。でも自分の命が最優先、それだけは守ってね。」
「……」
義継は風見の方を見向きもせず、黙って無線機を受け取った。
風見を無視したわけではない。彼はより鮮明になって来たクレヤボヤンス視界に集中しつつ考えていた。
警察庁の中、そこにある様々な色の魂の光が、人が残留している場所を示している。
佐海刑事局長の魂色は覚えている。そこに五人、いや六人。おそらくこいつらは“お偉いさん”達だろう。
彼らが現場に指示を出している官僚達なら……
「……僕は湖洲香さんを守りに来た。単独行動を取る。風見さんと紅河クンの邪魔はしないよう努力はする。」
そう呟くように義継は言った。
直後、ふわっと香水の香が義継に近付く。
「わかった。無茶は絶対にするなよ、不登校少年君。」
ささやくような、いつに無く柔らかい風見の声。
ちらっと視線を横に流すと、すぐ横に風見の顔があり義継はドキッとした。
風見は紅河に手招きすると、屋上から伸びてくるワイヤーの真下に駆け寄る。
…紅河君に触らない様に、ぷわっと包む、ぷわっと。
いつだったか若邑特査員が言っていた紅河淳の持ち上げ方。
あれは怖い。
アルプスという名の犬の霊。
あれにやられると精神が引き裂かれるような衝撃が心に突き刺さる。
透視意識を紅河の周辺に向けてみる。
しかし、視えない。
…居るんだかいないんだか、とにかく今は噛まないでよね。
ワイヤーが目前に垂れ下がって来た。
安全帯のベルト締めをサポートしようと警官が駆け寄る。
だが風見はそれを手で制した。
「要りません。手を出さないよう願います。それから、目の前で何が起きても決して騒ぎ立てないで下さい。行くよ、紅河君。」
「はい、どぞ。」
風見は意を決し、クリーム色の『光の帯』を紅河に伸ばし、球体へと変形させて彼を包んだ。
来ない。
アルプスの牙は来ない。
いける。
そして別の『クリーム色』を上方へ伸ばし、組織犯罪対策課第二会議室の横、情報通信局第二会議室の窓へと引っ掛けホールドした。
そしてそれを縮めていく。風見と紅河はワイヤーに沿って勢い良く上昇して行った。
「……あ、え、ええ!?……」
ワイヤーには触れもせず空中を飛び上がって行く二人に、二度見、三度見しながら警官が胸元を探る。が、無線機は風見に持って行かれて、無い。
その横で、もう一人の警官も瞬きを忘れてぽかんと口を開いていた。
風見が情報通信局第二会議室の強化硝子窓に丸い穴を開けた、その直後のことだ。
…な! 『紫』か!
クレヤボヤンス視界をちらっと過ぎったそれは、紫に黄色い筋の入った『光の帯』だった。
…え、消えた?
紅河と共に会議室に入り込んだ風見は、クレヤボヤンス視界の射程距離を拡げつつ無線を入れる。
「……こちら刑事局捜査課風見、司令室へ、現場に到着、チャンネル指示願います、どうぞ。」
そして胸ポケットからイヤホンを取り出し、耳に差し込んだ。
ハンディ無線機から返答、この声は佐海警視監だ。小型受信機のチャンネルを合わせる。
すぐ隣がテロ発生現場、組対第二会議室だ。
この感触……視られた感触とでも言うのか、風見が真っ先に感じ取ったのは『赤』に知覚された感触。
さすが若邑特査員、『光の帯』の放出も無い状態で透視されたようだ。
次いで碓氷巡査が視ている感覚。
棚倉はまだ気付いていないようだ。彼はほぼ全身を碓氷の『灰色』に拘束されている。
そして『青緑』だが……様子がおかしい。これは“怯え”なのか。
『青緑』は明滅の止まった『赤紫』と重なるように在り、まるで精神力がざっくりと奪われたかのようなか弱い光り方をしている。
「こっちが湖洲香さんのいる部屋ですか?」
「……え、ああ、そう、だ。」
紅河の問い掛けにも生返事になってしまう風見。
一体どういう状況なのか……。
狩野は風見の洞察通り、恐怖に戦慄していた。
奈執が転送してきた“物”と、残したテレパシーの言葉に。
『ダメじゃないか狩野君。すぐ戻ってくれないと困るなぁ。大丈夫だよ、オレンジの君は。小指なんかなくたってバスケは出来るよ』
狩野は目の前に落とされた“それ”を前にし、目も背けられずにただ震えていた。
小指。
根元から切断された、人の小指。
最初は白っぽい小枝か何かだと思った。
だが、よく見ると爪があり、断面には骨や皮膚組織が生々しくある。
…な、なんだよ、これ、こんなの、まさか、ふ、ふさ、房生の、ま、まてよ、なんだよ、か、関係無いって、言ったじゃないか、奈執、さん……
狩野はテレポーテーションで警察庁に現れた後、栂井を連れ出すつもりだった。
彼女は脚に銃弾を受け、碓氷に気絶させられて意識が無い。
こいつが何をした、と碓氷に問い掛けたが、何もしていないと言う。
激怒。
狩野は激怒しスピリウルの刃を碓氷に向けた……その直後だった。
奈執からの物質転送と、そして精神感応。
動けない。
逃げたいのに、動けない。
栂井も意識不明の状態が長引くと後遺症が心配だ。
なのに、なのに、動けない……
