夷草の唄 7.
高さ三メートルにも及ぶ白い壁が延々と続いている。
その反対側には雑木林があり、車道との間を緑色のフェンスが仕切っていた。
車道のアスファルトは所々ひび割れており、鏡水巡査の運転する車は補修の行き届いていない路面に幾度となくタイヤを取られそうになる。
時折立っている警戒標識『!』は何の危険を促しているのだろうか。
見通しが悪いわけでも無く、左は白い壁、右はフェンスが続いているだけだ。
…患者の奇声でも聞こえてくる、とか。
ふとそんな事を考えていると、壁沿いに正門が見えて来た。
鉄製の正門も、地面から百六十センチくらいの高さに小さな開閉式の覗き窓があるだけで、それ以外は真っ白に塗られた壁である。
つまり敷地内を外から見ることは出来ない。
鏡水は門の前に車を停めると、門柱にあるコールブザーを鳴らした。
コールブザーの上に小さく『警察庁刑事局関連施設』と申し訳程度に表記されているが、施設名称は書かれていない。
…なるほど、病院と言うよりは刑務所だなこれは。
左右の門柱の上から見下ろすように睨んでいる監視カメラを見て、鏡水は思った。
インターフォンから男性の声が返ってくる。
『はい。』
「刑事局捜査第一課の鏡水です。山本公子の面会に参りました。」
『伺っております。門を開けますのでお車ごとお入り下さい。』
いかにも重たそうな音を立てて正門が横にスライドしていく。
鏡水は警察庁の覆面パトカーを筒波精神病院の敷地内へと乗り入れた。
正面玄関から院内に入ると、すぐに水色の術衣を着た五十歳前後の男性医師が現れた。
医師は軽く会釈すると、鏡水を一階に連なる診察室の一つに案内した。
物腰は一見落ち着いている医師だが、どこか動作がせわしない。
昨今、精神神経科の外来患者数は増加傾向だと聞いているが、御多分に洩れずこの医師もそれ相当の量のカルテを抱えているのだろう、と鏡水は思った。
「山本公子の担当医、須釜と申します。担当と言っても副担当で、主治医は都筑尚道博士です。都筑は今ここにはおりません。どうぞお掛け下さい。こんな場所で申し訳ありませんが、ご勘弁願います。」
診察室の奥にいた女性看護師が、コーヒーを二つ運んで来た。
それを見て鏡水は、面会の前にいろいろと確認したいことがあるという意思表示だろう、と受け取った。
閉鎖病棟の患者ともなるとすぐに面会というわけにもいかないのだろう。
それに、自分は普通の面会者ではない。
「刑事局捜査第一課、鏡水です。」
鏡水はまず須釜を視た。非能力者だ。
そして、ふわりと『光の帯』を頭上に出し、院内全体にクレヤボヤンスを向けた。
能力者は見当たらない。が、睡眠中の者はこれだけでは判別がつかない。
彼女はクレヤボヤンスを常時発動状態とした。
須釜は看護師に退室を命じると、話し始めた。
「私は能力者の存在を知らされている立場の者です。もちろん院内には知らされていない職員もおります。少々ややこしい話になりますが、主治医の都筑は警察庁組織の人間ではありません。外部の医学博士で、そのため能力者の存在を知らされておりません。」
都筑博士のことは鏡水も聞いている。
山本光一が入院していた民間総合病院の経営者だ。
「超能力を知る患者、或いは体験した可能性のある患者は全て私が担当しております。確認ですが、鏡水さんはラボ教育を経ている能力者、で間違いありませんね?」
「はい、その通りです。」
須釜は鏡水の目を覗くように見て、二度ほど小さく頷くと、ふぅ、と軽くため息をついた。
そして、山本公子の病状について話し出す。
「山本公子は強迫性障害です。既に聞いているでしょうが、改めて申しますと……乳児が自分を殺しに来る、という妄想にとりつかれています。産まれて間もない赤ちゃんを見ると、それが映像や画像であってもパニックを起こします。また、自殺、自傷を繰り返すことから一時的な拘束も要する患者です。そして……」
須釜の説明は特査の赤羽根から聞いていたものとほぼ同じだった。
