光、統べる者 19.
ヘリポートはもちろん平坦な地面もほとんど無い女木島にあり、ヘリコプターへの乗降はホバリングによる浮遊した状態で行うしかない。
そこに素人の民間人が一人で降下上陸……県警察航空隊員は補助員も同時降下させると提言したが、それは要らぬ心配となった。
ヘリコプターからの単独降下動作、治信のその手際は航空隊員を驚かせ感心させた。
ワイヤー揺れを見極める着地タイミング、安全帯のベルトを解放する素早さ、ホイスト巻き揚げ目視確認まで不用意に姿勢を起こさない冷静さ、まるでプロの救助隊の模範動作さながらである。
島のどのポイントに上陸するか。
それも治信の決断は早かった。
…フェリー乗船客名簿に名前を残した奈執。これはあからさまな偽装、と見せかけて……
裏の裏をかき、奈執は雅弓を連れて女木島にいる、と治信は読んだ。
確証は無いが、探偵としての勘がそう彼に囁く。
とすると、ヘリでの上陸は危険極まりない、と普通は考える。
使い手の能力であれば簡単に墜落させられるからだ。
加えて今は『光の帯』の接近を察知出来る能力者が同乗しているわけでもない。
しかしながら、これまで接してきた奈執の言動から治信にはある確信があった。
…おそらくやつは私を襲わない。
脅しまがいの威嚇はあるかも知れないが、自分の乗るヘリを堕とすなどという凶行には及ばないはずだ。
奈執ではない他の誰か、例えば金で奈執に雇われた他者が女木島の番人にあてがわれていた場合は厄介だが、本人であればいきなり自分を殺害は無い。
攻撃の前に必ずなんらかの手段で最終警告をして来るはずだ。
…そもそも私は脱走者達の計略を阻害しようとしているわけではない、ということを奈執は良く分かっている。
ならば上陸ポイントをああだこうだと悩む必要はない。下手な考えは時間を浪費するだけだ。
知人探偵が捜査対象としている一軒家、そこから海岸方向へ百メートルほど離れた地点を治信は選んだ。
鬼ヶ島大洞窟を挟み集落とは反対側になる位置。
気掛かりなのはその探偵からの続報が途絶えていること。
治信の方からは女木島に入る旨を既に打診しており、今し方上陸したポイントも送信したところだ。
いつも通信レスポンスの早い彼だが、機器のトラブルでも起こしたのだろうか……そんな懸念を抱きつつ治信は夏草の生い繁る山肌の斜面を足早に進んだ。
…海に囲まれた島なら少しは過ごしやすいかとも思ったが、さすがに暑いな。
足場の悪い登り斜面が治信の額に汗をにじませる。
そよぐ風が放熱繊維を含む特製スーツから熱を奪ってくれるが、この湿度の高さは如何ともし難い。
腋の下にも軽い汗ばみを感じつつ、木々の増えていく険しい山道に歩を進めた。
岸壁を打っていた波の音が次第に遠のき、セミの鳴き声が強くなる。
「ん。」
木々の合間に、石の柱がスパッと切られた様なものが密集して地面から突き出ている。
確か柱状節理と言ったか、自然物だ。
…ほほぉ、この島でも見られるのか。玄武岩だと思ったが、とするとこの島の中ではもう標高は高い場所になるな。
携帯端末の表示を現在地精度の高いGPSマップに切り替える。
…ここが女木港、集落、鬼ヶ島大洞窟、で、例の一軒家……む!
位置確認をして視線を上げると、木々の向こうに人が数人走り過ぎたのが目に入った。
反射的に樹木の陰に身を隠す治信。
制服の警官が数名、そして私服姿が数名。
あの急ぎ方、警官が走っているとなると人身事故か事件だろう。
嫌な予感がする。
端末で通信情報を更新してみる。
知人探偵からの続報は相変わらず受信されていない。
治信は数秒の思案の後、一軒家ではなく警官が向かった方へと歩き出した。
しばらく行くと、警察服を着た巡査の一人が木から木へとパッキングテープを貼っている姿が見えた。
黄色地に“KEEP OUT”と印刷された幅広のテープで、ある場所を中心に囲いを作るように貼っている。
間違いなく人身事故、それも誰か命を落とした可能性が高い。
…ん?