『何してんの? 早く戻りなよ。報酬も出してあるでしょう』
「!……」
気付かなかった。
気付けなかった。
またしても『紫』の精神感応。
その出現に気付け……
「……うっ、うがっ、かわあ、あっあああっああ!」
叫び声が、狩野の渇いた喉が絞り出した叫び声が組対第二会議室に響き渡る。
またしても物質転送。
“それ”は狩野の足元にゴトッと落ちた。
人の腕。
肘から切断された、小指の無い左腕。
『あの子、オレンジちゃん、右利きだったかな? 一応残してあるけど。今すぐ戻ってあの一軒家を見張りなさい、狩野君。じゃないと、右手も落としちゃうよ』
『……房生、ふさ、房生、房生、手、手が、房生、房生、房生、手、手、手ぇ、房……』
限界。
精神力の限界。
恐怖に押し潰され、狩野は能力媒体を出すこともままならなくなっていた。
栂井を保持していた『青緑』は完全に消え、彼女はずるっと狩野の腕から滑り落ち、当の狩野は全身の力が抜けて床へとへたり込んだ。
「……はっ、はっ、はっ、はっ……」
再び消え去った『紫』に気付く余裕もなく、ただただ荒い息遣いで転送されて来た“腕”を虚ろに見ている。
ボゴオォン!!
唐突な壁の破壊音。
テレキネシス使用許可を得た風見が壁をぶち抜いた音。
実はここに登ってくる時すでにテレキネシスを使っているのだが、そんな事はどうでもいい。始末書ならいくらでも書いてやる。
佐海警視監からの指示は『若邑特査員及び狩野佳洋の制圧、確保』だった。
好戦的だった狩野だったが様子がおかしい、今の内に制圧を、といった指示内容だったが、風見は違うことを考えて突入を急いだ。
若邑特査員は制圧の必要などもともとない。
問題は狩野だ。こんな微弱な精神状態では逆に心配だ。
何をされたのか。
あの『紫』は狩野に何をしたのか。
「棚倉! それ以上動くな! 私は容赦しないぞ! 狩野! どうした? 何があった!?」
そう言いつつ風見は湖洲香に駆け寄り、その腕を掴んだ。
監視モニターで司令室には筒抜けだ。形だけでも若邑確保を演出しておかなければならない。
「おかしいの。」
風見に腕を掴まれたまま、湖洲香がぼそっとつぶやいた。
「え?」
風見が聞き返す。
背後の壁の穴には組対会議室に入り掛けている紅河がいる。
彼には前に出るなとは言ってあるが、ここが危険な状態にあることに変わりはない。
そして湖洲香の『赤』の蠢きは爆発寸前から変化していない。
一見テロは片付いた様相を呈しているが、まだ何も解決などしていないのだ。
『紫』への注意も継続しておかなければならない。
「人の腕、指も、おかしいですわ。」
「え……あ!」
この時風見も初めて気付いた。
狩野の前に落ちているもの、あれは人の腕ではないか。
これか、狩野を押し潰したものは。
「どうしてこんな所に腕が……」
「『紫』ですわ。送り付けてきたのよ、人の手を……」
少しづつ湖洲香の声に震えが伴ってくる。
掴んだ腕からも身体の震えが伝わってくる。
しかしそれは怯えの震えではない。
怒り。
今の「紫ですわ。」の言い方。
能力者でなくとも誰でも判る。湖洲香は『紫』に憤慨しているのだ。
「何がおかしいの? 若邑さん。」
「私ね、博士のお手伝いで検体解剖とか経験しているの。血の出方、出血の仕方がね、生きた人のじゃないみたい……ね、狩野さん、」
放心状態の狩野は湖洲香の呼び掛けが耳に入らない。
「狩野さん?」
被せて呼び掛ける湖洲香。
だが、彼は荒い息遣いのまま顔じゅうに汗を滴らせ、奈執の送り付けて来た腕に視線を落としたままだ。
『早く母殺しに手錠を掛けろ。少年と化物少女も連行だ。』
イヤホンに司令室の声。
これは次長の声か。
…うるさい。いきなり現れた腕がモニターでも見えているだろうが。傷害事件の可能性を少しは考えろ。
風見は『光の帯』でこっそりと小型受信機のバッテリーを外した。
これも携帯道具整備不備で始末書だ。
司令室の目的はテロ制圧、それが最優先なのはもちろん判る。
だが、この状況、司令室に『光の帯』が見えていない以上状況判断は現場でやらせてもらう。
独断に越権、始末書の枚数は増える一方だが、そんなことは今どうでもいいのだ。
ふと風見は思う。
なるほど適合色の『灰色』ではなくなった駄目な使い手刑事、それが自分か、と。
碓氷が、かなり疲弊したような声で言う。
「風見巡査、指示だ、若邑さんに手錠を。私は見ての通りテレキネシスを解けない。」
その目は、使い手に手錠など無意味も甚だしいが、と語っている。
…彼が正しいのでしょうね。でもね……
風見は碓氷の要求には応えず、狩野を怒鳴りつけた。
「おい狩野! 貴様はここに何しに来た! 若邑特査員がお呼びだぞ! いつまでそうしている気だ!」
狩野の過呼吸が弱まり、彼はゆっくりと顔を背後に向けた。
…あれ、風見、さん、いたのか……
湖洲香が言う。
「狩野さん、その手、確かに人の手だけど、多分ご遺体のものですわ。」
「……へ?……」
…遺体?
