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灰色男と恋わずらい  作者: 榊原啓悠
愛しい人よ、もう一度
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第二十七話

 淡々と自己紹介をする静馬を、解せぬといった面持ちで影から見守るのは、果たして佐条あきらである。屋敷の中に置かれていた金属バットを構え、必要とあらば不意打ちを仕掛けようと虎視眈々と狙っていた彼女であった。が、やって来た千載一遇の奇襲の機会だというのに、余人を割り込ませる一切の余地も残されてはいなかった。

「……どういうことよ、アイツ。女の子を口説きに来たわけでもないでしょうに……」

 麻倉香織の殻を被った全くの別人、とあの少年の姿をした改造人間は語った。ならばあそこであっけにとられて自己紹介を聞いているのは、あの反応から察するに、桐谷静馬の人間だった頃の知り合いなのだろうか。

 思考をそこまで展開させて、しかしあきらはすぐに頭を振り払って脳をクリアにした。今の自分がしなければいけないのは、あの少女の正体を探ることでも、ましてや桐谷静馬の過去を詮索することでもない。身動きの取れない彼を救出することである。だが今はまだその時では無い。あきらは、物陰から機会をうかがうこの現状を継続することにした。

 眉をひそめ、バットをしっかりと握りなおす。物音を立てぬように細心の注意を払って、佐条あきらはいつでも飛び込むことができるように身構えた。


「僕には昔妹がいてね。まあ僕が子供の頃に死んじゃったけど。昔のキミはその妹によく似てたからさ、その、何だ。放っておけなくてね」

「……なに言ってるの」

「だから付き合っていたあの半年間、僕はキミに恋愛感情を抱いたことは無かった。それが申し訳なかったから、僕は何も言わずにキミの前から立ち去ったんだ。……三年ぶりの再会がこんなカタチになるとは夢にも思わなかったけど、もしまた会えたらそのことをキミに謝ろうってずっと思ってた」

「なに、言ってるの。私は、麻倉香織」

「違うよ。キミの名前は、橘花音たちばなかのん。面倒見が良くて、たまにお節介で、困ってる人は放っておかない、僕の元カノ」 

 まっすぐに少女の瞳を見つめる静馬の表情は、これまであきらが見たことのないモノであった。

「タチ……バ……ナ……?」

 よろよろと後ずさる橘花音と呼ばれたその少女は、誰の目から見ても分かるくらいに狼狽している。その震える体を、やっと動かせるようになった左腕で、静馬はそっと抱きしめた。


「かのん……って……」

 静馬の言うとおり、あの少女が浅倉香織であるという望みは既に絶っていたつもりだった。しかし、こうして現実をつきつけられることで、行き場のない絶望感が、佐条あきらを打ちのめす。握りしめたバットを震わせて、息を殺して潜むことも忘れ、少女はただただ傍観するのみであった。

 はっきりと、違うと言って欲しかった。「私は麻倉香織だ」と、嘘でもいいから言って欲しかった。だが今、霧谷静馬に抱きしめられているその少女の目に浮かんでいるのは、拒絶では無く、困惑。それを見てとった瞬間、佐条あきらは悟る。少女は間違いなく『橘花音』という赤の他人であること。自身の求める人物では、決してないことを。

 乱れる心の波を抑えきれず、少女はその頬を濡らした。


 優しく、かつてしてもらったように、静馬は少女の背中を撫でる。ブツブツと何事かを呟きながら、橘花音と呼ばれた少女はされるがままに抱きしめられている。地下室での薬物投与と電極による中枢神経の浸食によって植えつけられた『麻倉香織』の人格と、かつての恋人を名のる少年の姿の改造人間によって揺さぶられた『橘花音』の人格がせめぎあい、互いを食い潰し合う。少女の器に、その二つの人格が共生できるだけの容量は、しかし存在してはいなかった。

「わたしに――」

震えの収まらない少女のか細い声を聞きながら、静馬は何度も、何度も背中を撫でた。

「わ、たし、にぃ――」

精神が限界に達し、少女の見開かれた双眼に今までとは異なる暗い明りがともった。


「私にッ! 触れるなあぁぁああぁあああーーーッ‼」

 咆哮をあげ、少女は抱きしめる少年の左腕を振り払い、後ろに飛びのいた。荒い息遣いは、ともすれば過呼吸に陥ってしまうほどのペースで行われており、その息が吐き出されるたびに、先程まで保っていた理性が音を立てて崩れていった。

 唐突な拒絶に、とっくに戦意を喪失していた静馬は反応することもできない。呆気にとられた様子で呆然とする静馬に、暴走する少女の鉄拳が殺到するかに見えた。

「だあぁありゃあぁああぁ!」

 絶叫と共にあきらが渾身のフルスイングを炸裂させると、少女は完全に不意を突かれたのか、なすすべもなく地を転がった。

「何ボサっとしてる! 来い、静馬ぁ!」

 自分の頬を伝う涙を拭おうともせず、あきらはバットを静馬につきつける。

「……花音を置いては、行けない」

「バカ! 寝言は寝てから言えってーの! あの娘は今、アンタを殺そうとしたんだよ!」

 静馬は突きつけられたバットを握ることもせず、やっと動くようになった脚でフラフラと立ち上がった。そこから数メートルと離れていない地点で、少女が地に手をつき、立ち上がろうとする。前髪で顔は見えないが、逆にそれが恐怖を醸し出していた。

「そんなでかいヘッドフォンつけてるから私の言ってること聞こえないんだ! 逃げるんだよ! この場から、一刻も速くッ!」

 バットの代わりに自前の手を差し伸べて、それでも掴もうとしない静馬の左手を強引に握りしめて、あきらは全力で走りだした。フラフラと足をもつれさせて引きずられる静馬を忌々しく思いながら、あきらは麻倉邸の裏門を目指す。頬を伝う涙をきらめかせて、あきらは駆けた。


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