テープで囲まれつつあるその内側には巡査が二人と私服の刑事らしき人物が四人、大きな岩を前にして話している。
治信が気に掛かったのはその私服姿の男の一人だ。
あの後ろ姿、真夏なのにフード付きコート……よく知っている“彼”に似ている。
「あなた、ここは立ち入り禁止になりますが……」
テープを貼っていた巡査が治信に気付き、駆け寄って来た。
治信は軽く巡査に会釈を返しつつ、その視線はコートの男を見る。
巡査は観光客らしくないスーツ姿の治信を怪訝そうに一瞥し、険しい表情で言った。
「……少々お伺いしたい事が。こんな山中に、観光ですか? まずお名前とご職業を……」
…お、やはり。
治信はコートの男が横を向いた時に気付いた。間違いない。
テープの下を潜りながら巡査に言う。
「いや、彼と話しますよ。ご苦労様です。」
「え、いえ、入ってはいけませ……」
巡査はそう言い掛けたが、人差し指で香川県警の刑事たちを指しつつ歩いて行く治信を見て言葉を止めた。
「なんだ? あの人も他県の刑事か? 白っぽいスーツとか派手な格好なんかして……」
再びテープ貼りの続きに駆け戻る巡査。
岩に近付く治信は一斉に刑事たちの視線を受けた。
私服四人、そのうち目つきが弱々しい刑事らしからぬ男が一人、こいつは誰だ……歩きながらも洞察を続ける治信。
一番目つきの悪いコートの男がぼそっと声を出す。
「よお。」
口元を緩め会釈する治信。
「来ていたなら私にも連絡が欲しいですね、押塚警視。」
「ま、いろいろと、な。なんだその暑苦しい格好は。パーティにでも行くのか。」
「真夏にコート姿のあなたに言われたくはありませんね。」
押塚も軽く表情を緩める。が、その表情は直ぐに険しいものへと戻った。
香川県警の年配の刑事が押塚に視線をやる。
「警視、彼もおたくの県警の?」
「いや、警部、いいんだこいつは。同じヤマを追ってる関係者だな。」
「ふん……で、この仏はそのヤマに関係がありそうですか?」
「まだなんとも言えん。所持品の運転免許だけではな。」
「身元は今洗わせています。それと鑑識もそろそろ到着するでしょう。」
治信が岩の方に目を向けると、布が被されている。
話の流れからすると、どうやらこの布の下にあるのは遺体のようだ。
治信は布を見て押塚に聴く。
「私も、よろしいですか?」
「ああ、見ておけ。」
岩に近寄り布をまくる。
「!」
…ミネさん!
予感はしていたが、実際に目にすると動揺が隠せない。
その遺体は治信の知人探偵だった。
顔に出血の跡は無い。治信は布を足下までまくり出血の状態を探る。衣服の上からでは外傷はわからなかった。
鑑識課も到着していないのなら発見直後であり、死因調査はこれからか。
…しかしこんな人目につきにくい場所でどうして発見された?
巡査や刑事の到着が早い、という事は通報か。
治信は“刑事らしからぬ男”と感じた男性をちらっと見た。
治信の視線を見て勘の良い押塚が言う。
「……そうだ。彼が第一発見者だ。石井和臣さん、株式会社オリーヴァの社長だ。」
弱々しく会釈する石井。
ああそうか、と気付く治信。株式会社オリーヴァの石井は山本光一の保護者という線で知っている。
入手した石井の画像はかなり若い頃のもので、自信に満ちた意気揚々とした表情もあり直ぐには気付かなかったのだった。
だが目の前の石井は老け込み、苦悶の表情をしている。
この変わり様は……ミネさんの死に何か関与している、と見るのは早計か。
訊問ならこの南條治信が直々に……そう思った時、治信は押塚が咎める様な視線を自分に向けている事に気付いた。
すかさず香川県警の警部が言う。
「彼はこのまま香川県警に同行頂き事情聴取です。私の部下が県警に同行、私はここに残り少しこの周辺を調べる。押塚警視はどうされます?」
「そうさな、俺もちとその辺を散歩、かな。」
香川県警警部は軽く頷くと、巡査達に現場警備と遺体監視を命じ、治信の方にじろっと目線だけを向けて言った。
