第二十六話
三階の高さに位置するその書斎に存在する小さな窓を、耳を突く音を立てて吹き飛ばし、ソレは転がり込んできた。
果たして、麻倉香織である。
「逃げろ」と口にするも間もなく殺到した鉄拳の嵐に全身を打ち据えられ、静馬は壁に叩きつけられた。とっさの防御も虚しく、全身のいたる部位が悲鳴を上げる。激痛のあまり首を振ると、視界の端で、あきらが背を向けて逃げていくのが見えて、ほのかに安堵した。
「さあ、名前を聞かせてよ、私の勝ちでしょぉ?」
明滅を繰り返す目の前の景色を睨みながら、崩れた壁の破片を手がかりに立ち上がり、静馬は笑う少女を見据えた。
「ちょ、ちょっとセコイんじゃないの? 不意打ち、とか、さ」
途切れ途切れに呟きながら、笑う膝を押さえつける。歪む視界の中央に佇む少女が、再度鉄拳を繰り出してくるのと、それを捌くべく地を蹴ったのはほぼ同時のことであった。
轟音と共に破壊されるコンクリート壁を振り返ることもせず、静馬は香織の脇をすり抜けて全力で駆け抜ける。床から壁、壁から天井と、縦横無尽に疾走し、無防備な少女の後頭部に狙いをさだめた。
天井を蹴って、弾丸のごとく突撃を敢行する。一撃、あわよくば二擊程食らわせて昏倒させ、その隙に佐条あきらを救出する、というのが静馬の狙いだった。そして握り固めた拳が少女のうなじを穿とうとしたその刹那、静馬は愕然とした。
待っていた、とばかりに振り返って微笑む少女の屈託の無い、笑顔に対して。
振り向きざまに繰り出された裏拳が、咄嗟にガードした静馬の右腕を容赦なく叩き潰す。きりもみ回転をしながら、静馬は壁を貫く弾丸となった。
コンクリート壁を粉砕して、静馬はそのまま麻倉邸の庭に落下した。直撃をもらい、完全に戦闘不能に陥った静馬を見下ろし、麻倉香織は先程のように満面の笑みをたたえて、勝ち誇るように語りかけた。
「もうこれで完全に詰み、でしょ?いいかげんに教えてくれない、アナタの名前」
全身を襲う激痛に眉をひそめて、静馬はうーむと唸った。先程の裏拳で右腕は完全にスクラップとなっており、破損箇所からは人口筋繊維と思しきソレが顔を覗かせている。また、壁を突き破った際に受身をとることができず、自動修復が終了するまでは指一本動かすこともままならない。
「……確かにこれは、もう……、どうしようも、無い……か、も」
庭に軽やかに着地して、少女がゆっくりと近寄ってくるのを視界の隅に捉えながら、静馬は残った左腕と両足の破損状況を確かめる。外傷は特に認められず、あと少しすれば動かせるようになるだろうと結論づけ、同時にその結論に絶望した。
今すぐこの場から逃走することが不可能であるこの現状で残された選択肢は、動けるようになるまで時間を稼ぐことだけだった。だが、口八丁で煙に巻くのもそろそろ限界であることは、もはや疑う余地も無い。少女の纏うただならぬ気配が、静馬にそう確信させた。
「ああ、分かった。降参だ。……僕の名前を教えれば、いいんだよな」
「そうよー」
「念のため、聞いておきたいんだけど」
「質問してるのは私なんだけど」
やっぱり駄目か、と心の中で呟いて、静馬は溜息をついた。
「でも何だかその格好だと潰れたカエルみたいで何だかカッコ悪いよね。……うん」
不意に歩を止めて顎に手をやり、しばらく考え込むと、香織は身動きの取れない静馬の身体をひょいと持ち上げた。
「あははっ。こうして持ち上げてみると結構軽いんだ」
ボロ雑巾、と揶揄されても文句のひとつも言えない有様の静馬を肩に担いで、香織は辺りを見渡した。数秒間逡巡した後、香織は先程破壊されて落下してきたコンクリート片の大きいものの上に、まるでぬいぐるみのように静馬を座らせた。
「うん、こっちの方が可愛いよ」
ご満悦、といった表情でフンスと鼻を鳴らす少女を見つめて、静馬は濁った自身の瞳の中に、追憶の中で得意げに笑うかつての大切なヒトを幻視して、小さく嗤った。
「麻倉」
「ん?」
「約束して欲しいことがあるんだ。聞いてくれるかな」
約束、という言葉にぱあっと顔を明るくして、香織は静馬の手を握った。
「えへへー。約束だなんて、本物の恋人同士みたいじゃーん。いーよいーよ! なぁんでも言ってくれたまえ? アナタのお願いだったら、多分、何でも聞いてあげるから」
頬を染めて悶える少女を、対照的に感情の篭らない瞳で見つめながら、静馬は話の続きをするべく、乾いた唇を蠢かせ出した。
「僕が名前を教えたら、すぐにこの街から出るんだ。もうすぐ怖い人たちがたくさんやってきて、キミを殺しに来る。何人かは返り討ちにできるかもしれないけど、今夜やって来る奴らは、僕なんかよりずっと強いし、多分すごくたくさんいる。キミに死んで欲しくないんだ」
最初は真面目な様子で話を聞くも、少女はすぐに蕩けた表情になって、静馬に抱きついた。
「私のことを、そんなに心配してくれるのね! ああん、もう死んでもいいかもー!」
「ぐぇ、それ以上締め上げるなっ。こら、麻倉っ」
ギュウギュウと締め上げるように抱きしめる少女のパワーに閉口しつつも、静馬はどこか安心したように微笑んだ。
「約束だよ?」
「うん! 分かった!」
幼児退行でもしたのか、と見るものに錯覚させる程の素直さとあどけなさを多分に含んだ声で、少女は愛する少年の胸の中に顔をうずめながら、勢いよく返事を返した。
高圧的な態度で殺しにかかってきたり、無防備に抱きついてきたり、情緒不安定、と呼ぶにしてもあまりに両極端な態度の変貌ぶり。そこに未だ『麻倉香織』の人格が定着していないことを察して、静馬は哀れむような目を一瞬少女に向けた。
「…僕の名前は、桐谷静馬だ」
キリダニシズマ、と口の中で反芻して、麻倉香織は呼吸と瞬きを止めた。その瞳は静馬に向けられてはいるが、その実、何も写してはいない。静馬は自身を締め上げていた少女の両腕には、既に何の力もかかっていないことに気づいた。
「そう。僕の名前は桐谷静馬。こんなナリにはなっているけれど、一応成人はしてる。生身の頃はズタズタの耳を見られるのが嫌でいつもヘッドフォンを付けてた。習慣づいちゃって、この身体になった後も付けてるけどね」




