第三十五話
灼熱の戦場で、跳び回る二つの影。
一方は獣の如き咆哮を上げ、目にも止まらぬ速さと圧倒的な胆力でもって暴れまわり、またもう一方の影は、襲いかかる『ソレ』を紙一重で躱しながら勝機を伺っている。
一見、一方的にも見えるこの戦いだが、躱している方の影――桐谷静馬のペースで戦闘は運ばれていた。
圧倒的な運動性で迫り来る弾丸の如き突進を、さながら闘牛士のようにいなし、隙を見せたところですかさず蹴りをかます。知恵を効かせた不意打ちを食らってしまった夕方の一戦に比べて、むしろ静馬にとってはやりやすいものとなっていた。
だが、攻めたてるもう一方の影――麻倉香織こと橘花音もまた、殺人衝動に全てを委ねることでさらに思い切りがよくなり、結果、運動性を飛躍的に上昇させている。
万が一にでも躱すタイミングを損なえば、その時点で静馬の敗北は決定する。一撃でも貰ってしまったら、次こそ必ずこの身は粉々に打ち砕かれるであろうことは、静馬も重々承知していた。
僅かな隙を見つけては繰り返される静馬の攻撃によるダメージは徐々にではあるが、少しずつ花音の中に蓄積している。そしてそのダメージは、やがて彼女も無視できないモノになっていった。
五発目の蹴りを横腹に叩き込まれ、絶叫と共に身をよじらせて花音がその肢体を地面に投げ出す。間髪入れず、静馬は一気に勝負を決めるべく先程建物の残骸から取り出した鉄骨を振り下ろした。
金属音が響き渡り、鉄骨がひしゃげる。
花音が苦し紛れに放った裏拳は、しかし鉄骨ごと静馬の右肩を叩き潰していた。
「んな、アホな……」
普段喋りもしない関西弁を吐き出してしまう程、静馬は驚愕していた。苦し紛れのでたらめな攻撃。それも鉄骨で防がれて威力を殺されていた
というのにも関わらず、その拳の一撃は静馬に深刻なダメージを与えてい
たのだ。
苦痛には慣れていても、身体構造を変えることは出来ない。いかに改造人間の義体といえど、短期間のうちに何度も強い衝撃にさらされては、その部位の機能は損なわれる。
結論として、静馬はもはや、完全に右腕の機能を失ったと言える。
残された左腕までも潰されてはたまらない。ここは一時撤退しようか。そんな思考を巡らせるそのほんの僅かな隙に、花音は仰向けの姿勢のまま、体操の『ブリッジ』の如く立ち上がった。
持ち上がった上体に追随する形で、花音の鉄拳が繰り出される。起き上がった勢いもあり、拳が空を走るその速度は先程の拳とは比べ物にならない程に速くなっていた。
至近距離の一撃。その血染めの鉄拳が静馬の顔面に炸裂しようというその一瞬、静馬は限界まで身体を捻った。
拳に合わせて自身も反り返ることで、静馬はまたも紙一重のところで拳を躱す。そのまま転がって後退し、瓦礫に衝突した。
逆襲の鉄拳を躱された花音もまた、姿勢を崩して地面に倒れ込む。だがその双眸は揺るがず、むしろより一層殺意をむき出しにしていた。その圧倒的な殺人衝動は、町に惨劇を起こした張本人がこの少女であるということを雄弁に物語っている。
静馬の持つそれとは違う、捕食者や搾取者といった連想を促すそれは、向けられている静馬はおろか、この辺り一帯の人間全てに襲いかかっていた。
麻倉幹久のかけた呪いは、あまりにも根深い。
「麻倉幹久……無茶苦茶しやがって。花音はな、本当はビビリで内気なんだぞ。それをまぁよくもここまで弄ってくれちゃってまぁ……」
左腕と両足でなんとか立ち上がり、静馬はかつての恋人に穏やかな表情を見せる。
「顔は変わってるけど、僕は君の知ってる桐谷静馬だよ。そして君の名前は橘花音。君は麻倉香織じゃないし、こんな怖いことをする人でもない。普通の女の子なんだ」
身の毛もよだつ殺意の奔流の中で、静馬は優しい声色で語りかけた。
流れる時間がまるで静止したかのように二人は見つめあったまま動かない。轟々と燃え盛る火炎はそんな二人を包むようにして燃え広がり、熱で揺れる大気の向こうに互いが互いの姿を瞳に写した。
ススと血糊で汚れてボロボロになったパーカーの袖をぎゅうっと掴んで、少女は震える唇を動かそうとする。
「し、しず……ず……」
砕けた心をかき集めて、溶けて流れた記憶を固め直して、それでも穴のある自我の中で少女はやっと浮かんできた愛しいヒトの名を口にする。
「しず、ま」