「くれぐれも現場を荒らさないで下さいよ、高級スーツの関係者さん。」
明らかに蔑視を含んだ言い方だ。
彼から見れば一見世間知らずそうな若輩青年、無理もないか、と治信は聞き流した。
そして香川県警警部は部下の刑事と石井を連れ、鬼ヶ島大洞窟の方向へと離れて行った。
三人が離れて行くのを見届けると、押塚が小声で言った。
「おい、南條、念のために聞くんだが、お前この仏、知っていたりしないか?」
その声のニュアンス、さすが百戦錬磨の鬼刑事とでも言おうか、おそらく先の遺体を見た治信の反応で気付いたのだろう。
そう、知っている。それにもとから隠す気もない。
「はい。仕事仲間、といった間柄でしょうか。」
治信が感心したことはもう一点、香川県警の刑事達がいる場ではそれを問わなかったこと。
この遺体との関係が知られれば治信も事情聴取に引っ張られてしまうからだ。
「そうか、それは気の毒だったな……」
そして身元確認のことより先に治信の胸中を気遣うこの一言。
懐の深い刑事だ、と改めて思う。
「私があなた方に流した情報、フェリーの乗船客名簿に雅和希と雅祐実の名が残されていた件、情報元はこのミネさんです。」
「ほお、やはりそうだったのかい。ならば取ってやらなければならんな、仇をよ。」
「……はい。」
遺体監視を命じられた巡査が小走りでこちらへ来る。
周囲のテープ貼りが済んだのだろう。
押塚は顎をクイっと動かし、少し離れよう、と治信を促した。
「で、だな、あの探偵の遺体だが、ざっと見たところ外傷が見当たらない。細けえことは鑑識が来るまで判らんが、あれだ、蓮田の死に方、覚えてるだろ。」
「心臓麻痺、それも急性の、と見せかけた……」
「おう、能力者によって魂を抜かれた、と特査が可能性の一つとして挙げている死因だな。それに奈執と仔駒の嬢ちゃんだ。こんな離れ小島に一体何があるって言うんだ?」
「その前に、石井は何か言っていましたか? 周知の通り彼は山本光一の保護者です。」
「ああ知っている。山本確保の後すぐに崎真に聴取させてるが、石井は能力者の能力について具体的にはほとんど知らないようだな。で、ここに来た目的は観光だと言った。散策にしちゃあこんな山ん中をうろつくのは妙だと思ったが、それ以外は何も。彼のことは香川県警の報告を待つしかねぇな。」
なるほど管轄の問題で香川県警に重要参考人を持って行かれた、という訳か。
金色の使い手の保護者が観光だけでこんな島に来るものか。
石井がいくら正直者であろうとも、この妙な使い手抗争に関わる重要証言を香川県警が掘り出すのは無理だろう。
段取りを踏まなければ動いていかない警察捜査の重たさ、そして振りかざされる管轄権。
分かってはいるが治信にしてみれば歯痒いとしか言いようがない。
こうなっては、今はまず押塚に自分が得ている最新情報をかいつまんででも伝えておくしかない。
「ミネさんが追っていたのは御笠万凛という女性で、その女性がこの女木島に所在している可能性があることを突き止め……」
「だから見て来てって言われただけ! オジン!」
突然甲高い少女の声が遠くに聞こえ、治信は言葉を止めた。
押塚もその声の方を振り向く。
「あ……あれは!」
「ん、だな……」
そこには、遺体現場警備の巡査の一人が腰を屈め、小学生くらいの少女と話している姿があった。
そして話し相手の少女が誰なのか、治信と押塚にはすぐに判った。
…雅弓ちゃん!
駆け寄ろうとした治信の腕を、押塚が掴んで止める。
「南條、ここは慎重にいこう。嬢ちゃんがいるってことは、いるぞ、奈執もな。」
「ええ、分かっています。だがヤツは私をいきなり殺傷はしない。それが出来たならヘリで近付いた時点でやっているでしょう。大丈夫です。」
「だからこそ慎重に、だ。奈執は嬢ちゃんに何をさせようとしているのか、その目的は判るのか?」
「それは……」