憶測を交えない事実だけの説明は鏡水にとって有り難く、頭の中で情報を整理しやすい。
刑事局しか掴んでいない情報と照らし合わせると、診断では原因不明となっている強迫観念の正体が浮上してくる。
…乳児の息子に傷害を負わされたのだろう。かつての若邑美湖の悲劇のように。
まだ断定は出来ない。
息子である山本光一が生まれ付いての能力者であったなら、という仮説の上での話だ。
だが、そうなるとあの私立探偵の推測も現実味を帯びてくる。
山本光一は若邑湖洲香と同様に臨床実験によって産み落とされた、人工的な使い手かも知れないという仮説だ。
「……以上が山本公子の病状です。あなた方の聴取にはテレパシーを用いた方法もあると伺っております。精神感応を使う判断はお任せするしかないと思いますが、我々能力を持たない者にはどんな精神状態が読み取れるのか、そのリスクが予測出来ません。私が最も恐れるのは、患者の抱える強迫観念があなたにコピーされてしまうような事態です。危険を感じたら、無理をなさらず戻ってきて頂きたい。」
「はい、心得ました。」
強迫性障害を患う患者は、時に想像も付かないような奇行をするという。
何が見えているのか、何が聴こえているのか、誰が強迫しているのか、何が脅迫しているのか、なぜその強迫から逃れられないのか……これらは理や常識に当てはめようとしても無駄だ、と赤羽根博士から聴いている。
…理解しようとせず、事実を拾い上げるんだ。
怖くない、と言えば嘘になる。
どんな化物が潜んでいるか判らない、精神障害者の意識空間。
だが、廃病院で遭遇した死霊の怨念よりはましなはずだ、と鏡水は自分を奮い立たせた。
とにもかくにも事実を掘り当てるのだ。
山本光一少年の、金色の使い手の、出生経緯に関する事実を。
「宜しければ……」
須釜は椅子から立ち上がった。
「……行きましょうか、閉鎖病棟へ。」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
第三クォーター開始時、城東槍塚は二人メンバーを入れ替えてきた。
27番と33番を下げ、26番と32番が配置に着く。
愛彩は少しほっとしていた。
マッチアップしていた長身の27番が下がった。動きは遅かったが、先にポジションを取られるとどうにもならなかったからだ。
逆に城東槍塚の選手は驚きの表情で一斉に桜南ベンチに視線を向けた。
あのすばしっこい17番が出ていない。
ダブルチームを指示された24番染谷と、このピリオドから入った32番のシューティングガード前川は、顔を見合わせると声を上げた。
「チェック15番!」
「14番オーケー!」
染谷は桜南15番の美岬ににじり寄りながらほくそ笑んでいた。
…ふん、こいつは相手にならない。
桜南16番の寿々音がコートにボールを投げ入れ、それを14番咲良がキャッチ、そのまま再び寿々音に返す。
マンツーマンに切り替えた城槍は28番川村が寿々音にプレッシャーを掛けに走る。
「みゅっ!」
寿々音はさすがに焦ったが、監督の言葉を思い出し、すぐさまドリブルを止めて左右を見た。
…ゆっくり、ゆっくり回す。
13番愛彩へボールを回し、自分は28番の裏へ身体を入れる。
愛彩はチェンジオブペースで切り込む素振りを見せたが、26番も張り付き方がしつこい。
振り向きざまに後ろにいた寿々音にボールを戻した。
寿々音の視界にカットイン気味に中へ走る美岬が映った。
しかしそれを遮るように24番がパスコースを塞いでいる。
寿々音の前に28番が回り込んできた時、美岬が手を上げながら外へまた出てきたのが見えた。
…ミサキの最下点は59.5センチ。
寿々音は心の中でつぶやくと、散々やり込んできたパスを、ジャンプシュート最下点を狙って出した。
24番染谷が切り替えして美岬のドリブルコースを塞ぐ……が、美岬はパスを受けた瞬間にもうジャンプシュートのモーションに入っていた。
…え、そこから打つ!?
