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灰色男と恋わずらい  作者: 榊原啓悠
愛しい人よ、もう一度
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第三十六話

 改造人間になるより数年前のある日、職場である花屋から帰る道中、橘花音は不良グループに襲われていた。下卑た笑い声をあげながら、不良の一人が花音を羽交い絞めにし、仲間のもう一人が上着のボタンを引きちぎる。もうすぐ冬になろうというその時期で、少しだけ厚着をしていたことが功を奏したのか、花音の衣服を剥ぎ取るのに不良たちは少々手間取る格好となっていた。

 花音の必死の懇願も虚しく、ついに柔肌をさらけだしてしまいそうになったその時、気だるげな声が彼女たちのいた夜の裏通りに響き渡った。

「忘れ物してたんで渡しにきたんですけど……随分と扇情的な格好ですね橘さん」

 目の前の光景を理解できていないのか、それとも理解してなお平静を保っていられるのか、問題のバイト――桐谷静馬は冗談めかして見下ろしてきた。

 勿論このような光景を見られて口封じをしようとしないはずも無い。不良達は花音を押さえておく人数だけ残して静馬をリンチににしようと一斉に襲いかかった。否、襲いかかろうと『した』のだ。

 振り上げた拳が静馬を打ち据えようとしたその瞬間、夜の裏通りは恐怖に凍りついた。ソレは、つい一秒前まで気の抜けた顔と声でつっ立っていただけの優男が発していいモノではないのは明らかである。敢えて擬音をつけることも叶わない、そんな漆黒の眼差しにさらされて、不良達は散り散りに退散した。

 花屋で働いている時も時折顔を覗かせていた静馬の邪悪な本性を間近で見てしまったのである。普通の人間は命の危機を本能的に察知して逃げるなり命乞いをする。そうでなくとも恐怖を感じることは間違いないのだ。

 だが、花音は

「どうして、そんな悲しそうなの?」

 救いの手を差し伸べようとした。

 静馬はこれまで、『自分』を知った人間からは距離を置くように努めてきた。そうすれば、誰を傷つけることも無いからである。父を殺し、妹の亡骸と一緒に葬ってから過ごした十代の日々の中で彼はそれを学んでいた。


『悪意そのもの』。『邪悪の化身』。そんな揶揄をされてきた彼にとって、周囲の人間からの視線は暴力にも等しかった。   

幼少の頃から愛情の代わりに悪意と暴力を刷り込まれ、良心や愛情を知識としてしか持ち合わせていない静馬には、外の世界はあまりにも別世界だったのだ。

我を通そうとすれば殴られることを知っていた彼は、この新しい世界に順応するために、トラウマを押し殺し、周囲の人間の言葉や表情を真似るように努めた。

だが、ぎこちない。静馬の仕草、言動、表情に至るまで、何もかもが無機質めいていた。久しぶりに登校した小学校での周囲の待遇は、あまりに心無いものであった。

やがて静馬は自分一人だけになった自宅を出ていくことにした。既に同級生は地元の中学校に通っているが、静馬は同じように学校に通うつもりは無かった。

この頃、静馬は町の不良グループに絡まれるようになった。陰気な雰囲気と顔が気に入らない等の理由をつけて、少年たちはことあるごとに静馬を殴った。

ある日、不良グループの少年の一人が静馬がいつも身につけている大きなヘッドフォンを取り上げた。殴られても蹴られても、決して手放そうとしないその小さな反抗に嗜虐心を炊きつけられたのだ。

だが、ヘッドフォンを取っても何も無かった。文字通り、『何も無かった』のである。そこにあるべきである、耳も。


この日、静馬は初めて家族以外の人間に手を上げた。

そこにはヘッドフォンの下を見た不良グループへの復讐心があった。それが明確な殺意と悪意を孕んでいたことは、言うまでもない。

 不良を何人か半殺しにしてやったその晩から、静馬の世界は静けさを取り戻した。

 こうして静馬は、再び独りになった。


 町を出て、住処を変えて、色々な土地を放浪しても、それは変わらなかった。

 決して誰かを傷つけたい訳ではない。

 誓って誰かを悲しませたい訳では無い。

 それでも静馬は不幸を呼び寄せる黒猫の如く蔑まれ、社会に溶け込むことができなかった。

 その理由が自分の本質的な『在り方』に起因するものであることを、最初から理解していたとしても。


どだい、根本から捻じ曲げられている自分が周囲と同じように生活することなど不可能なのだ。ならばいっそ、せめて一度くらい人様の役に立って、それからどこかでひっそりとこの無意味な一生に幕を閉じよう。

そんな考えがよぎるようになった頃、彼は橘花音に出会った。

 

不良たちが退散して安心したのか、せきを切ったかのように泣き出した花音を包み込むように抱きしめながら、静馬は腕の中で震える花音に言われた言葉を反芻してみた。

「悲しそう……?」

 ためしに顔を触ってみて初めて、静馬は自分の表情に妙な強張りがあることに気が付いた。慌てたように普段の仏頂面を再び顔面に貼り付けるものの、どこかぎこちない。

 胸にすがりついたまま離れようとしない花音を剥がす気分にもなれず、静馬は不自然な笑顔をぶら下げたまま、しばらく裏通りで立ち尽くしていた。

 ついさっきまでの喧騒が嘘のように静まり返った裏通りに、やがて小雨が降り出した。傘をさすまでも無い、霧のような雨。この霧に溶けて消えてしまうような錯覚に襲われて、静馬は自分が何処にいるのか分からなくなっていった。


「桐谷くん?」

 か細い声が、静馬を現実に引き戻す。

 いつの間にか落ち着きを取り戻していたのか、橘花音は既に泣いてはいなかった。それどころか、ずっと抱かれていたことを改めて認識したらしく、頬を染めてさえいる。静馬は素直に彼女を離してやることにした。

 さっきまでの浮遊感が残留し、ぼやけたままの感覚を引きずりながら、静馬は来た道を引き返そうとする。

「あ、あの、今日はありがとう」

 たどたどしい声で花音が礼を言ってくる。これもあまり経験がない。静馬は驚きで思わず後方を振り返った。


 橘花音は、あどけない少女のような、儚げな眼差しでこちらを見つめていた。

 

――そんな目で、僕を見るな。

 

反射的にそう言いかけたその時、花音はそっと静馬の頬を撫でた。

撫でた指先には、光る雫が付いていた。

「あなたが泣いてちゃ、あべこべじゃない」

「…………………それは、雨だよ」


 もう少しだけ、生きていたいと静馬は願った。


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