現時点では判らない。
判らなければ聞き出す。
素直な雅弓なら奈執に何を言われたのか話してくれるかも知れない。
話せないなら『言えない』と言うはずだ。
その言葉のニュアンスと表情から読み取る。
とにかく今は“GO”だ。
目の前に雅弓がいるのだぞ。
ならば“GO”だろう。
奈執にはやられっ放しだ。
行け。
この身体が動くのなら、命があるのなら、ためらいは無用だ。
行って雅弓を奪い返せ。
そのために、その為だけに私はここに来ているのだ。
「……目的は後でいい。とにかく雅弓ちゃんと接触することが……」
引き止める腕に力を入れる押塚。
「考えたのか!? 嬢ちゃんがあの探偵を殺った可能性を!」
「え……いや、しかし……」
押塚の指摘にハッとする治信。
同時に気付く。
『奈執』というワードが、その存在が自分から冷静さをじわじわと奪っていたことに。
治信は深く息を吐き、肩から力を抜いた。
それを確かめると押塚は掴んでいた手を放し、ずいっと治信の前に出た。
「よし、南條、まず俺が嬢ちゃんに帰ってくるよう話し掛ける。それでな、俺が急に倒れたり何か様子がおかしかったらな、直ちにお前はこの島を離れろ。奈執には今も俺たちのことが当然視えているだろうからよ、お前の言う通り逃げるお前を殺すことはしないはずだ。いいな。」
「そっ……そんなことは出来ませんよ。あなたを盾にして逃げる? 冗談じゃ……」
「馬鹿野郎! 言う事を聞けこのオタンコナスが! 二人ともやられたら話んなんねぇだろうが。お前は嬢ちゃんの様子を見て奈執の目的を、ヒントだけでも掴め。この島に何があって何をしようとしているのか、そういうのを読み取るのは南條、お前の方が得意だろうがよ。」
「いえ、いや、押塚さん……」
「そんな顔はらしくねぇな。いつものクールなポーカーフェイスはどうした。ま、あれだ、俺に何かあったらよ、崎真の唐変木と喜多室を頼むぞ。」
そう言うと押塚は夏草の茂る土の斜面をずんずんと歩き出した。
その背を見ながら治信は両の手を自分の顔にピシャッと当てる。そしてスーツの襟を正し顎を引くと、三メートル程の距離をあけて押塚について行った。
脱走者達との戦いに覚悟を決めて臨んでいた非能力者は自分だけではなかった、その実感。
これまで組織というものに属したことのなかった治信だが、こういう上司の下で働くのも悪くないかも知れない、と刹那思った。
押塚が近付いて来ることに気付いた雅弓は、急に表情を強張らせた。
「久し振りだな、元気そうじゃねぇか、嬢ちゃん。」
押塚の語りかけにコクっと無言で頷く雅弓。
その表情はどこか後ろめたさを伴っているように見える。
特査から連れ出されたまま帰らないことの後ろめたさなのか、それとも別の理由のそれか。
先の『見て来てって言われた』という発言から伺えることは、彼女は今透視能力を使っていなかったということ。
黙っていれば好き勝手に能力を使い始める雅弓にあり、奈執から透視を禁止されている可能性が高い。
それはなぜなのか。
「いやな、嬢ちゃんの声が聞こえたから来てみたのさ。『見て来て』と言われたのかい? 何をだ?」
少々突っ込み過ぎか、とも思ったが押塚は思い切って聞いてみた。
雅弓はやや上目遣いになり、ぼそぼそと答える。
「え、いなくなったか……」
…お、素直に話す、か?
「いなくなった? 誰が?」
「知らない人……あ! ハル……あ……」
…南條にも今気付いたみてぇだな。
急に視線を下げる雅弓。
その表情を凝視する押塚。
傍らにいる巡査が口を挟む。
「警視殿、この子、ご家族のことや、迷子か、と聞いてもそれには答えてくれませんで、何か人を探している様子なのですが、どうもその、どこか不審で……」
そこまで言った巡査に手のひらを向けて制する押塚。
それよりも雅弓の瞳の動き、泳ぎ方、何かを思案しているか、もしくは……
…奈執のテレパシーでも拾っている、のか?