染谷は不意を突かれた。
美岬のスリーが放たれる。
打たれたボールを目で追いつつ振り返ると、13番がもうゴール下に走り込んでいる。
…あの13番、結構ゴール下は上手い。けどね……
美岬のシュートがリングに弾かれる。
愛彩に張り付くように同時に走り込んでいた26番が、溢れたボールの真下を取った。
ほぼ同時に跳んだ13番愛彩と26番だったが、リバウンドは26番が抑えた。
この時愛彩は落ち着き払った26番の動きに、薄々勘付いていた自分達の欠点を指摘された様な気がした。
…落下地点の予測、向こうの方が早い。
桜南はこれまで速いモーションとは何かを追求してきた。
でもまだまだ突き詰めるポイントが偏っていたのだ、と気付かされる。
房生舞衣という愛彩にとってのお手本は、運動量の多さでそれを補っていたに過ぎなかった。
それだけでは駄目なんだ……バックコートに戻りながら愛彩は考える。
落ちたシュートボールの落下地点を、城槍の選手は何を見て予測しポジション取りをしているのか……
26番から28番に渡ったボールは、桜南が戻り切る前に32番にパスされた。
32番をマークする咲良がやっとゴールとの間に割って入った瞬間、もう32番はスリーポイントラインの外からシュートを放っていた。
美岬と24番がリバウンドに走り込む。
だが、綺麗な弧を描いた32番のシュートはスパッと小さな音を立ててリングを潜った。
桜南ベンチでそれを見ていた舞衣は、きゅっと唇を固く閉じた。
あの熟れたシュートフォーム、城槍選手達の落ち着いた表情、おそらくスリーポイントに特化した練習をしている選手だ。
同じ事を桜南の監督も感じたようだった。
「房生、次、出すぞ。」
そう言うと監督は第三クォーターから得点ボードを担当している二年の佐藤に交代を告げた。
城槍のマンツーマンディフェンスは厳しく、不意を突いた美岬の外からのシュート以降なかなか打たせてもらえない。
30番に張り付かれているマリモはエアボールを連発、ドライブを織り混ぜるもドリブル技術が拙くスチールされて得点に繋がらない状態が続いた。
…何も、なんにも出来ない……
ディフェンスがマンツーマンに変わっただけで打つことも出来ないのか……マリモは息が上がり、精神的にも追い詰められていく。
相手チームの選手に、どうしてこんな素人がいるの、と馬鹿にされているような錯覚さえ感じ始めていた。
第三クォーター開始二分を過ぎた頃、アウトオブバウンズのタイミングで舞衣は咲良と交代、愛彩を28番のマークに、寿々音を32番のマークへと指示。そして美岬を26番のマークへと戻した。
城槍の監督が右手の人差指と中指を立てて“2”を示し、それを24番染谷と32番前川が見て頷く。
…出たな、17番!
愛彩から舞衣にパスが渡った直後、染谷と前川が舞衣に張り付いた。
…ダブルチームか。
想定していなかったわけではないが、さすが城東槍塚、すごい圧迫感だ。
舞衣は試しにフェイントを入れずにドリブルに入ってみた。
ダンッダンダダンッ!
これはきつい。
半端な高さではカットされそうだ。
すぐに舞衣はドリブルを止め、左に開いていたマリモを確認すると右にフェイントを入れてからパスを出した。
…マリモちゃんは床から30センチ。
低いパスがマリモへ飛ぶ。
間髪入れずに舞衣はゴール下へと走る。それを24番染谷が追う。
32番前川は一旦マークを切りボールの行方を見る。
マリモがシュートモーションのタイミングを誤り、ボールを受け損なった。
こぼれ球を30番がスチール、それを見てフロントコートへ走り始める32番前川。
前川に渡ったボールはまたスリーポイントラインの外から放たれた。
これが決まる。
桜南の監督は握っていた拳の中が汗でじっとり濡れているのを感じた。
あの迷いのないロングシュート、まさか一年生にスリーポイントシューターがいたとは。
三本連続でスリーを決めるなど、高校一年でそんな完成度があるのか? まるで悪夢でも見ているようだ。
…うちのディフェンスが弱いのか……自由に打たせ過ぎか……
得点は40対51、遂に城槍に十点以上の差を許してしまった。
想定していなかった。
全国大会常連校とは言え、こんな選手を隠していたなどと誰が想像出来るのか。
しかし何か手を打たなければならない。
どうする。
どうするか……。
中二階でぼーっと試合を眺めていた狩野は思った。
あのチビちゃんはもう駄目だな。
敵の方が全然シュート上手いじゃないか。
房生は何してるんだ?
二人くらい交わせないのか?
後ろにドリブルして周ればいいじゃないか。
あれ、バスケって真ん中から戻るの出来ないんだっけ?
勝ってたのに、もう十一点差かよ。
そして第三階層に『光の帯』をゆらっと出現させると、体育館の入り口にあった自動販売機へと伸ばす。
数秒後、狩野の手元に缶の炭酸飲料が現れた。
どこかしらけた様な目付きでプルトップを起こすと、狩野はそれを飲み始めた。