狩野には湖洲香の言葉の意味がすぐには理解出来なかった。
「あのね、生きた人の腕を切るとね、もっと血が沢山出て、ほら切り口、そんな風にすぐにはしわしわにならないのよ。多分大学病院とかのご検体かしら。色も白過ぎ。少なくとも生きた人から切った手ではないですわ。」
「え?……」
…生きた人から切ったんじゃない? てことは……
死んだ魚のようだった狩野の目に見る見る潤いが戻って来る。
それを見て真っ先に胸を撫で下ろしたのは風見だった。
その時である。
紅河が天井を見上げつつ叫んだ。
その手には深越先生から託された例の溶剤スプレー缶が握られている。
「やばいです! 湖洲香さんマルサン出してます!? 狩野君は!?」
「え?」
「!」
声を漏らした湖洲香に次いで、真っ先に“それ”に気付いたのは碓氷だった。
「きっ……『金色』出現! 組対第二の真上! 距離は約十メートル……」
無線機に向けて叫ぶ碓氷。
彼は自分の発言に震撼し、胸中で復唱するはめになった。
…なに!? 十メートル上だと!? 庁の階層構造からすると二階上、という事は……
「……し、司令室近辺に『金色』はいます!」
碓氷の報告と同時に現場である組対第二会議室の天井が溶け落ち始める。
紅河が気付いたのは異常なほどの急激な温度変化だった。
深越が紅河に託した溶剤は温度変化を視覚化する効果を持つ溶剤で、玩具などに利用される温度で色が変わる塗料。
紅河はそれを壁に向けて縦線を引くように吹き付けていた。
高温は空気中では上昇する傾向がある為、現場にいた者はすぐには気付けなかったのだが、塗布した溶剤の色の変化を見ていた紅河が真っ先に気付いた。
紅河が見たそれは多少の変化ではなかった。
この溶剤は低音で水色、温度が上がってくるとそれが灰色っぽい色に変わり、更に上がるとピンク色になって行く。
彼が焦って叫んだ理由は、天井付近がピンクを超えて白っぽくなり、炭化して黒ずんで来たからだ。
そう、溶剤の機能範囲をあっさり超えた温度変化だった……。
司令室では警察庁長官を始め、官僚達は皆言葉を失っていた。
監視モニターにノイズが走り、やがて映像がプツッと消えてしまった、その直後だ。
「初めまして。山本光一と申します。伴瓜警視正のご依頼で参りました。」
長官の直ぐ背後から、その声は聞こえた。
全員が声の方を振り向く。
黄色いカジュアルジャケット姿の少年が車椅子に座り、そこにいた。
かなり幼い顔立ちをしているが、報告書に目を通していた官僚達は気付く。
身震いとともに、それが刑事局の追っていた『包帯の男』であると。
…確保したのではなかったのか?
長官は椅子から立ち上がりつつ、光一の方を向いた。
そして首をこきっと鳴らし、目を細めて言う。
「君が脱走した超能力者どもの、『光の帯』とやらか? それを統括する者、か。」
その言葉を聞き、光一は呆れたような表情を演出する。
「光? 帯? 統べる者? 知らないなあ、そんなの。それよりも、下の心配をした方がいいのではありませんか? 溶けて崩れていましたよ、あの会議室の天井。」
長官は消えたモニターをちらっと見て、表情を硬くした。
現場の状況を把握する術が奪われた。指示を出す術も、だ。
額に浮いていた汗が一筋、頬を伝って落ちる。
長官席から二席離れた席で刑事局長の佐海は、目を細めて『包帯の男』をじっと睨みつけていた。