だとするとヤツの『光の帯』はここまで伸びて来ていることになる。
危険か……いや、今更危険も何もないか。
どこにいようが同じ事だ。
気付かないふりをしてやる。
「なあ、嬢ちゃん、赤羽根博士も遠熊班長も皆心配してるぞ。一度県警に戻らないか?」
押塚は両膝に手を当てて中腰になり雅弓に顔を近付けた。
彼の言葉に雅弓はふと思い出す。
…あ、腕相撲! イオリとくまりん、わんこ注入、あれ締め切り、あ、もうすぐだ……ユウキ忘れてないかな……
こちらを覗き込んでいる押塚の穏やかな表情、それが雅弓を不意に現実に引き戻す。
「……え、あ、え、っと、ケーブも? 心配?」
「俺か? そうさな、寂しいな、うるさい嬢ちゃんが特査にいないと、な。」
「うるさい!? オジ……え……」
雅弓は再び下を向き思案顔になった。
ちらっと押塚の顔を見て、そのやや後方にいる治信の顔を見る。
そしてまた視線を落とすと、
「……これだけ言うだけ……」
と小さく呟いた後、すーっと息を吸い込み大声で叫んだ。
「元気だもん私!」
その直後に踵を返し、唐突に走り出し……たが、直ぐに立ち止まり振り向く雅弓。
そして言い忘れていたと言わんばかりの表情でこう付け加える。
「あ、来ちゃダメだって、こっち!」
そして再び木々の奥へと走り出した。
「自分が追います!」
そう言って走り掛けた巡査を押塚は引き止める。
「大丈夫だ。子供の足なんぞたかが知れてる。俺たちが追う。遺体の監視しっかり頼むぞ。」
「……は。」
敬礼を押塚に向ける巡査。
押塚の背後に追い付いた治信は右手の中指をこめかみにあて、トントンと叩く仕草をする。
治信に目配せをし、雅弓の走り去った方へと歩き出す押塚。
その数秒後に治信は中指を止め、また押塚を追うように歩き出す。
遺体の現場から四、五十メートル離れた辺りで二人は立ち止まった。
「これは俺の推論だ。まず探偵殺し。嬢ちゃんは透視を使って無ぇ。魂を抜き取るとかなんとかだって対象が視えなけりゃどうにもならんだろ。なら嬢ちゃんは殺ってない。これはどうだ?」
「はい、私もそう考えます。が、それには『直接は』という但し書きが付きます。」
「ふん、直接殺してはいない、か。」
遠熊蒼甫の論文には、生者から魂を抜き取る時には家族や親類、生前に関係の深かった故人の霊に引っ張らせる、とあった。
その論文の『霊視』という能力を経てマルサン開眼した雅弓。
また、霊との接触にも恐れ知らずだった雅弓。
魂の抜き取りが奈執の仕業だったとしても雅弓がなんらかの形で関わった可能性はあり得る。
「しかし、殺人とは知らずに協力させられたのなら……」
…許せん……許せんぞ奈執。
「教唆の内容に寄るな……。南條、ここから先は何が起きてもおかしく無ぇ。状況と認識を共有しておこう。」
「はい。」
「嬢ちゃんは誰かに『見て来て』と言われ、遺体のある場所に現れた。犯人が奈執であるならば透視で視ることもあの探偵が絶命したことも判るのに、だ。で、『来ちゃ駄目だって』という発言を残した。これはおそらく不特定多数の人間に向けた発言じゃあなく、俺、或いはお前、特定の者に向けられた言葉だな。奈執は俺とお前がいることを知り嬢ちゃんを遣わせたってこった。それ以上来たら殺す、と俺は受け取った。どうだ?」
「同感です。」
「ふん。で、さっきお前が言い掛けた件だ。ミカサマリ、か? それは御笠一巳の母親のことか? だったらこの島に所在もなにも、亡くなっているじゃねぇか。」
「刑事局の記録では、です。それも死亡に関する日時や死因などの詳細はなく、御笠一巳のデータに『母親 御笠万凛 故人』と一行記されているだけです。使い手孤児データに信憑性の低い記載があるのはもうご存知かと思います。」
「実は生きている、か……で、あの探偵のクライアントは判るのか?」
「それはわかりません。我々は依頼者に対する守秘義務を徹底しますから。」
治信の言葉を聞き終わるや否や、押塚はおもむろに煙草とライターを取り出し、点火した。
煙を吐きつつ、目を細める。
「ふぅ……南條、」
「はい。」
「お前の目的は嬢ちゃんの保護、だな。」
「そうです。」
「この関連の報告書はな、カマイタチだのポルターガイストだの子供の霊だの、オカルトまみれだ。」
三口目の煙を吐くと、押塚は携帯灰皿に吸いかけのままの煙草を押し込んだ。
「……無茶はするなと言いたいが、何が無茶なのかも俺にはよくわからん。俺とは十メートル以上距離を取れ。で、しつこいようだが俺が倒れたら逃げろ。これだけは絶対に守れ。んじゃ突入再開だ。」
歩き出す押塚。
治信は押塚の言葉の意味を考える。
…警視は『単独行動を取れ』とは言っていない。無茶するな、という事は、可能であれば援護も欲しい、とも取れる。
オカルトまみれとは押塚らしい表現だな、と思う。
霊の所為がまかり通る、文字通り“死の世界”への突入。
敵は本当に奈執だけなのか、という不審も頭から離してはいけない。
押塚の援護など出来るものなのか。
今まで感じた事のない得体の知れない恐怖心が胸中を過る。
その恐怖心を心の奥底に押し込み、治信もまた歩き始めた。
幾重にも重なってこだまする蝉の声が不意に耳につく。それはあたかも異世界の深淵から響く耳鳴りの様に、治信には感じられた。




